聖徳太子とはどんな人?何をした人?エピソード・性格・業績をわかりやすく解説
朝の宮殿に、次から次へと人がやってくる。国のこと、豪族どうしの争い、外国とのつきあい、仏教をどう広めるか。むずかしい相談が、山のように集まっていた時代があったよ。
そんな中で、「どうすれば、この国はもっとまとまるのだろう」「争いばかりではなく、みんなで力を合わせるにはどうしたらいいのだろう」と考えた人物がいたんだ。
その人物が、聖徳太子だよ。
聖徳太子は、ただ「昔のえらい人」というだけではないよ。天皇の子として生まれ、推古天皇を助ける立場で政治に関わり、蘇我馬子という大きな力をもつ豪族とも関わりながら、新しい国づくりを進めた人物なんだ。
しかも、聖徳太子には「厩で生まれた」「十人の話を同時に聞けた」など、ちょっと不思議な伝説もたくさん残っているよ。この記事では、史実と伝説を分けながら、聖徳太子がどんな人物だったのかを、物語を読むようにわかりやすく見ていこう。
この記事で分かること
- 聖徳太子がどんな人物なのか
- 聖徳太子が天皇の子として生まれたこと
- 「厩戸王」という名前と、厩で生まれた伝説
- 十人の話を同時に聞いたという伝説
- 推古天皇や蘇我馬子と、どんな関係だったのか
- 冠位十二階や憲法十七条の意味
- 遣隋使と、煬帝を怒らせた国書のエピソード
- 聖徳太子の死後、一族に何が起きたのか
- 歴史人物新聞にまとめるポイント
聖徳太子をひとことで言うと?
聖徳太子は、豪族の力が強かった飛鳥時代に、天皇を中心とする国づくりを進めようとした人物だよ。伝説に包まれたところも多いけれど、それだけ長いあいだ「理想の政治家」のように語りつがれてきた人でもあるんだ。
目次
- 聖徳太子とはどんな人?
- 聖徳太子の基本データ
- 聖徳太子は天皇の子だった
- 本当の名前は「厩戸王」?
- 厩で生まれた伝説はなぜ特別なの?
- 十人の話を同時に聞けたという伝説
- 聖徳太子が生きた飛鳥時代とは?
- 推古天皇とはどんな関係だった?
- 蘇我馬子とは協力者だった?それとも実力者?
- 冠位十二階ってどんなしくみ?
- 憲法十七条って何を教えているの?
- 遣隋使で中国とつながる
- 煬帝を怒らせた国書のエピソード
- なぜ仏教を大切にしたの?
- 法隆寺や四天王寺との関わり
- 聖徳太子はどんな性格だった?
- 聖徳太子の死後、一族はどうなった?
- 伝説の人?それとも歴史上の人?
- 聖徳太子が歴史にあたえた影響
- 聖徳太子の年表
- 歴史人物新聞にまとめるなら?
- 聖徳太子の重要語句まとめ
聖徳太子とはどんな人?
聖徳太子は、飛鳥時代に活躍した人物だよ。日本の政治のしくみを整えたり、仏教を大切にしたり、中国との交流を進めたりしたことで知られているんだ。
とくに有名なのは、冠位十二階、憲法十七条、そして遣隋使だよ。これらは、「もっとまとまりのある国をつくるにはどうしたらいいか」と考えた、聖徳太子の時代の国づくりと深く関係しているんだ。
ただし、聖徳太子が一人で全部を決めたスーパーヒーローだった、というわけではないよ。推古天皇という天皇がいて、蘇我馬子というとても力のある豪族がいて、その中で聖徳太子も大切な役割を果たしたと考えると、ぐっと分かりやすくなるんだ。
また、聖徳太子は「十人の話を同時に聞けた」「厩で生まれた」など、不思議な伝説でも知られているよ。こうした伝説からも、昔の人たちが聖徳太子を、ただの政治家ではなく、特別な人物として見ていたことが伝わってくるね。
たろう
くまごろう聖徳太子の基本データ
まずは、聖徳太子の基本データを見てみよう。
聖徳太子の基本データ
| 名前 | 聖徳太子 |
| 別の呼び名 | 厩戸王(うまやどのおう)、厩戸皇子など |
| 生まれた年 | 574年ごろ |
| 亡くなった年 | 622年 |
| 活躍した時代 | 飛鳥時代 |
| 父 | 用明天皇 |
| 関わりの深い人 | 推古天皇、蘇我馬子、小野妹子 |
| 主なできごと | 冠位十二階、憲法十七条、遣隋使、仏教の保護 |
| 何をした人? | 天皇中心の国づくりを進めようとした人物 |
