歴代天皇一覧(エピソードと人物像)まとめ

日本の歴代天皇を一覧にまとめました。それぞれの天皇が何をしたのか、どんな事件があったのかなど、こどもにも分かりやすい言葉で特徴やエピソードも紹介しています。

yuminekoyumineko

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目次【本記事の内容】

神話しんわの世界でかたられている天皇

第1代から第15代までの天皇は、日本で1番古い歴史書の「古事記こじき」の神話の中に登場する天皇なんだ。

神話しんわに書かれている天皇は、「本当に存在したのかどうか」がよく分からなかったり、計算すると102年間も在位ざいい(天皇の位についていたということ)したことになったり、150歳を超えた天皇がいたことになってしまうなど、疑わしいところも多いと考えられているよ。

名称 在位期間 エピソード
1 神武天皇じんむてんのう 紀元前660〜585 日本神話で語られている伝説上でんせつじょうの天皇。九州の高千穂から、日本全体をまとめるために本州の大和へ向かって、初めて天皇に即位し、日本を作ったと言われている。
日本書紀にほんしょき古事記こじきでは、「天照大神あまてらすおおみかみの息子である「邇邇芸命ににぎのみこと」の孫といわれている。
鸕鷀草葺不合尊うがやふきあえずのみことの御子のひとり。
神武天皇が即位そくいしたとされている2月11日は、日本の建国記念日けんこくきねんびになっている。
2 綏靖天皇すいぜいてんのう 紀元前581〜549
3 安寧天皇あんねいてんのう 紀元前549〜511
4 懿徳天皇いとくてんのう 紀元前510〜477
5 孝昭天皇こうしょうてんのう 紀元前475〜393 遣隋使けんとうしをつとめた小野妹子おののいもこは孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命あめたらしひこくにおしひとのみことの子孫。
6 孝安天皇こうあんてんのう 紀元前392〜291
7 孝霊天皇こうれいてんのう 紀元前290〜215 孝霊天皇の姫皇子である倭迹迹日百襲姫命がやまとととひももそひめのみこと、卑弥呼ではないかと考える説がある。
8 孝元天皇こうげんてんのう 紀元前214〜158
9 開化天皇かいかてんのう 紀元前158〜98
10 崇神天皇すじんてんのう 紀元前97〜30 開化天皇の第二皇子。疫病えきびょうが流行った時に、崇神天皇が大物主おおものぬしのかみ神をまつったことで治ったと言われている。孝元天皇こうげんてんのうの皇子である武(竹)埴安彦たけはにやすびこの反乱をおさえて、四道将軍しどうしょうぐんを日本各地に派遣はけんした。
任那みまなから朝貢ちょうこう(土産を持って挨拶にくること)を受けたと言われている。奈良県天理市に前方後円墳ぜんぽうこうえんふんがある。
実際には、3世紀後半ごろの大王おおきみという考え方もある。
11 垂仁天皇すいにんてんのう 紀元前29〜紀元後70
12 景行天皇けいこうてんのう 71〜130
13 成務天皇せいむてんのう 131〜190
14 仲哀天皇ちゅうあいてんのう 192〜200 神功皇后と一緒に、熊曾の反乱を治めようとした。海の神からの「熊曾の背後にいる朝鮮を倒せ」というお告げがあったが、それに従わなかったため急に亡くなったと言われている。
15 応神天皇おうじんてんのう 270〜310 仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた御子。

