「仁和寺にある法師(徒然草)」現代語訳・あらすじ(テスト対策)
中学2年生の国語で学習する、兼好法師の徒然草より「仁和寺にある法師」について、現代語訳やあらすじ、教訓や面白さについて、そして古語(言葉)の意味や係り結びの法則など、定期テストで必要になるポイントをわかりやすく解説するよ。
「仁和寺にある法師」を楽しく学習できる動画もあるよ!
「仁和寺にある法師」テスト対策ポイント
- 徒然草は「鎌倉時代末期」に書かれた、「兼好法師」による「随筆作品」
- 日本三大随筆は、他に清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」
- 係り結び
「あやしうこそものぐるほしけれ」(強意)
「尊くこそおはしけれ」(強意)
「何事かありけん」(疑問)
「(神へ)参るこそ本意なれ」(強意) - 作者の主張の箇所は「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。」
意味は「ちょっとしたことでも、案内してくれる人はほしいものである。」という教訓。 - 「徒歩(かち)」「本意(ほい)」「先達(せんだつ・せんだち)」の読みに注意する
- 僧が「心うく覚えた(残念に思った)」のは、年をとるまで石清水八幡宮を参拝したことがないということ。
- 僧が「かばかり(これだけか)」と思ったのは、極楽寺と高良を見て、「これが石清水八幡宮のすべて」と思ってしまったということ。
- 「尊くこそおはしけれ(尊くあられた)」だったのは僧は「石清水八幡宮」と思っているが、実際は「極楽寺・高良」のこと。
- 僧が「ゆかしかりしかど(知りたがった)」のは「なぜ人々が山の上に上るのか」。
- 僧が「山までは見ず」なのは、「神へ参る」ことが「本意」だったから。
- 「先達」とは、案内役のこと。僧が「ただ一人」で行ってしまったのが失敗の原因なので、案内役がいれば石清水八幡宮を拝めたのに、ということを伝えている。
目次
「仁和寺にある法師」あらすじ
「仁和寺にある法師」のあらすじを確認しよう。
「仁和寺にある法師」のあらすじ
仁和寺のある僧は、石清水八幡宮に行ったことがないのを残念に思っていたので、ある時、思い立って1人で歩いて参詣した。
しかし麓の極楽寺や高良を拝むと、それがすべてと思い込み、帰ってしまった。
帰りついた僧は言う。
「石清水にやっと行けた。すばらしかった。それにしても、みんな山へ登っていくのはなんでだろう」
石清水八幡宮の本殿は山の上にあるのだ。
兼好法師は思う。「ちょっとしたことでも、案内役は欲しいものだ。」
「仁和寺にある法師」解説
「仁和寺にある法師」のテストに出やすい基本情報をまとめているよ。
作者 :兼好法師(けんこうほうし)
ジャンル :随筆(ずいひつ)
時代 :鎌倉時代
内容 :石清水八幡宮を参拝しようとした仁和寺の僧の失敗談
教訓 :ちょっとしたことでも、案内をしてくれる人は必要である
石清水八幡宮をずっと参拝したいと思って、とうとう一人で出かけた仁和寺の僧のおはなし。
遠くまで歩いてせっかく行ったものの、肝心の石清水八幡宮の神社のうち、「神様」がいらっしゃる建物のこと。 本殿は山の上にあるのに、その麓の寺社だけを見て「これが石清水八幡宮だ」と勘違いして帰ってしまったという失敗談だね。
つまり、「肝心の本殿を見ないで帰るなんて、おっちょこちょいだね」ということ。
※ 背景に色がついている言葉は、クリック(タップ)すると言葉の意味が表示されるよ!
