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くまごろう
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「か」で始まる用語
嘉吉の乱 | 嘉吉の変ともいう。1441年(嘉吉元年)に、播磨(現在の兵庫県南西部)・美作(現在の岡山県東北部)の守護だった赤松満祐が、室町幕府6代将軍の足利義教を暗殺した事件。 足利義教は「自分の思い通りにならない者」に対して、土地を奪ったり殺してしまったりする暴君(人々を困らすリーダーのこと)だったため、「今度は自分が土地を奪われる(殺される)」と考えた赤松満祐が暗殺を計画した。 この事件をきっかけに、室町幕府の権威(人々がみずから従おうとする力のこと)は、さらになくなっていった。 赤松満祐は事件のあと領国(支配している土地のこと)の播磨へ戻るが、幕府軍に攻め込まれ、自害した。 |
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鎌倉幕府 | 源頼朝が神奈川県鎌倉市にひらいた日本で初めての武家政権のこと。武家政権とは、武士による政府のこと。 鎌倉幕府があった150年間を鎌倉時代と呼 ぶ。 いつ鎌倉幕府がひらかれたことにするかは色々説がある。 1192年、源頼朝が征夷大将軍に任命された時を鎌倉幕府の完成とする説が一般的。 登場するページ→小学6年歴史「武家政権のはじまり」 |
開国 | 外国と交通(行き来したり、物の売り買いをしたりすること)を始めること。 反対に外国と交通することを禁止することを、「鎖国」という。 日本は、江戸時代の1639年から200年以上鎖国されていて、長崎の出島だけが貿易(外国と物の売り買いをすること)などをすることを許された。貿易の相手国も、中国の清と、オランダだけだった。 しかし1853年に、アメリカのペリーが浦賀に来航(船でやって来ること)し、江戸幕府へ日本を開国するように要求してきた。 1854年に「日米和親条約」が結ばれて、下田と函館を開港した。 ペリーがやって来た時の船が黒い船だったので、「黒船来航」と呼んだりもする。 |
改新の詔 | 飛鳥時代に起きた大化改新のとき、新しい政治のやり方を発表した詔(天皇の命令のこと)。内容は、「公地公民」、租庸調」の税の制度、「班田収授方」などについて。 公地公民とは、土地や民はすべて国のものになる、というルール。 班田収授方は、民に田んぼを与えるというルール。 租庸調は、民が国におさめる税のこと。 つまり、カンタンにいうと「土地や民はすべて国のものなので、国が支配する。民には、国から稲を耕すための田を分け与えるので、そこで米を作り、税金として米を国へおさめなさい」ということ。※税の種類は他にもあるよ! |
解体新書 | 蘭方医(オランダから伝わった医学を扱う医者のこと)の杉田玄白や前野良沢らが出版した解剖学書(解剖学とは、生き物の形態や構造を研究する学問のこと。つまり、心臓はどんな形で、どんな構造になっているかなど・・)。ドイツ人の医師の解剖学書をオランダ語に訳した「ターヘル・アナトミア」という解剖学書を翻訳したものと言われているが、他にも色々な解剖学書が参考にされている。 前野良沢が翻訳を担当し、杉田玄白が清書をした。全4巻で、付図(付録の図のこと)が1巻。漢文で書かれている。 この解体新書によって日本の医学が発展した。 |
貝塚 | 弥生時代などの昔の人々が、食べた貝の「から」や動物の骨などをまとめて捨てていた場所のこと。遺跡にある貝塚を調べると、そのころの人々の食生活が分かる。貝のカルシウム成分のおかげで、他の化石も保存状態が良い(きれいなままで残っているということ)ものが多い。 登場するページ→小学6年歴史「弥生時代」、中学歴史「縄文時代」 |
加賀の一向一揆 | |
嘉吉の乱 | |
学制 | |
学徒出陣 | |
学問のすゝめ | |
嘉元の乱 | |
笠置山の戦い | 1331年に後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと計画(元弘の変という)すると、計画がバレて後醍醐天皇は京都から脱出し、笠置山に立てこもって、近くの国の武士たちに「倒幕するよう」声をかけた。 そうして集まった武士と、鎌倉幕府が戦ったときのことを笠置山の戦いという。 結果 幕府側が勝利し、後醍醐天皇は捕まり隠岐に流された。 |
