徳川家康とはどんな人?人質時代から江戸幕府を開くまでをわかりやすく解説
戦国時代には、強い武将がたくさんいたよ。新しいことをどんどん進めた織田信長、低い身分から天下人になった豊臣秀吉。そして、長い時間をかけてじっと力をたくわえ、最後に江戸幕府を開いた人物がいるんだ。
その人物が、徳川家康だよ。
家康は、最初から強い立場にいたわけではないよ。幼いころには、今川氏のもとへ人質として送られ、家族と離れて暮らす時期があったんだ。
けれど家康は、あきらめなかった。織田信長と同盟を結び、豊臣秀吉の力が強い時代にはその下でじっと力をたくわえ、秀吉が亡くなったあとに大きな勝負へ出る。そして、関ヶ原の戦いに勝ち、江戸幕府を開いたんだ。
この記事では、徳川家康がどんな人だったのか、なぜ最後に天下を取ることができたのかを、物語を読むようにわかりやすく見ていこう。
この記事で分かること
- 徳川家康がどんな人物なのか
- 幼いころ今川氏のもとで人質として過ごしたこと
- 織田信長とは同盟を結んだ大名だったこと
- 豊臣秀吉とはどんな関係だったのか
- 三方ヶ原の戦いで大敗したエピソード
- 関ヶ原の戦いでなぜ勝てたのか
- 1603年に江戸幕府を開き、1605年に秀忠へ将軍職を譲ったこと
- 家康の性格や人物像
- 歴史人物新聞にまとめるポイント
徳川家康をひとことで言うと?
徳川家康は、幼いころの人質時代や大きな敗北を乗りこえ、じっと待つ力と生き残る力で、最後に江戸幕府を開いた人物だよ。派手さよりも、がまん強さと長い目で考える力が大きな特徴なんだ。
目次
徳川家康とはどんな人?

徳川家康は、戦国時代から江戸時代のはじめに活躍した武将だよ。1600年の関ヶ原の戦いで勝利し、その後、1603年に征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた人物として知られているんだ。
でも、家康の人生は、最初から順調だったわけではないよ。幼いころは今川氏のもとで人質として過ごし、大人になってからも、信長や秀吉という大きな力をもつ人物たちの間で、どう生き残るかを考え続けなければならなかったんだ。
家康のすごさは、いきなり派手に勝ったことではないよ。負けてもすぐにはくずれず、危ないときはじっとこらえ、チャンスが来るまで待ち続けたことなんだ。
たろう
くまごろう徳川家康の基本データ
まずは、徳川家康の基本データを見てみよう。
徳川家康の基本データ
| 名前 | 徳川家康 |
| 幼名 | 竹千代 |
| 生まれた年 | 1543年 |
| 亡くなった年 | 1616年 |
| 活躍した時代 | 戦国時代・安土桃山時代・江戸時代のはじめ |
| 出身地 | 三河国、現在の愛知県東部あたり |
| 関わりの深い人 | 織田信長、豊臣秀吉、石田三成 |
| 主なできごと | 今川氏のもとでの人質時代、三方ヶ原の戦い、伊賀越え、関ヶ原の戦い、江戸幕府の成立 |
| 何をした人? | 関ヶ原の戦いを大きな転機として力を強め、江戸幕府を開いた人物 |
家康は、三河の松平氏の家に生まれたよ。そこから、戦国時代の大きな波を乗りこえ、やがて日本全体を動かす人物になっていくんだ。
幼いころは今川氏の人質だった

徳川家康の幼名は、竹千代だよ。家康は、三河国の岡崎城を中心にした松平氏の家に生まれたんだ。
でも、そのころの三河は、大きな国にはさまれた、むずかしい場所にあったよ。東には今川氏、西には織田氏という強い勢力がいたんだ。
小さな大名の家が生き残るには、強い大名と手を結ぶ必要があった。そこで家康は、まだ幼いころに、今川氏のもとへ人質として送られることになるよ。
人質と聞くと、少しこわい言葉だね。これは「約束を守ります」というしるしとして、大切な子どもや家族を相手のもとに預けることだよ。もし約束を破れば、その人質が危険な立場になることもあったんだ。
つまり、幼い家康は、自分の家族と離れ、今川氏の力を感じながら暮らさなければならなかったんだね。
たろう
くまごろう人質時代はなぜつらかったの?
