歴代天皇一覧(エピソードと人物像)まとめ
日本の歴代天皇を一覧にまとめました。それぞれの天皇が何をしたのか、どんな事件があったのかなど、こどもにも分かりやすい言葉で特徴やエピソードも紹介しています。
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目次【本記事の内容】
- 1.神話の世界で語られている天皇
- 2.第16代〜代50代の天皇
- 3.第51代〜100代の天皇
- 4.南北朝時代の天皇
- 5.第101代〜今上天皇まで
- 6.天皇にまつわる豆知識
神話の世界で語られている天皇
第1代から第15代までの天皇は、日本で1番古い歴史書の「古事記」の神話の中に登場する天皇なんだ。
神話に書かれている天皇は、「本当に存在したのかどうか」がよく分からなかったり、計算すると102年間も在位(天皇の位についていたということ)したことになったり、150歳を超えた天皇がいたことになってしまうなど、疑わしいところも多いと考えられているよ。
代 | 名称 | 在位期間 | エピソード |
1 | 神武天皇 | 紀元前660〜585 | 日本神話で語られている伝説上の天皇。九州の高千穂から、日本全体をまとめるために本州の大和へ向かって、初めて天皇に即位し、日本を作ったと言われている。 「日本書紀」、「古事記」では、「「天照大神」の息子である「邇邇芸命」の孫といわれている。 鸕鷀草葺不合尊の御子のひとり。 神武天皇が即位したとされている2月11日は、日本の建国記念日になっている。 |
2 | 綏靖天皇 | 紀元前581〜549 | 神武天皇の第三子。食人の趣味があったという言い伝えがある。 |
3 | 安寧天皇 | 紀元前549〜511 | 綏靖天皇の皇子。生まれたときに朝日が輝いたという言い伝えがある。 |
4 | 懿徳天皇 | 紀元前510〜477 | 安寧天皇の第二皇子 |
5 | 孝昭天皇 | 紀元前475〜393 | 遣隋使をつとめた小野妹子は孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命の子孫。 |
6 | 孝安天皇 | 紀元前392〜291 | 孝昭天皇の第二皇子 |
7 | 孝霊天皇 | 紀元前290〜215 | 孝霊天皇の姫皇子である倭迹迹日百襲姫命が、卑弥呼ではないかと考える説がある。 |
8 | 孝元天皇 | 紀元前214〜158 | 孝霊天皇の皇子。 |
9 | 開化天皇 | 紀元前158〜98 | 孝元天皇の第二皇子。 |
10 | 崇神天皇 | 紀元前97〜30 | 開化天皇の第二皇子。疫病が流行った時に、崇神天皇が大物主神を祀ったことで治ったと言われている。孝元天皇の皇子である武(竹)埴安彦の反乱をおさえて、四道将軍を日本各地に派遣した。 任那から朝貢(土産を持って挨拶にくること)を受けたと言われている。奈良県天理市に前方後円墳がある。 実際には、3世紀後半ごろの大王という考え方もある。 |
11 | 垂仁天皇 | 紀元前29〜紀元後70 | 崇神天皇の第三皇子。 |
12 | 景行天皇 | 71〜130 | 垂仁天皇の第三皇子。 |
13 | 成務天皇 | 131〜190 | 景行天皇の第四皇子。諸国に国造と稲城を置いて、国境を定めたと言われている。 |
14 | 仲哀天皇 | 192〜200 | 神功皇后と一緒に、熊曾の反乱を治めようとした。海の神からの「熊曾の背後にいる朝鮮を倒せ」というお告げがあったが、それに従わなかったため急に亡くなったと言われている。 |
15 | 応神天皇 | 270〜310 | 仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた御子。 |
第16代〜第50代の天皇
代 | 名称 | 在位期間 | エピソード |
16 | 仁徳天皇 | 313〜399 | 日本最大の前方後円墳である大山古墳は仁徳天皇の古墳と考えられている。 難波(現代の大阪市のあたり)に宮を作り、洪水を防ぐための堤を作ったり、水の流れを良くしたり人々のためになる政治をした。 高い山から人々の家を見下ろした時、「食事を作るための煙が見えない」ことから、人々が食べられないくらい貧しいと考え、「これから3年間は税を納めなくて良い」と決めた。 天皇自身も節約し、人々の生活も豊かになった。 このように仁徳天皇の時代を讃えて「聖帝の世」と呼ばれる。 |
17 | 履中天皇 | 400〜405 | 仁徳天皇の第一皇子。 |
18 | 反正天皇 | 406〜410 | 仁徳天皇の第三皇子。 |
19 | 允恭天皇 | 412〜453 | 仁徳天皇の第四皇子。乱れた氏姓の改革を行った。 |
20 | 安康天皇 | 453〜456 | 目弱御子に殺されたと言われている。 |
21 | 雄略天皇 | 456〜479 | 安康天皇の弟皇子。中国の歴史書に書かれている「倭の五王」のうちの、「武」と考えられている天皇。478年に中国の宋に手紙を送った。埼玉県の古墳から出土した鉄剣に刻まれていた「ワカタケル大王」は雄略天皇と考えられている。兄である安康天皇を殺した目弱御子を攻め滅ぼしたと言われている。 |
22 | 清寧天皇 | 480〜484 | 雄略天皇の第三皇子。后妃をとらなかったため、子供はいない。 |
23 | 顕宗天皇 | 485〜487 | 履中天皇の第三子。子供はいなかった。 |
24 | 仁賢天皇 | 488〜498 | 履中天皇の孫。 |
25 | 武烈天皇 | 498〜506 | 仁賢天皇の皇子。日本書紀によると、悪逆非道な行いがあったとされている。 |
26 | 継体天皇 | 507〜531 | 事実上(実際に)現在の天皇の祖先となる天皇。 |
27 | 安閑天皇 | 531〜535 | 継体天皇の皇子。66歳で即位して、4年で崩御(亡くなること)した。 即位していた時の政治のことが「安閑記」に書かれている。 関東から九州まで屯倉(大和政権が管理する倉庫のこと。大和政権が管理している土地であるという意味もある。)をたくさん建てたと書かれている。 |
28 | 宣化天皇 | 535〜539 (古墳時代) |