カースト制度 | |
化政文化 | 19世紀初めの文化。江戸が中心。滝沢馬琴と十返舎一九の小説や、与謝蕪村、小林一茶の俳諧などの文芸が代表。狂歌が流行した。絵画では、葛飾北斎や歌川広重、喜多川歌麿、東洲斎写楽の浮世絵が代表。 |
華族 | |
刀狩令 | 武士以外の僧侶・農民などから刀などの武器を取り上げること。 刀狩りは鎌倉時代から行われていたが、豊臣秀吉が行った刀狩りが有名。 秀吉は1588年に刀狩令を出し、武士以外は武器を持てないようにすることで、武士・町人・百姓などの身分の差をはっきりさせた。 また、百姓などが武器を持てなくなれば、一揆などを起こすことができなくなるというのも理由のひとつ。 登場するページ→6年歴史「安土桃山時代(豊臣秀吉)」 |
合衆国憲法 | |
かな文字 | 中国の漢字をもとにして生まれた文字のこと。 かな文字に対して、中国の漢字のことを「真名文字」という。 かな文字には、「ひらがな」と「カタカナ」がある。 ![]() ![]() かな文字は平安時代の貴族の女性がよく使い、貴族のお邸で働く女房がすぐれた文学作品を作るきっかけにもなった。 例:清少納言の「枕草子」、紫式部の「源氏物語」 登場するページ→小学6年歴史「国風文化」 |
鎌倉文化 | |
亀ヶ岡遺跡 | 青森県つがる市にある縄文時代の遺跡。精巧(とても細かく上手なこと)な文様や、黒・赤の漆で飾られている土器が沢山出土した。この遺跡から、亀ヶ岡式土器の名前がつけられた。国の史跡に指定されている。遮光器土偶が出土した遺跡としても有名。 |
伽耶諸国 | 3世紀から6世紀の中頃にかけて、朝鮮半島の中南部にある洛東江の流域を中心に散在(広い範囲に散らばってあること)していた小国家群のこと。 鉄の有力な生産地帯なので、大和政権は伽耶諸国と交流を持ち、鉄を入手していた。 ![]() 登場するページ→中学歴史「古墳時代」 |
樺太 | |
刈田狼藉 | 田が「誰のものか」を争っているときに、「その田は自分のだ!」と勝手に稲を刈り取ってしまうルール違反のこと。 |
枯山水 | 石と白い砂で「山」や「水」を表現した庭園造りの方法のこと。京都の龍安寺の石庭が有名。室町時代に差別を受けていた河原者と呼ばれる人々の技術が生かされている。 |
河内 | 飛鳥時代から明治時代の初めごろまで使われていた「令制国」の一つ。今でいう大阪府の東部に該当(あてはまること)する。 |
川中島の戦い | |
河原者 | 鎌倉時代・室町時代に「身分」の差別をされていた人々のこと。 河原に住んでいて、税を納めなくてもよかった人が多かったので、「河原者」と呼ばれる。 職業は屠畜(動物を殺して、肉や革で商売をする人)や井戸造り、庭園造りなどする人が多かった。 しかし室町時代の文化では、庭造りや芸能などで才能を認められる人が現れ、特に善阿弥という人は室町幕府8代将軍足利義政のもとで庭師として働き、銀閣寺の庭園造りに影響を与えた。 龍安寺の枯山水と呼ばれる方法で作った石庭も、河原者の人々の技術が生かされている。 |
漢 | 紀元前202年に劉邦が中国を統一して作った王朝(皇帝が政治の中心ということ)。一度紀元8年に滅ぼされてしまうが、またすぐに劉秀が復活させた。劉秀は、光武帝と呼ばれている。 紀元220までの400年間も続いた王朝。 |
冠位十二階 | 飛鳥時代の603年に定められた制度。605年から648年まで行われた。聖徳太子が定めたと言われている(蘇我馬子が一緒に作った、どちらかというと蘇我馬子が中心だったなどの説もある)。 それまでは「姓」によって朝廷の高い位についたりしていたが、「出身」ではなく「能力や、どんな良い行いをしたか」で位が決まるようにした。また、世襲(親子で引き継いでいくこと)ではなく個人一代(その人の代だけ。子供には引き継げない)だけ有効になるようにした。 徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ「大」と「小」に分け、全部で十二段階の位を定めた。 ![]() 位によって色分けされた冠を被ることで、それぞれの地位がひと目で分かる工夫もされている。 決まった豪族が力をつけすぎるのを防いで、新しい優れた人材を朝廷に迎えられるようにするのが狙い。 登場するページ→小学6年歴史「飛鳥時代」 |