「徒然草」とは
徒然草は、鎌倉時代の終わりごろの作品で、兼好法師という人が書いた「ずいひつ」。心に浮かんだり、見聞きしたことなどを筆にまかせて書いた文章や作品のこと。随筆のこと。 「清少納言が書いた作品。「春はあけぼの…」で有名。枕草子」「方丈記」と並んで日本の三大随筆といわれているよ。
作品の出だしが
「つれづれ(徒然)なるままに、日暮らし」
となっていたので、そこから「徒然草」と呼ばれているよ。
テストでは、「作品名を漢字で書きなさい」という問題が出ることも多いよ。
「徒然草」と漢字でしっかり書けるようにしておこう。
「徒然」は、「するべきことがなくて、退屈」という意味なんだ。
「草」は、「枕草子」でも使われているように、「冊子(ノート・本)」という意味を持っているよ。
作品のはじめの「つれづれ」と、「冊子」という意味の「草」を合わせて、「徒然草」という呼び名ができたんだね。
徒然草は、序段と本文243段からできているよ。
序段は、「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて・・あやしうこそものぐるほしけれ。」という部分のこと。
いわゆる「プロローグ」のようなイメージだね。
「たいくつだから」とか、「たわいもないことを」とか「書きつける」というのは、それまでの作品にも使われてきていた決まり文句のようなもので、謙遜を表しているんだって。
※謙遜とは、「自分をへりくだって、ひかえめな態度でふるまうこと」だよ。
兼好法師とは
兼好法師は、鎌倉時代から南北朝時代に活躍した歌人・随筆家。
「吉田兼好」や「卜部(うらべ)兼好」と呼ばれることもあるよ。
余裕があったら読もう!兼好法師の呼び方について
名前は「兼好(けんこう・かねよし)」で、「卜部(うらべ)」は氏。
吉田神社の神官の家系に繋がりがあると考えられたことから「吉田兼好」と呼ばれることもあるんだ(つながりはないという説もある)。
出家してからは、僧という意味の「法師」がつけられて「兼好法師」と呼ばれるようになったよ。
※教科書では「兼好法師」と表記されることになっているよ。(令和5年現在)
テストでは、作者の名前を漢字で書きなさいという問題が出ることが多いので、おさえておこう!
随筆とは
随筆とは、心に浮かんだことや、見たり聞いたりしたことを、思うように筆にまかせて書いた文章・作品のこと。
「仁和寺にある僧」が書かれている兼好法師の作品「徒然草」は、日本三大随筆のひとつ。
日本三大随筆とされている他の作品には、清少納言の「枕草子」と、鴨長明の「方丈記」。
この二つの作品・筆者についてテストで問題が出た学校もあるので、知っておくと安心だよ。
日本三大随筆
- 清少納言「枕草子」(平安時代)
- 兼好法師「徒然草」(鎌倉時代)
- 鴨長明「方丈記」(鎌倉時代)
「仁和寺にある法師」の面白さ
仁和寺は、代々皇室や貴族が住職を務める最高位の寺格の寺院なんだ。そんな仁和寺にいる僧といえば、今でいう「エリート」。
そんなエリートが思い込みで失敗してしまったことを、兼好法師は面白おかしく書いているんだね。
「仁和寺にある法師」教訓(筆者の主張)
「仁和寺にある法師」のお話の最後の一文「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」には、作者の言いたいことが込められているよ。
案内役もいないまま、たった1人で行ってしまったせいで、極楽寺・高良を全てだと思って肝心の本殿を見ないまま仁和寺の僧は帰ってしまったんだよね。
石清水八幡宮を参拝したことのある人などの、案内してくれる人と一緒に行けばこんな失敗はしなかったということから、
「ちょっとしたことにも案内役は欲しいものだ」と兼好法師は教訓として主張しているんだね。
徒然草「仁和寺にある法師」本文(原文)