人質時代の家康は、ただ「よその家で暮らした」だけではないよ。自分の自由に動くことはできず、家の運命も自分の意思だけでは決められなかったんだ。
もし自分の家が約束を破ったら、家康の立場は危なくなる。もし今川氏が弱くなれば、家康の未来も大きく変わる。そんな中で、家康はまわりをよく見て、どうすれば生き残れるのかを考えていたはずだよ。
この経験は、家康の人生に大きな影響を与えたと考えられるよ。すぐに感情で動くのではなく、相手の力を見て、今は動くべきか、待つべきかを考える。そんな家康らしさは、人質時代から少しずつ育っていったのかもしれないね。
家康は、苦しい経験をただの不幸で終わらせなかった。そこから、戦国時代を生きぬく力を身につけていったんだ。
織田信長とはどんな関係だった?
家康の人生を大きく変えたできごとの一つが、1560年の桶狭間の戦いだよ。
この戦いで、織田信長が今川義元をやぶったんだ。今川氏に従っていた家康にとって、これはとても大きな転機だったよ。
今川義元が討たれると、今川氏の力は大きくゆらぐ。そこで家康は、今川氏から離れ、やがて織田信長と同盟を結ぶ大名になっていくんだ。
ここは少し大事だよ。家康は、信長のただの家来だったわけではないよ。基本的には、信長と同盟を結んだ大名として見ると分かりやすいんだ。
ただ、信長の力はとても大きかった。だから家康は、信長と協力しながらも、その強い力を意識して動かなければならなかったんだ。
信長と家康は、性格も立場もかなり違うよ。信長は新しいことをどんどん進める強烈な人物。家康は、慎重に力をたくわえていく人物。でも、二人は長いあいだ同盟関係を続けたんだ。
たろう
くまごろう三方ヶ原の戦いで大敗する
家康の人生には、大きな勝利だけでなく、大きな敗北もあるよ。その代表が、1572年の三方ヶ原の戦いだよ。
この戦いで家康が相手にしたのは、武田信玄だよ。信玄は、戦国時代の中でもとても強い武将として知られている人物なんだ。
武田軍が家康の領地へ近づいてきたとき、家康は城にこもって守ることもできたかもしれない。でも、家康は外へ出て戦うことを選んだとされているよ。
結果は、大敗だった。家康の軍は大きくくずれ、家康自身も命からがら浜松城へ逃げ帰ったと伝えられているんだ。
この敗北は、家康にとってとても苦い経験だったはずだよ。けれど家康は、この敗北から学んだ。戦国時代を生き残るには、勝つことだけでなく、負けたあとにどう立ち直るかも大切なんだ。
「しかみ像」にこめられた家康の思い
三方ヶ原の戦いのあと、家康は自分の負けたときの姿を絵に描かせた、という有名な話があるよ。この絵は「しかみ像」として知られているんだ。
「しかみ」とは、顔をしかめることだよ。絵の中の家康は、りりしい勝者の顔ではなく、苦しそうで、くやしそうな表情をしているんだ。
ただし、この「しかみ像」の話は、伝承の要素が強いとされているよ。つまり、「家康が本当にその場ですぐに描かせた」とは言い切れないんだ。
それでも、この話が長く語られてきたことには意味があるよ。家康という人物が、「負けを忘れず、次に生かした人」として見られてきたことが分かるからだよ。
勝った姿ではなく、負けた姿を心に刻む。そう考えると、家康はただ運よく最後に勝った人ではなく、失敗から学ぶ力をもった人物として見えてくるね。
たろう
くまごろう本能寺の変のあと、家康はどう動いた?
1582年、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、家康にも大きな危機がやってきたよ。
このとき家康は、少ない人数で堺のあたりにいたとされているんだ。信長が討たれたと聞けば、まわりの状況は一気に危なくなるよね。敵に襲われるかもしれないし、どこへ逃げればよいかも分からない。
家康は、命からがら自分の領地へ帰ろうとした。このときの苦しい帰り道は、伊賀越えとして知られているよ。
山道を通り、味方の助けを借りながら、なんとか三河へ戻る。もしここで家康が命を落としていたら、江戸幕府は生まれなかったかもしれないね。
家康の人生は、何度も危ない場面をくぐりぬけているよ。そのたびに、生き残るために一番よい道を探し続けたんだ。
豊臣秀吉とはどんな関係だった?