寛永通宝 | |
寛喜の大飢饉 | |
環濠集落 | まわりを濠(掘って作られた溝のこと)や土塁(土で作られた堤防のこと)で囲った集落(人が集まって生活しているところ)。 弥生時代になって米作りがはじまると、米を作るのに条件がよい土地や、道具、たくわえなどをめぐって争いが起きたと考えられている。 まわりを濠や土塁で囲むことで、敵が攻めにくいようにしていると考えられている。 佐賀県にある吉野ヶ里遺跡は最大級の環濠集落の遺跡。 |
勘合貿易 | 勘合と呼ばれる証票(証明するための札)を使っておこなわれた貿易のこと。 室町幕府の足利義満と明の間でおこなわれた。 この頃、倭寇という海賊がいたので、明は外国からやってくる船を厳しくチェックした。このとき、明の皇帝が将軍に証票として勘合を与えて、勘合を持ってきたかどうかを確認してから港に入ることを許されていた。 勘合は真ん中で2つに分かれていて、片方を「勘合」、もう片方を「勘合底簿」と呼んでいた。 ![]() この2つがぴったり合うかをチェックすることで、皇帝から許された船かどうかを確認していた。 登場するページ→歴史人物図鑑「足利義満」 |
韓国併合 | |
漢字 | 漢字は、古代中国の黄河文明で生まれた文字。4大文明で使われていた文字のうち、漢字だけが今でも使われている。(現代では、中国語・日本語・朝鮮語で使われていて、世界で2番目に使っている人が多い文字。)史上もっとも文字数が多く、10万字を超えている。 5世紀ごろの古墳時代に朝鮮半島から日本へ移住した渡来人から漢字が伝わった。 |
鑑真 | 日本に仏教を広めるために日本に渡った中国(唐)の僧。 742年に日本へ行く決意をしたが、5回も失敗し、失明(目がみえなくなること)までして6回目の753年に日本の鹿児島県に到着した。 聖武天皇の受戒をおこない、唐招提寺を建てた。 鑑真のおかげで日本の仏教は発展した。 登場するページ→小学6年歴史「海をこえた人」 |
寛政異学の禁 | 1790年(寛政2年)の江戸時代に、松平定信によって定められた法令。 聖堂学問所(林家の家塾)において、中国の儒学のひとつである「朱子学」を正学として、それ以外の異学を江戸幕府の学問所(江戸幕府によって作られた学校のこと)で教えたり学んだりすることを禁止した。寛政の改革のひとつ。松平定信が柴野栗山の建言(意見を言うこと)を受け入れて禁止した。 「寛政」に、「異なった」学問を禁止したから、「寛政異学の禁」ということ。 |
関税自主権 | |
寛政の改革 | |
寛政地震 | 寛政5年(1793年)の1月7日の午後12時ごろに宮城県沖を震央として起きた地震。マグニチュードは7.5〜8.2だったと考えられている。 東北地方の被害が大きく、津波が発生した。 家などが壊れてしまったり流されてしまったものは1730軒以上で、44人以上の人が亡くなったと考えられている。 |
寛政の改革 | 天明7年(1787年)から、寛政5年(1793年)までに松平定信によって行われた改革。 天明には飢饉(食べ物がなくて人がたくさん亡くなること)が起きて、苦しい生活を送る人がたくさんいた。そこで松平定信は倹約令(節約しなさいという内容の法令)を出したり、江戸に出てきていた農民をもとの自分の国へ帰したり、飢饉で困らないように米を蓄えさせたり、旗本や御家人の借金を帳消しにする法令を定めたりした。 厳しい改革だったので、人々が不満をもつようになった。 |
ガンディー | |
関東大震災 | 1923年9月1日の午前11時58分44秒に、相模湾北西部を震源として発生した巨大地震。地震による津波も発生した。時間がお昼だったので、下町を中心にあちらこちらで火災が発生してしまい、大惨事(とても酷い事故のこと)となった。 死者・行方不明者は14万人を超える。 |
関白 | 成人(大人になった)した天皇をサポートして政治をする役のこと。最初の関白は藤原基経 |
寛平の治 | 「かんぴょうのち」とも読む。 |
