織田信長とはどんな人?何をした人か小学生・中学生向けにわかりやすく解説
織田信長と聞くと、「戦国時代の強い武将」「天下統一をめざした人」というイメージをもつ人が多いかもしれないね。
でも、信長は、最初から「すごい武将」としてまわりに認められていたわけではないよ。若いころは、まわりから「大うつけ」と呼ばれるほど、変わった若者だと思われていたんだ。
きちんとした武将の子どもらしい服装をせず、町の若者たちと歩き回り、瓜や餅を食べながらふらふらしていたとも伝えられているよ。まわりの大人たちから見れば、「あの若者が本当に織田家をつげるのか」と心配になるような姿だったんだ。
けれど、その「人とちがうところ」こそが、のちの信長の強さにもつながっていくよ。信長は、人と同じであることにこだわらず、新しい武器や考え方を取り入れ、古いしくみにも正面からぶつかっていった人物なんだ。
この記事では、織田信長が何をした人なのかだけでなく、どんな性格だったのか、どんなエピソードがあるのか、そして歴史人物新聞にまとめるならどこに注目すればよいのかを、物語を読むようにわかりやすく解説するよ。
この記事で分かること
- 織田信長がどんな人物なのか
- 信長が若いころ「大うつけ」と呼ばれた理由
- 父の葬儀での信長のエピソード
- 桶狭間の戦いで信長が大きく飛躍した理由
- 足利義昭と信長がなぜ協力し、なぜ対立したのか
- 信長のすごい面と、こわい面
- 長篠の戦い、楽市・楽座、本能寺の変のポイント
- 歴史人物新聞にまとめるポイント
織田信長をひとことで言うと?
信長は、「人とちがう考え方」をおそれず、戦国時代の古いしくみを大きく変えようとした人物だよ。一方で、自分に反対する勢力にはとてもきびしく対応したため、「すごい人」とだけでは言い切れない人物でもあるんだ。
目次
- 織田信長とはどんな人?
- 織田信長の基本データ
- 若いころはなぜ「大うつけ」と呼ばれた?
- 父の葬儀で信長がとったおどろきの行動
- 信長はどんな性格だった?
- 信長が生きた戦国時代とは?
- 桶狭間の戦いで今川義元をやぶる
- 桶狭間の朝、信長は「敦盛」を舞った
- 美濃を手に入れ、「岐阜」から天下をめざす
- 足利義昭はなぜ信長を頼ったの?
- 信長と義昭はなぜ対立したの?
- 長篠の戦いと鉄砲
- 楽市・楽座で町をにぎやかにする
- 信長のきびしい面:比叡山延暦寺の焼き討ち
- 一向一揆と信長の長い戦い
- 天下統一をめざした信長
- 本能寺の変で何が起きた?
- 織田信長が歴史にあたえた影響
- 織田信長の年表
- 歴史人物新聞にまとめるなら?
- 織田信長の重要語句まとめ
織田信長とはどんな人?

織田信長は、戦国時代に活躍した武将だよ。尾張、現在の愛知県西部あたりを中心に力を広げ、天下統一をめざした人物として知られているんだ。
信長は、桶狭間の戦いで強大な今川義元をやぶり、長篠の戦いでは鉄砲を活用した戦いで有名になったよ。また、楽市・楽座のような政策を行い、商人が活動しやすい町づくりも進めたんだ。
けれど、信長を「戦いに強い武将」とだけ見ると、少しもったいないよ。信長は、まわりから変わり者だと思われても、自分の考えを進める人物だったんだ。
まわりの人が「そんなやり方で大丈夫なのか」と思うことでも、信長は必要だと思えば取り入れた。鉄砲、商業政策、古い権威との対立。どれも、信長が「これまで通り」ではなく「新しいやり方」を選んだことを示しているよ。
たろう
くまごろう信長は、天下統一を完成させる前に本能寺の変で亡くなったよ。そのあと、豊臣秀吉が全国統一を進め、さらに徳川家康が江戸幕府を開くことになるんだ。
織田信長の基本データ
まずは、織田信長の基本データを確認しよう。
| 名前 | 織田信長 |
| 読み方 | おだ のぶなが |
| 生まれた年 | 1534年 |
| 亡くなった年 | 1582年 |
| 活躍した時代 | 戦国時代・安土桃山時代のはじめ |
| 出身地 | 尾張、現在の愛知県西部あたり |
| 主なできごと | 桶狭間の戦い、足利義昭の上洛、長篠の戦い、楽市・楽座、本能寺の変 |
| 何をした人? | 天下統一をめざし、戦国時代の流れを大きく変えた武将 |
信長は、戦いの強さだけでなく、商業や交通を活発にしようとしたこと、古い権威にしばられず新しい支配の形を作ろうとしたことでも注目される人物だよ。
若いころはなぜ「大うつけ」と呼ばれた?