継体天皇の皇子。 先代(ひとつ前の天皇のこと)の安閑天皇には皇子がいなかったので、異母弟(お母さんの違う兄弟のこと)の宣化天皇が69歳で即位した。 この宣化天皇が即位した時に大臣になったのが蘇我稲目。 任那(朝鮮半島にあった大和政権の拠点)が新羅(敵対していた国)に攻められたときに援軍(味方を助けるための軍隊)を送った。 |
29 | 欽明天皇 | 539〜571 (古墳時代) |
継体天皇の皇子。 蘇我稲目は、自分の娘を欽明天皇の后にした。生まれた皇子は用明天皇になり、さらに生まれた皇女は推古天皇になった。 552年に友好国(仲良くしている国)の百済から仏像が伝わると、蘇我氏と物部氏が「仏教を受け入れるかどうか」でケンカ。 欽明天皇は蘇我氏の「仏教を受け入れる」を認めたが、翌年に疫病がはやり、物部氏が「仏教を受け入れたのが原因」と責めた。 そのため次代の敏達天皇の時には寺は燃やされ、仏像は捨てられてしまい、しばらく仏教は普及(世の中に広まること)しなかった。 571年に病気で死亡。「新羅(敵対していた国)を倒して、任那(朝鮮半島にあった大和政権の拠点)をもう一度栄えさせてほしい」と言い残したとのこと。 |
30 | 敏達天皇 | 572〜585 (飛鳥時代) |
欽明天皇の皇子。 大臣は物部守屋、さらに蘇我馬子も大臣になった。 敏達天皇は仏教反対派だったので、蘇我馬子が寺を建てて仏像を祭った時に疫病が発生すると、「疫病が流行ったのは仏教を受け入れたから」という物部氏の意見を受けて、585年(と言われている)に寺と仏像を燃やし、仏教を禁止した。 その年に、病気が悪化して崩御した。 皇子はいなかったので、異母弟の用明天皇が即位した。 |
31 | 用明天皇 | 585〜587 (飛鳥時代) |
欽明天皇の第四皇子。 聖徳太子(厩戸皇子)のおとうさん。 蘇我稲目の孫。仏教賛成派。 即位して2年で病気で亡くなってしまった。用明天皇のために聖徳太子は法隆寺を建てた。 大臣は物部守屋と蘇我馬子。 |
32 | 崇峻天皇 | 587〜592 (飛鳥時代) |
欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の娘。(敏達天皇・用明天皇・推古天皇とは異母兄弟) 力を持ちすぎた蘇我氏が、やりたい放題になって「天皇さえも暗殺してしまった」と学習したけど、それは崇峻天皇のこと。 蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したと言われている。 崇峻天皇は、自分よりも政治の権力を握っていた蘇我馬子のことが気に入らなかったため、592年に猪を献上(もらった)されたときに、「この猪の首を切るように、あいつの首を切りたい」と言った。 それを聞いた蘇我馬子は、自分が崇峻天皇に嫌われていると考え、暗殺した。 天皇に仕えていた人間が天皇を殺害したことがハッキリしているのは、この例だけ。 |
33 | 推古天皇 | 592〜628 | 初めての女性天皇。弟皇子の崇峻天皇が暗殺されてしまった危機を救うために、朝廷の人々から求められて天皇に即位した欽明天皇の皇女。蘇我馬子の姪で、聖徳太子の叔母さん。聖徳太子は推古天皇の摂政をした。 遣隋使として随へ行った小野妹子は、隋の皇帝である煬帝からの返事をなくしてしまったために流刑になるところを、推古天皇の許しで免れた。 75歳で崩御。 |
34 | 舒明天皇 | 629〜641 | 敏達天皇の皇子の皇子、つまり孫。(お父さんは天皇にはなっていない。)先代の推古天皇は次の天皇を誰にするか決めずに亡くなったため、蘇我蝦夷が舒明天皇を天皇にした。(理由は諸説あり) 皇居は飛鳥(明日香とも)の岡本宮。 舒明天皇が詠んだ歌が万葉集に収録されている。 「夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも」 意味:いつも夕方になると小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。もう寝てしまったらしい。 |
35 | 皇極天皇 | 642〜645 | 女性の天皇。舒明天皇のお后さまで、天智天皇の母。孝徳天皇に譲位(天皇の位を譲ること)した初めての天皇。 |
36 | 孝徳天皇 | 645〜654 | 敏達天皇の孫。 |
37 | 斉明天皇 | 655〜661 | 孝徳天皇が亡くなってしまったので、皇極天皇がもう一度天皇をして(重祚というよ)、斉明天皇となったよ。 唐・新羅がタッグを組んで百済を滅ぼしてしまった時,百済から復活するために助けてほしいというお願いが日本にきて、斉明天皇は百済を助けるために出兵する決断をしたよ。 でも、百済に助けにいく途中に九州で亡くなってしまった。 斉明天皇が亡くなってしまうと、皇子の中大兄皇子はすぐには天皇にならなかったので、しばらくの間天皇がいない時期(7年間)があった。 |
38 | 天智天皇 | 668〜671 | 中大兄皇子が天皇に即位したのが天智天皇。 舒明天皇と皇極天皇の第一皇子。 力を持ちすぎた豪族の蘇我入鹿をやっつけた。(乙巳の変)、天皇中心の国づくりをするために政治のやり方を新しくした(大化改新)。 斉明天皇が亡くなってしまうと、そのあとを継いで、日本は百済を助けるために戦った(白村江の戦い)。 しかし唐に惨敗してしまって、唐からさらに攻められることを恐れた中大兄皇子は都をもっと内陸の大津近江へ移し、水城や山城を築いた。 百済に惨敗してしまった上、このことが人々に重い負担をかけることになってしまったため、中大兄皇子に反感をもつものも多かった。 白村江の戦いの後処理が終わると、即位して天智天皇になった。 670年には、「土地と民はすべて国のものにする」ために、日本初の戸籍である「庚午年籍」を作った。 天智天皇ははじめは弟皇子の大海人皇子に天皇を譲る予定として重要な役職を与えていたが、突然、自分の皇子を代わりに役職につけてしまう。 空気を読んだ大海人皇子は、「天皇の座を争うつもりはない」と吉野へ移る。 しかし、天智天皇が亡くなると、天智天皇の皇子と大海人皇子は天皇の座をめぐって戦い、大海人皇子が勝利。天皇に即位することになった。 天智天皇の弟皇子は、天武天皇。 登場するページ→小学6年歴史「大化の改新」 万葉集には天智天皇の4つの歌が載っている。百人一首には「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」という歌が収められている。 皇子時代の660年に日本で初めて水時計(漏刻)を作った。 671年には、鐘鼓(鐘と太鼓のこと)を打って時間を知らせる、いわゆる「時報」を始めたといわれている。 |