第16代〜第50代の天皇

名称 在位期間 エピソード
16 仁徳天皇にんとくてんのう 313〜399 日本最大の前方後円墳ぜんぽうこうえんふんである大山古墳だいせんこふんは仁徳天皇の古墳と考えられている。
難波なにわ(現代の大阪市のあたり)に宮を作り、洪水こうずいを防ぐためのつつみを作ったり、水の流れを良くしたり人々のためになる政治をした。
高い山から人々の家を見下ろした時、「食事を作るためのけむりが見えない」ことから、人々が食べられないくらい貧しいと考え、「これから3年間は税をおさめなくて良い」と決めた。
天皇自身も節約せつやくし、人々の生活も豊かになった。
このように仁徳天皇の時代をたたえて「聖帝ひじりのみかど」と呼ばれる。
17 履中天皇りちゅうてんのう 400〜405
18 反正天皇はんぜいてんのう 406〜410
19 允恭天皇いんぎょうてんのう 412〜453
20 安康天皇あんこうてんのう 453〜456 目弱御子まよわのみこに殺されたと言われている。
21 雄略天皇ゆうりゃくてんのう 456〜479 安康天皇の弟皇子。中国の歴史書に書かれている「倭の五王」のうちの、「」と考えられている天皇。478年に中国の宋に手紙を送った。埼玉県の古墳こふんから出土しゅつどした鉄剣に刻まれていた「ワカタケル大王」は雄略天皇と考えられている。兄である安康天皇あんこうてんのうを殺した目弱御子まよわのみこを攻めほろぼしたと言われている。
22 清寧天皇せいねいてんのう 480〜484
23 顕宗天皇けんぞうてんのう 485〜487
24 仁賢天皇にんけんてんのう 488〜498
25 武烈天皇ぶれつてんのう 498〜506
26 継体天皇けいたいてんのう 507〜531 事実上じじつじょう(実際に)現在の天皇の祖先そせんとなる天皇。
27 安閑天皇あんかんてんのう 531〜535 継体天皇けいたいてんのう皇子おうじ。66歳で即位して、4年で崩御ほうぎょ(亡くなること)した。
即位していた時の政治のことが「安閑記あんかんき」に書かれている。
関東から九州まで屯倉みやけ大和政権やまとせいけんが管理する倉庫のこと。大和政権が管理している土地であるという意味もある。)をたくさん建てたと書かれている。
28 宣化天皇せんかてんのう 535〜539
(古墳時代)
継体天皇けいたいてんのう皇子おうじ
先代せんだい(ひとつ前の天皇のこと)の安閑天皇あんかんてんのうには皇子がいなかったので、異母弟いぼてい(お母さんの違う兄弟のこと)の宣化天皇が69歳で即位そくいした。
この宣化天皇が即位した時に大臣になったのが蘇我稲目そがのいなめ
任那みまな(朝鮮半島にあった大和政権の拠点)が新羅しんら敵対てきたいしていた国)に攻められたときに援軍えんぐん(味方を助けるための軍隊)を送った。
29 欽明天皇きんめいてんのう 539〜571
(古墳時代)
継体天皇けいたいてんのう皇子おうじ
蘇我稲目そがのいなめは、自分の娘を欽明天皇のきさきにした。生まれた皇子は用明天皇ようめいてんのうになり、さらに生まれた皇女こうじょ推古天皇すいこてんのうになった。
552年に友好国ゆうこうこく(仲良くしている国)の百済くだらから仏像が伝わると、蘇我氏そがし物部氏もののべしが「仏教を受け入れるかどうか」でケンカ。
欽明天皇は蘇我氏の「仏教を受け入れる」を認めたが、翌年に疫病えきびょうがはやり、物部氏が「仏教を受け入れたのが原因げんいん」とめた。
そのため次代じだい敏達天皇びだつてんのうの時には寺は燃やされ、仏像は捨てられてしまい、しばらく仏教は普及ふきゅう(世の中に広まること)しなかった。
571年に病気で死亡。「新羅しんら(敵対していた国)を倒して、任那みまな(朝鮮半島にあった大和政権やまとせいけんの拠点)をもう一度栄えさせてほしい」と言い残したとのこと。
30 敏達天皇びだつてんのう 572〜585
(飛鳥時代)
欽明天皇きんめいてんのうの皇子。
大臣は物部守屋もののべもりや、さらに蘇我馬子そがのうまこも大臣になった。
敏達天皇は仏教反対派だったので、蘇我馬子が寺を建てて仏像をまつった時に疫病えきびょうが発生すると、「疫病が流行ったのは仏教を受け入れたから」という物部氏の意見を受けて、585年(と言われている)に寺と仏像を燃やし、仏教を禁止した。
その年に、病気が悪化して崩御ほうぎょした。
皇子はいなかったので、異母弟いぼてい用明天皇ようめいてんのうが即位した。
31 用明天皇ようめいてんのう 585〜587
(飛鳥時代)
欽明天皇きんめいてんのうの第四皇子。
聖徳太子(厩戸皇子うまやどのおうじ)のおとうさん。
蘇我稲目そがのいなめの孫。仏教賛成派。
即位そくいして2年で病気で亡くなってしまった。用明天皇のために聖徳太子は法隆寺ほうりゅうじを建てた。
大臣は物部守屋もののべのもりや蘇我馬子そがのうまこ
32 崇峻天皇すしゅんてんのう 587〜592
(飛鳥時代)
欽明天皇きんめいてんのうの第12皇子。母は蘇我稲目そがのいなめの娘。(敏達天皇びだつてんのう用明天皇ようめいてんのう推古天皇すいこてんのうとは異母兄弟)
力を持ちすぎた蘇我氏が、やりたい放題になって「天皇さえも暗殺してしまった」と学習したけど、それは崇峻天皇のこと。
蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したと言われている。
崇峻天皇は、自分よりも政治の権力を握っていた蘇我馬子のことが気に入らなかったため、592年にいのしし献上けんじょう(もらった)されたときに、「この猪の首を切るように、あいつの首を切りたい」と言った。
それを聞いた蘇我馬子は、自分が崇峻天皇に嫌われていると考え、暗殺した。
天皇に仕えていた人間が天皇を殺害したことがハッキリしているのは、この例だけ。
33 推古天皇すいこてんのう 592〜628 初めての女性天皇。弟皇子の崇峻天皇が暗殺されてしまった危機を救うために、朝廷の人々から求められて天皇に即位した欽明天皇きんめいてんのうの皇女。蘇我馬子そがのうまこの姪で、聖徳太子の叔母おばさん。聖徳太子は推古天皇の摂政せっしょうをした。
遣隋使けんずいしとして随へ行った小野妹子おののいもこは、隋の皇帝である煬帝ようだいからの返事をなくしてしまったために流刑るけいになるところを、推古天皇の許しで免れた。
75歳で崩御。
34 舒明天皇じょめいてんのう 629〜641 敏達天皇びだつてんのうの皇子の皇子、つまり孫。(お父さんは天皇にはなっていない。)先代の推古天皇は次の天皇を誰にするか決めずに亡くなったため、蘇我蝦夷そがのえみしが舒明天皇を天皇にした。(理由は諸説あり)
皇居は飛鳥(明日香とも)の岡本宮。
舒明天皇が詠んだ歌が万葉集に収録されている。
「夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜こよいは鳴かず い寝にけらしも」
意味:いつも夕方になると小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。もう寝てしまったらしい。
35 皇極天皇こうぎょくてんのう 642〜645 女性の天皇。舒明天皇じょめいてんのうのおきさきさまで、天智天皇てんじてんのうの母。孝徳天皇こうとくてんのう譲位じょうい(天皇の位を譲ること)した初めての天皇。
36 孝徳天皇こうとくてんのう 645〜654
37 斉明天皇さいめいてんのう 655〜661 孝徳天皇が亡くなってしまったので、皇極天皇こうぎょくてんのうがもう一度天皇をして(重祚ちょうそというよ)、斉明天皇となったよ。
唐・新羅がタッグを組んで百済を滅ぼしてしまった時,百済から復活するために助けてほしいというお願いが日本にきて、斉明天皇は百済を助けるために出兵する決断をしたよ。