本能寺の変のあと、明智光秀をやぶって力をのばしたのが、豊臣秀吉だったよ。
秀吉がどんどん強くなっていく中で、家康もまた、大きな決断をせまられることになるんだ。
家康は、秀吉と対立したこともあったよ。たとえば1584年の小牧・長久手の戦いでは、家康は秀吉と戦っているんだ。
けれど、その後、家康は秀吉に従う立場になったよ。これは「家康が弱かったから」というだけではないよ。秀吉の力がとても大きくなっていた中で、今は正面からぶつかるより、生き残って力をたくわえるほうがよいと考えたのかもしれないね。
秀吉は全国統一を進め、家康もその大きな流れの中に入っていく。家康は、秀吉の時代に無理に前へ出すぎず、じっと次の時代を見ていたんだ。
たろう
くまごろう秀吉の死後、家康にチャンスが来る
1598年、豊臣秀吉が亡くなると、政治の中心は大きくゆれ始めたよ。
秀吉の子である豊臣秀頼は、まだ幼かったんだ。そこで、有力な大名たちが豊臣家を支えることになったよ。その中で、家康はとても大きな力をもっていたんだ。
しかし、家康の力が大きくなると、それを心配する人たちも出てくるよ。とくに、豊臣家を守ろうとする立場の石田三成たちとは、しだいに対立していくんだ。
ここで家康は、長いあいだ待っていた大きな勝負の場面をむかえるよ。それが、1600年の関ヶ原の戦いなんだ。
関ヶ原の戦いで何が起きた?

関ヶ原の戦いは、徳川家康の東軍と、石田三成らの西軍がぶつかった大きな戦いだよ。
この戦いは、ただの一回の戦ではなく、「これから日本をだれが動かすのか」を決めるような、とても大切な戦いだったんだ。
家康は、たくさんの大名を味方につけたよ。戦の強さだけではなく、人との約束、手紙、交渉、味方を増やす力がとても大切だったんだ。
戦いの途中では、西軍についていた小早川秀秋が東軍側につくなど、戦況が大きく動いたよ。こうして家康の東軍が勝利したんだ。
関ヶ原の戦いに勝ったことで、家康は全国の大名の中で、圧倒的に大きな力をもつようになったよ。つまり関ヶ原の戦いは、江戸幕府成立へ向かう大きな転機だったんだ。
関ヶ原の戦いのポイント
| ポイント | 内容 |
|---|---|
| いつ | 1600年 |
| 場所 | 関ヶ原、現在の岐阜県あたり |
| 東軍 | 徳川家康を中心とする勢力 |
| 西軍 | 石田三成らを中心とする勢力 |
| 結果 | 東軍が勝利 |
| 意味 | 家康が江戸幕府を開く前提となる大きな転機になった |
江戸幕府を開く
関ヶ原の戦いに勝ったあと、家康はさらに力を強めていくよ。そして1603年、征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いたんだ。
幕府とは、武士による政治の中心のことだよ。家康が江戸に幕府を開いたことで、江戸時代が始まるんだ。
さらに家康は、1605年に将軍職を子の徳川秀忠に譲ったよ。これは、徳川家が代々将軍の地位を受けついでいくことを示すためだったと考えられるんだ。
つまり家康は、「自分が天下を取った」で終わらせず、「徳川の政治が長く続くしくみ」を作ろうとしたんだね。
たろう
くまごろうなぜ江戸幕府は長く続いたの?
江戸幕府は、約260年も続いたよ。どうして、そんなに長く続いたのかな。
理由の一つは、大名をうまく支配するしくみを作っていったことだよ。家康やその後の将軍たちは、大名の領地や立場を考えながら、徳川家に反抗しにくい形を作っていったんだ。
また、江戸を政治の中心にしたことも大きいよ。江戸は、のちにとても大きな都市へ成長していくんだ。
ただし、江戸幕府の制度は、家康一人で一気に完成させたわけではないよ。二代将軍秀忠、三代将軍家光のころに、さらに整えられていったんだ。
家康は、その土台を作った人物だよ。戦国時代の長い争いを終わらせ、武士による安定した政治へつなげたことが、家康の大きな功績なんだ。
徳川家康はどんな性格だった?