徒然草より「仁和寺にある法師」
※( )は現代仮名遣い
【序段】
つれづれなるままに、日暮らし、
硯に向かひ(い)て、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしう(しゅう)こそものぐるほ(お)しけれ。
【第52段】
仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、あるとき思ひ(い)たちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。
極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへ(え)の人にあひ(い)て、「年ごろ思ひ(い)つること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひ(い)て、山までは見ず。」とぞ言ひ(い)ける。
少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。
※「先達」は「せんだち」と読む場合もある。
「仁和寺にある法師」現代語訳(口語訳)
【序段】
とくにするべきこともなくて退屈なので、一日中硯を前にして、心に浮かんでくるたわいもないことを次々になんとなく書きつけていくと、なんだか妙に狂ったような気持ちになる。
【第52段】
仁和寺にいた僧が、年をとるまで石清水八幡宮を参拝したことがないということを残念に思って、ある時に思い立って、たった1人で歩いて参拝しに行った。
(石清水八幡宮のある山のふもとの)極楽寺・高良などを参拝すると、「これくらいのものか」と思い込んで帰ってしまった。
さて、(仁和寺に)帰ってきた僧は、仲間の人に向かって「ずっと長い間思っていたこと(石清水八幡宮を参拝すること)ができた。(石清水八幡宮は)聞いていたよりも尊くあられた。それにしても、参詣に来た人々が山へ登っていったが、山の上にも何かがあったのだろうか?知りたかったけれど、神を参拝することが本来の目的なのだから、山の上までは見なかった」と言った。
ちょっとしたことでも、案内してくれる人はほしいものである。
「仁和寺にある法師」言葉や古語の意味
テストでは古語の読み方や意味を聞かれることもあるよ。
ここでは、「仁和寺にある法師」の中で使われている意味を紹介しているよ。
古語 | 意味 |
---|---|
つれづれ | することがなく、たいくつなこと |
日暮し | 一日中 |
心にうつりゆく | 心に浮かぶ |
よしなし事 | たわいもないこと |
そこはかとなく | 次々と |
あやしう | 異常に・妙に |
ものぐるほし | 気持ちが高ぶる |
仁和寺 | 京都市右京区御室にある、真言宗御室派の総本山。格式の高い寺院 |
法師 | 僧 |
年寄る | 年をとる |
石清水 | 京都府八幡市の男山の山頂にある石清水八幡宮。 |
心うく | 残念 |
覚えて | 思って |
徒歩 | 徒歩 ※「とほ」ではなく、「かち」と読むので注意! |
極楽寺・高良 | 石清水八幡宮のある男山の麓にある、石清水八幡宮に付属する寺院。 |
かばかりと | これだけのもの |
心得て | 思い込んで |
かたへの人 | 仲間の人 |
年ごろ | 「としごろ」。長いあいだ。 |
果たしはべりぬ | 果たした |
聞きしにも過ぎて | 聞いていたよりも |
尊くこそおはしけれ | 尊くあられた |
そも | それにしても |
ゆかしかりしかど | 知りたかったが |
本意 | 本来の目的 ※「ほんい」ではなく、「ほい」と読むので注意しよう! |
先達 | 「せんだつ・せんだち」案内役 |
あらまほし | あってほしい |
「仁和寺にある法師」とは?
