さくいん

分からないコトバもすぐに分かる!歴史で出てくる用語をひとつひとつ簡単な言葉で解説!索引「は~ほ」

yumineko
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「は」で始まる用語

廃藩置県はいはんちけん
白村江はくそんこうたたか (「はくすきのえのたたかい」ともいう)。660年に、中国のが朝鮮半島の「百済くだら」をほろぼすと、百済と同盟を結んでいた日本()が、663年に百済を復活させようと朝鮮半島に兵を出した。
朝鮮半島の白村江で、日本軍は、とう新羅しんらの連合軍とたたかい、このたたかいを白村江の戦いという。
日本軍は27000の兵士を送ったが、唐と新羅の連合軍に負けてしまった。
中大兄皇子なかのおおえのおうじは、唐が日本を攻めてきたときに備えて、山城やまじろ水城みずき、九州に防人さきもりと呼ばれる兵士を置いた。
登場するページ→中学歴史「大化改新」
幕藩体制ばくはんたいせい
幕府ばくふ 鎌倉幕府室町幕府など、「征夷大将軍」などの武家(武士)がトップになって動かす武家による政権のこと。
【鎌倉幕府】
神奈川県の鎌倉に、源頼朝がひらいた。
【室町幕府】
京都に、足利尊氏がひらいた。
【江戸幕府】
江戸に徳川家康がひらいた。
白鳳文化
(はくほうぶんか)
バスコ=ダ=ガマ
箸墓古墳はしはかこふん 奈良県の桜井市にある古墳。3世紀半ばごろの古墳。
孝霊天皇こうれいてんのうの皇女である倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことのお墓。倭迹迹日百襲姫命には神様のお告げを聞く力や、予知する力があったと日本書紀にほんしょきに書かれている。さらに、箸墓古墳の大きさは、魏志倭人伝ぎしわじんでんに書かれている卑弥呼ひみこの墓の大きさとも同じくらいなので、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼のことだったのではないかと考える説もある。
旗本
(はたもと)
八・一宣言
(はちいちせんげん)
バテレン追放令
(ばてれんついほうれい)
はにわ 古墳の頂上や、古墳の周りに並べて置かれる素焼き(粘土に「うわぐすり」などかけずに、そのまま焼いたもの)の土器。
人の形、動物の形、家の形、器の形など色々ある。
①それまでは、偉い人が亡くなった時に一緒に家来も墓に生きたまま入れられてしまうことがあったが、代わりに人の形をした「はにわ」を置くようになった②亡くなった人の魂をなぐさめるためなどの理由があると言われている。