徳川家康の性格をひとことで言うなら、がまん強く、慎重で、長い目で考える人だったと見ると分かりやすいよ。
幼いころの人質時代、大きな敗北、信長や秀吉という強い人物との関係。家康は、何度も「今すぐ思い通りには動けない」場面を経験しているんだ。
でも、家康はそこであきらめなかった。今は待つべきか、動くべきか。だれと手を結ぶべきか。どのタイミングで勝負に出るべきか。そうしたことを長く考えながら生きた人物なんだ。
また、失敗から学ぶ力もあったと考えられるよ。三方ヶ原の戦いで大敗した経験は、家康にとって忘れられない教訓になったはずなんだ。
徳川家康の人物像
| 家康の一面 | どんなところに表れている? |
|---|---|
| がまん強い | 今川氏のもとでの人質時代や、秀吉の時代を耐えたこと |
| 慎重 | 強い相手とは無理に戦い続けず、生き残る道を選んだこと |
| 失敗から学ぶ | 三方ヶ原の戦いの敗北を教訓にしたこと |
| 長い目で考える | 徳川の政治が続くしくみを作ろうとしたこと |
| 人を動かす力がある | 関ヶ原の戦いで多くの大名を味方につけたこと |
家康は、派手な天才というより、何度も苦しい場面をこえて、最後に大きな結果を出した人物だよ。だからこそ、「待つ力」「耐える力」のすごさがよく分かるんだ。
家康のすごい面と、こわい面

家康には、すごい面がたくさんあるよ。戦国時代を生きぬき、関ヶ原の戦いに勝ち、江戸幕府を開いたことは、とても大きな功績だね。
でも、家康を「平和を作ったすごい人」とだけ見ると、少し単純になってしまうよ。
家康は、豊臣家をそのまま残すことはしなかった。1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣を経て、豊臣家はほろび、徳川の世が固まっていくんだ。
これは、戦国の争いを終わらせるためだったとも考えられるし、徳川家の支配を確実にするためだったとも考えられるよ。
歴史人物は、よい面だけでも、こわい面だけでもなく、両方から見ることが大切だよ。家康も、長く続く平和の土台を作った一方で、徳川の支配を固めるためにきびしい判断もした人物なんだ。
徳川家康のすごい面とこわい面
| 面 | 内容 |
|---|---|
| すごい面 | 戦国時代を生きぬき、関ヶ原の戦いに勝ち、江戸幕府を開いた |
| すごい面 | 徳川の政治が長く続く土台を作った |
| こわい面 | 大坂の陣で豊臣家をほろぼし、徳川の支配を固めた |
| こわい面 | 大名を強く管理するしくみの土台を作り、反抗しにくくした |
家康が亡くなったあと、徳川の世はどうなった?
徳川家康は1616年に亡くなったよ。でも、家康が作った徳川の政治は、そのあとも長く続いていくんだ。
ただし、1616年の時点で江戸幕府の制度がすべて完成していたわけではないよ。二代将軍の徳川秀忠、三代将軍の徳川家光のころに、江戸幕府のしくみはさらに整えられていったんだ。
大名を管理する制度も強まり、幕府を中心とする政治が固まっていく。こうして、江戸時代は約260年続く長い時代になっていくよ。
家康がすごいのは、自分が勝つだけで終わらなかったことだよ。自分の死後も徳川家が政治を続けられるように、先のことまで考えていたんだ。

徳川家康が歴史にあたえた影響
徳川家康は、日本の歴史にとても大きな影響をあたえた人物だよ。
その影響は、次のように見ることができるよ。
徳川家康が歴史にあたえた影響
| 分野 | 徳川家康の影響 |
|---|---|
| 政治 | 1603年に征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた |
| 社会 | 戦国時代の大きな争いを終わらせ、安定した時代へつなげた |
| 都市 | 江戸を政治の中心にし、のちの大都市へ発展させた |
| 大名支配 | 大名を管理するしくみの土台を作った |
| 後の時代 | 約260年続く江戸時代のはじまりを作った |
家康は、ただ戦に勝った人ではないよ。戦国時代のあとに、どうすれば長く続く政治を作れるのかを考えた人物だったんだ。
徳川家康の年表
徳川家康の主なできごとを年表で見てみよう。
徳川家康の年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1543年 | 三河国で生まれる |
| 幼少期 | 今川氏のもとで人質として過ごす |
| 1560年 | 桶狭間の戦いのあと、今川氏から離れていく |
| 1560年代 | 織田信長と同盟を結ぶ |
| 1572年 | 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗する |
| 1582年 | 本能寺の変のあと、伊賀越えで三河へ戻る |
| 1584年 | 小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と戦う |
| 1590年 | 関東へ移り、江戸を拠点にする |
| 1600年 | 関ヶ原の戦いで勝利する |
| 1603年 | 征夷大将軍となり、江戸幕府を開く |
| 1605年 | 将軍職を徳川秀忠に譲る |
| 1614年 | 大坂冬の陣 |
| 1615年 | 大坂夏の陣で豊臣家がほろびる |
| 1616年 | 徳川家康が亡くなる |
年表で見ると、家康は幼いころの人質時代から始まり、信長・秀吉の時代を生きぬき、最後に江戸幕府を開いたことが分かるね。
歴史人物新聞にまとめるなら?