でも、百済に助けにいく途中に九州で亡くなってしまった。
斉明天皇が亡くなってしまうと、皇子の中大兄皇子はすぐには天皇にならなかったので、しばらくの間天皇がいない時期(7年間)があった。
38 天智天皇てんじてんのう 668〜671 中大兄皇子なかのおおえのおうじが天皇に即位そくいしたのが天智天皇。
舒明天皇じょめいてんのう皇極天皇こうぎょくてんのうの第一皇子。
力を持ちすぎた豪族ごうぞく蘇我入鹿そがのいるかをやっつけた。(乙巳いっしへん)、天皇中心の国づくりをするために政治のやり方を新しくした(大化改新たいかのかいしん)。
斉明天皇が亡くなってしまうと、そのあとを継いで、日本は百済を助けるために戦った(白村江の戦い)。
しかし唐に惨敗してしまって、唐からさらに攻められることを恐れた中大兄皇子は都をもっと内陸の大津近江へ移し、水城や山城を築いた。
百済に惨敗してしまった上、このことが人々に重い負担をかけることになってしまったため、中大兄皇子に反感をもつものも多かった。
白村江の戦いの後処理が終わると、即位して天智天皇になった。
670年には、「土地と民はすべて国のものにする」ために、日本初の戸籍こせきである庚午年籍こうごねんじゃくを作った。
天智天皇ははじめは弟皇子の大海人皇子に天皇を譲る予定として重要な役職を与えていたが、突然、自分の皇子を代わりに役職につけてしまう。
空気を読んだ大海人皇子は、「天皇の座を争うつもりはない」と吉野へ移る。
しかし、天智天皇が亡くなると、天智天皇の皇子と大海人皇子は天皇の座をめぐって戦い、大海人皇子が勝利。天皇に即位することになった。
天智天皇の弟皇子は、天武天皇てんむてんのう
登場するページ→小学6年歴史「大化の改新」
万葉集まんようしゅうには天智天皇の4つの歌が載っている。百人一首には「秋の田の かりほのいほの とまをあらみ わが衣手ころもでは つゆにぬれつつ」という歌が収められている。
皇子時代の660年に日本で初めて水時計(漏刻ろうこく)を作った。
671年には、鐘鼓しょうこ(鐘と太鼓のこと)を打って時間を知らせる、いわゆる「時報じほう」を始めたといわれている。
39 弘文天皇こうぶんてんのう 671〜672 天智天皇の第一皇子。大友皇子おおとものみことも呼ばれる。日本史上初の太政大臣だじょうだいじん(朝廷のトップ)。天智天皇が亡くなってから、天武天皇との壬申の乱までの間だけの在位(天皇の位につくこと)で、即位の儀式も終わっていなかったことから、歴代天皇として認められなかったが、明治3年に弘文天皇と追号された。壬申の乱では、天武天皇に敗北して自害じがい(自殺すること)している。
弘文天皇が天武天皇に負けてしまった理由としては、父帝の天智天皇が白村江の戦いで人々に反感を買っていたため、大海人皇子に味方する兵が多かったこと、不破ふわという都と東国を結ぶ重要なルートを大海人皇子が塞いでしまって、東国の兵士を呼ぶことができなかったことなどがある。
40 天武天皇てんむてんのう 673〜686 天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が天皇になったのが天武天皇だよ。
天智天皇が亡くなった時、天智天皇の皇子の「大友皇子おおとものみこ」と672年に天皇の座を争って戦った。(壬申の乱:じんしんのらん)。
大海人皇子が大友皇子に勝って、翌年の763年に飛鳥浄御原宮(あすかきよはらのみや)で天皇に即位した。
701年に作られた「大宝律令(たいほうりつりょう)」を作る、と発表した天皇。
天武天皇のころから、「大王」のかわりに「天皇」という称号が使われるようになったと言われているよ。
41 持統天皇じとうてんのう 690〜697 女性の天皇。天武天皇のお妃さま。
都を藤原京都を他の土地に移すこと遷都せんとした天皇。
柿本人麻呂などの宮廷歌人を育成した。万葉集と小倉百人一首には、持統天皇の歌がおさめられている。
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすちょう 天香具山」
意味:もう春が過ぎて、夏がきたらしい。天香具山に、白い衣がほされているのが見える。
42 文武天皇もんむてんのう 697〜707 701年に大宝律令が規則として決められること制定せいていされた。
43 元明天皇げんめいてんのう 707〜715 都を平城京へいじょうきょう都を他の土地に移すこと遷都せんとした天皇。
太安万侶おおのやすまろに命令して、日本がどうやって出来たかが書かれている、日本で最も古い歴史の本「古事記こじき」を完成させた。
44 元正天皇げんしょうてんのう 715〜724
45 聖武天皇しょうむてんのう 724〜749 藤原鎌足の息子、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘の宮古が母。
同じく藤原不比等の娘(異母姉妹)の光明子(こうみょうし)がお妃さま。
皇族以外の女性が皇后になったのは、これが初めて。
聖武天皇と光明子の間に生まれた皇女は、孝謙天皇。
の文化や仏教を取り入れることに力を入れた天皇。世の中を平和にし、人々を救おうと東大寺の大仏を作った。聖武天皇が大切にしていた外国の品々は正倉院に保管されている。
登場するページ→6年歴史「奈良時代」「奈良時代」
46 孝謙天皇こうけんてんのう 749〜758 聖武天皇と光明子の皇女。
聖武天皇と光明子の間には、皇子が生まれなかったので、女帝になった。
史上6人目の女帝。天武天皇の系列では最後の天皇。
ずっと独身だった。もちろん子供もいない。
47 淳仁天皇じゅんにんてんのう 758〜764 764年に起こった藤原仲麻呂ふじわらのなかまろの乱のあと、孝謙上皇が淳仁天皇を天皇の位をやめさせること廃位はいいさせて淡路あわじ(今の兵庫)に閉じ込めた。このことから、淳仁天皇は「淡路廃帝あわじはいてい」とも呼ばれる。
その後、孝謙天皇がもう一度即位して称徳天皇になった。
48 称徳天皇しょうとくてんのう 764〜770 孝謙天皇がもう一度天皇に即位した天皇。(同じ天皇がもう一度即位することを重祚じゅうそという。)
この後は、109代の明正天皇まで
女帝はいない。
子供がいないまま亡くなるとき、次の天皇は白壁王しらかべおうが指名されたと言われているが、色々説がある。
49 光仁天皇こうにんてんのう 770〜781 天智天皇の孫。称徳天皇が亡くなるとき、称徳天皇(もとは孝謙天皇)にひいきされていて、天皇の座を狙っていた僧の道鏡どうきょうがもう権力を握ることができないように、藤原百川ももかわと藤原永手ながてによって天皇になるよう指名された白壁王しらかべおうが即位して光仁天皇になった。
最高齢の60歳(62歳とも)で即位したと言われている。
称徳天皇のサポートがなくなってしまった道鏡は、下野薬師寺しもつけやくしじに左遷された。
50 桓武天皇かんむてんのう 781〜806 光仁天皇の皇子。
道鏡が天皇になろうとするなど、仏教勢力が強くなりすぎていたり、蝦夷えみし(東北の朝廷には支配されたくないと思っていた人々)を支配するのに便利だったり、琵琶湖の近くの方が物を運ぶのに便利だったので、奈良から京都へ都をうつそうと考えて、長岡京へ遷都せんと(都を移すこと)した。
だが、長岡京へ遷都することを良く思わないグループもいて、遷都のサポートをしてくれた藤原種継が暗殺されてしまった。
さらに藤原種継ふじわらのたねつぐ暗殺あんさつ事件にかかわったとして、捕まった早良親王さわらしんのうは弟皇子。
早良親王は無実を訴えて、絶食ぜっしょくし、亡くなった。
桓武天皇はその怨念おんねんが怖くて平安京へ都を移した。
平安京への遷都の時には、和気清麻呂のアドバイスを受けた。
平氏は桓武天皇の子孫。