浜北人はまきたじん 日本で見つかった更新世のころの人の化石。1960年〜1962年に、静岡県の浜北市で見つかった。20代くらいの女性の頭の骨・鎖骨・上腕の骨などが見つかっている。骨は14000〜18000年前の旧石器時代のものと推定されている。骨の形から、新人だったことが分かっている。
登場するページ→高校歴史「更新世
浜口雄幸
(はまぐちおさち)
原敬
(はらたかし)
ハリス
バルカン半島
(ばるかんはんとう)
半済例
(はんぜいれい)
室町時代の1352年、足利尊氏が発したルール。
近江(おうみ)・美濃(みの)・尾張(おわり)の3国の本所領(ほんじょりょう:寺や神社、武士が持っている土地以外の「公家領(くげりょう)」のこと。天皇家の土地や、国の土地。)で、1年だけ「年貢の半分」をその国の守護(しゅご)が集めて、軍の費用にしても良いという内容。
その後、対象になる国も広がって、常にあるルールになっていった(つまり、期限がなくなった)。さらに内容も、「本所領の年貢の半分」ではなく、その土地そのものの半分を守護が支配してもよいようになった。
版籍奉還
(はんせきほうかん)
班田収授法はんでんしゅうじゅほう 「はんでんしゅうじゅのほう」とも言う。
飛鳥時代の終わりから、平安時代の初めのほうに行われた制度せいど
飛鳥時代に起きた大化改新たいかのかいしんにより、新しい政治のやり方が646年に「改新かいしんみことのり」で発表されて、班田収授法はその中の3条の定められてる。
「民には田を与える」ということが決められた。
戸籍こせき(誰がどこに住んでいるかを記録きろくしたもの)をもとに、6歳以上の男女の貴族や民に田が与えられ、その田で米をつくり、税として国へおさめる義務ぎむが与えられた(口分田くぶんでんという)。
口分田くぶんでんは、売ったり買ったりすることはできず、死ぬまでたがやし続けなくてはならない。
死亡した場合は、田は国へ返された。
6年ごとに班給はんきゅう(分け与えられること)された。(6年1班)
班給される年のことを「班年はんねん」という。
死亡したものの田は、班年に回収する。
分け与えられる田の大きさは、身分や男女で変わり、良民(一般の人または、朝廷に仕えている賎民)の男性には2たん(約24a)、女性には1段120(約16a)。賎民の男性には240歩、女性には160歩。※1段は360。1歩は3.3㎡ 賎民の男性は「」、賎民の女性は「」と呼ばれる。
収める租税そぜい(税として収める稲のこと)は、1段につき2そく2。(1束は10把)。1段で獲れる稲は約72束なので、税率は3%。
ハンムラビ法典
(はんむらびほうてん)
万里の長城
(ばんりのちょうじょう)

