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目次【本記事の内容】
「あ」で始まる用語
赤城城 | |
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秋の夜長物語絵巻 | |
悪党 | 鎌倉時代の終わりごろから、幕府に支配されることに対して抵抗するようになった人たちのこと。 今のように「悪者」というより、「幕府に反抗する人」という意味を持っている。 もとは、わざと可笑しな格好をした数人で泥棒などをしていたが、だんだん大きな集団になり、1320年代には弓矢や鎧を身につけ馬に乗り、軍隊のようになった。 荘園を襲って役人を追い出したり、米を盗むなどするようになり、幕府は悪党を取り締まる命令を出すようになった。 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の味方として戦った楠木正成は、河内地方の悪党だったと言われている。 登場するページ→中学歴史「建武の新政」 |
阿衡事件 | 阿衡の紛議ともいう。宇多天皇のとき、関白だった藤原基経に対して、阿衡という役職が与えられたが、これは位があるだけで、何も内容がない役職だった。なので、基経はいいがかりをつけて、何も仕事をしなくなった。困った宇多天皇は基経に阿衡という役職をつけた橘広相を処罰して、基経の機嫌をとった。これにより、藤原氏のライバルだった橘氏を完全におさえることに成功した。 |
足利氏 | 足利氏は、もとは源義家を祖先にもつ源氏の一族。 源義家の息子である義国が、義家から譲り受けた土地を荘園にした。義国には義重と義康の2人の息子がおり、義重が上野国(今の群馬県)にある新田荘を開発して新田氏になり、義康は下野国(今の栃木県)にあった足利荘を受け継いで足利氏となった。 義康の息子の義兼が、源頼朝が平氏を倒すために兵を挙げると、頼朝の軍に加わり、平氏を倒した頼朝が鎌倉幕府を開くと、足利氏は鎌倉幕府の御家人となった。 しかし足利尊氏は幕府を裏切り後醍醐天皇の味方として六波羅探題を攻め落とした。さらに後醍醐天皇とも敵対するようになり、京都に幕府を開いた。 |
足利尊氏 | 鎌倉時代の終わり頃から、室町時代初めの頃にいた武将。 もともと河内源氏の出身で、鎌倉幕府の有力な御家人(幕府で将軍に仕える武士のこと)だった(この時は「足利高氏」と名乗っていた)が、幕府を裏切り、後醍醐天皇の味方になり、六波羅探題(京都にあった、鎌倉幕府の重要な機関のこと)を攻め落とした(その後、鎌倉幕府は滅びた)。 この活躍により、後醍醐天皇から、天皇の名前の一字である「尊」の字を使った「尊氏」の名前を受ける。 しかし後醍醐天皇の新しい政治のやり方が気に入らず、京都に新しく光明天皇を立てる。 1338年に、光明天皇から征夷大将軍に任命されて京都に幕府を開いた(足利義満が室町に御所を建てたことから、室町幕府と呼ばれる)。 登場するページ→小学歴史「室町幕府」、中学歴史「建武の新政」 |
足軽 | |
悪口祭り | |
安土城 | |
安土桃山文化 | |
姉川の戦い | 1570年7月30日に近江国浅井郡姉川河原で起きた戦い。 桶狭間の戦いで今川軍に勝利し、続いて美濃国も制覇した織田信長が越前の国の朝倉氏を攻めたところ、近江国の浅井軍が朝倉氏の味方として加わった。 ![]() ![]() 織田信長と同盟を結んでいた徳川家康も加わり、織田・徳川軍vs朝倉・浅井軍の戦いとなり、織田・徳川軍が勝利した。 登場するページ→6年歴史「安土桃山時代(織田信長)」 |
天照大神 | 日本の神様の名前。太陽や光を象徴する神様で、神様の中でも最高の神様とされている。日本の一番古い歴史書「古事記」では「天照大御神」という名前になっていたり、奈良時代の歴史書「日本書紀」でも色々な名前で書かれている。怒って天岩戸と呼ばれる洞窟に隠れてしまった神話が有名。天照大神が隠れてしまうと、世界が闇につつまれてしまって人々がとても困ったと言われている。日本の皇室の祖先と考えられている。 |
天橋立図 | |
安永大噴火 | |
安元の大火 | |
安政の大獄 | |
安和の変 | 「あんわのへん」と読む場合もある。 969年の平安時代に起こった変(謀反のこと)。謀反とは、その時のトップの人にはむかうこと。 藤原氏が、ライバルのように思っていた源高明が謀反をたくらんでいると言いつけて、源高明を政治の中心から追い出した事件のこと。 源高明がいなくなって、藤原氏のライバルはいなくなって摂関政治が上手くいくきっかけになった。 |