第51~100代までの天皇

名称 在位期間 エピソード
51 平城へいぜい天皇 806~809 桓武天皇の皇子。
諡号しごうの「平城」は、平城京を愛していた天皇だったことからつけられたと言われている。
平城天皇は、病弱だったため、すぐに弟皇子の嵯峨天皇に天皇の座を譲ってしまった。しかし、それが気に入らなかった平城天皇に寵愛ちょうあい(お気に入りのこと)されていた藤原薬子ふじわらのくすこがまた平城天皇が天皇に戻れるようにしようとした(平城太上天皇の変・または薬子の変と呼ぶ)。しかし失敗してしまい、薬子と、兄の藤原仲成は死んでしまった。これをきっかけに、藤原式家は跡継ぎがいなくなってしまい、滅びてしまった。
52 嵯峨さが天皇 809~823 桓武天皇の皇子。
諡号しごうの「嵯峨」は、お墓が作られた地名。
嵯峨天皇は、薬子くすこの変の時に、平城へいぜい天皇側に嵯峨天皇の機密事項きみつじこう(重要な情報)がれてしまっていたので、それを取り締まるために、情報を守る役所を作り、そのリーダーの蔵人頭くろうどのとうという役職を作り、藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐを就任させた
嵯峨天皇は、桓武天皇が行おうとしていた蝦夷えみしの支配を早く終わらせて中央(都)の政治の強化をしようと考え、文室綿麻呂ふんやのわたまろを東北へ派遣して蝦夷の完全制圧(完全に支配すること)することに成功した。
京内の警備や裁判のために検非違使けびいし(農民ではない専門の軍事集団)という役職も作った。
さらに、弘仁10年までに出された今までの法律を整理して、今までの法律を修正したものは「格」、今まで出された法律を施行しこう(世の中に実際に出して、効果を発生させること)するときのルールを「式」として、一冊の弘仁格式こうにんきゃくしきを出した
キレ者と言われる小野篁おののたかむらに対して、「子子子子子子子子子子子子」を読めるかどうかナゾかけを出したことがある。(答えは「猫の子子猫、獅子の子子獅子」)
登場するページ→歴史人物図鑑「小野妹子
53 淳和天皇じゅんなてんのう 823~833 桓武天皇の皇子。
54 仁明天皇にんみょうてんのう 833~850 嵯峨天皇の皇子。
父帝である嵯峨天皇と同じように、藤原氏を登用とうよう(人を持ち上げて役職などを与えること)した。そのため、藤原良房ふじわらのよしふさ藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐの息子)が権力を握った。
55 文徳天皇もんとくてんのう 850~858 藤原良房は娘である明子あきらけいこ入内じゅだい(結婚させること)させ、文徳天皇を即位させた。
56 清和天皇せいわてんのう 858~876 文徳天皇と明子あきらけいこの皇子。つまり、藤原良房の孫。9歳という若さで即位。実権じっけん(実際の権力)は祖父である藤原良房ふじわらのよしふさにぎっていた摂関政治せっかんせいじの始まり)
のちに武士として大な力をもつ。鎌倉幕府を開いた源頼朝みなもとのよりともで有名な源氏は、清和天皇の子孫(清和源氏せいわげんじという)。
57 陽成天皇ようぜいてんのう 876~884 このころ力を握っていた藤原良房の養子の藤原基経と仲が悪くなり、退位させられた。(表向きには、病気で退位したとされていた)。
58 光孝天皇こうこうてんのう 884~887 仁明天皇の皇子。仁明天皇のころから力を握っていた藤原良房の養子(藤原良房の甥)である藤原基経が即位させた。
光孝天皇は、本当であれば天皇に即位することはできないと考えられていたのに、即位させてもらったのもあって、基経の言うことを聞くしかなかった。
これにより今までは、天皇が子供だったり女性だったときにサポートをする摂政しかなかったのが、天皇が大人でもサポートをする関白が誕生した。(この時はまだ正式に関白に就任したわけではなかった)
しかし、光孝天皇は、即位後3年で亡くなってしまう。
59 宇多天皇うだてんのう 887~897 光孝天皇の皇子。一度、臣籍降下しんせきこうか(皇族を離れて、姓をもらって臣下になること)をした後に即位した。
藤原基経は、宇多天皇の関白に正式に就任した。
基経が亡くなってしまうと、宇多天皇は関白をおくことをやめて、天皇みずから政治を行う「親政しんせい」を始めた。
これにともなって、学者である菅原道真すがわらのみちざねを登用し、蔵人頭くろうどのとう抜擢ばってきした。
宮中の警備を強くするために、滝口たきぐち武者むしゃを置いた。
宇多天皇は醍醐天皇に譲位すると、899年に出家して法皇になった。
これが日本史上初の法皇。
60 醍醐天皇だいごてんのう 897~930 宇多天皇の皇子。摂政や関白をおかず、天皇みずから政治を行う「親政しんせい」をおこなった天皇として有名。
父の宇多天皇のころから仕えていた菅原道真すがわらのみちざねは右大臣にまで出世していた。左大臣だった藤原時平ふじわらのときひら(基経の長男)は道真をライバル視して、道真が謀反むほん(天皇にさからうこと)を計画しているというウワサを流した。醍醐天皇はそれを信じて、菅原道真を大宰府だざいふ左遷させん(出世の反対)させてしまう。
その後、菅原道真が大宰府でなくなってしまうと、清涼殿せいりょうでんに雷が落ちるなどして、「菅原道真の怨霊おんりょうのしわざではないか」と考えられた。
そのショックもあって、醍醐天皇はしばらくして亡くなり、ある物語では醍醐天皇は地獄で宇多天皇と菅原道真にずっと苦しめられていると語られている。※宇多天皇は、菅原道真を大切にするよう醍醐天皇に言っていたのに、それを破ったから怒っているとのこと。
醍醐天皇という諡号しごう(亡くなった天皇につけられる名前)は、縁があった「醍醐寺だいごじ」からつけられたと言われている。
61 朱雀天皇すざくてんのう 930~946 醍醐天皇の皇子。それまでの宇多天皇・醍醐天皇までは親政しんせい(天皇がみずから政治をすること)だったが藤原時平の弟である藤原忠平ふじわらのただひらを摂政・関白においた。
62 村上天皇むらかみてんのう 946~967 醍醐天皇の皇子。朱雀天皇が摂政・関白をおいたのに対して、村上天皇はまた親政(天皇自ら政治をすること)を行なった。
63 冷泉天皇
(れいぜいてんのう)
967~969
64 円融天皇
(えんゆうてんのう)
969~984
65 花山天皇かざんてんのう 984~986 長徳ちょうとく2年(996年)、法皇になっていた花山天皇は藤原伊周ふじわらのこれちかの好きな女性のところへ通っている(好きな女性のところへ会いにいくこと)のではないかと誤解され、武士を連れた伊周に襲われた(長徳の変)。袖を矢で射抜かれただけで無事だったが、この事件で藤原伊周は太宰府だざいふ(現在の福岡県)へ流された。
66 一条天皇いちじょうてんのう 986~1011 清少納言せいしょうなごんが仕えた定子ていしは一条天皇の中宮ちゅうぐう。紫式部が仕えた彰子も一条天皇の中宮。※中宮は、正式な奥さんのこと。中宮が2人もいたのは異例(一帝ニ后と呼ばれている)。
諡号しごうの「一条」は、譲位後じょういごに住んだ「一条院」からつけられたと言われている。
67 三条天皇さんじょうてんのう 1011~1016 諡号の「三条」は、譲位後に住んだ「三条院」からつけられたと言われている。