「ひ」で始まる用語

樋口一葉ひぐちいちよう
人質ひとじち 戦国時代せんごくじだい、自分の国を守ったり、他の国を攻めたりするために 国同士で同盟どうめいを結ぶことがあった。
その時、「約束を守る」というしるしに、男の子を相手の国へ送っていた。(もしも約束を破れば、その男の子は殺されてしまう)
これを人質と呼んでいた。
徳川家康とくがわいえやす(当時は松平竹千代まつだいらたけちよという名前だった)は、6歳の時に今川義元いまがわよしもとの人質になっている。
ヒトラー
火縄銃ひなわじゅう 鉄砲てっぽうともいう。1543年に、種子島たねがしま(鹿児島県)にポルトガル人によって伝えられた武器。
ポルトガル人を乗せた貿易船ぼうえきせんが嵐によって種子島に流れ着き、島の領主りょうしゅ(その国を支配している人のこと)だった種子島時尭たねがしまときたかがポルトガル人の持っていた鉄砲に目をつけたのがきっかけ。
種子島時尭はポルトガル人から2ちょうの鉄砲を買うと、刀鍛冶かたなかじ(刀を作る職業の人のこと)に同じものを作るように命じた。鉄砲の作り方はどんどん広がり、さかい(大阪府)や国友くにとも(滋賀県)などで沢山作られるようになった。
戦国時代では、鉄砲が戦いに使われるようになった。
特に織田信長おだのぶながは鉄砲をうまく使って戦に勝ったことで有名。
長篠ながしのの戦いでは、3000丁の鉄砲を使ったと言われている。
【その頃の鉄砲の仕組み】長さ80㎝の鉄の筒。
①中に火薬となまりたまを入れ、柵状さくじょうで突き固める
火蓋ひぶたを開けて火皿ひざら点火薬てんかやくを盛り、火蓋を閉じて火のついた縄を火挟ひばさみにセットする。
目当めあてで狙いを定めたら、火蓋を開けて引き金を引くと弾が飛び出す。
卑弥呼
(ひみこ)
弥生時代の日本にあったと言われる「邪馬台国(やまたいこく)」をまとめる女王。中国の魏志倭人伝に書かれている。日本に記録はないので、邪馬台国の場所や卑弥呼の正体などはナゾ。
「卜術(ぼくじゅつ)」という占いが得意で、人々の信頼を得ていた。
中国の魏(ぎ)に使いを送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印銅鏡などを受け取った。
登場するページ→小学6年歴史「弥生時代」、中学歴史「邪馬台国」、資料「魏志倭人伝」、歴史人物図鑑「卑弥呼」
姫路城
(ひめじじょう)
百姓一揆
(ひゃくしょういっき)
百錬抄
(ひゃくれんしょう)
公家の日記など、色々記録したものを抜粋(ばっすい:抜き出すこと)したり、編集したりして作られた歴史書のこと。鎌倉時代後期の13世紀末ころに完成したと考えられている。編集した人物は不明。
名前は、唐の「百錬鏡」が由来になっていると考えられている。
後三条天皇が行った「延久の荘園整理令」のことも、この百錬抄に書かれている。
書かれている内容は、冷泉天皇から亀山天皇の時期。
平等院鳳凰堂
(びょうどういんほうおうどう)
京都府宇治市宇治蓮華(れんげ)にある藤原氏と縁のある寺院。もとは藤原道長の別荘「宇治殿(うじどの)」を息子の頼通(よりみち)が寺にあらためた。
本尊は阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう・両手で印を結んでいる阿弥陀如来像のこと)。
鳳凰堂、阿弥陀如来坐像は国宝。古都京都の文化財を構成するものとして、世界遺産に認定されている。
平塚らいてう
(ひらつからいちょう)
琵琶法師
(びわほうし)
平安時代中期からいた「琵琶(びわ:東アジアの弦楽器のひとつ)を町中で弾く盲目(もうもく:目が不自由なこと)の僧のこと。
平家のことを記録した「平家物語(へいけものがたり)」は琵琶法師によって歌として語り継がれて、文字を読むことができない人々の間でも親しまれていた。
貧窮問答歌
(ひんきゅうもんどうか)
「びんぐうもんどうか」とも言う。
奈良時代はじめごろの歌人(歌を詠む人)の上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ和歌。
奈良時代に、税に苦しむ民のヒサンな生活ぶりや、その民のところに税を取り立てに来る里長(さとおさ:税を取り立てる役の人のこと)の厳しい様子を歌っている。
実際の歌の内容や、意味をここで説明しているよ!→小学6年歴史「奈良時代(前編)」