徳川家康は、歴史人物新聞のテーマとしてとてもまとめやすい人物だよ。人質時代、信長や秀吉との関係、大敗から学んだこと、関ヶ原の戦い、江戸幕府など、新聞にできる材料がたくさんあるからなんだ。
人物新聞にするなら、次のような切り口がおすすめだよ。
徳川家康を歴史人物新聞にまとめるテーマ例
| まとめるテーマ | 新聞タイトルの例 | 調べるポイント |
|---|---|---|
| 人質時代 | 家康のがまん強さは人質時代に生まれた? | 幼いころの竹千代、今川氏の人質、人質の意味、三河の立場 |
| 信長との関係 | 信長と家康はどんな同盟だった? | 桶狭間の戦い、信長との同盟、大名どうしの関係 |
| 敗北から学ぶ | 三方ヶ原の大敗としかみ像 | 武田信玄、敗北、しかみ像の伝承、失敗から学ぶ姿 |
| 秀吉との関係 | 家康はなぜ秀吉に従ったの? | 小牧・長久手の戦い、秀吉の天下、待つ力 |
| 関ヶ原の戦い | 天下分け目の戦い!家康はなぜ勝てた? | 東軍・西軍、石田三成、小早川秀秋 |
| 江戸幕府 | 家康はどうやって長く続く政治を作った? | 征夷大将軍、1603年、1605年、江戸、徳川の政治 |
| 人物像 | 徳川家康はどんな性格だった? | がまん強さ、慎重さ、長い目で考える力 |
歴史人物新聞に入れるとよいこと
- 徳川家康の基本データ
- 幼いころ今川氏のもとで人質だったこと
- 織田信長との同盟
- 三方ヶ原の戦いと大敗のエピソード
- しかみ像は伝承として有名であること
- 豊臣秀吉との関係
- 関ヶ原の戦いで勝ったこと
- 1603年に江戸幕府を開いたこと
- 1605年に秀忠へ将軍職を譲ったこと
- 家康のすごい面とこわい面
- 自分が考える「家康はどんな人物だったのか」
徳川家康を新聞にまとめるときは、「江戸幕府を開いた人」だけで終わらせず、幼いころの苦労、大きな敗北、信長や秀吉との関係、そして長く続く政治を作ったことまで見ていくと、ぐっと深い新聞になるよ。
歴史人物新聞の作り方を知りたい人は、小学生向け「歴史人物新聞」の作り方や、中学生向け「歴史人物新聞」の作り方も参考にしよう。
徳川家康の重要語句まとめ
最後に、徳川家康を学ぶときに覚えておきたい重要語句をまとめるよ。
徳川家康の重要語句
| 語句 | 意味・ポイント |
|---|---|
| 徳川家康 | 関ヶ原の戦いを大きな転機として力を強め、江戸幕府を開いた人物 |
| 竹千代 | 家康の幼名 |
| 人質 | 約束を守るしるしとして、相手のもとに預けられること |
| 今川氏 | 家康が幼いころ人質として関わった大名 |
| 織田信長 | 家康が同盟を結んだ戦国大名 |
| 三方ヶ原の戦い | 1572年、家康が武田信玄に大敗した戦い |
| しかみ像 | 三方ヶ原の敗北を忘れないために描かせたと伝えられる家康の絵。伝承の要素が強い |
| 伊賀越え | 本能寺の変のあと、家康が危険をこえて三河へ戻ったできごと |
| 豊臣秀吉 | 家康が一時従う立場になった天下人 |
| 小牧・長久手の戦い | 1584年、家康が秀吉と戦った戦い |
| 石田三成 | 関ヶ原の戦いで家康と対立した西軍の中心人物 |
| 関ヶ原の戦い | 1600年、東軍と西軍が戦い、家康の東軍が勝利した戦い |
| 江戸幕府 | 1603年に家康が開いた武士の政治の中心 |
| 征夷大将軍 | 家康が1603年に任命された、幕府を開くための重要な役職 |
| 徳川秀忠 | 家康の子。1605年に将軍職を譲られた |
| 大坂の陣 | 1614年・1615年に起こり、豊臣家がほろびた戦い |
| 江戸時代 | 徳川家が中心となって政治を行った時代 |
徳川家康は、幼いころから苦労を重ね、何度も危ない場面をこえながら、最後に江戸幕府を開いた人物だよ。
信長のように新しいことを一気に進めた人、秀吉のように一気に出世した人とは少しちがい、家康は「待つ力」と「生き残る力」で時代を動かした人物なんだ。そんなふうに見ると、徳川家康という人物がぐっとおもしろく感じられるね。
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。 ※サイト全体の運営実績についてはこちらにまとめています。