桓武天皇 | 第50代(781年~806年)の天皇。 都を、平城京から長岡京へ移し、長岡京からさらに平安京へ移した。 |
「き」で始まる用語
魏 | 中国の三国時代(魏・呉・蜀の3つの国が対立していた時代のこと)に、華北(中国の北の方)220年から265年の間支配していた王朝(君主:中国の場合、皇帝が支配した時代のこと)。首都は洛陽。 魏の歴史書である「魏志倭人伝」には、倭(日本のこと)に「邪馬台国」というくにがあること、「卑弥呼」という女王が邪馬台国をおさめていたことが書かれている。 |
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魏志倭人伝 | 中国で魏・呉・蜀という3つの国が対立していた時代のことを書いた「三国志」という歴史書のなかの「魏書」のなかの「東夷伝」のなかの「倭人条」に書かれた部分のこと。 カンタンに言うと、「中国の歴史書にかかれていた日本についての部分」のこと。 ![]() 「倭には、邪馬台国というくにがある」ということ、「邪馬台国は女王の卑弥呼がおさめている」ということが書かれている。 この頃(弥生時代)、まだ日本には文字がなかったので、日本の様子が わかる歴史書は日本にはなかった。なので、魏志倭人伝は、日本のことを知るための大切な手がかりになっている。 登場するページ→「魏志倭人伝」 「卑弥呼」 |
寄進系荘園 | 寄進地系荘園や、寄進型荘園とも呼ばれる。 自分で耕した田は永延に自分のものにして良いという「墾田永年私財法」が定められると、力のある豪族や貴族、寺や神社はどんどんと土地を耕し自分の土地を広げていった。 これが荘園だが、一般的な農民は、結局土地が自分のものになっても税を納めるのに苦しい生活だった。 そこで、農民は有力な貴族などに自分が耕した土地を寄進(プレゼントすること)し、書類上は「貴族のもの」ということにした。 そうすれば、有力な貴族などからは朝廷は税を取り立てることが難しくなる。 書類上は貴族のものだが、実際に米を作ったりするのは農民で、その分お礼を貴族に渡していた。 つまり、農民が耕した土地を貴族に寄進することで、農民は重い税から逃げられるし、名前を貸している貴族はお礼をもらえるということで、どちらも得をしていた。 こうやって寄進されて貴族名義の土地になった荘園のことを「寄進系荘園」と呼ぶ。 |
貴族 | 家がら(先祖のころから地位のある一族だったなど)や、身分が高い人々のこと。特別な権力を持っていたりした。 |
貴族院 | |
北里柴三郎 | |
北山文化 | 室町幕府3代将軍の足利義満の頃の文化のこと。 義満が京都の北山に金閣寺を建てたことから、「北山文化」と呼ばれている。 公家と武家、中央と地方、大陸と日本伝統がミックスされた華やかな文化。 対して、室町時代後期に栄えた「わび・さび」を表現する文化を東山文化と呼ぶ。北山文化・東山文化は室町時代に栄えた文化なので「室町文化」とも呼ばれる。 |
木戸孝允 | |
紀貫之 | |
義務教育 | |
牛耕 | |
旧石器時代 | 石を打って欠けさせて作った「打製石器」を使っていた時代。 欠けさせただけの石を磨いて形を整えた石器を「磨製石器」と言い、「新石器」と呼ぶことから、打製石器は「旧石器」と呼ぶ。 「旧石器」を使っていた時代なので、「旧石器時代」。 登場するページ→小学6年歴史「縄文時代」、中学歴史「旧石器時代」、高校歴史「旧石器時代」 |
教育基本法 | |
行基 | 弥生時代、朝鮮から渡来(海を渡って日本に来ること)した渡来人の子孫。 奈良時代に、近畿地方を中心に仏教を広めることに力をいれた。 困った人々のために橋や池などをつくり、人々の信頼を得ていた。 聖武天皇が大仏づくりをする時には、行基がサポートをすることで、人々の協力を得ることができたと言われている。 大仏づくりの途中で亡くなってしまった。 登場するページ→小学6年歴史「奈良時代(後編)」 |
教行信証 | |
享保の改革 | |
享保の飢饉 | |
清洲同盟 | 戦国時代、織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで倒したことで、今川義元の人質だった徳川家康(この時の名前は松平元康)がもとの三河国に戻った。 その後、織田信長と徳川家康は協力し、お互いに相手を攻めない約束をした。このような約束を同盟という。 この同盟のことを、清洲同盟という。 |