聖徳太子は、天皇の一族として生まれ、若いうちから政治の中心に近い場所にいた人物だよ。そこに、「人の話をよく聞く」「新しいことを学ぼうとする」「仏教を大切にする」といったイメージが重なって、長いあいだ特別な人物として語りつがれてきたんだ。
聖徳太子は天皇の子だった
聖徳太子は、ただ頭がよかったから政治に関わった人ではないよ。もともと、用明天皇の子として生まれた皇子だったんだ。
皇子というのは、天皇の子どもや、天皇の一族の男子を指す言葉だよ。つまり聖徳太子は、国の政治に近い場所に生まれた人物だったんだね。
ただし、天皇の子だからといって、すべてが思い通りになるわけではなかったよ。このころの政治では、蘇我氏や物部氏のような豪族が大きな力をもっていたんだ。天皇の一族といっても、豪族たちとの関係を考えながら政治を進めなければならなかったんだね。
聖徳太子は、そうしたむずかしい時代の中で、推古天皇を助ける立場として政治に関わっていくよ。
たろう
くまごろう本当の名前は「厩戸王」?
「聖徳太子」という名前はとても有名だけれど、これはあとになって広く使われるようになった呼び名だよ。
もともとは、厩戸王、または厩戸皇子などと呼ばれていたとされているんだ。
「聖徳太子」という呼び名には、「すぐれた徳をもつ太子」というような、尊敬の気持ちがこめられているよ。つまり、後の時代の人たちが「この人は特別な人物だった」と考えて、そう呼ぶようになったんだね。
最近の教科書では、「厩戸王(聖徳太子)」のように、両方の名前をいっしょに書くこともあるよ。歴史上の呼び名としての厩戸王と、長いあいだ親しまれてきた聖徳太子という呼び名の両方を大切にしているんだ。
たろう
くまごろう厩で生まれた伝説はなぜ特別なの?
聖徳太子には、「厩で生まれた」という有名な伝説があるよ。
厩とは、馬を飼う場所のことだね。この伝説では、聖徳太子の母が、厩の戸のあたりで太子を産んだと語られることがあるんだ。そこから「厩戸王」という名前になったと説明されることもあるよ。
では、どうして「厩で生まれた」という話が、特別なこととして語られたのかな。
今の感覚だと、「えっ、厩で生まれたの?」と少し不思議に感じるかもしれないね。でも昔の人たちは、すぐれた人物について、「生まれたときからふつうではなかった」と感じられるような物語を語ることがあったんだ。
つまり、この伝説は「場所が変わっていた」というだけの話ではないよ。昔の人たちが、聖徳太子を「生まれたときから特別な人物だった」と考えたことを表しているんだ。
もちろん、本当にそのまま厩で生まれたのかは、はっきり分からないよ。だから、歴史人物新聞に書くときは、「そう伝えられている」と書くとていねいだね。
たろう
くまごろう十人の話を同時に聞けたという伝説
聖徳太子のエピソードとして、いちばん有名かもしれないのが、「十人の話を同時に聞いて、それぞれに正しく答えることができた」という伝説だよ。
もし本当にそんなことができたら、びっくりしてしまうよね。今でも、一度に何人もの話をきちんと聞き分けるなんて、とてもむずかしいことだよ。
この話も、そのまま事実だったかどうかは分からないよ。でも、この伝説からは、「聖徳太子は人の話をよく聞き、とても頭がよく、判断力のある人物だった」と昔の人たちが考えていたことが伝わってくるんだ。
ただ頭がよいだけではなく、人の話をしっかり聞く人として語られているところも、聖徳太子のおもしろいところだね。
たろう
くまごろう聖徳太子が生きた飛鳥時代とは?
聖徳太子が生きた飛鳥時代は、日本の国づくりが大きく動きはじめた時代だったよ。
このころの日本では、まだ今のように国のしくみがしっかり整っていたわけではなかったんだ。天皇はいたけれど、実際には豪族とよばれる力の強い家々が、大きな力をもっていたよ。
豪族とは、たくさんの土地や人々をかかえ、政治にも強い影響をもっていた有力な一族のことだよ。今の感覚でいうと、「とても力のある大きな家」と考えると分かりやすいね。
その中でも有名なのが、蘇我氏と物部氏だよ。とくに蘇我氏は、外国の文化や仏教を取り入れることに積極的だったとされているんだ。
つまり聖徳太子が生きた時代は、「昔ながらのやり方」と「新しい考え方」がぶつかっていた時代でもあったんだ。そんな中で、どうやって国をまとめていくかを考えることは、とても大きな課題だったんだね。
推古天皇とはどんな関係だった?