仁和寺というのは、皇室出身の僧が代々住職をつとめたりしていた格式高いお寺なんだ。 宇多天皇が家を出て仏の道に入ること。出家した後に住んでいたこともあるんだって。
法師というのは、「僧」のこと。
「仁和寺にある法師」は、「仁和寺にいる僧」ということだよ。
つまり、超エリートの僧だね。
仁和寺・石清水八幡宮・極楽寺・高良の位置関係
それぞれの寺院の位置関係をおさえておくと、お話を理解しやすくなるよ。
仁和寺は、平安京のちょっと北西あたり、直線距離で7km弱のところにあるよ。
仁和寺から石清水八幡宮は、直線距離で約17km。
この距離を考えると、「せっかく歩いて遠くまで行ったのに、肝心の本殿を見ずに帰ってきてしまった」ガッカリ感がより分かるね。
石清水八幡宮は、京都府八幡市にある男山の山頂にあるよ。
麓(ふもと)に、極楽寺と高良があるね。
※極楽寺は明治元年に焼失してしまって、現在は無いよ。
山頂の石清水八幡宮の本殿に行くには20分ほどかかるよ。
この位置関係を見ると、確かに何も知らない状態では、本殿を見落としてしまうかもしれないね。
「よしなし事」の意味
漢字だと、「由無し事」と書くよ。「由」には「理由」とか、「内容」という意味があるんだ。だから「由無し事」は、「意味もないこと・たわいないこと」ということだね。
「そこはかとなく書きつくれば」の意味
「そこはかとなく」は「なんとなく」。
「書きつくれば」は「書きとめる」ということ。
思いついたことを深く考えずに、どんどん紙に書きとめていくイメージだね。
「あやしうこそものぐるほしけれ」の意味
「あやしうこそ」は「なんとも妙なことに」という意味。
「ものぐるほし」は「物狂おしい」ということで、「気が変になりそう・狂ったような」という意味。
(思いついたことを書きとめていると)なんだか妙に狂ったような気持ちになる、と書いているんだね。
兼好法師がこの部分をどういう意味で書いたのかは、色々な説があるよ。
- 思いついたことをなんとなく書くなんて、狂ったようなものだ(謙遜している)
- 思いついたことを書いているだけだけど、なんだかテンションが上がってくる!(興奮している)
というような考え方があるよ。
「心うく覚えて」の意味
漢字だと「心憂く」と書くよ。「憂い」は「つらい・せつない・ゆううつ」という意味があるように、心がつらいので、「残念に思って」という意味になるんだ。
「かばかり」の意味
「かばかり」は、「この程度」とか、「このくらい」という意味。
仁和寺の僧が、極楽寺・高良を見て、「石清水八幡宮はこのくらいか」と思ってしまったということだね。
「かたへの人」の意味
「かたへ」は、漢字だと「片方」と書くよ。
セットになっているものの「もう片方」のように、「そばにあるもの、かたわらにあるもの」から、「仲間」という意味を持っているよ。
僧は、仁和寺に帰って、仲間の人に向かって話したんだね。
「そも」の意味
「そも」は、「それにしても」という意味。
石清水八幡宮の尊さを語ったあとに、話を変えるために「それにしても・ところで」という意味で使われているね。
「ゆかしかりしかど」の意味
「ゆかしかりしかど」は、「知りたかったが」という意味。
「人々が山の上に登るのはなぜか」を、知りたかったということだね。
「本意なれ」の意味
これは今でも「本意」という言葉を使うね。
本当の意図、つまり「本来の目的」ということ。
この「本意」について、仁和寺の僧の「本意とは何か、本文から抜き出しなさい」という問題が出たりするよ。
本文の「神へ参るこそ本意なれ」とあることから、「神へ参る(神様にお参りすること)」が僧の本意だね。
「先達はあらまほしきことなり」の意味
「先達」は、「他の人より先にその道を進んでいる人・経験者」のこと。
「あらまほし」は「望ましい・ほしい」という意味。
仁和寺の僧は、石清水八幡宮が山の上にあることを知らなかったから、見ないまま帰ってしまったんだよね。
石清水八幡宮を参拝したことのある人(経験者)がいれば、誤解しないでちゃんと山の上の本殿を参詣することができたので、
(石清水八幡宮を参拝したことのある)経験者がいれば良かったのに、という意味になっているんだね。
※「先達」の読み方は基本的には「せんだつ」で、「せんだち」とも読む、という情報が多かったので、ここでは「せんだつ」とふりがなをふっているよ。
教科書によっては、「せんだち」とふりがながふっているものがあったり、両方をふっているものがあったりもするので、テストでは、どちらを書いてもマルとなるかとは思うけれど、授業で習ったとおりにするのが一番安心かな。
「仁和寺にある法師」話の内容とポイント
何を「心うく覚えた」の?