キリスト教 | |
記録所 | 後三条天皇が設置した「記録荘園券契所」を略した呼び方。 ※内容は「記録荘園券契所」の欄を参考 |
記録荘園券契所 | 後三条天皇が発令した「延久の荘園整理令」によって、券契(荘園が自分のものだということを証明するもの)が無かったり、きちんとしていない荘園(貴族など、個人が持っていた土地のこと)は全て国のものとすることになった。 このようにしたのは、農民が税(お米)を納めることから逃れるために、土地を有力な貴族に寄進(プレゼントすること)してしまう「寄進系荘園」が増えてしまったため、税が集まらなくなってしまったから。 延久の荘園整理令が発令され、記録荘園券契所ができた後は、そこに証拠書類を提出する必要と、国司からの報告があってやっと荘園が認められるようになった。 これによって藤原氏などの摂関家が持っていた荘園のほとんどは国のものとなり、藤原氏の力が弱まる一因(原因の一つのこと)になった。 |
金印 | 金でできている印(スタンプのイメージ)のこと。中国の皇帝に貢物(プレゼントのイメージ)をすると、中国がその国や王を認めた(対等とうより、臣下として)証として金印がおくられる。 江戸時代である1784年に、博多湾の志賀島で発見された金印は、紀元前57年に倭の国王が後漢(このときの中国を統一していた国の名前)の皇帝からおくられたものと考えられている。 その金印の特徴は、つまみの部分が蛇の形をしている。印面には「漢委※奴国王」と彫られている。※「倭」の間違いではないかという意見もある。 |
金閣寺 | 室町幕府3代目将軍の足利義満が京都の北山に建てた山荘。正式には「鹿苑寺金閣」。 もとは西園寺家が所有していた山荘で、譲り受けた義満が改装した。 将軍職を息子に譲ったあと、隠居するための住まいとして作られた。 全部で3層の建物で、2層めと3層めには金箔が貼られている。 義満は公家としても、武家としても頂点に立った人物なので、この金閣も公家の文化を表す「寝殿造」と、武家の文化を表す「書院造・武家造り」中国の「禅宗様」が合わさったデザインになっている。 この頃の文化は、義満が金閣寺を京都の北山に建てたことから、「北山文化」と呼ばれる。 北山文化は、公家と武家、中央と地方、大陸と日本ならではの伝統がミックスされた華やかな文化。 |
銀閣寺 | 室町幕府8代目将軍の足利義政が京都の東山に建てた山荘。正式には「東山慈照寺」。延徳2年(1490年創建)。 室町時代後期に栄えていた東山文化の代表ともいえる。国宝に認定されており、ユネスコ世界遺産にも登録されている。 特に銀色というわけではないが、足利義満が建てた金閣寺を真似して作られたため、金閣寺対して「銀閣寺」と呼ばれる。 2層で、上層は武家文化を表す「禅宗様」、下層は書院造」 銀閣寺の庭園は、足利義政に仕えていた河原者(当時差別を受けていた人々)で庭園造りを職業にしていた善阿弥と、その子供が作った。 |
禁中並公家諸法度 | |
禁門の変 |
「く」で始まる用語
愚管抄 | 鎌倉時代初期に書かれた史論書。天台宗の僧侶である慈円が書いた。承久の乱の前後あたりに書かれたと言われている。 全部で7巻。神武天皇から第84代順徳天皇までの歴史が書かれている。 歴史を研究する分野では、とてもよく登場する、重要資料となっている。 |
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公事方御定書 | |
楠木正成 | 鎌倉時代、河内の国にいた悪党(悪党とは、幕府のやり方に従わない者などのこと。「悪者」というわけではない。本当に悪党だったかどうかは、諸説あり)。奇抜(変わっていること)な戦術が得意で、日本史上最上の軍師と評価されている。 お米を増やして炊く有名な裏技の「楠公飯」は楠木正成が考えたもの。 後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すときに味方して戦った。 足利尊氏が後醍醐天皇に反するようになった時にも、後醍醐天皇側の軍として足利尊氏と戦い(湊川の戦い)、負けて自害した。 |