織田信長には、若いころ「大うつけ」と呼ばれていたという有名な話があるよ。
「うつけ」とは、今の言葉でいうと「変わり者」「常識はずれな人」のような意味で使われる言葉だよ。武将の家に生まれた若者なら、きちんとした服装をし、家の人たちに礼儀正しくふるまうことが大切だと考えられていたんだ。
ところが、若いころの信長は、そういう「若殿らしさ」から外れて見えた。きちんとした身なりをせず、町の若者たちと歩き回り、瓜や餅を食べながら外をうろうろしていたとも伝えられているよ。
想像してみよう。立派な武将の子どもが、家来を連れてきちんと歩くのではなく、近所の若者たちとふらっと町へ出て、食べ物をかじりながら歩いている。まわりの大人たちは、「あれが織田家のあとつぎで本当に大丈夫なのか」と思ったかもしれないね。
でも、信長は本当に何も考えていなかったのかな。もしかすると、町を歩き、人々のようすを見て、ふつうの武将の子どもとはちがう世界を知っていたのかもしれないよ。
たろう
くまごろう「大うつけ」と呼ばれた理由
- 若殿らしくない服装やふるまいをしたと伝えられている
- 町の若者たちと行動し、瓜や餅を食べ歩いたという話がある
- まわりの人から「変わり者」「常識はずれ」と見られた
- しかし、のちの信長の「人とちがう発想」ともつながって見える
父の葬儀で信長がとったおどろきの行動
「大うつけ」として有名なエピソードに、父・織田信秀の葬儀での話があるよ。
信長の父・信秀は、尾張で大きな力をもっていた人物だった。その父が亡くなったとき、葬儀には家族や家臣たちが集まったよ。ふつうなら、あとつぎである信長は、きちんとした服装で静かにふるまうことを求められる場面だね。
ところが、信長は葬儀の場に、きちんとした礼服ではなく、いつものような変わった姿で現れたと伝えられている。そして、焼香のための抹香をつかむと、ていねいに香炉へ落とすのではなく、父の位牌の方へ投げつけるようにして、そのまま帰ってしまったというんだ。
まわりの人たちは、きっと言葉を失ったはずだよ。「やはり信長は大うつけだ」「父の葬儀でさえ、きちんとできないのか」と思った人もいただろうね。
けれど、この行動をどう見るかは、かんたんではないよ。ただ礼儀知らずだったとも考えられるし、父の死を前にして、信長なりの強い感情が表れたのかもしれない。あるいは、まわりの人たちに「自分はふつうのあとつぎではない」と見せつけたのかもしれないんだ。
歴史では、同じ出来事でも見方によって意味が変わることがあるよ。この葬儀のエピソードも、信長をただの「変わり者」と見るか、「常識にしばられない人物」と見るかで、印象が大きく変わるんだ。
たろう
くまごろう信長はどんな性格だった?
織田信長の性格をひとことで言うのはむずかしいよ。信長には、いくつもの顔があったからだよ。
まず、信長は新しいものを取り入れる力があった人物だと考えられるよ。鉄砲を重視したことや、楽市・楽座によって商業を活発にしようとしたことからも、古いやり方にこだわらず、役に立つものを取り入れようとする姿が見えるんだ。
また、決断が早く、行動力のある人物でもあったよ。桶狭間の戦いでは、自分より大きな力をもつ今川義元に対して、ただ城にこもって待つのではなく、相手のすきをついて攻める決断をしたとされているんだ。
一方で、信長にはとてもきびしい面もあったよ。自分に反対する勢力や、支配を進めるうえでじゃまになる勢力に対しては、強い態度でのぞんだんだ。
たとえば、比叡山延暦寺の焼き討ちでは、信長は宗教勢力に対しても容赦なく攻撃を行ったよ。この出来事は、信長のきびしさや、反対勢力を徹底しておさえようとする姿を示すものとして知られているんだ。
つまり、信長は「かっこいい英雄」とだけ言える人ではないよ。新しい時代を切り開いた面もあれば、強引でこわい面もあった。だからこそ、信長は今でも多くの人に考えられ続けている人物なんだ。
| 信長の一面 | どんなところに表れている? |
|---|---|
| 人とちがう発想をする | 若いころ「大うつけ」と呼ばれたふるまい |
| 新しいものを取り入れる | 鉄砲の活用、楽市・楽座など |
| 決断が早い | 桶狭間の戦いでの行動 |
| 古いしくみにしばられない | 商業政策や寺社勢力との対立 |
| きびしい | 比叡山延暦寺の焼き討ち、一向一揆との戦いなど |
歴史人物新聞にまとめるときは、「信長はすごい人だった」とだけ書くのではなく、すごい面と、こわい面の両方を考えると、ぐっと読みごたえが出るよ。
信長が生きた戦国時代とは?