「い」で始まる用語
イエズス会 | |
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池田屋事件 | |
石山合戦絵図 | |
石山戦争 | |
石山寺縁起絵巻 | |
石山本願寺 | |
遺跡 | 古い時代のヒトが暮らしていた様子がわかる建物や場所のこと。暮らしていた「跡」が「遺されている」場所なので「遺跡」という。 日本の有名な遺跡には、青森県の「三内丸山遺跡」、佐賀県の「吉野ケ里遺跡」、群馬県の「岩宿遺跡」などがある。 |
一乗谷 | |
一の谷の戦い | 1184年2月に起きた戦い。源義経が平家の軍に奇襲をかけて始まった。熊谷直実が平敦盛を討った。 |
一揆 | |
厳島合戦 | |
一向一揆 | |
一向宗 | 仏教の宗派の名前。「一向」は「ひとつのことに向かう」や「ひたすら」という意味がある。 おなじ「一向宗」と呼ばれる2つの宗派がある。 ①鎌倉時代の僧である一向俊聖が広めたもの。阿弥陀如来以外を信仰するものを排斥(拒否すること)する。 ②親鸞が説いた真宗(浄土真宗)。「一向専念無量寿仏※」の教えがあり、それを人々が①と同じように阿弥陀如来のみを信仰すると思ったため、「一向宗」と勝手に呼ばれていた。 ※無量寿仏とは、阿弥陀如来の別の呼び方。一向専念無量寿仏とは、「阿弥陀如来だけに助けてもらう」という意味。戦国時代に織田信長に対抗した一向宗とは、②のこと。この頃には近畿地方・北陸地方を中心に「教団」という大きな組織になっていた。 権力に対して一致団結して抵抗運動(デモのようなイメージ)する一揆を起こしたのも②(一向一揆という)。 |
乙巳の変 | 645年の飛鳥時代に起こった政変(政権の突然の変動)。皇子である中大兄皇子と、中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷も自殺に追い込まれ、これによって蘇我氏の本家が滅んだ。 それまで蘇我氏は朝廷内で大きな力を持っていたが、中大兄皇子はこれをきっかけに天皇中心の国造りを目指して改革を行った(大化の改新)。 登場するページ→小学歴史「大化の改新」、中学歴史「大化の改新」 |
一世一元制 | |
一遍上人絵伝 | |
異年号 | |
今川仮名目録 | |
石見銀山 | |
岩宿遺跡 | 1946年に群馬県で発見された遺跡。 更新世のころに堆積(土が積み重なること)した「関東ローム層」の中から旧石器が発見されたことで、日本にも旧石器時代があったことが分かった重要な遺跡。 登場するページ→高校歴史「旧石器時代」 |
院政 | 退位した天皇が、政治の実権(実際の権力のこと)を握ること。 天皇は退位すると「院」というところに住むようになる。「院」で政治を行うということから、「院政」と呼ぶ。 1086年に白河天皇が退位して堀河天皇に譲位(天皇の位を譲ること)したあと、政務(政治を行うための行政事務)を後見(後ろに控えてサポートすること)したことが始めとされる。登場するページ→小学歴史「武士の政治の始まり」 |
「う」で始まる用語
宇佐八幡神託事件 | 孝謙天皇にひいきにされていた道鏡という僧が、孝謙天皇が亡くなったあとは自分が天皇になろうと考えて、宇佐神宮で、自分(道鏡)を天皇にしなさいという神のお告げがあったというデマを流した。 しかし、朝廷が和気清麻呂を宇佐神宮にお使いにやって、本当かどうかを調べたところ、嘘ということがバレてしまった事件。 道鏡は、嘘がバレてしまったことに腹を立てて、和気清麻呂を「別部穢麻呂」というように、「清い→きたない」という変な名前に改名させて、大隅国(今の鹿児島県)に流してしまった。 |
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氏 | 同じ祖先をもつ、血縁関係のある集団のこと。つまり親戚のイメージ。3世紀の大和政権では、豪族たちは「氏」ごとに職務(仕事の役目のこと)を受け持って大王に仕えていた。大王は、それに対して「姓」という称号(呼び名のこと)を与えていた。 この関係を「氏姓制度」と呼ぶ。 例えば、大化改新で有名な蘇我氏は、「蘇我」という「氏」の一族。蘇我氏は大王のもとで「大臣」という重要なポストとして仕えていた。この場合、「大臣」が「姓」になる。 他にも中臣鎌足が有名な「中臣氏」や、「物部氏」などがある。 |