管玉 | 吉野ヶ里遺跡で出土(土の中から発見されたこと)した、ビーズのような飾り。糸を通して、ブレスレットやネックレスなどとして使った。 |
百済 | 「ぺクチェ」とも呼ぶ。4世紀から7世紀の中頃に朝鮮半島の南西部にあった国家のこと。 朝鮮半島北部にあった高句麗とは対立関係にあり、同じく高句麗と対立していた大和政権(日本)と同盟を結んだ。 朝鮮半島には他に新羅という国家があり、この時代を朝鮮の歴史における「三国時代」と呼ぶ。 百済は中国の南朝とも密な交流を持ち、仏教を取り入れ、6世紀に大和政権に仏教を伝えた。 大和政権の蘇我氏は百済の渡来人と友好な関係を持つことで力をつけたとも言われている。 中国が隋に統一されて、新羅と組んで百済を攻撃してきたため、660年に滅亡した。(百済の土地は神羅に組み込まれた) |
倶利伽羅峠の戦い |
「け」で始まる用語
慶安の変 | |
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慶應義塾 | |
慶長大地震 | |
慶長の役 | 安土桃山時代に全国を統一した豊臣秀吉は、明(中国)を征服するために、明への足がかりとして朝鮮へ2度出兵(兵を出す事)した。 1度めは文禄(安土桃山時代の元号)に行われ、「文禄の役」と呼ばれる。 文禄の役では秀吉は朝鮮へ15万の兵を出し、漢城(ソウル)・平壌を制覇して優勢かと思われたが、李舜臣がひきいる朝鮮の水軍や明の援軍に押されて日本に退却した。 その後、慶長(文禄の次の元号)にまた朝鮮に出兵し、慶長の役と呼ばれる。 慶長の役では、途中で秀吉が病気で亡くなってしまい、日本は朝鮮から退却した。 |
下克上 | 身分の低いものが、自分よりも身分が高いものを武力などの実力で倒すこと。 戦国時代に活躍する戦国大名は、守護大名がさらに力をつけて戦国大名になったものもいるが、身分の低いものが守護大名を倒して(下克上)守護大名の土地を支配するようになり戦国大名になったもの。 |
元 | 13世紀に誕生したモンゴル軍がいくつかの国に分かれて「元」という国になった。![]() 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)に日本に攻めてきた。 それぞれ文永の役と、弘安の役と呼ぶ。 日本軍と戦っているうちに、暴風雨や台風にあい、失敗している。 この頃のリーダーはフビライ(クビライ)。 元が日本に攻めてきたことを「元寇」と呼ぶ。 登場するページ→6年歴史「鎌倉幕府のその後」 |
喧嘩両成敗法 | 簡単にいうと、「ケンカしたものは、どちらかが悪いとかではなく、両方悪いことにする」というルールのこと。戦国時代に、戦国大名は自分の国を支配するためにオリジナルの法律(ルール)を作ったりした。(これを分国法)という。その分国法の中には、この「喧嘩両成敗法」を取り入れたものもあった。 喧嘩両成敗法を取り入れていた分国法の例:武田信玄の「甲州法度之次第」 |
建久新政 | |
乾元大宝 | 天徳2年(958年)に発行された貨幣。 しかし銅が不足して、貨幣の質が悪くなってしまい、乾元大宝が発行されたあとしばらく日本国内では鋳造(貨幣を作ること)は中断された。 また鋳造されるようになったのは江戸時代になってから。 |
元寇 | 元が日本を征服しようと攻めてきたことを「元寇」と呼ぶ。 1度目は文永11年におきた文永の役、2度目は弘安4年の弘安の役。どちらも暴風雨などが原因で失敗している。 元と戦った鎌倉幕府の御家人たちに十分な恩賞(ほうびのこと)を与えることが出来なかったことから、幕府と御家人との絆が弱くなり、鎌倉幕府が滅ぶキッカケとなった。 ![]() 登場するページ→6年歴史「鎌倉幕府のその後」 |
元号(年号) | 平成や令和のように、天皇1代ごとに決める。天皇1代ごとに変わるようになったのは明治時代以降で、江戸時代までは天皇が交代したとき以外にも、何か事件があったり、おめでたいことがあった時にも変えられていた。 昔の中国では、「皇帝は空間と時間を支配している」と考えられていたよ。その考え方をもとに、日本でも天皇(日本にとっての皇帝)1代ごとに時間を区切るための元号を決めるようになったんだ。 |