「ふ」で始まる用語

福沢諭吉ふくざわゆきち 慶應義塾けいおうぎじゅく(現在の慶應義塾大学)の創設者。慶應義塾大学の前身である「一小家塾いちしょうかじゅく」で教えていた。1835年大阪に生まれ、緒方洪庵おがたこうあんのもとで蘭学らんがくを学んだ。
1860年に咸臨丸かんりんまるに乗船してアメリカへ渡る。この経験をもとに「西洋事情」を刊行した。近代民主主義国家みんしゅしゅぎこっかの国民としてどうあるべきかを書いた「学問のすゝめすすめ」がベストセラーになっている。
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」は有名な一文。
ただし、「人は皆平等」というだけの意味に誤解されてしまいがちだが、その後には「人は生まれつきは平等で、学問にはげんだか励まなかったかで変わる」という内容が続いている。
つまり、生まれながらに「お金持ちかそうじゃないか」や「身分が高いか低いか」などが決まるべきではなく、努力し、学問に励んだものが裕福ゆうふくになり、よい職業につくべきという考え。
「明治六大教育家」の1人として数えられる。
昭和59年11月1日発行分の1万円札から表面には福沢諭吉の肖像しょうぞうが使われている。
武家諸法度ぶけしょはっと
武士
(ぶし)
10世紀から19世紀にかけて日本に存在した。
もとは領地(りょうち:自分の土地のこと)を守るために、豪族(ごうぞく)などが武装(ぶそう:武器をもつこと)したのが始まりと言われている。
「自分の土地を命懸けで守る」ということから、「一所懸命(いっしょめんめい)」という言葉が生まれたと言われている。
平安時代に2大勢力(特に強かった2つの一族)の平氏源氏のうち、源氏の源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍となり、鎌倉に武士による政権を新しくつくり、日本ではじめての武士による政権が始まった。(いわゆる鎌倉幕府:かまくらばくふ)
それ以降、大政奉還(たいせいほうかん)で天皇(朝廷)に政権を返すまで、武士が政権を握っていた。
藤原氏
(ふじわらし)
藤原鎌足
(ふじわらのかまたり)
もとは中臣鎌足(なかとみのかまたり)という名前だった。
中臣氏は、飛鳥時代の有力な豪族の一族。
中臣鎌足は政治についての勉強にとても熱心な人で、このころ朝廷
力を持ちすぎていた蘇我氏一族のやりたい放題さが許せず、同じく蘇我氏のやり過ぎを許せず、天皇中心の政治を行おうとしていた中大兄皇子に協力して蘇我入鹿を倒した。
この入鹿を倒した事件を「乙巳の変(いっしのへん)」という。
これをきっかけに蘇我氏の本家は滅び、年号を「大化」と定めて、政治の改革を行った。
このことを「大化改新(たいかのかいしん)」と呼ぶ。
中臣鎌足は中大兄皇子から信頼を受けて、「藤原」という新しい名前をもらった。
藤原氏はその後政治でも重要な役職について、どんどん力を持つようになり、藤原道長のように、平安時代には藤原氏の力はとても強くなる。
登場するページ→6年歴史「大化改新
藤原定家
(ふじわらのさだいえ)
「ふじわらのていか」ともいう。
藤原純友
(ふじわらのすみとも)
藤原仲麻呂ふじわらのなかまろの乱 764年に起こった乱。太政大臣(朝廷の役職の中でトップ。今の総理大臣のイメージ)になった藤原仲麻呂は光明皇后に支持されていたが、光明皇后が亡くなってしまうと孝謙上皇の病気を治した道鏡という僧が権力を持ち始め、仲麻呂と対立するようになった。
そのため藤原仲麻呂が道鏡と孝謙上皇に対して反乱を起こそうとしたが、計画が見つかり敗れた。
藤原不比等
(ふじわらのふひと)
藤原鎌足の息子。
藤原道長ふじわらのみちなが 966年〜1028年
平安時代中期の公卿(くぎょう・国の政治を行う地位にいた人のこと)。太政大臣だじょうだいじん(朝廷のトップ)をつとめた。
中臣鎌足なかとみのかまたりが後の藤原鎌足ふじわらのかまたりとなり、平安時代には藤原氏がとても栄えた。その藤原氏の「北家」の出身。娘を次々と天皇のきさきにすることに成功して、「一家立三后」と人々を驚かせた。(さらにもう1人の娘も、親王と結婚させている)
後一条天皇ごいちじょうてんのう後朱雀天皇ごすざくてんのう後冷泉天皇ごれいぜいてんのう外祖父がいそふ(母方のおじいさんのこと)。
娘の彰子しょうしが一条天皇の后になると、女房にょうぼう紫式部むらさきしきぶつかえ、「源氏物語げんじものがたり」を書き上げた。源氏物語の主人公「光源氏ひかるげんじ」のモデルは道長であるという説もある。
荘園しょうえんをたくさん持ち財産をきずいて、政治では摂政せっしょうとなり、「俺の人生カンペキすぎ」と歌をんだと言われている。
「この世をば 我がよとぞ思う望月の かけたることもなしと思えば」は有名。