氏の上 | 「氏」のリーダーのこと。大化改新の後からは朝廷が氏の上を任命(その役につくように命令すること)するようになった。 氏の上は、氏神(一族と関係が深い神様のこと)のための儀式を行ったり、一族の人間を、朝廷の位に推薦したり、罪を犯した場合は罰を与えたりした。 平安時代より後には「氏の上」から、「氏の長者」と呼ぶようになった。 |
浦島明神縁起絵巻 |
「え」で始まる用語
永享関東地震 | 1433年(永享5年)9月16日に関東地方で起きた地震。 マグニチュード7と推定されている。 相模にある大山寺の仁王像の首が取れたこと、鎌倉の寺が被害をうけたこと、利根川が逆流したことが記録されている。 |
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永享の乱 | 1438年(永享10年)に起きた乱。 室町幕府の将軍になれなかった足利持氏がおこした。 足利義教がこれを破り、持氏は自害させられた。 |
永正地震 | |
永長地震 | 嘉保3年(1096年)11月24日に起きた地震。 東海地方・近畿地方で発生し、マグニチュード8.0〜8.5と推定される。 この地震により東大寺の大きな鐘が落下してしまい、駿河(現在の静岡県)では津波が発生して400以上の寺や神社、民家が流された。 地震が発生したのは嘉保(永長の前の元号)だが、この地震を理由に永長へ改元されたので、永長地震と呼ばれる。 |
永長の大田楽 | 1097年の永長元年の頃に、田楽と呼ばれる踊りが都で貴族の間でも大流行したこと。 田楽は、もともと農民が田植えをするときに豊作(たくさん収穫があること)を祈って踊った踊り。 |
永仁の徳政令 | 元寇(元が日本に攻めてきたときのこと)の結果、元を追い返すことはできたものの新しい土地を手に入れたわけではなかったので、幕府は御家人に十分な恩賞(土地などの褒美)を与えることができなかった。 そのため御家人の生活は苦しくなってしまい、そのため幕府は「御家人の借金を帳消しにする」法令「徳政令」を出した。 日本の歴史上、徳政令が出されたのはこれが初めて。 |
永楽通宝 | 明から輸入された銅銭のひとつ。永楽銭とも呼ぶ。明の皇帝「永楽帝」の時代(1402年~1424年)に発行された銅銭。 室町時代では、この永楽通宝が一般的な通貨として使われていた。 織田信長の旗印(旗に描かれる印のこと)にはこの永楽通宝が描かれていて、刀の「つば」も永楽通宝をデザインしたものになっている。 織田信長は自分の領地(おさめていた土地のこと)での経済活動が発展するよう色々工夫をした人物なので、「天下統一にはお金のちからも必要」と考えていたためという意見もある。 |
ええじゃないか | |
江戸幕府 | |
絵踏 | |
蝦夷 | 「えぞ」とも読む。大和朝廷から見て、朝廷の支配が及ばない土地や、その土地に住む人々のことを指す言葉。朝廷が支配する範囲が変わるにつれて、「蝦夷」という言葉が表す範囲も変わる。 主に関東地方や、東北地方、近世以降は北海道なども含まれるようになる。 朝廷は蝦夷を支配しようと、たびたび討伐隊(倒すための軍隊)を送っている。征夷大将軍とは、蝦夷を征討するための軍の大将のことで、武士のトップ的な人物が任命された。 |
延喜格式 | 醍醐天皇が今までの法律をまとめ直したもの。「格」とは、今までの法律を補足したり、修正したもののこと。「式」とは、今までにだされた法律を施行(法律を実際に出して効果を発生させること)するときの細かいルールを決めたもの。一冊にまとめた。 他に、貞観格式と弘仁格式がある。 |
延喜通宝 | |
延喜・天暦の治 | 延喜の治とは、醍醐天皇の時代に、摂政・関白を置かずに、天皇みずから政治をする親政を行なったことをいう。 後醍醐天皇は、この醍醐天皇の親政に憧れて、自分を「後醍醐天皇」と名づけるようにとお願いした天皇。 |
延喜の荘園整理令 | 醍醐天皇が行なった政策。醍醐天皇は、天皇がみずから政治をする親政を行おうと考えていたので、律令体制を整えるために、荘園を整理する命令を出し、班田(民に田を与えること)をおこなった。これが、最後の班田となった(なぜなら、これ以降は律令体制が崩壊していくから)。 |
延久の荘園整理令 | 寄進系荘園が増えてしまうと、税が入ってこなくなり、困った結果、延久元年に後三条天皇により出された命令。 これにより、寛徳2年(1045年)以降の荘園の権利は全てストップされ、それより前のものも、券契(財産が移動したことや、財産を持っているということを証明する文書のこと)が無かったり、きちんと揃っていないものは全て公領(国の土地ということ)になると宣言された。 さらにこれによって記録荘園券契所が作られ、ここに証拠書類を提出して、国司から報告があることでやっと荘園が認められるようになった。 結果、摂関家の荘園とされていたもののほとんどは権利が無くなり、国のものとなった。 |