元弘の変(乱) | 1331年の鎌倉時代、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇と、幕府側の北条家との間で起こった内乱。 メンバーは後醍醐天皇、文観、日野俊基。 1333年の元弘3年まで続いたので、元弘の乱と呼ばれる。 後醍醐天皇はその前にも幕府を倒そうと計画したが、それは計画がバレて失敗していた。(正中の変) 元弘の変により、後醍醐天皇は幕府側につかまり※、廃位(天皇から外されること)され隠岐へ流された。 文観も流され、日野俊基は処刑された。 (この時、正中の変で流されていた日野資朝も一緒に処刑された。) しかし、隠岐を脱出した後醍醐天皇は足利尊氏、新田義貞、楠木正成を味方につけ、最終的に後醍醐天皇が勝利した。 鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まった。 ※元弘の変では、後醍醐天皇の計画がバレて、後醍醐天皇は笠置山に逃げた。その笠置山で幕府と戦い、捕まった。その戦いを「笠置山の戦い」という。 |
源氏 | 天皇の血筋ではあるけれど、天皇にはならなかった一族が家臣(家来のこと)になるときに「源」の姓を使うようになり、源氏となる。 源頼朝は、清和天皇の子孫の一族。 1051年、東北地方で反乱があった時に源氏が活躍し、そのあとも関東地方で力を伸ばしていった。 1159年の平治の乱では平氏に負けて、源義朝は殺され、頼朝も伊豆へ流されてしまう。 しかし1185年の壇ノ浦の戦いで平氏を倒し、1192年に征夷大将軍となった頼朝が鎌倉に幕府をひらき、日本で初めての武士政権を始めた。 しかし、頼朝の血筋の源氏はその後3代(頼朝の子供の子供の代まで)で途絶えて(滅びて)しまった。 室町幕府を開いた足利尊氏も、もとは源氏の一族。後醍醐天皇の味方となって鎌倉幕府を倒した新田義貞ももとは源氏の一族。 登場するページ→小学6年歴史「武士の政治のはじまり」、「源平の戦い」、「武家政権のはじまり」 |
源氏物語 | |
遣隋使 | 日本(この頃は「倭」)から中国の「隋」に派遣されるお使いの人のこと。 中国の技術や文化などを学ぶために派遣された。 600年に最初の遣隋使が送られた。 600年から618年の間に、3~5回派遣されたと言われている。 聖徳太子の命令で派遣された小野妹子が有名。 登場するページ→小学6年歴史「飛鳥時代」 歴史人物図鑑「小野妹子」 |
建長寺 | |
遣唐使 | 日本から中国の「唐」に派遣されるお使いの人のこと。 (618年に隋は滅び、唐が中国を統一した。) 遣隋使と同じように、中国の技術や文化などを学ぶために派遣された。 630年に最初の遣唐使が送られた。回数は12~20回まで、色々説がある。 894年に計画された時、菅原道真が中止を提案し、そのまま907年に唐が滅んでしまったので、遣唐使は廃止になった。 登場するページ→小学6年歴史「国風文化」 |
元和偃武 | |
元和大殉教 | |
建仁寺 | |
建武式目 | 1336年に公布された式目(ルールや制度を箇条書きにしたもの)。足利尊氏によって開かれる室町幕府の政治の目的や政治のやり方などを表したもの。 室町幕府の創設は、この建武式目が公布された1336年と考えられている。 |
建武の新政 | 1333年に鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が行った新しい政治のこと。 後醍醐天皇は政治の全ての権限(物事を決めたり行ったりする権利)を自分のものにしようとして、摂政・関白・院政・幕府を認めなかった。 土地を得る時には、天皇が出す綸旨(天皇が出す公の文書のこと)が必要というルールを作った。 このような後醍醐天皇の「独裁的(全てのことを天皇ひとりの判断でしてしまうこと)」な政治に武士達が反感を持つようになった。 登場するページ→中学歴史「建武の新政」 |
元暦の大地震 | |
元禄地震 | |
元禄文化 |
「こ」で始まる用語
弘安の役 | 弘安4年(1281年)に元が日本へ攻めて来た時のこと。 元が日本へ攻めてきたのは2度目。 暴風雨(台風)にあい、元軍は海に沈むなど大ダメージを受けて失敗した。 |