39 | 弘文天皇 | 671〜672 | 天智天皇の第一皇子。大友皇子とも呼ばれる。日本史上初の太政大臣(朝廷のトップ)。天智天皇が亡くなってから、天武天皇との壬申の乱までの間だけの在位(天皇の位につくこと)で、即位の儀式も終わっていなかったことから、歴代天皇として認められなかったが、明治3年に弘文天皇と追号された。壬申の乱では、天武天皇に敗北して自害(自殺すること)している。 弘文天皇が天武天皇に負けてしまった理由としては、父帝の天智天皇が白村江の戦いで人々に反感を買っていたため、大海人皇子に味方する兵が多かったこと、不破という都と東国を結ぶ重要なルートを大海人皇子が塞いでしまって、東国の兵士を呼ぶことができなかったことなどがある。 |
40 | 天武天皇 | 673〜686 | 天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が天皇になったのが天武天皇だよ。 天智天皇が亡くなった時、天智天皇の皇子の「大友皇子」と672年に天皇の座を争って戦った。(壬申の乱:じんしんのらん)。 大海人皇子が大友皇子に勝って、翌年の763年に飛鳥浄御原宮(あすかきよはらのみや)で天皇に即位した。 701年に作られた「大宝律令(たいほうりつりょう)」を作る、と発表した天皇。 天武天皇のころから、「大王」のかわりに「天皇」という称号が使われるようになったと言われているよ。 |
41 | 持統天皇 | 690〜697 | 女性の天皇。天武天皇のお妃さま。 都を藤原京に都を他の土地に移すこと遷都した天皇。 柿本人麻呂などの宮廷歌人を育成した。万葉集と小倉百人一首には、持統天皇の歌がおさめられている。 「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすちょう 天香具山」 意味:もう春が過ぎて、夏がきたらしい。天香具山に、白い衣がほされているのが見える。 |
42 | 文武天皇 | 697〜707 | 701年に大宝律令が規則として決められること制定せいていされた。 |
43 | 元明天皇 | 707〜715 | 都を平城京に都を他の土地に移すこと遷都した天皇。 太安万侶に命令して、日本がどうやって出来たかが書かれている、日本で最も古い歴史の本「古事記」を完成させた。 |
44 | 元正天皇 | 715〜724 | 元明天皇の皇女。日本の女帝として5人目。独身で即位した初めての女帝。 |
45 | 聖武天皇 | 724〜749 | 藤原鎌足の息子、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘の宮古が母。 同じく藤原不比等の娘(異母姉妹)の光明子(こうみょうし)がお妃さま。 皇族以外の女性が皇后になったのは、これが初めて。 聖武天皇と光明子の間に生まれた皇女は、孝謙天皇。 唐の文化や仏教を取り入れることに力を入れた天皇。世の中を平和にし、人々を救おうと東大寺の大仏を作った。聖武天皇が大切にしていた外国の品々は正倉院に保管されている。 登場するページ→6年歴史「奈良時代」「奈良時代」 |
46 | 孝謙天皇 | 749〜758 | 聖武天皇と光明子の皇女。 聖武天皇と光明子の間には、皇子が生まれなかったので、女帝になった。 史上6人目の女帝。天武天皇の系列では最後の天皇。 ずっと独身だった。もちろん子供もいない。 |
47 | 淳仁天皇 | 758〜764 | 764年に起こった藤原仲麻呂の乱のあと、孝謙上皇が淳仁天皇を天皇の位をやめさせること廃位させて淡路(今の兵庫)に閉じ込めた。このことから、淳仁天皇は「淡路廃帝」とも呼ばれる。 その後、孝謙天皇がもう一度即位して称徳天皇になった。 |
48 | 称徳天皇 | 764〜770 | 孝謙天皇がもう一度天皇に即位した天皇。(同じ天皇がもう一度即位することを重祚という。) この後は、109代の明正天皇まで 女帝はいない。 子供がいないまま亡くなるとき、次の天皇は白壁王が指名されたと言われているが、色々説がある。 |
49 | 光仁天皇 | 770〜781 | 天智天皇の孫。称徳天皇が亡くなるとき、称徳天皇(もとは孝謙天皇)にひいきされていて、天皇の座を狙っていた僧の道鏡がもう権力を握ることができないように、藤原百川と藤原永手によって天皇になるよう指名された白壁王が即位して光仁天皇になった。 最高齢の60歳(62歳とも)で即位したと言われている。 称徳天皇のサポートがなくなってしまった道鏡は、下野薬師寺に左遷された。 |
50 | 桓武天皇 | 781〜806 | 光仁天皇の皇子。 道鏡が天皇になろうとするなど、仏教勢力が強くなりすぎていたり、蝦夷(東北の朝廷には支配されたくないと思っていた人々)を支配するのに便利だったり、琵琶湖の近くの方が物を運ぶのに便利だったので、奈良から京都へ都をうつそうと考えて、長岡京へ遷都(都を移すこと)した。 だが、長岡京へ遷都することを良く思わないグループもいて、遷都のサポートをしてくれた藤原種継が暗殺されてしまった。 さらに藤原種継暗殺事件にかかわったとして、捕まった早良親王は弟皇子。 早良親王は無実を訴えて、絶食し、亡くなった。 桓武天皇はその怨念が怖くて平安京へ都を移した。 平安京への遷都の時には、和気清麻呂のアドバイスを受けた。 平氏は桓武天皇の子孫。 |
第51~100代までの天皇
代 | 名称 | 在位期間 | エピソード |
51 | 平城天皇 | 806~809 | 桓武天皇の皇子。 諡号の「平城」は、平城京を愛していた天皇だったことからつけられたと言われている。 平城天皇は、病弱だったため、すぐに弟皇子の嵯峨天皇に天皇の座を譲ってしまった。しかし、それが気に入らなかった平城天皇に寵愛(お気に入りのこと)されていた藤原薬子がまた平城天皇が天皇に戻れるようにしようとした(平城太上天皇の変・または薬子の変と呼ぶ)。しかし失敗してしまい、薬子と、兄の藤原仲成は死んでしまった。これをきっかけに、藤原式家は跡継ぎがいなくなってしまい、滅びてしまった。 |