68 後一条天皇ごいちじょうてんのう 1016~1036 諡号の「後一条」は、一条天皇と同じく譲位後に住んだのが「一条院」なので、一条天皇と区別するために「後」がつけられている。
69 後朱雀天皇ごすざくてんのう 1036~1045 藤原道長の娘の嬉子がお妃さまになって、生まれた皇子は後冷泉天皇になった。
道長の息子の頼通の娘もお妃さまになったが、皇子は生まれなかった。
三条天皇の皇女の禎子内親王ていしないしんのうがお妃になって、生まれた皇子は後三条天皇になった。
禎子内親王が頼通と仲が良くなかったので、後三条天皇も頼通とは疎遠そえん(縁がないこと)になった。
そのため、藤原氏の力が弱くなった。
70 後冷泉天皇ごれいぜいてんのう 1045~1068 後朱雀天皇の皇子。藤原道長の息子の頼通(よりみち)の娘である寛子(かんし・ひろこ)がお妃さまになった。
後冷泉天皇と寛子の間には、けっきょく皇子が生まれることはなく、藤原氏の力が弱くなったキッカケのひとつ。
71 後三条天皇ごさんじょうてんのう 1068~1072 藤原氏とは縁の弱い後三条天皇が即位したことが、平安時代にずっと力を持ち続けていた藤原氏の力が弱くなったキッカケ。
それまで寄進系荘園きしんけいしょうえんが増えてしまい、税が集められなくなって困っていたところ、東宮とうぐう時代(皇太子のころのこと)に学士がくし(教育係のこと)をしていた大江匡房おおえまさふさ建議けんぎ(意見のこと)を受けて「延久えんきゅう荘園整理令しょうえんせいりれい」を発令した。
これによって券契けんけい(証拠となる文書)のハッキリしない荘園は国のものとされた。こうして、摂関家の荘園のほとんどが国のものとなった。
72 白河天皇しらかわてんのう 1072~1086 退位たいいして、天皇の後ろから政治を動かす「院政いんせい」を始めた天皇。
なんと堀河天皇ほりかわてんのう鳥羽天皇とばてんのう崇徳天皇すとくてんのうの3代の天皇のあいだ院政を行った。
実は、鳥羽天皇の皇子の崇徳天皇は白河天皇の息子であるという話もある。
諡号しごう(天皇が亡くなった後につけられる名前)の「白河」は、天皇が住んだ御所ごしょのあった地名。
白河天皇がずっと院政をつづけたイラスト
73 堀河天皇ほりかわてんのう 1086~1107 白河天皇天皇の第二王子。
8歳で即位した。
とても上品な性格で、「末代の賢王(お釈迦さまが亡くなって1500年がたち、仏教の教えの効力が無くなってしまう時期に現れた素晴らしいリーダー」という意味。)」と言わる賢帝(かしこくて、正しい判断をする天皇ということ)。学問・和歌・管弦に才能を発揮した。
生まれながらに病弱で、天皇に在位のまま28歳で亡くなった。
74 鳥羽天皇とばてんのう 1107~1123 堀河天皇の皇子、けれど、お母さんが産後すぐ亡くなってしまったので、白河天皇に引き取られて育てられた。
鳥羽天皇の皇子の崇徳天皇は、実は白河天皇の息子で「自分(鳥羽天皇)の息子ではない」可能性があったので、崇徳天皇を政治の世界から追い出そうとしたと言われている。
そのため、崇徳天皇を退位させて弟の近衛天皇や後白河天皇を即位させた。
さらに後白河天皇の皇子である二条天皇を即位させようとして、それが崇徳天皇と後白河天皇が争う「保元の乱」のキッカケになったと言われている。
関連するページ→歴史「武士の政治の始まり」
75 崇徳天皇すとくてんのう 1123~1141 保元の乱で負けてしまって、天皇に逆らった罪として讃岐さぬきに流されてしまった天皇。
上皇が流されるのは400年ぶりのことだった。
崇徳天皇が上皇になっていたときに、弟である後白河天皇と天皇の座(正確には、自分の息子を天皇にさせたかった)を争って戦ったのが保元の乱。
保元の乱では、藤原氏、平氏、源氏それぞれが親子や兄弟も入り乱れて戦った。
保元の乱をキッカケに、平氏は政治の力を持つようになった。
鳥羽天皇の皇子だけれど、実は白河天皇の子供という話もあり、そのせいで鳥羽天皇にダマされて政治の世界から追い出されてしまったと言われている。
讃岐で亡くなってしまうと、都では色々不幸なことが起こり、人々は崇徳天皇の呪いだと恐れた。
そのため、「平将門(たいらのまさかど)」「菅原道真(すがわらのみちざね)」に並んで、日本三大怨霊の1人になっている。
関連するページ→歴史「武士の政治の始まり」
近衛天皇が崇徳天皇の弟として即位してしまったイラスト
76 近衛天皇このえてんのう 1141~1155 鳥羽天皇の皇子。生後一ヶ月で異母兄の崇徳天皇の養子になった。3歳の時に鳥羽天皇が崇徳天皇に譲位させて近衛天皇を即位させた。その時、養子だったはずが「崇徳天皇の弟」として即位させたため、崇徳天皇には院政をする権利がなくなってしまった。鳥羽天皇は「自分の息子ではないかもしれない崇徳天皇に院政をさせないためにダマして退位させ、近衛天皇を即位させた」とも言われている。
しかし、近衛天皇は若いころに亡くなってしまう。そこで鳥羽天皇は第4皇子の後白河天皇を即位させる。
さらに次の天皇も、崇徳天皇の息子ではなく後白河天皇の息子を即位させようとしたため、崇徳天皇の不満が一気に爆発し、「後白河天皇vs崇徳天皇」という保元の乱が起きるきっかけとなった。
関連するページ→歴史「武士の政治の始まり」
77 後白河天皇ごしらかわてんのう 1155~1158 鳥羽天皇の第4皇子。譲位してから34年間も院政を行った。保元の乱では、崇徳上皇と天皇の座を争って戦った。保元の乱で活躍した平清盛を太政大臣にするなどしていたが、力を持ち過ぎた平氏をおさえるために平氏の荘園を没収してしまった。
それに怒った平清盛に幽閉ゆうへい(閉じ込められること)された。
後白河天皇の皇子の以仁王もちひとおうが、平氏を倒そうとして、源氏に「平氏をやっつけろ!」と命令を出した。
この命令が、源義朝を動かして、壇ノ浦の戦いのキッカケになった。
関連するページ→歴史「武士の政治の始まり」
78 二条天皇にじょうてんのう 1158~1165 後白河天皇の皇子。
79 六条天皇ろくじょうてんのう 1165~1168 なんとたったの生後七か月で天皇に即位したよ。歴代で最年少の天皇。
80 高倉天皇たかくらてんのう 1168~1180 後白河天皇の皇子。母は平滋子。
平氏が全盛期だった頃の天皇。
お妃さまは平清盛の娘の平徳子(たいらのとくこ)。
平徳子との間に皇子が生まれ、安徳天皇になった。
81 安徳天皇あんとくてんのう 1180~1185 高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘の徳子。たった1才3か月で天皇に即位した。6歳のころ、壇ノ浦の戦いで平氏が源氏に負けることが確実になると、祖母の平時子に抱えられて神器と一緒に入水して亡くなったと平家物語に書かれている。
82 後鳥羽天皇ごとばてんのう 1183~1198 高倉天皇たかくらてんのうの第四皇子。源頼朝が亡くなって、後継あとつぎもいなくなってしまってバタバタな鎌倉幕府を倒そうとした天皇。1221年(承久じょうきゅう3年)に起きたその時の反乱のことを承久じょうきゅうらんと言う。(※幕府を倒そうとしたというよりも、この時幕府の実権じっけんにぎっていた北条義時ほうじょうよしときを幕府から追い出そうとしたという説も出てきているよ。)