信長が生きた戦国時代は、各地の大名が自分の領地を広げようとして、戦いをくり返していた時代だよ。
もともと日本には、京都に室町幕府という政治の中心があったよ。でも、将軍の力が弱くなり、各地をまとめる力がなくなっていったんだ。
そうなると、地方の武士たちは「もう京都の命令だけを待っていてもだめだ。自分たちの国は自分たちで守り、広げていこう」と考えるようになる。こうして、各地に戦国大名が登場したんだ。
このように、下の立場の者が上の立場の者を実力でたおして成り上がることを、下剋上というよ。
信長の家である織田氏も、もともとは尾張の守護代の家だったよ。守護代というのは、その国を任されていた守護の手助けをする役目のことだね。でも、戦国時代になると、織田氏はしだいに力をつけ、尾張を支配する大名になっていったんだ。
つまり信長は、最初から全国を動かすような大きな家のトップだったわけではないよ。尾張という一つの国から、戦いと政治の中でどんどん力を広げていった人物なんだ。
戦国時代のポイント
- 室町幕府の力が弱くなっていた
- 各地の戦国大名が、自分の領地を支配するようになった
- 実力で上にのぼる下剋上の風潮があった
- 全国をまとめる新しい力が求められていた
桶狭間の戦いで今川義元をやぶる
織田信長の名前を広く知らせるきっかけになったのが、1560年の桶狭間の戦いだよ。
このころ、信長の前に立ちはだかったのが、強大な大名だった今川義元だった。今川義元は、駿河、現在の静岡県あたりを中心に大きな力をもっていた大名で、信長にとっては自分よりもはるかに強い相手だったんだ。
今川義元は、尾張の東側にある三河や遠江にも勢力を広げていたよ。信長から見ると、となりにとても大きなライバルが迫ってきているようなものだったんだ。
ふつうに考えれば、信長が勝つのはとてもむずかしい。まわりの人たちの中にも、「今川の大軍が来たら、もう終わりだ」と思った人がいたかもしれないね。
しかし信長は、城にこもってただ待つのではなく、今川軍のすきをついて攻めた。今川義元の軍が桶狭間のあたりで休んでいたところを、信長の軍が急におそいかかったと伝えられているよ。
準備ができていないところを急に攻められた今川軍は、大混乱になった。そして信長は、義元を討ち取ることに成功したんだ。
この勝利によって、信長は一気に注目される存在になったよ。「尾張の変わり者」と見られていた若者が、「あの今川義元を倒した武将」として、まわりから見られるようになったんだ。
たろう
くまごろう桶狭間の朝、信長は「敦盛」を舞った
桶狭間の戦いの前には、信長が幸若舞「敦盛」を舞ったという有名な話が伝えられているよ。
まだ夜が明ける前、信長のもとに「今川軍が動いている」という知らせが届く。家の中は、きっとただならぬ空気だったはずだよ。家臣たちは、信長がどう動くのかを見つめていたかもしれないね。
そのとき信長は、あわてて飛び出したのではなく、まず「敦盛」を舞ったと伝えられているんだ。「敦盛」は、人の命のはかなさを感じさせる芸能だよ。信長が舞ったとされる場面は、これから命をかけた戦いに向かう信長の覚悟を表すエピソードとして、よく紹介されるんだ。
そして舞い終えると、信長は「ほら貝を吹け、具足を持て」と命じ、立ったまま食事をとり、すぐに出陣したと伝えられているよ。
この場面からは、信長の不思議な落ち着きと、思い切りのよさが伝わってくるね。大きな危機を前にして、ただあわてるのではなく、自分をふるい立たせるように舞い、すぐ行動に移したんだ。
ただし、このようなエピソードは、後に伝えられる中で印象的に語られている部分もあるよ。歴史人物新聞に使うときは、「〜と伝えられている」と書くとていねいだね。
「敦盛」エピソードのポイント
- 桶狭間の戦いの前、信長が「敦盛」を舞ったと伝えられている
- 命のはかなさや、戦いへ向かう覚悟を感じさせる話
- 信長の決断力や精神の強さを考える手がかりになる