52 | 嵯峨天皇 | 809~823 | 桓武天皇の皇子。 諡号の「嵯峨」は、お墓が作られた地名。 嵯峨天皇は、薬子の変の時に、平城天皇側に嵯峨天皇の機密事項(重要な情報)が漏れてしまっていたので、それを取り締まるために、情報を守る役所を作り、そのリーダーの蔵人頭という役職を作り、藤原冬嗣を就任させた。 嵯峨天皇は、桓武天皇が行おうとしていた蝦夷の支配を早く終わらせて中央(都)の政治の強化をしようと考え、文室綿麻呂を東北へ派遣して蝦夷の完全制圧(完全に支配すること)することに成功した。 京内の警備や裁判のために検非違使(農民ではない専門の軍事集団)という役職も作った。 さらに、弘仁10年までに出された今までの法律を整理して、今までの法律を修正したものは「格」、今まで出された法律を施行(世の中に実際に出して、効果を発生させること)するときのルールを「式」として、一冊の「弘仁格式」を出した。 キレ者と言われる小野篁に対して、「子子子子子子子子子子子子」を読めるかどうかナゾかけを出したことがある。(答えは「猫の子子猫、獅子の子子獅子」) 登場するページ→歴史人物図鑑「小野妹子」 |
53 | 淳和天皇 | 823~833 | 桓武天皇の皇子。 |
54 | 仁明天皇 | 833~850 | 嵯峨天皇の皇子。 父帝である嵯峨天皇と同じように、藤原氏を登用(人を持ち上げて役職などを与えること)した。そのため、藤原良房(藤原冬嗣の息子)が権力を握った。 |
55 | 文徳天皇 | 850~858 | 藤原良房は娘である明子を入内(結婚させること)させ、文徳天皇を即位させた。 |
56 | 清和天皇 | 858~876 | 文徳天皇と明子の皇子。つまり、藤原良房の孫。9歳という若さで即位。実権(実際の権力)は祖父である藤原良房が握っていた。(摂関政治の始まり) のちに武士として大な力をもつ。鎌倉幕府を開いた源頼朝で有名な源氏は、清和天皇の子孫(清和源氏という)。 |
57 | 陽成天皇 | 876~884 | このころ力を握っていた藤原良房の養子の藤原基経と仲が悪くなり、退位させられた。(表向きには、病気で退位したとされていた)。 |
58 | 光孝天皇 | 884~887 | 仁明天皇の皇子。仁明天皇のころから力を握っていた藤原良房の養子(藤原良房の甥)である藤原基経が即位させた。 光孝天皇は、本当であれば天皇に即位することはできないと考えられていたのに、即位させてもらったのもあって、基経の言うことを聞くしかなかった。 これにより今までは、天皇が子供だったり女性だったときにサポートをする摂政しかなかったのが、天皇が大人でもサポートをする関白が誕生した。(この時はまだ正式に関白に就任したわけではなかった) しかし、光孝天皇は、即位後3年で亡くなってしまう。 |
59 | 宇多天皇 | 887~897 | 光孝天皇の皇子。一度、臣籍降下(皇族を離れて、姓をもらって臣下になること)をした後に即位した。 藤原基経は、宇多天皇の関白に正式に就任した。 基経が亡くなってしまうと、宇多天皇は関白をおくことをやめて、天皇みずから政治を行う「親政」を始めた。 これにともなって、学者である菅原道真を登用し、蔵人頭に抜擢した。 宮中の警備を強くするために、滝口の武者を置いた。 宇多天皇は醍醐天皇に譲位すると、899年に出家して法皇になった。 これが日本史上初の法皇。 |
60 | 醍醐天皇 | 897~930 | 宇多天皇の皇子。摂政や関白をおかず、天皇みずから政治を行う「親政」をおこなった天皇として有名。 父の宇多天皇のころから仕えていた菅原道真は右大臣にまで出世していた。左大臣だった藤原時平(基経の長男)は道真をライバル視して、道真が謀反(天皇にさからうこと)を計画しているというウワサを流した。醍醐天皇はそれを信じて、菅原道真を大宰府へ左遷(出世の反対)させてしまう。 その後、菅原道真が大宰府でなくなってしまうと、清涼殿に雷が落ちるなどして、「菅原道真の怨霊のしわざではないか」と考えられた。 そのショックもあって、醍醐天皇はしばらくして亡くなり、ある物語では醍醐天皇は地獄で宇多天皇と菅原道真にずっと苦しめられていると語られている。※宇多天皇は、菅原道真を大切にするよう醍醐天皇に言っていたのに、それを破ったから怒っているとのこと。 醍醐天皇という諡号(亡くなった天皇につけられる名前)は、縁があった「醍醐寺」からつけられたと言われている。 |
61 | 朱雀天皇 | 930~946 | 醍醐天皇の皇子。それまでの宇多天皇・醍醐天皇までは親政(天皇がみずから政治をすること)だったが藤原時平の弟である藤原忠平を摂政・関白においた。 |
62 | 村上天皇 | 946~967 | 醍醐天皇の皇子。朱雀天皇が摂政・関白をおいたのに対して、村上天皇はまた親政(天皇自ら政治をすること)を行なった。 |
63 | 冷泉天皇 (れいぜいてんのう) |
967~969 | 村上天皇の第二皇子。容姿端麗だったが、気の病を持っており、一日中蹴鞠を続けたという変わった行動も目立っていたと言われている。円融天皇に譲位すると、それ以降、冷泉天皇の血筋と円融天皇の血筋で皇位迭立が行われた。 |
64 | 円融天皇 (えんゆうてんのう) |
969~984 | 冷泉天皇の異母弟。村上天皇の第五皇子。 |
65 | 花山天皇 | 984~986 | 長徳2年(996年)、法皇になっていた花山天皇は藤原伊周の好きな女性のところへ通っている(好きな女性のところへ会いにいくこと)のではないかと誤解され、武士を連れた伊周に襲われた(長徳の変)。袖を矢で射抜かれただけで無事だったが、この事件で藤原伊周は太宰府(現在の福岡県)へ流された。 |
66 | 一条天皇 | 986~1011 | 清少納言が仕えた定子は一条天皇の中宮。紫式部が仕えた彰子も一条天皇の中宮。※中宮は、正式な奥さんのこと。中宮が2人もいたのは異例(一帝ニ后と呼ばれている)。 諡号の「一条」は、譲位後に住んだ「一条院」からつけられたと言われている。 |
67 | 三条天皇 | 1011~1016 | 諡号の「三条」は、譲位後に住んだ「三条院」からつけられたと言われている。 |