仁和寺の僧が「心うく覚えた」のは、「年寄るまで石清水を拝まざりければ」とあるように、年をとるまで石清水八幡宮を参拝したことがないということ。
石清水八幡宮は平安時代の初めに開かれて、伊勢神宮・賀茂神社と並んで「三大神社」と言われるくらいの神社なんだ。
そんな素晴らしい神社を参拝したことがないなんて、とても残念なことだ、と思ったんだね。
何を「かばかり」と思ったの?
仁和寺の僧は、石清水八幡宮を参拝するつもりだったのに、山の麓にある極楽寺・高良などを見ただけで「石清水八幡宮はこのくらいだ(これで全てだ)」と思い込んでしまった、ということだね。
つまり、極楽寺・高良を「石清水八幡宮のすべて」と思ってしまったんだね。
「年ごろ思いつること」の内容は?
「年ごろ(長い間)思っていたこと」は、もちろん仁和寺の僧が「石清水八幡宮を参拝してみたい」と思っていたことだね。
なにが「尊くこそおはしけれ」なの?
「尊くこそおはしけれ」は、「尊くあられた」ということ。
仁和寺の僧が「尊い」と思ったのは、もちろん(石清水八幡宮だと誤解した)「極楽寺・高良」のことだね。
この何を尊いと思ったかについては、
僧は「石清水八幡宮」だと思っていること、でも実際には「極楽寺・高良」のことだということをおさえておこう。
なにを「ゆかしかりしかど」だったの?
「ゆかしかりしかど」は「知りたがったが」という意味だったね。
仁和寺の僧は、何を知りたかったのかというと、「どうして人々が山の上に登っていくのか」ということだね。
どうして僧は「山までは見ず」だったの?
人々が山の上に登っていく理由を知りたいと思ったそうだったけれど、結局山の上には登らなかった。
それは、「神へ参るこそ本意」と書かれているように、「神を参拝すること」が本来の目的だから、山の上に登るなんて本来の目的からは外れてしまうからやめておこう、と考えたということだね。
なぜ「先達」が欲しいの??
先達は「経験者」なので、石清水八幡宮が山の上にあることを知っているよね。
そんな人がいれば、僧が極楽寺・高良を石清水八幡宮の全てだと誤解することもなく、ちゃんと山の上まで登って本殿を参拝することができたハズだよね。
「仁和寺にある法師」係り結び
「仁和寺にある法師」では、係り結びが使われているよ。
テストで出る確率が高いので、しっかりおさえておこう!
係り結びとは
係り結びは、文の中に「や」「か」「ぞ」「なむ」「こそ」などの係助詞がある場合に、それに対応して文末(結び)の活用語が「体言(名詞)に連なる活用形のこと。連体形」または「「すでにその事態になった」ということを表す活用形のこと。已然形」になる法則のこと。
係り結びを使うことで、その文や言葉を強めたり、疑問や言いたいことと反対の内容を疑問の形で述べる表現方法。例えば「こんなひどいことがあって良いのだろうか?」は、「こんなひどいことがあっては良くない」という考えと反対の内容をあえて疑問形にしている。反語の意味を持たせることができるんだ。
係り結びの法則(ルール)
係り結びの法則は次の3通り。
- 「や」「か」は疑問または反語の意味を持たせる係助詞で、文末は連体形で結ぶ。
- 「ぞ」「なむ」は強める効果をもつ係助詞で、文末は連体形で結ぶ。
- 「こそ」は強める効果をもつ係助詞で、文末は已然形で結ぶ。
たとえば、「あやしうこそものぐるほしけれ」は、③のパターンだね。
係助詞「こそ」に対応して、「ものぐるほし」が已然形の「ものぐるほしけれ」になっているんだ。
「仁和寺にある法師」の係り結びは?