今で言うチーズに蜂蜜をかけたものが大好きで、亡くなった原因は糖尿病だったという説もある。
法成寺ほうじょうじを建てて住んでいた。亡くなるときは、法成寺の阿弥陀如来あみだにょらいの手から自分の手まで糸をひき、僧侶たちに読経どっきょうさせながら道長も念仏ねんぶつを唱えながら亡くなったと言われいている。
道長の別荘「宇治殿うじどの」は、息子の頼通よりみち(よりみち)によって寺とされ、平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどうのもとになった。
登場するページ→小学6年歴史「平安時代」
普通選挙法
(ふつうせんきょほう)
仏教
(ぶっきょう)
世界宗教(世界的に信じられている宗教)のひとつ。2500年ほど前に、インドの「釈迦」という人物が始めた。538年ごろ、中国と朝鮮をとおして日本へも伝わった。
日本には神道(神様を信じること)があったので、仏教を信じることに反対するものもいたが、聖徳太子聖武天皇は仏教に賛成していた。
フビライ=ハン 「元(げん)」の初代の皇帝。モンゴル帝国をつくった「チンギスハン」の孫。
モンゴル帝国は、ユーラシア大陸のたくさんの国を支配して、「世界の4分の1」が支配されていたと言われている。
中国、朝鮮半島、東南アジアまで征服し、日本にも2回攻めてきた。(文永の役:ぶんえいのえき、弘安の役:こうあんのえき)
2度とも暴風雨のおかげで日本は元を追い返すことができた。(最近では、幕府の御家人たちが頑張ったおかげとも言われている)
しかし元を追い返したものの、御家人御恩(ごおん)として与える土地が手に入ったわけではなかったので、これをきっかけに幕府と御家人の結びつきが弱くなり、鎌倉幕府は倒されてしまった。
登場するページ→小学6年歴史「元との戦い」「元との戦い」
富本銭
(ふほんせん)
683年ごろに日本で作られていたと言われている銭貨(せんか:硬貨のこと)のこと。銅でできていて、約2.5センチの円形で、中央に1辺が6ミリの正方形の穴が空いている。
表面に「富夲」と書かれている。(夲は、本の異体字)。異体字(いたいじ)とは、形は違うけれど、読み方も意味も同じ字のこと。
実際にお金として使われていたのか、ただの「おまじない用」だったのか、説が分かれている。
踏絵
(ふみえ)
キリスト教を禁止していた江戸時代に、キリスト教を信じている人を見つけ出すために使った絵のこと。
踏み絵には、イエス・キリストや聖母マリアが描かれていて、それを「踏むことができるかどうか」で信者かどうか見分けていた。
フランシスコ=ザビエル
文永の役
(ぶんえいのえき)
1274年にが日本を制覇しようと1度目に攻めてきたときのこと。文永11年のことなので、文永の役と呼ぶ。2度目に攻めてきたことは「弘安の役(こうあんのえき)」と呼ぶ。
分国法
(ぶんこくほう)
文明開化
(ぶんめいかいか)

「へ」で始まる用語

平安京
(へいあんきょう)
平家物語
(へいけものがたり)
作者は色々な説がある。徒然草(つれづれぐさ)には、作者は「信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)」だと書かれている。
平家(平氏)がどんどん力をつけていった様子と、力を失って滅びるまでを書いた物語。
「祇園精舎の鐘の声(ぎおんしょうじゃのかねのこえ)」という始まりは有名。
壇ノ浦の戦いで那須与一が扇に矢を当てた話や、安徳天皇が海へ身投げしたことなども平家物語に書かれている。
琵琶法師(びわほうし)が、平家物語を歌にして語り継いだため、文字を読めない人々にも親しまれた。
平氏
(へいし)
平治の乱
(へいじのらん)
平城京
(へいじょうきょう)
北京原人
(ぺきんげんじん)
ベトナム戦争
(べとなむせんそう)
ペリー 日本が鎖国(さこく:他の国との貿易を禁止すること)していた江戸時代に、黒船(くろふね:江戸幕府末期のころ、欧米からやってきた艦隊の呼び名)でやってきて「開港(かいこう:貿易をするために港を開くこと)」しなさいと要求した人物。
ベルサイユ条約
(べるさいゆじょうやく)
ベルリンの壁
(べるりんのかべ)