68 | 後一条天皇 | 1016~1036 | 諡号の「後一条」は、一条天皇と同じく譲位後に住んだのが「一条院」なので、一条天皇と区別するために「後」がつけられている。 |
69 | 後朱雀天皇 | 1036~1045 | 藤原道長の娘の嬉子がお妃さまになって、生まれた皇子は後冷泉天皇になった。 道長の息子の頼通の娘もお妃さまになったが、皇子は生まれなかった。 三条天皇の皇女の禎子内親王がお妃になって、生まれた皇子は後三条天皇になった。 禎子内親王が頼通と仲が良くなかったので、後三条天皇も頼通とは疎遠(縁がないこと)になった。 そのため、藤原氏の力が弱くなった。 |
70 | 後冷泉天皇 | 1045~1068 | 後朱雀天皇の皇子。藤原道長の息子の頼通(よりみち)の娘である寛子(かんし・ひろこ)がお妃さまになった。 後冷泉天皇と寛子の間には、けっきょく皇子が生まれることはなく、藤原氏の力が弱くなったキッカケのひとつ。 |
71 | 後三条天皇 | 1068~1072 | 藤原氏とは縁の弱い後三条天皇が即位したことが、平安時代にずっと力を持ち続けていた藤原氏の力が弱くなったキッカケ。 それまで寄進系荘園が増えてしまい、税が集められなくなって困っていたところ、東宮時代(皇太子のころのこと)に学士(教育係のこと)をしていた大江匡房の建議(意見のこと)を受けて「延久の荘園整理令」を発令した。 これによって券契(証拠となる文書)のハッキリしない荘園は国のものとされた。こうして、摂関家の荘園のほとんどが国のものとなった。 |
72 | 白河天皇 | 1072~1086 | 退位して、天皇の後ろから政治を動かす「院政」を始めた天皇。 なんと堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の3代の天皇のあいだ院政を行った。 実は、鳥羽天皇の皇子の崇徳天皇は白河天皇の息子であるという話もある。 諡号(天皇が亡くなった後につけられる名前)の「白河」は、天皇が住んだ御所のあった地名。 |
73 | 堀河天皇 | 1086~1107 | 白河天皇天皇の第二王子。 8歳で即位した。 とても上品な性格で、「末代の賢王(お釈迦さまが亡くなって1500年がたち、仏教の教えの効力が無くなってしまう時期に現れた素晴らしいリーダー」という意味。)」と言わる賢帝(かしこくて、正しい判断をする天皇ということ)。学問・和歌・管弦に才能を発揮した。 生まれながらに病弱で、天皇に在位のまま28歳で亡くなった。 |
74 | 鳥羽天皇 | 1107~1123 | 堀河天皇の皇子、けれど、お母さんが産後すぐ亡くなってしまったので、白河天皇に引き取られて育てられた。 鳥羽天皇の皇子の崇徳天皇は、実は白河天皇の息子で「自分(鳥羽天皇)の息子ではない」可能性があったので、崇徳天皇を政治の世界から追い出そうとしたと言われている。 そのため、崇徳天皇を退位させて弟の近衛天皇や後白河天皇を即位させた。 さらに後白河天皇の皇子である二条天皇を即位させようとして、それが崇徳天皇と後白河天皇が争う「保元の乱」のキッカケになったと言われている。 関連するページ→歴史「武士の政治の始まり」 |
75 | 崇徳天皇 | 1123~1141 | 保元の乱で負けてしまって、天皇に逆らった罪として讃岐に流されてしまった天皇。 上皇が流されるのは400年ぶりのことだった。 崇徳天皇が上皇になっていたときに、弟である後白河天皇と天皇の座(正確には、自分の息子を天皇にさせたかった)を争って戦ったのが保元の乱。 保元の乱では、藤原氏、平氏、源氏それぞれが親子や兄弟も入り乱れて戦った。 保元の乱をキッカケに、平氏は政治の力を持つようになった。 鳥羽天皇の皇子だけれど、実は白河天皇の子供という話もあり、そのせいで鳥羽天皇にダマされて政治の世界から追い出されてしまったと言われている。 讃岐で亡くなってしまうと、都では色々不幸なことが起こり、人々は崇徳天皇の呪いだと恐れた。 そのため、「平将門(たいらのまさかど)」「菅原道真(すがわらのみちざね)」に並んで、日本三大怨霊の1人になっている。 関連するページ→歴史「武士の政治の始まり」 |
76 | 近衛天皇 | 1141~1155 | 鳥羽天皇の皇子。生後一ヶ月で異母兄の崇徳天皇の養子になった。3歳の時に鳥羽天皇が崇徳天皇に譲位させて近衛天皇を即位させた。その時、養子だったはずが「崇徳天皇の弟」として即位させたため、崇徳天皇には院政をする権利がなくなってしまった。鳥羽天皇は「自分の息子ではないかもしれない崇徳天皇に院政をさせないためにダマして退位させ、近衛天皇を即位させた」とも言われている。 しかし、近衛天皇は若いころに亡くなってしまう。そこで鳥羽天皇は第4皇子の後白河天皇を即位させる。 さらに次の天皇も、崇徳天皇の息子ではなく後白河天皇の息子を即位させようとしたため、崇徳天皇の不満が一気に爆発し、「後白河天皇vs崇徳天皇」という保元の乱が起きるきっかけとなった。 関連するページ→歴史「武士の政治の始まり」 |
77 | 後白河天皇 | 1155~1158 | 鳥羽天皇の第4皇子。譲位してから34年間も院政を行った。保元の乱では、崇徳上皇と天皇の座を争って戦った。保元の乱で活躍した平清盛を太政大臣にするなどしていたが、力を持ち過ぎた平氏をおさえるために平氏の荘園を没収してしまった。 それに怒った平清盛に幽閉(閉じ込められること)された。 後白河天皇の皇子の以仁王が、平氏を倒そうとして、源氏に「平氏をやっつけろ!」と命令を出した。 この命令が、源義朝を動かして、壇ノ浦の戦いのキッカケになった。 関連するページ→歴史「武士の政治の始まり」 |
78 | 二条天皇 | 1158~1165 | 後白河天皇の皇子。 |
79 | 六条天皇 | 1165~1168 | なんとたったの生後七か月で天皇に即位したよ。歴代で最年少の天皇。 |
80 | 高倉天皇 | 1168~1180 | 後白河天皇の皇子。母は平滋子。 平氏が全盛期だった頃の天皇。 お妃さまは平清盛の娘の平徳子(たいらのとくこ)。 平徳子との間に皇子が生まれ、安徳天皇になった。 |
81 | 安徳天皇 | 1180~1185 | 高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘の徳子。たった1才3か月で天皇に即位した。6歳のころ、壇ノ浦の戦いで平氏が源氏に負けることが確実になると、祖母の平時子に抱えられて神器と一緒に入水して亡くなったと平家物語に書かれている。 |