「仁和寺にある法師」では、係り結びが4箇所登場しているよ。
本文 | 係助詞 | 文末の結び | 意味 |
---|---|---|---|
あやしうこそものぐるほしけれ | こそ | ものぐるほしけれ | 強意 |
尊くこそおはしけれ | こそ | おはしけれ | 強意 |
何事かありけん | か | ありけん | 疑問 |
神へ参るこそ本意なれ | こそ | 本意なれ | 強意 |
テストでは、「どこに係助詞が使われているか?」や、どういう意味(強意か・疑問か)、係助詞を抜き出すなどの問題が出ることがあるので、おさえておこう。
「仁和寺にある法師」テスト対策ポイントまとめ
「仁和寺にある法師」テスト対策ポイント
- 徒然草は「鎌倉時代末期」に書かれた、「兼好法師」による「随筆作品」
- 日本三大随筆は、他に清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」
- 係り結び
「あやしうこそものぐるほしけれ」(強意)
「尊くこそおはしけれ」(強意)
「何事かありけん」(疑問)
「(神へ)参るこそ本意なれ」(強意) - 作者の主張の箇所は「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。」
意味は「ちょっとしたことでも、案内してくれる人はほしいものである。」という教訓。 - 「徒歩(かち)」「本意(ほい)」「先達(せんだつ・せんだち)」の読みに注意する
- 僧が「心うく覚えた(残念に思った)」のは、年をとるまで石清水八幡宮を参拝したことがないということ。
- 僧が「かばかり(これだけか)」と思ったのは、極楽寺と高良を見て、「これが石清水八幡宮のすべて」と思ってしまったということ。
- 「尊くこそおはしけれ(尊くあられた)」だったのは僧は「石清水八幡宮」と思っているが、実際は「極楽寺・高良」のこと。
- 僧が「ゆかしかりしかど(知りたがった)」のは「なぜ人々が山の上に上るのか」。
- 僧が「山までは見ず」なのは、「神へ参る」ことが「本意」だったから。
- 「先達」とは、案内役のこと。僧が「ただ一人」で行ってしまったのが失敗の原因なので、案内役がいれば石清水八幡宮を拝めたのに、ということを伝えている。
ここまで学習できたら、「仁和寺にある法師」テスト対策練習問題のページもあるので、ぜひチャレンジしてみてね!
運営者情報
ゆみねこ
詳しいプロフィールを見る
青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。
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サイト制作お疲れ様です。
このサイトに利用されている2枚の絵(冒頭とあらすじ説明の2枚のこと )
は yuminekoさんが制作したものなのでしょうか?
とても分かりやすい絵に感動して質問させてもらいました。 -
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とても分かりやすい絵に感動して質問させてもらいました。 -
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返信ありがとうございます。
突然ですが私は学生なのですが自分の発表時にあなた様の絵を引用したいのですがいいでしょうか?
もし使わせてもらうとしたらもちろん営利目的に利用しませんし しっかりとこのサイトのURLを貼ります。 -
本当にありがとうございます。
使わせてもらえたからには最大限に有効活用させてもらいます。
今後のブログ活動頑張ってください。楽しみにしています。 -
すごいわかりやすいです!教科書が学校のと同じなので、テストの時はとっても役立っています。ぜひこれからもいろんな教科を解説してほしいです!!
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よくわからない
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とてもわかりやすくて参考になりました。ありがとうございます!!できれば他の教科の解説もしていただけると助かります
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今日はテストでした
古典の範囲が、ずっと心配だったのですが、ここを見つけて、説明を読んで、過去問とかをやったおかげで、スラスラと問題を解くことができました!
ありがとうございます!
これからもよろしくおねがいします! -
おかげさまで今回の定期試験で過去最高の点数を取ることができました!本当にありがとうございます!これからもよろしくお願いします!
中二です。
このサイトのおかげで国B満点取れました!
ありがとうございます!
出来れば係り結びの法則などの文法事項を書いてくれると、
ありがたいです。
よろしくお願いします。