- 新聞に書くときは「伝えられている」と表現するとよい
美濃を手に入れ、「岐阜」から天下をめざす
桶狭間の戦いで今川義元をやぶったあと、信長はさらにまわりへ力を広げていったよ。
次に信長が目を向けたのが、尾張の北にある美濃、現在の岐阜県南部あたりだったんだ。美濃を手に入れれば、京都へ向かう道にも近づくことができる。信長にとって、とても大切な場所だったんだよ。
1567年ごろ、信長は美濃を支配するようになり、城下町の名前を「岐阜」としたといわれているよ。「岐阜」という名前には、中国の昔の話にちなんで、「天下をおさめる出発点」のような意味がこめられていたとも考えられているんだ。
つまり信長は、ただ一つの国を手に入れて満足していたわけではないよ。「この場所から、もっと大きな世界へ進んでいくぞ」という気持ちを、町の名前にもこめたのかもしれないね。
たろう
くまごろう足利義昭はなぜ信長を頼ったの?

ここで、信長の前に一人の人物が現れるよ。足利義昭だ。
足利義昭は、室町幕府の将軍になることを望んでいた人物だよ。でも、このころの室町幕府は、昔のような強い力を失っていたんだ。将軍の家の中でも争いがあり、義昭の兄である将軍・足利義輝が殺されるという大きな事件も起きていたよ。
義昭は「自分が将軍になりたい」と思っていたけれど、一人では京都へ戻る力がなかった。そこで必要だったのが、強い武将の助けだったんだ。
そこで義昭は、力をつけていた信長に目をつけるよ。「この信長に助けてもらえば、自分は京都へ行き、将軍になれるかもしれない」と考えたんだね。
信長にとっても、これは大きなチャンスだったよ。将軍になろうとしている義昭を助けて京都へ入れば、「信長はただの地方大名ではない。京都の政治を動かせるほどの人物だ」とまわりに見せることができるからだよ。
こうして1568年、信長は足利義昭を助けて京都へ入ったよ。そして義昭は、15代将軍になることができたんだ。
たろう
くまごろう信長と義昭はなぜ対立したの?
信長のおかげで将軍になれた足利義昭。最初は、義昭にとって信長はとてもありがたい味方だったはずだよ。
義昭は、信長に「幕府の中で高い役職につかないか」とすすめたともいわれているよ。義昭としては、信長に自分のそばで働いてもらい、弱くなった幕府を立て直したかったんだね。
でも、信長の目標は、義昭の家来のように幕府を支えることではなかった。信長は、自分の力で全国をまとめようとしていたんだ。
ここで、二人の目標のちがいが見えてくるよ。
| 人物 | めざしていたこと |
|---|---|
| 足利義昭 | 将軍として、室町幕府の力を取り戻したい |
| 織田信長 | 自分の力で天下統一を進めたい |
はじめは協力していた二人だけれど、めざすゴールがちがったんだ。義昭から見ると、信長は「自分を助けてくれるはずの武将」だったのに、だんだん自分よりも大きな力をもつ存在になっていく。信長から見ると、義昭は「京都へ入るために助けた将軍」だったけれど、だんだん自分の動きをじゃまする存在になっていったんだ。
やがて義昭は、信長を倒そうとして、ほかの大名や宗教勢力に協力を求めるようになるよ。義昭にとっては、「このままでは信長に政治を動かされてしまう」と感じたのかもしれないね。
しかし、義昭が頼りにした勢力が思うように動けなくなると、信長は義昭を京都から追放したよ。こうして1573年、室町幕府は事実上終わったとされるんだ。
たろう
くまごろう長篠の戦いと鉄砲
足利義昭との対立のころ、信長の前にはまだまだ強い相手がいたよ。その一つが、武田信玄のあとを継いだ武田勝頼だ。
武田氏は、とても強い軍をもつことで知られていたよ。馬に乗った兵が勢いよく攻めてくる武田軍は、多くの大名にとっておそろしい相手だったんだ。
1575年、信長は徳川家康と協力し、長篠の戦いで武田勝頼の軍と戦ったよ。
この戦いで有名なのが、鉄砲の活用だよ。鉄砲は、それまでの弓や刀、やりとはちがう新しい武器だった。信長は、その新しい武器をうまく使って、武田軍に対抗しようとしたんだ。