82 | 後鳥羽天皇 | 1183~1198 | 高倉天皇の第四皇子。源頼朝が亡くなって、後継ぎもいなくなってしまってバタバタな鎌倉幕府を倒そうとした天皇。1221年(承久3年)に起きたその時の反乱のことを「承久の乱」と言う。(※幕府を倒そうとしたというよりも、この時幕府の実権を握っていた北条義時を幕府から追い出そうとしたという説も出てきているよ。) でも負けてしまい、承久の乱のあと、隠岐に流されてしまった。 1239年にそのまま隠岐で亡くなった。 安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したので、2年間が重なっている。 安徳天皇が入水して亡くなるとき、三種の神器の宝剣は海に沈んだまま見つからなかった。そのため、三種の神器が揃わないまま即位することになってしまった。 後鳥羽天皇にとって、「三種の神器」が揃わないままの天皇ということは「コンプレックス」だったと言われている。 「神器が無い」分、なんとか天皇としての力を示そうとして幕府を倒そうとしていたという説もある。 歌の才能があり、小倉百人一首に選ばれている。 「ひともをし ひともうらめし あじきなく よをおもふゆえに ものおもふみは」(人間をいとおしいとも、恨めしいとも思う。この世はつまらないと思うために悩んでしまう私にとっては) |
83 | 土御門天皇 | 1198~1210 | 後鳥羽天皇の第一皇子。後鳥羽上皇が1198年に譲位し、3歳で即位した(政治は、後鳥羽上皇が院政を行った)(占いの結果で即位することになったという話も)。とても優しい性格だったので、「これでは幕府に対抗できない」と考えた後鳥羽上皇は、土御門天皇天皇に退位するようにせまって異母弟(お母さんの違う兄弟)の順徳天皇が即位した。承久の乱では、土御門天皇天皇は何も関係がなかったのに、「後鳥羽天皇が流されてしまったのに、自分が京都にそのままいるのは申し訳ない」と自分から進んで土佐(現在の高知県)に流された(その後、幕府によって、もう少し京都に近い阿波国(現在の徳島)に流された。ちなみに、後鳥羽上皇が承久の乱を計画したときには、土御門天皇は「今はその時ではない」と止めていたと言われている。 37歳で亡くなった。 皇子の後嵯峨天皇は、承久の乱の1年前に生まれていて、土御門天皇が土佐に流されるとお母さん側で育てられ、四条天皇が急に亡くなってしまって天皇に即位するまで苦しい生活をしていたと言われている。 「土御門」の諡号は、京都の内裏の名前。 |
84 | 順徳天皇 | 1210~1221 | 後鳥羽天皇の第三皇子。土御門天皇の異母弟(お母さんが違う兄弟)。やさしい性格の土御門天皇と違って、とてもエネルギッシュで激しい性格だったということで、幕府にも対抗できるのではと後鳥羽上皇の期待された。 そのため後鳥羽上皇は土御門天皇に退位するようにせまって、順徳天皇が14歳のときに即位させた。 後鳥羽上皇が承久の乱を計画すると、後鳥羽上皇以上に倒幕に積極的だったと言われている。 承久の乱に備えて1221年に退位し、皇子の仲恭天皇に譲位した。 承久の乱のあとは、幕府によって佐渡に流されてしまった。 佐渡で21年過ごし、1242年にそのまま亡くなった。 歌の才能があり、小倉百人一首に1首入っている。 「ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なほあまりある むかしなりけり」(昔は栄えていた内裏の屋根には「ノキシノブ(草の名前)」がぶら下がっているくらい落ちぶれてしまった。)醍醐天皇や村上天皇の時代のように、皇室や貴族が栄えていた時代が懐かしい、という思いをこめた歌。 |
85 | 仲恭天皇 | 1221~1221 | 承久の乱がおこったときの天皇 |
86 | 後堀河天皇 | 1221~1232 | 後鳥羽上皇の兄である守貞親王を父とする。乱を起こした後鳥羽上皇の血筋ではない皇子を幕府が即位させるためだったと考えられている。 |
87 | 四条天皇 | 1232~1242 | 後堀河天皇の皇子。1232年に後堀河天皇が譲位したので、2歳で即位した。12歳の時、女房(皇居などで働く女性のこと)を転ばせようと、イタズラで「よく滑る石」を撒いておいたところ、自分が滑ってしまい、頭を打って亡くなってしまったという話は有名。まだ12歳だったので子供がおらず、後堀河天皇の血統はここでストップしてしまう。 代わりに後鳥羽天皇の血統の後嵯峨天皇が即位した。 |
88 | 後嵯峨天皇 | 1242~1246 | 後鳥羽天皇の血統である、土御門天皇の皇子。承久の乱の影響で土御門天皇が土佐に流されてしまうと、お母さん側で育てられたが苦しい生活を送る。四条天皇が亡くなってしまって「誰を次の天皇にするか」となったとき、幕府は「同じ後鳥羽天皇(承久の乱で幕府に反発した天皇)の子孫でも、幕府にあまり反発しなさそうな後嵯峨天皇を即位させた(順徳天皇の血統を避けたということ)。 即位して4年で皇子(後深草天皇)に天皇の座を渡し、院政を始める。 諡号の「後嵯峨」は、「嵯峨天皇」と同じく嵯峨にお墓がつくられたから。 |
89 | 後深草天皇 (ごふかくさてんのう) |
1246~1259 | 後嵯峨天皇の皇子。 4歳で即位し、後嵯峨天皇が院政を行った。 まだ17歳のうちに後嵯峨天皇に「弟に天皇の座を譲るように」と命令され、しぶしぶ退位する。(理由は、弟の方が両親に愛されていたとのこと・・) 後嵯峨天皇はさらに後深草天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子を皇太子に立てて亡くなってしまう。 これ以降、後深草天皇の子孫(持明院統:じみょういんとう)と、亀山天皇の子孫(大覚寺統:だいかくじとう)で天皇の座を争うようになる。 |
90 | 亀山天皇 (かめやまてんのう) |
1259~1274 | 後嵯峨天皇の皇子で、後深草天皇の弟皇子。 後嵯峨天皇の命令で後深草天皇から天皇の座を譲られる。 |
91 | 後宇多天皇 (ごうだてんのう) |
1274~1287 | 後醍醐天皇の父。 |