「ほ」で始まる用語

 

封建制度
(ほうけんせいど)
保元の乱
(ほうげんのらん)
1156年に、天皇の座を争って「後白河天皇(ごしらかわてんのう)」と「崇徳上皇(すとくじょうこう)」が対立した戦いのこと。
保元元年に起こった戦いのいなので、「保元の乱」という。
後白河天皇には平清盛(たいらのきよもり)源義朝(みなもとのよしとも)が協力していた。
勝利したのは後白河天皇チームで、この時活躍した平氏が朝廷で出世していった。
奉公
(ほうこう)
奉公集ほうこうしゅう 室町幕府では、各地に守護しゅごをおいていたが、守護が力をつけすぎるようになり、将軍の足利義満あしかがよしみつは、各国の守護の一族や有力な国人こくじん(日本各国の、その国に住む人々のこと)たちを自分の直接の家来けらいにして、「将軍を守る強い軍勢ぐんぜい(軍隊のようなイメージ)」を作った。これを奉公集と呼ぶ。
北条氏
(ほうじょうし)
北条早雲
(ほうじょうそううん)
北条時宗
(ほうじょうときむね)
鎌倉幕府の代8代執権。元が日本を支配しようと使いを送ってきたが、断った。
1度目の元寇の後のお使いは、切り捨ててしまうなどした。
北条政子
(ほうじょうまさこ)
伊豆にながされた源頼朝を見張る役だった北条時政の娘。
源頼朝と結婚する。
頼朝の死後、息子もみな亡くなってしまうと、幼い将軍に変わって幕府の政治の中心として動いた。
頼朝の死後「尼」になっていたので、「尼将軍」と呼ばれた。
承久の乱では、御家人をまとめるために演説を行って活躍した。
北条泰時
(ほうじょうやすとき)
鎌倉幕府の代3代執権。初めての武士の法律「御成敗式目」を作った。
北条義時
(ほうじょうよしとき)
法然
(ほうねん)
法隆寺
(ほうりゅうじ)
奈良県生駒郡斑鳩町にある。「斑鳩(いかるが)寺」ともいわれる。
聖徳太子ゆかり(縁があるということ)のお寺。世界遺産に登録されている。
607年ごろに創建(そうけん:建てられること)されたと言われている。
「日本書紀」には、670年に全焼(火事ですべて焼けてしまうこと)したと書かれている。
中門(ちゅうもん)、金堂(こんどう)、歩廊(ほろう)、五重塔(ごじゅうのとう)などは世界で一番古い木造建築物(木で作られた建物ということ)。
中門の柱はギリシャのパルテノン神殿と同じデザインで影響を受けているなど、「飛鳥文化(あすかぶんか)」の特徴がある。
登場するページ→中学歴史「飛鳥時代」
防塁
(ぼうるい)
が日本へ攻めてきたことをキッカケに、また元が攻めてきても上陸できないように博多湾に作った石垣。
20キロに渡って2.5メートルの高さまで石を積み上げた。
「石塁(せきるい)」とも呼ぶ。
鎌倉幕府の命令で御家人に割り当てて作らせた。
登場するページ→小学6年歴史「元との戦い」
戊辰戦争
(ぼしんせんそう)
ポツダム宣言
(ぽつだむせんげん)
北方領土
(ほっぽうりょうど)
ポーツマス条約
(ぽーつますじょうやく)
本能寺の変
(ほんのうじのへん)

 

ABOUT ME
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2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。 志望校にトップ10位内で合格を果たす。 勉強をみるにあたって感じたのは、教科書の説明には子供には分かりづらい部分が多く、子供にイメージしやすく噛み砕いて説明するのがとても有効だということ。 同じように教科書の内容が分かりづらいと感じている子供たちの ヒントになれば、との思いで「教科書を分かりやすく通訳するサイト」創設。

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