昔は「鉄砲を三段に構えて、交代で撃った」と説明されることも多かったけれど、現在ではその説明をそのまま決めつけるのはむずかしいとされることもあるよ。
だから、まずは信長が鉄砲を重視し、新しい戦い方を取り入れたと考えるとわかりやすいね。
長篠の戦いのポイント
- 1575年に起こった戦い
- 織田信長・徳川家康の連合軍と、武田勝頼の軍が戦った
- 鉄砲を活用した戦いとして有名
- 信長が新しい戦い方を取り入れたことを考える手がかりになる
楽市・楽座で町をにぎやかにする
織田信長は、戦いだけでなく、商業を活発にする政策も行ったよ。その代表が楽市・楽座だよ。
楽市とは、市場での商売をしやすくする政策のことだよ。楽座とは、座という商人や職人の組合の特権をなくし、自由に商売しやすくする政策として説明されることが多いんだ。
当時、商売をするには、特定の組合や古くからの権利が関係することがあったよ。新しく商売をしたい人にとっては、入りにくいしくみだったんだ。
そこで信長は、限られた人だけが商売をしやすいしくみではなく、もっと多くの人が商売に参加できるようにしようとした。町に人や物が集まり、商売がさかんになれば、城下町もにぎわうよね。
これは、信長の性格ともつながって見えるよ。信長は、古い決まりや特権にしばられるよりも、「どうすれば町がにぎわうか」「どうすれば自分の支配する場所が強くなるか」を考えた人物だったんだ。
たろう
くまごろう信長のきびしい面:比叡山延暦寺の焼き討ち
織田信長を「新しい時代を開いた人」として見るだけでは、信長という人物の一部しか見えてこないよ。信長には、とてもきびしい面もあったんだ。
その代表的な出来事のひとつが、1571年の比叡山延暦寺の焼き討ちだよ。
比叡山延暦寺は、長い歴史をもつ大きなお寺だった。ただ、戦国時代の寺社は、今のお寺のイメージとは少しちがうよ。大きな土地や財産をもち、兵をかかえ、政治や戦いにも関わることがあったんだ。
しかも、このころ延暦寺は、信長と対立する勢力と結びついていたと見られているよ。信長からすると、「このまま放っておいたら、自分の敵がそこを足場にしてしまう」と感じる存在だったんだ。
そこで信長は、比叡山を攻撃した。このとき、山の上やふもとの建物が焼かれ、多くの人が命を落としたと伝えられているよ。子どもたちが想像すると、とてもこわい出来事だよね。
ただし、この出来事には、今もいろいろな見方があるよ。昔から伝えられてきたように、とても大きな被害があったと考える見方もあれば、発掘などをもとに、実際の被害の広がりについて考え直す見方もあるんだ。
だから、この出来事を読むときは、「信長は悪い人だった」とだけ決めつけるのでも、「必要なことだった」とかんたんに片づけるのでもなく、当時の寺社勢力がどのような力をもっていたのか、信長はなぜそこまできびしい方法を選んだのかを考えることが大切だよ。
信長は、新しい時代へ進もうとした人物だった。一方で、そのためにとても強い力を使い、多くの人を苦しめる結果になったこともあったんだ。
たろう
くまごろう
一向一揆と信長の長い戦い
信長が対立したのは、比叡山延暦寺だけではないよ。一向一揆とも長く戦ったんだ。
一向一揆とは、一向宗、つまり浄土真宗の信徒たちを中心に起こった一揆のことだよ。農民や武士、寺の勢力などが結びつき、大きな力をもつことがあったんだ。
「一揆」と聞くと、少し小さな反抗のように感じるかもしれないね。でも、戦国時代の一向一揆は、場所によっては戦国大名に負けないほどの力をもつこともあったよ。
信長は天下統一をめざしていた。そうなると、自分の支配が届かない大きな勢力をそのままにしておくことはできないよね。信長から見ると、一向一揆は「放っておけない相手」だったんだ。
こうして信長は、各地の一向一揆ときびしく戦うことになるよ。ここにも、信長の「新しい支配を作ろうとする力」と「反対する勢力を強くおさえこむこわさ」の両方が表れているんだ。