92 | 伏見天皇 (ふしみてんのう) |
1287~1298 | 日本史上随一の書の腕前を持っていた。書道の伏見院流の祖。書聖とも呼ばれる。多くの直筆文が重要文化財に指定されている。 |
93 | 後伏見天皇 (ごふしみてんのう) |
1298~1301 | 伏見天皇の第一皇子。 |
94 | 後二条天皇 (ごにじょうてんのう) |
1301~1308 | 後宇多天皇の第一皇子。 |
95 | 花園天皇 (はなぞのてんのう) |
1308~1318 | 伏見天皇の第四皇子。光厳天皇を育てた。その時「誡太子書」を書いた。 諡号の「花園」は、御所から。(天皇みずから「花園にして」とも言っていたとのこと。 |
96 | 後醍醐天皇 【南朝】 |
1318~1339 | 大覚寺統の天皇。 後宇多天皇の皇子。 天皇が自分で政治をおこなう「親政(しんせい)」を絶対と考え、院政や摂関政治、幕府を認めない考えをもっていた。 親政をおこなった「醍醐天皇」を尊敬していたので、名前も自ら「後醍醐天皇」とするよう決めた。(加後号:かごごう) 大覚寺統と持明院統で交代に天皇に即位するルールを無視して自分の子孫に天皇を継がせていこうと、幕府を倒す計画を立てる。 1度目は計画がバレて失敗、2度目は戦いに負け、幕府によって隠岐(おき)に流されてしまう。 しかし隠岐から脱出し、1333年にとうとう鎌倉幕府を倒す。 幕府を倒したあとは、建武(けんむ)と定めて、新しい政治を行った。(建武の新政)けれど、公家(くげ)ばかりが重要とされる政治に人々や武士が反感をもった。 幕府を倒す時に後醍醐天皇に味方していた足利尊氏(あしかがたかうじ)が幕府を作るのではないかと疑い、倒そうとする。足利尊氏は京都で新しい天皇を立て、足利軍に負けた後醍醐天皇は奈良の吉野に逃げて、自分こそ本当の天皇と主張した。このため、京都の(北朝)と奈良の(南朝)の2つの朝廷ができてしまった(南北朝時代)。 |
南北朝時代の天皇
後醍醐天皇が三種の神器を持って吉野へ逃げて、「自分こそ正当な天皇だ!」と主張したよ。そのため、ここから朝廷が2つになってしまうんだ。後醍醐天皇の「大覚寺統」を「南朝」と呼び、足利尊氏が即位させた光明天皇の「持明院統」を「北朝」と呼ぶよ。
この時代のことを、「南北朝時代」というんだ。
南朝(大覚寺統)
97 | 後村上天皇 【南朝】 |
1339~1368 | 後醍醐天皇の七男。父の後醍醐天皇の意思をついで、南朝が京都へ戻るために室町幕府軍と戦った(南北朝の内乱) |
98 | 長慶天皇 【南朝】 |
1368~1383 | 北朝と仲直りなんかしない!という考え方だった天皇。 「仲直りした方が良い」と考えた南朝の一部の人が、仲直りに賛成派の弟皇子を即位させようとしたと言われている。 その為、長慶天皇は後亀山天皇に譲位(天皇の位を譲ること)した。 |
99 | 後亀山天皇 【南朝】 |
1383~1392 | 長慶天皇の弟皇子。譲位をうけて、天皇に即位した。 北朝と仲直りした方が良いと考えていた天皇で、足利義満の説得により「明徳の和約」という3つの条件をもとに北朝と合体することになった。 |
100 | 後小松天皇 【北朝】 |
1382~1412 | 持明院統(北朝)の天皇。南北朝が統一されて、後亀山天皇から三種の神器を受け取った。明徳の和約では、統一後は大覚寺統と持明院統で交代に皇位につくことになっていたが、約束は守られることがなく、この先はずっと持明院統(北朝)の天皇が即位する。 |
北朝(持明院統)
1 | 光厳天皇 | 1331~1333 | 後醍醐天皇が元弘の乱をおこし、隠岐へ流されると光厳天皇がたてられた。 |
2 | 光明天皇 | 1336~1348 | 光明天皇が即位したことにより北朝が成立したと考えられているが、光厳天皇は後醍醐天皇によって即位を否定され、北朝の初代天皇として扱われているため、光明天皇は北朝の第二代天皇とされている。 |
3 | 崇光天皇 | 1348~1351 | 光厳天皇の第一皇子。 |
4 | 後光厳天皇 | 1352~1371 | 光厳天皇の第二皇子。 |
5 | 後円融天皇 | 1371~1382 | 後光厳天皇の皇子。足利義満によって南朝との和平が成立し、南北朝は統一された。後小松天皇の父。 |
101~今上天皇まで
代 | 名称 | 在位期間 | エピソード |
101 | 称光天皇 (しょうこうてんのう) |
1412~1428 | 後小松天皇の皇子。生まれながらに病気がちだったと言われている。 |
102 | 後花園天皇 (ごはなぞのてんのう) |
1428~1464 | 本来、皇位を継ぐ立場ではなかったが、称光天皇に子供がないまま崩御したため皇位を継いだ。 |
103 | 後土御門天皇 (ごつちみかどてんのう) |
1464~1500 | 応仁の乱がおこったときの天皇。後花園天皇の皇子。 |
104 | 後柏原天皇 (ごかしわばらてんのう) |
1500~1526 | 後土御門天皇の皇子。応仁の乱の後だったので、朝廷の財政が悪化していたため、即位の礼をあげるまで21年もかかった。天皇の権威が地に落ちていた時代。 |
105 | 後奈良天皇 (ごならてんのう) |
1526~1557 | 後柏原天皇の皇子。やはり朝廷の財政は苦しく、寄付をつのって即位の礼をあげることができた。とても慈悲深い人柄だった。 |
106 | 正親町天皇 (おおぎまちてんのう) |
1557~1586 | やはり朝廷の財政は厳しかったが、織田信長の政策などにより回復した。その分、信長は敵対勢力をおさえるために天皇の権威を用いた。 |
107 | 後陽成天皇 | 1586~1611 | 織田信長の本能寺の変、豊臣秀吉が天下を統一したときの天皇。太政大臣になった秀吉(当時は羽柴秀吉)に「豊臣」の姓を与えた。 |
108 | 後水尾天皇 (ごみずのおてんのう) |
1611~1629 | 徳川幕府が禁中並公家諸法度を制定したときの天皇 |
109 | 明正天皇 (めいしょうてんのう) |
1629~1643 | 後水尾天皇の第二皇女。 |
110 | 後光明天皇 (ごこうみょうてんのう) |
1643~1654 | 後水尾天皇の皇子。幼少期から学問を好み、とくに儒学をよく学んでいた。 |
111 | 後西天皇 (ごさいてんのう) |