延宝房総沖地震 | |
延暦寺 |
「お」で始まる用語
王政復古の大号令 | |
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応天門の変 | 貞観8年(866年)に起こった変。平安京の大内裏(天皇の住まいや役所があるエリアのこと)にある「応天門」が放火されて炎上した。これは、当時、源信と伴善男が勢力争いをしていて、応天門の管理を任されていた伴喜男が源信に罪を着せようとして、自分で放火したと言われている。結局、伴喜男が火をつけたことがバレてしまい、それまで朝廷で長く力を持っていた大伴氏はこの事件により力を失った。事件の処理をした藤原良房は事件後に清和天皇の摂政になり、力をつけていった。(そのため、この事件は藤原氏による陰謀との考え方もある) |
大江匡房 | 平安時代後期、院政期(院政が行われていたころのこと)を代表する学者。後三条天皇のもとで「延久の荘園整理令」を建議(意見をいうこと)した。後三条天皇が東宮(皇太子時代のこと)の時の学士(教育係のこと)で、後三条天皇の信頼を得て蔵人(天皇の秘書のような人のこと)になっていた。 その後も、白河天皇と堀河天皇が東宮の時にも学士になる。 百人一首に歌がおさめられている。 第73番「高砂の 尾の上の桜 咲きにけり とやまの霞 立たずもあらなむ」 |
応仁の乱 | |
大型哺乳類 | 更新世の時代、まだ地球が氷河に覆われていたころにいた大型の哺乳類動物。マンモスやナウマンゾウなどがいる。 氷期が終わって間氷期になると、大型哺乳類は絶滅してしまった。 日本では、長野県の野尻湖遺跡でナウマンゾウの骨が見つかり、日本でも大型動物を狩って食べる生活がされていたことが分かった。 |
大王 | 古墳時代から飛鳥時代の間で、大和朝廷のトップの人を大王と呼んだ。 現在の天皇のこと。 |
大阪夏の陣 | |
大坂冬の陣 | |
大塩の乱 | |
大森貝塚 | 1877年にアメリカ人のモースという人が発見した縄文時代後期の遺跡のこと。モース貝塚とも呼ばれている。日本で発掘調査を初めてしたのが大森貝塚。現代の東京都品川区と大田区にまたがる場所にある。 |
大輪田泊 | |
桶狭間の戦い | 1560年6月12日に尾張国知多郡桶狭間で起きた戦い。![]() ![]() 今川軍25000人に対して、織田軍は2000人だったと言われている。(今川軍の兵の数については他にも説がある) 桶狭間の戦いで勝利して勢いづいた織田信長は、その後も美濃国、越前の国、近江の国と勢力を広げていき、武力で全国を統一しようとした。 登場するページ→6年歴史「安土桃山時代(織田信長)」 |
織田信長 | 1534年生~1582年没 尾張国の戦国大名。1560年に桶狭間の戦いで、駿河国の今川義元を倒した。1573年には室町幕府将軍 足利義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼした。 1575年の長篠の戦いでは、武田勝頼を倒し、1576年に安土山に安土城を築く。 天下統一をめざすが、1582年に京都にある本能寺で家臣だった明智光秀に襲われて自害する。(本能寺の変) とても激しい性格で、性格をよく表すホトトギスの詩「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」が有名。 公的な文書を出すときには、「天下布武」の印を使った。天下布武とは、「天下を武力で統一する」という意味。 また、信長は領地での経済活動の発展にも力を入れていた。 信長の旗印には銅銭の「永楽通宝」が使われていて、刀の「つば」も永楽通宝のデザインになっていた。 ![]() ![]() |
小野妹子 | もとは滋賀県の豪族の出身。飛鳥時代、聖徳太子の命令で隋へお使いに行った。遣隋使は607年と608年の2回つとめている。 それまで冠位十二階の5番目の位「大礼」だったが、遣隋使を頑張ったので1番目の「大徳」という位まで出世した。 登場するページ→歴史人物図鑑「小野妹子」 |
コメント
コメント一覧 (2件)
天照大神は?
コメントありがとうございます。
天照大神について追加しました!
他にも追加してほしい言葉があったら、また教えてください!