でも負けてしまい、承久の乱のあと、隠岐おきに流されてしまった。
1239年にそのまま隠岐で亡くなった。
安徳天皇あんとくてんのう退位たいいしないまま後鳥羽天皇が即位したので、2年間が重なっている。
安徳天皇が入水じゅすいして亡くなるとき、三種さんしゅ神器じんぎ宝剣ほうけんは海に沈んだまま見つからなかった。そのため、三種の神器がそろわないまま即位そくいすることになってしまった。
後鳥羽天皇にとって、「三種の神器」が揃わないままの天皇ということは「コンプレックス」だったと言われている。
「神器が無い」分、なんとか天皇としての力を示そうとして幕府を倒そうとしていたという説もある。
歌の才能があり、小倉百人一首に選ばれている。
「ひともをし ひともうらめし あじきなく よをおもふゆえに ものおもふみは」(人間をいとおしいとも、恨めしいとも思う。この世はつまらないと思うために悩んでしまう私にとっては)
83 土御門天皇つちみかどてんのう 1198~1210 後鳥羽天皇ごとばてんのうの第一皇子。後鳥羽上皇が1198年に譲位じょういし、3歳で即位そくいした(政治は、後鳥羽上皇が院政いんせいを行った)(占いの結果で即位することになったという話も)。とても優しい性格だったので、「これでは幕府に対抗できない」と考えた後鳥羽上皇は、土御門天皇天皇に退位するようにせまって異母弟いぼてい(お母さんの違う兄弟)の順徳天皇じゅんとくてんのうが即位した。承久の乱では、土御門天皇天皇は何も関係がなかったのに、「後鳥羽天皇が流されてしまったのに、自分が京都にそのままいるのは申し訳ない」と自分から進んで土佐とさ(現在の高知県)に流された(その後、幕府によって、もう少し京都に近い阿波国あわのくに(現在の徳島)に流された。ちなみに、後鳥羽上皇が承久の乱を計画したときには、土御門天皇は「今はその時ではない」と止めていたと言われている。
37歳で亡くなった。
皇子の後嵯峨天皇ごさがてんのうは、承久の乱の1年前に生まれていて、土御門天皇が土佐に流されるとお母さん側で育てられ、四条天皇しじょうてんのうが急に亡くなってしまって天皇に即位するまで苦しい生活をしていたと言われている。
「土御門」の諡号しごうは、京都の内裏だいりの名前。
84 順徳天皇じゅんとくてんのう 1210~1221 後鳥羽天皇の第三皇子。土御門天皇の異母弟いぼてい(お母さんが違う兄弟)。やさしい性格の土御門天皇と違って、とてもエネルギッシュで激しい性格だったということで、幕府にも対抗できるのではと後鳥羽上皇の期待された。
そのため後鳥羽上皇は土御門天皇に退位するようにせまって、順徳天皇が14歳のときに即位させた。
後鳥羽上皇が承久の乱を計画すると、後鳥羽上皇以上に倒幕に積極的だったと言われている。
承久の乱に備えて1221年に退位し、皇子の仲恭天皇に譲位した。
承久の乱のあとは、幕府によって佐渡さどに流されてしまった。
佐渡で21年過ごし、1242年にそのまま亡くなった。
歌の才能があり、小倉百人一首に1首入っている。
「ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なほあまりある むかしなりけり」(昔は栄えていた内裏の屋根には「ノキシノブ(草の名前)」がぶら下がっているくらい落ちぶれてしまった。)醍醐天皇や村上天皇の時代のように、皇室や貴族が栄えていた時代が懐かしい、という思いをこめた歌。
85 仲恭天皇ちゅうきょうてんのう 1221~1221 承久の乱がおこったときの天皇
86 後堀河天皇ごほりかわてんのう 1221~1232
87 四条天皇しじょうてんのう 1232~1242 後堀河天皇の皇子。1232年に後堀河天皇が譲位したので、2歳で即位した。12歳の時、女房にょうぼう皇居こうきょなどで働く女性のこと)を転ばせようと、イタズラで「よく滑る石」を撒いておいたところ、自分が滑ってしまい、頭を打って亡くなってしまったという話は有名。まだ12歳だったので子供がおらず、後堀河天皇の血統はここでストップしてしまう。
代わりに後鳥羽天皇の血統の後嵯峨天皇が即位した。
88 後嵯峨天皇ごさがてんのう 1242~1246 後鳥羽天皇の血統である、土御門天皇の皇子。承久の乱の影響で土御門天皇が土佐に流されてしまうと、お母さん側で育てられたが苦しい生活を送る。四条天皇が亡くなってしまって「誰を次の天皇にするか」となったとき、幕府は「同じ後鳥羽天皇(承久の乱で幕府に反発した天皇)の子孫でも、幕府にあまり反発しなさそうな後嵯峨天皇を即位させた(順徳天皇の血統を避けたということ)。
即位して4年で皇子(後深草天皇)に天皇の座を渡し、院政を始める。
諡号の「後嵯峨」は、「嵯峨天皇」と同じく嵯峨にお墓がつくられたから。
89 後深草天皇
(ごふかくさてんのう)
1246~1259 後嵯峨天皇の皇子。
4歳で即位し、後嵯峨天皇が院政を行った。
まだ17歳のうちに後嵯峨天皇に「弟に天皇の座を譲るように」と命令され、しぶしぶ退位する。(理由は、弟の方が両親に愛されていたとのこと・・)
後嵯峨天皇はさらに後深草天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子を皇太子に立てて亡くなってしまう。
これ以降、後深草天皇の子孫(持明院統:じみょういんとう)と、亀山天皇の子孫(大覚寺統:だいかくじとう)で天皇の座を争うようになる。
90 亀山天皇
(かめやまてんのう)
1259~1274 後嵯峨天皇の皇子で、後深草天皇の弟皇子。
後嵯峨天皇の命令で後深草天皇から天皇の座を譲られる。
91 後宇多天皇
(ごうだてんのう)
1274~1287 後醍醐天皇の父。
92 伏見天皇
(ふしみてんのう)
1287~1298
93 後伏見天皇
(ごふしみてんのう)
1298~1301
94 後二条天皇
(ごにじょうてんのう)
1301~1308
95 花園天皇
(はなぞのてんのう)
1308~1318 伏見天皇の第四皇子。光厳天皇を育てた。その時「誡太子書」を書いた。
諡号の「花園」は、御所から。(天皇みずから「花園にして」とも言っていたとのこと。
96 後醍醐天皇ごだいごてんのう
【南朝】
1318~1339 大覚寺統の天皇。
後宇多天皇の皇子。
天皇が自分で政治をおこなう「親政(しんせい)」を絶対と考え、院政摂関政治、幕府を認めない考えをもっていた。
親政をおこなった「醍醐天皇」を尊敬していたので、名前も自ら「後醍醐天皇」とするよう決めた。(加後号:かごごう)
大覚寺統と持明院統で交代に天皇に即位するルールを無視して自分の子孫に天皇を継がせていこうと、幕府を倒す計画を立てる。
1度目は計画がバレて失敗、2度目は戦いに負け、幕府によって隠岐(おき)に流されてしまう。
しかし隠岐から脱出し、1333年にとうとう鎌倉幕府を倒す。
幕府を倒したあとは、建武(けんむ)と定めて、新しい政治を行った。(建武の新政)けれど、公家(くげ)ばかりが重要とされる政治に人々や武士が反感をもった。
幕府を倒す時に後醍醐天皇に味方していた足利尊氏(あしかがたかうじ)が幕府を作るのではないかと疑い、倒そうとする。足利尊氏は京都で新しい天皇を立て、足利軍に負けた後醍醐天皇は奈良の吉野に逃げて、自分こそ本当の天皇と主張した。このため、京都の(北朝)と奈良の(南朝)の2つの朝廷ができてしまった(南北朝時代)。