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弘仁地震 | |
弘仁・貞観文化 | |
庚午年籍 | 天智天皇(もとの中大兄皇子)が「土地と民は、すべて国のものにする」という政治の改革のために、「誰がどこに住んでいるのか」をハッキリさせるために作った戸籍のこと。 670年に作られた。 |
更新世 | 地質学で使われる言葉。簡単にいうと、化石などによってその時代の様子がわかる時代のうち、地球が氷河で覆われていた期間で、さらにそのうちの「大型哺乳類」が栄えていた時代のこと。 更新世のころは海面が今よりも低く、日本は大陸と陸続きだった。 更新世のころに人類は日本へやってきたと考えられている。 登場するページ→高校歴史「旧石器時代」 |
康暦の政変 | |
御恩 | 将軍が御家人に「恩恵」を与えること。例えば、戦や仕事で頑張った御家人に、褒美として「土地」や「仕事」を与える。 それに対して御家人が将軍に戦や仕事で尽くすことを「奉公」と言い、「御恩と奉公」は鎌倉幕府の将軍と御家人を結びつける重要な関係。 登場するページ→小学6年歴史「鎌倉幕府の政治」 |
豪族 | 地方で力をつけて、栄えた(お金や権力を持った)一族のこと。 |
五経博士 | 6世紀ごろに、儒教を日本へ伝えた百済からの渡来人。五経とは、儒教の経典で「書経」「易経」「詩経」「春秋」「礼記」のこと。儒教を学び、教える人のこと。 |
古今和歌集 | |
国司 | 朝廷からの任命を受けて地方の政務(政治を行うための行政事務)を行うために置かれた役人のこと。 国司は中央(この場合、朝廷のこと)派遣された貴族のこと、同じような任務でも、郡司はその地方の有力な豪族が任命されたもの。 |
国風文化 | 7世紀から9世紀は中国の「唐」などの文化を取り入れる「大陸文化」だったのに対して、10世紀から12世紀に日本独自の気候や生活に合わせた文化を作り上げた。これを「国風文化」という。 登場するページ→小学6年歴史「国風文化」 |
御家人 | 将軍の家来になった武士のこと。 御家人は、さらに「郎党」という家来をしたがえていた。 鎌倉幕府の御家人は、御家人が将軍のために戦ったり働いたりする「奉公」に対して、将軍が土地や仕事を与える「御恩」で結びついていて、この関係を「御恩と奉公」という。 |
後三年の役 | |
古事記 | 元明天皇の命令をうけて、太安万侶がまとめ、完成された日本で最も古い歴史の本。日本がどうやって出来たかが書かれている。日本の「古い時代の出来事を記した」書物なので、「古事記」。 日本に文字(漢字)が伝わったのは5世紀の頃なので、それまでの事は人々の口で次の世代へ「語り継がれて」いた。その語り継がれてきた内容を習い覚えていた稗田阿礼が太安万侶に伝えてまとめた。 上・中・下の3巻。 上巻では神話、中巻では伝説、下巻では歴史が書かれている。 |
御成敗式目 | 鎌倉時代に、武家社会の習わしや道徳をもとにして作られた初めての「武家の法律」。御家人の権利や義務についてや、裁判の基準(ルール)などが内容。武家のための法律なので、もちろん京都の公家や、朝廷には使われない。その後長い間「武家の法律のお手本」とされる。 貞永元年(1232年)8月10日に制定されたので、貞永式目とも呼ばれる。 鎌倉幕府3代執権の北条泰時が中心になって定めた。51か条にまとめられている。 【参考】今の民法162条には、「他人の物を20年間所有した場合は、所有権を認める」という内容があるが、これは御成敗式目の8条「20年間、武士が実際に支配した土地は、その土地についての権利を認める。」という内容を参考にしている。 【参考】十七条の憲法を3倍にしたので、御成敗式目は51か条になっていると言われている。 登場するページ小学6年歴史「鎌倉幕府のその後」 |
古墳 | 古代(むかし)のお墓。土を高く盛り上げて作っている。身分の高い人や、権力を持っている人のお墓として作られた。 日本最大の古墳は、大阪府にある仁徳天皇のお墓である「大山古墳」 登場するページ→小学6年歴史「古墳時代」 |
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