1654~1663 | 後水尾天皇の第八皇子。和歌の才能があり、茶道や華道などにも精通していた。 |
112 | 霊元天皇 (れいげんてんのう) |
1663~1687 | 後水尾天皇の皇子。後光明天皇の弟皇子。歌道の達人。書の腕前もあり、有栖川流書道はこの天皇の書風から派生したとされている。 |
113 | 東山天皇 (ひがしやまてんのう) |
1687~1709 | 霊元天皇の第四皇子。 |
114 | 中御門天皇 (なかみかどてんのう) |
1709~1735 | 東山天皇の皇子。幕府との関係は良好だった時代。笛や和歌、書をたしなみ、笛はキツネが聴きにくるほどの腕前だったと言われている。 |
115 | 桜町天皇 (さくらまちてんのう) |
1735~1747 | 中御門天皇の第一皇子。聖徳太子の再来といわれた。 |
116 | 桃園天皇 (ももぞのてんのう) |
1747~1762 | 桜町天皇の第一皇子。 |
117 | 後桜町天皇 (ごさくらまちてんのう) |
1762~1770 | 桜町天皇の第二皇女。現在(令和四年)での最後の女帝。 |
118 | 後桃園天皇 (ごももぞのてんのう) |
1770~1779 | 桃園天皇の第一皇子。病気がちで、22歳で亡くなってしまった。 |
119 | 光格天皇 (こうかくてんのう) |
1779~1817 | 現在の天皇陛下は、光格天皇の直系の子孫。後桃園天皇が亡くなったとき、皇女しかいなかったため、親王家から天皇に即位した。博学多才で学問に熱心だった。 |
120 | 仁考天皇 (にんこうてんのう) |
1817~1846 | 光格天皇の第四皇子。皇族や公家のための教育機関の設置に力をいれ、現在の学習院の前身である教育機関が設立された。 |
121 | 孝明天皇 (こうめいてんのう) |
1846~1866 | ペリーが来航したときの天皇 |
122 | 明治天皇 (めいじてんのう) |
1867~1912 | 明治維新(めいじいしん)がおこったころの天皇。明治天皇以降から、「元号+天皇」とお呼びするようになる。 |
123 | 大正天皇 (たいしょうてんのう) |
1912~1926 | 第一次世界大戦が起きたときの天皇 |
124 | 昭和天皇 (しょうわてんのう) |
1926~1989 | 第二次世界大戦が起きたときの天皇 |
125 | 上皇さま | 1989~2019 | 生前退位をされた。 元号は「平成」 |
126 | 今上天皇・天皇陛下 | 2019~ | 今上天皇とは今現在、皇位(こうい)につかれている天皇のこと。元号は「令和」。 |
天皇にまつわる豆知識
大王(おおきみ)から天皇になったのはいつ?
古墳時代に大和朝廷が誕生して、トップのことを「大王(おおきみ)」と呼ぶようになったね。
大化の改新で、中央集権国家(政治を行う権利が、中央の政府に集まった国家のこと。大化の改新で、土地や民はすべて国のものとされたよね。)が本格的にスタートし、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:のちの天智天皇)の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ:のちの天武天皇)が即位したときから、「天皇」と呼ばれるようになったという説が有力だよ。
天皇の呼び方について
天皇って、明治天皇とか昭和天皇とか、「元号+天皇」でお呼びするよね。
でも平成天皇とか、令和天皇って呼び方は聞いたことないんだけど・・どうして?
実は、「〇〇天皇」という呼び方は、諡号(しごう)といって、「天皇が崩御(ほうぎょ:お亡くなりになること)されたあとに贈るものなんだ。
それまでは「御門(みかど」とか、「今上帝(きんじょうてい)」などと呼ばれるよ。
諡号は、その天皇の人生をあらわしたり、性格や好きなもの、縁のあったもの、住んでいた地名などからつけられるよ。
※単純に地名などのばあいは、諡号と言わずに「追号(ついごう)」ともいうよ。
時々「後〇〇天皇」というのがあるけど??
たとえば住んでいたところが同じ天皇がいた場合、同じ名前だとややこしいので、区別をつけるために「後〇〇天皇」とつけることがあるよ。
例:一条天皇と後一条天皇
「一条」は住んでいた御所の名前
「後」をつけるパターンのもう一つは、天皇みずからが「自分の諡号は○○天皇と同じにしてくれ!」と決めるパターン。
尊敬する天皇の名前をつけたりするんだ。
例:醍醐天皇を尊敬していたので、「後醍醐天皇」。
白河天皇を尊敬していたので、「後白河天皇」。
こういうパターンは「加後号(かごごう)」と呼ばれるよ。
この加後号の天皇は、武士と戦ったり、幕府を倒す計画をしたりと結構パワフルな人が多いよ(笑)
ちなみに、それぞれの天皇さまごとに元号が定められるようになったのは明治以降で、それからは諡号には元号がそのまま使われるようになっているよ。
なので、「明治+天皇」、「昭和+天皇」と呼ばれているんだね。
平成の天皇である明仁(あきひと)さまのことは「上皇陛下(じょうこうへいか)」、「明仁上皇(あきひとじょうこう)」とお呼びするよ。
令和の天皇である徳仁(なるひと)さまは、「今上天皇(きんじょうてんのう」、「天皇陛下(てんのうへいか)」、「徳仁天皇(なるひとてんのう)」とお呼びするんだ。
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ゆみねこ
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。
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たしかに後醍醐天皇のエピソードは面白いです。
この人も、このサイトで覚えました。
結構有名ですよね? -
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いろんな天皇がのっていてノートまとめやひとべんで役立ちました。ありがとうございます!!自分は、小6だけど分かりやすくてよっかたです。自分的には仁徳天皇が好きです。改めてありがとうございました。
やっぱり詳しい説明が乗っていていいですね。
これで何人か覚えることが出来ました。