南北朝時代の天皇

後醍醐天皇が三種の神器を持って吉野へ逃げて、「自分こそ正当な天皇だ!」と主張したよ。そのため、ここから朝廷が2つになってしまうんだ。後醍醐天皇の「大覚寺統」を「南朝」と呼び、足利尊氏が即位させた光明天皇の「持明院統」を「北朝」と呼ぶよ。
この時代のことを、「南北朝時代」というんだ。

南朝(大覚寺統)

97 後村上天皇ごむらかみてんのう
【南朝】
1339~1368
98 長慶天皇ちょうけいてんのう
【南朝】
1368~1383 北朝と仲直りなんかしない!という考え方だった天皇。
「仲直りした方が良い」と考えた南朝の一部の人が、仲直りに賛成派の弟皇子を即位させようとしたと言われている。
その為、長慶天皇は後亀山天皇に譲位じょうい(天皇の位を譲ること)した。
99 後亀山天皇ごかめやまてんのう
【南朝】
1383~1392 長慶天皇の弟皇子。譲位をうけて、天皇に即位した。
北朝と仲直りした方が良いと考えていた天皇で、足利義満の説得せっとくにより「明徳の和約」という3つの条件をもとに北朝と合体することになった。
100 後小松天皇ごこまつてんのう
【北朝】
1382~1412 持明院統じみょういんとう(北朝)の天皇。南北朝が統一されて、後亀山天皇から三種さんしゅ神器じんぎを受け取った。明徳の和約では、統一後は大覚寺統と持明院統で交代に皇位につくことになっていたが、約束は守られることがなく、この先はずっと持明院統(北朝)の天皇が即位する。

北朝(持明院統)

1 光厳天皇こうごんてんのう 1331~1333
2 光明天皇こうみょうてんのう 1336~1348
3 崇光天皇すこうてんのう 1348~1351
4 後光厳天皇ごこうごんてんのう 1352~1371
5 後円融天皇ごえんゆうてんのう 1371~1382