宗教勢力と信長の対立
- 戦国時代の寺社や宗教勢力は、土地・財産・武力をもつことがあった
- 比叡山延暦寺は、信長と対立する勢力と結びついていたと見られている
- 一向一揆は、戦国大名に負けないほどの力をもつこともあった
- 信長は天下統一を進めるため、こうした勢力をおさえようとした
天下統一をめざした信長
信長は、尾張から始まり、美濃を手に入れ、京都にも入り、まわりの大名や宗教勢力と戦いながら、どんどん力を広げていったよ。
このころの信長は、ただ自分の領地を守るだけの武将ではなくなっていた。日本全体を一つの大きな力のもとにまとめようとする存在になっていったんだ。
その思いを表す言葉として知られているのが、天下布武だよ。「武」の力で天下をおさめる、という意味で考えられることが多い言葉だね。
その後、信長は近江、現在の滋賀県に安土城を築いたよ。安土城は、信長の力を示す象徴のような城だったんだ。
大きく、目立ち、遠くからでも見える城。それは、信長が「自分がこの時代を動かすのだ」と示すための舞台のようでもあったんだ。
信長は、全国を完全にまとめるところまでは進めなかったよ。けれど、戦国時代を終わりに近づけ、豊臣秀吉や徳川家康へ続く道を大きく開いた人物なんだ。
だから、信長は「天下統一を完成させた人」ではなく、天下統一へ向かう道を大きく切り開いた人として見ると分かりやすいよ。
本能寺の変で何が起きた?
1582年、織田信長は京都の本能寺にいたところを、家臣の明智光秀に攻められたよ。これを本能寺の変というんだ。
信長はこの事件で亡くなり、天下統一を完成させることはできなかったよ。
明智光秀がなぜ信長を討ったのかについては、さまざまな説があるけれど、はっきりとした理由は分かっていない部分もあるんだ。
本能寺の変は、信長の人生を終わらせただけでなく、その後の日本の歴史の流れも大きく変えた事件だよ。信長が亡くなったあと、羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉が明智光秀をやぶり、信長の後継者として力を強めていくんだ。
たろう
くまごろう織田信長が歴史にあたえた影響
織田信長は、天下統一を完成させたわけではないけれど、戦国時代から安土桃山時代へ向かう流れを大きく進めた人物だよ。
信長の影響は、大きく分けると次のように見られるよ。
| 分野 | 信長の影響 |
|---|---|
| 政治 | 室町幕府の時代を終わりに近づけ、新しい支配の形へつなげた |
| 軍事 | 鉄砲など新しい武器や戦い方を重視した |
| 経済 | 楽市・楽座などで商業を活発にしようとした |
| 社会 | 古い勢力と対立し、新しい時代への変化を進めた |
| 後の時代 | 豊臣秀吉の全国統一や、徳川家康の江戸幕府へとつながる流れを作った |
信長を歴史人物新聞にまとめるなら、「信長は戦国時代をどう変えたのか」を中心にすると、読みごたえのある新聞になるよ。
織田信長の年表
織田信長の主なできごとを年表で見てみよう。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1534年 | 織田信長が生まれる |
| 1560年 | 桶狭間の戦いで今川義元をやぶる |
| 1567年ごろ | 美濃を支配し、岐阜を拠点にする |
| 1568年 | 足利義昭を助けて京都に入る |
| 1571年 | 比叡山延暦寺を焼き討ちする |
| 1573年 | 足利義昭を京都から追放し、室町幕府が事実上終わる |
| 1575年 | 長篠の戦いで武田勝頼の軍をやぶる |
| 1576年ごろ | 安土城を築きはじめる |
| 1582年 | 本能寺の変で亡くなる |
年表で見ると、信長が尾張から始まり、美濃、京都、近江へと動きながら、だんだん大きな力をもつようになったことが分かるね。
歴史人物新聞にまとめるなら?
織田信長は、歴史人物新聞のテーマとしてとてもまとめやすい人物だよ。戦い、政策、人物像、エピソード、歴史への影響など、新聞にできる材料が多いからなんだ。
人物新聞にするなら、次のような切り口がおすすめだよ。
| まとめるテーマ | 新聞タイトルの例 | 調べるポイント |
|---|---|---|
| 若いころの信長 | 「大うつけ」と呼ばれた信長の意外な一面 | 変わった服装やふるまい、父の葬儀での行動 |
| 桶狭間の戦い | 信長、今川義元をやぶる! | 強大な相手に勝った理由、信長の決断 |
| 敦盛のエピソード | 戦いの前、信長は何を思ったのか | 桶狭間の前の覚悟、伝えられている話として書く |
| 足利義昭との関係 | 協力から対立へ!信長と将軍の関係 | 義昭が信長を頼った理由、二人の目標のちがい |
| 鉄砲の活用 | 戦い方を変えた信長の新しい発想 | 長篠の戦いと新しい武器 |
| 楽市・楽座 | 商業を活発にした信長の政策 | 商人、城下町、経済の発展 |
| 信長のきびしい面 | 信長はなぜ比叡山を攻めたのか | 寺社勢力、政治と宗教、きびしい支配 |
| 信長の人物像 | 信長はすごい人?こわい人? | 新しさときびしさの両方を考える |
| 本能寺の変 | 天下統一目前で何が起きた? | 明智光秀、信長の死、その後の秀吉 |
歴史人物新聞に入れるとよいこと
- 織田信長の基本データ
- 戦国時代の時代背景
- 若いころ「大うつけ」と呼ばれたエピソード
- 父の葬儀での信長の行動
- 桶狭間の戦い・長篠の戦いなどの主なできごと
- 足利義昭との協力と対立
- 楽市・楽座などの政策
- 比叡山延暦寺の焼き討ちや一向一揆との戦いなど、信長のきびしい面
- 本能寺の変と、その後の歴史への影響
- 自分が信長をどう見るか
織田信長を新聞にまとめるときは、「強い武将だった」だけで終わらせず、人とちがう発想、新しいものを取り入れる力、そして反対勢力へのきびしい対応まで考えるとよいよ。
歴史人物新聞の作り方を知りたい人は、小学生向け「歴史人物新聞」の作り方や、中学生向け「歴史人物新聞」の作り方も参考にしよう。
織田信長の重要語句まとめ
最後に、織田信長を学習するときに覚えておきたい重要語句をまとめるよ。
| 語句 | 意味・ポイント |
|---|---|
| 織田信長 | 戦国時代の武将。天下統一をめざし、戦国時代の流れを大きく変えた |
| 大うつけ | 若いころの信長が、まわりから変わり者として見られていたことを表す言葉 |
| 戦国時代 | 各地の大名が領地をめぐって戦った時代 |
| 下剋上 | 下の立場の者が、上の立場の者を実力で倒すこと |
| 桶狭間の戦い | 1560年、織田信長が今川義元をやぶった戦い |
| 敦盛 | 信長が桶狭間の戦いの前に舞ったと伝えられる幸若舞 |
| 足利義昭 | 信長の助けで15代将軍になった人物。のちに信長と対立し、京都から追放された |
| 長篠の戦い | 1575年、織田・徳川軍が武田勝頼の軍をやぶった戦い。鉄砲の活用で有名 |
| 楽市・楽座 | 商人が自由に商売しやすくし、商業を活発にしようとした政策 |
| 比叡山延暦寺の焼き討ち | 1571年、信長が比叡山延暦寺を攻撃した出来事。信長のきびしい面を考える重要な事件 |
| 一向一揆 | 一向宗の信徒などが中心となって起こした一揆。戦国大名に負けない力をもつこともあった |
| 安土城 | 信長が近江に築いた城。信長の力を示す象徴でもあった |
| 本能寺の変 | 1582年、明智光秀が京都の本能寺にいた信長を攻めた事件 |
| 天下統一 | 全国をひとつの大きな力のもとにまとめること。信長はこれをめざしたが、完成はしなかった |
織田信長は、戦国時代を終わりに近づけ、豊臣秀吉や徳川家康へと続く天下統一の流れを作った人物だよ。
ただし、信長は「すごい人」とだけでは言い切れない人物でもあるよ。新しい時代を切り開いた面と、反対する勢力にきびしく対応した面の両方を見ながら考えると、信長という人物がもっと立体的に見えてくるんだ。
歴史人物新聞にまとめるときは、信長の戦い、政策、人物像、エピソード、そして後の時代への影響を見ながら、自分なりに「信長とはどんな人物だったのか」を考えてみよう。
運営者情報
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。 ※サイト全体の運営実績についてはこちらにまとめています。