101~今上天皇まで

名称 在位期間 エピソード
101 称光天皇
(しょうこうてんのう)
1412~1428
102 後花園天皇
(ごはなぞのてんのう)
1428~1464
103 後土御門天皇
(ごつちみかどてんのう)
1464~1500 応仁の乱がおこったときの天皇
104 後柏原天皇
(ごかしわばらてんのう)
1500~1526
105 後奈良天皇
(ごならてんのう)
1526~1557
106 正親町天皇
(おおぎまちてんのう)
1557~1586
107 後陽成ごようぜい天皇 1586~1611 織田信長おだのぶなが本能寺ほんのうじの変、豊臣秀吉とよとみひでよしが天下を統一したときの天皇。太政大臣になった秀吉(当時は羽柴秀吉はしばひでよし)に「豊臣とよとみ」の姓を与えた。
108 後水尾天皇
(ごみずのおてんのう)
1611~1629 徳川幕府禁中並公家諸法度を制定したときの天皇
109 明正天皇
(めいしょうてんのう
1629~1643
110 後光明天皇
(ごこうみょうてんのう)
1643~1654
111 後西天皇
(ごさいてんのう)
1654~1663
112 霊元天皇
(れいげんてんのう)
1663~1687
113 東山天皇
(ひがしやまてんのう)
1687~1709
114 中御門天皇
(なかみかどてんのう)
1709~1735
115 桜町天皇
(さくらまちてんのう)
1735~1747
116 桃園天皇
(ももぞのてんのう)
1747~1762
117 後桜町天皇
(ごさくらまちてんのう)
1762~1770
118 後桃園天皇
(ごももぞのてんのう)
1770~1779
119 光格天皇
(こうかくてんのう)
1779~1817 現在の天皇陛下は、光格天皇の直系の子孫。
120 仁考天皇
(にんこうてんのう)
1817~1846
121 孝明天皇
(こうめいてんのう)
1846~1866 ペリーが来航したときの天皇
122 明治天皇
(めいじてんのう)
1867~1912 明治維新(めいじいしん)がおこったころの天皇。明治天皇以降から、「元号+天皇」とお呼びするようになる。
123 大正天皇
(たいしょうてんのう)
1912~1926 第一次世界大戦が起きたときの天皇
124 昭和天皇
(しょうわてんのう)
1926~1989 第二次世界大戦が起きたときの天皇
125 上皇さま 1989~2019 生前退位をされた。
元号は「平成」
126 今上天皇・天皇陛下 2019~ 今上天皇きんじょうてんのうとは今現在、皇位こうい(こうい)につかれている天皇のこと。元号は「令和」。

天皇にまつわる豆知識

大王(おおきみ)から天皇になったのはいつ?

古墳時代に大和朝廷が誕生して、トップのことを「大王(おおきみ)」と呼ぶようになったね。
大化の改新で、中央集権国家(政治を行う権利が、中央の政府に集まった国家のこと。大化の改新で、土地や民はすべて国のものとされたよね。)が本格的にスタートし、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:のちの天智天皇)の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ:のちの天武天皇)が即位したときから、「天皇」と呼ばれるようになったという説が有力だよ。

天皇の呼び方について

天皇って、明治天皇とか昭和天皇とか、「元号+天皇」でお呼びするよね。
でも平成天皇とか、令和天皇って呼び方は聞いたことないんだけど・・どうして?

くまごろうくまごろう

実は、「〇〇天皇」という呼び方は、諡号(しごう)といって、「天皇が崩御(ほうぎょ:お亡くなりになること)されたあとに贈るものなんだ。


それまでは「御門(みかど」とか、「今上帝(きんじょうてい)」などと呼ばれるよ。

諡号は、その天皇の人生をあらわしたり、性格や好きなもの、縁のあったもの、住んでいた地名などからつけられるよ。
※単純に地名などのばあいは、諡号と言わずに「追号(ついごう)」ともいうよ。

たろうたろう

時々「後〇〇天皇」というのがあるけど??


たとえば住んでいたところが同じ天皇がいた場合、同じ名前だとややこしいので、区別をつけるために「後〇〇天皇」とつけることがあるよ。
例:一条天皇と後一条天皇
「一条」は住んでいた御所の名前

「後」をつけるパターンのもう一つは、天皇みずからが「自分の諡号は○○天皇と同じにしてくれ!」と決めるパターン。

尊敬する天皇の名前をつけたりするんだ。
例:醍醐天皇を尊敬していたので、「後醍醐天皇」。
白河天皇を尊敬していたので、「後白河天皇」。

くまごろうくまごろう

こういうパターンは「加後号(かごごう)」と呼ばれるよ。
この加後号の天皇は、武士と戦ったり、幕府を倒す計画をしたりと結構パワフルな人が多いよ(笑)

ちなみに、それぞれの天皇さまごとに元号が定められるようになったのは明治以降で、それからは諡号には元号がそのまま使われるようになっているよ。
なので、「明治+天皇」、「昭和+天皇」と呼ばれているんだね。

平成の天皇である明仁(あきひと)さまのことは「上皇陛下(じょうこうへいか)」、「明仁上皇(あきひとじょうこう)」とお呼びするよ。

令和の天皇である徳仁(なるひと)さまは、「今上天皇(きんじょうてんのう」、「天皇陛下(てんのうへいか)」、「徳仁天皇(なるひとてんのう)」とお呼びするんだ。

運営者情報

青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。

感想や意見を聞かせてね

  1. さいきょうけなたろう より:

    やっぱり詳しい説明が乗っていていいですね。
    これで何人か覚えることが出来ました。

    • yumineko より:

      さいきょうけなたろう さん

      いつもありがとうございます!!
      それにしても けなたろうさんは本当にたくさん
      自分から勉強されていて、尊敬です・・・!

      天皇も、なかなか個性的な人がそろっていて面白いですよね。
      私は個人的に後醍醐天皇がツボです。

      このページも、もっと情報を加えていきたいと思っているのでよろしくおねがいします。
      リクエスト記事、なかなか進められなくてごめんなさい。

  2. さいきょうけなたろう より:

    たしかに後醍醐天皇のエピソードは面白いです。
    この人も、このサイトで覚えました。
    結構有名ですよね?

    • yumineko より:

      さいきょうけなたろう さん
      後醍醐天皇、パワフルですよね。
      このサイトで覚えていただいたなんて、嬉しいです!!
      後醍醐天皇まで覚えていたら、もう中学歴史も安心ですね。

  3. さいきょうけなたろう より:

    たしかに後醍醐天皇のエピソードは面白いです。
    この人も、このサイトで覚えました。
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    • yumineko より:

      さいきょうけなたろう さん
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      後醍醐天皇まで覚えていたら、もう中学歴史も安心ですね。