聖徳太子を考えるときに大切なのが、推古天皇との関係だよ。
推古天皇は、日本ではじめての女性天皇として知られている人物だよ。聖徳太子は、その推古天皇を助ける立場として、政治に関わったとされているんだ。
ここで大事なのは、聖徳太子が「天皇のかわりに全部を決めた人」ではないということだよ。国の中心には推古天皇がいて、その政治を支える人として、聖徳太子や蘇我馬子がいたんだ。
聖徳太子から見ると、推古天皇は血縁のある年長の皇族であり、政治の中心に立つ人物だったよ。太子は、天皇の一族として、推古天皇のもとで国づくりに関わっていったんだね。
想像してみよう。若い太子の前には、力の強い豪族たちがいて、外国からは新しい文化や制度が入ってくる。そんな中で、推古天皇を支えながら、「これからの日本をどうするか」を考えなければならなかったんだ。
たろう
くまごろう蘇我馬子とは協力者だった?それとも実力者?
聖徳太子の時代には、もう一人、とても大きな力をもつ人物がいたよ。蘇我馬子だ。
蘇我馬子は、当時の政治を大きく動かしていた豪族だよ。蘇我氏は、仏教を受け入れることにも積極的で、外国の文化を取り入れようとする考え方をもっていたとされているんだ。
聖徳太子と蘇我馬子は、仏教を大切にすることや、新しい国づくりを進めることでは、同じ方向を向いていたと考えられるよ。だから、二人は協力して政治を進めたと学ばれることが多いんだ。
でも、蘇我馬子はただの手伝い役ではなかったよ。むしろ、当時の政治でとても強い実力をもっていた人物なんだ。だから、聖徳太子・推古天皇・蘇我馬子の関係は、「太子が全部を決め、馬子が従った」という単純なものではないよ。
推古天皇が国の中心にいて、聖徳太子が皇族として政治を助け、蘇我馬子が有力豪族として大きな力をもつ。そうした力のバランスの中で、飛鳥時代の政治は進んでいったんだ。
推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の関係
| 人物 | 立場 | 役割 |
|---|---|---|
| 推古天皇 | 天皇 | 国の中心に立つ人物 |
| 聖徳太子 | 天皇の一族・皇子 | 推古天皇を助け、国づくりに関わった人物 |
| 蘇我馬子 | 有力な豪族 | 政治を大きく動かした実力者 |
たろう
くまごろう冠位十二階ってどんなしくみ?
聖徳太子の仕事として有名なのが、603年の冠位十二階だよ。
これは、役人の位を十二の段階に分けたしくみなんだ。冠の色などによって、どの位の人なのかが分かるようにしたとされているよ。
どうしてこんなしくみを作ったのかな。そこには、「家がえらいから自動的にえらい人になる」のではなく、能力や働きによって評価されるしくみを作りたいという考えがあったとされているんだ。
それまでの日本では、家がどれだけ力をもっているかがとても大切だったよ。でも、国をしっかり動かしていくには、「どの家に生まれたか」だけでなく、「どんな仕事ができるか」も大切になってくるよね。
冠位十二階は、そうした新しい国づくりに向けた一歩として見ると分かりやすいよ。
冠位十二階のポイント
| ポイント | 内容 |
|---|---|
| いつ | 603年 |
| 何をした? | 役人の位を十二の段階に分けた |
| ねらい | 家柄だけでなく、能力や働きも見ようとした |
| 大切な意味 | 天皇中心の国づくりを進める一歩になった |
憲法十七条って何を教えているの?
604年には、聖徳太子が作ったとされる憲法十七条があるよ。
「憲法」と聞くと、今の日本国憲法のようなものを思い浮かべるかもしれないね。でも、聖徳太子の憲法十七条は、今の憲法とは少しちがうよ。
今の憲法は、国のしくみや国民の権利などを定めているものだね。一方、憲法十七条は、主に役人たちに向けて、「政治をするとき、どんな心がまえが大切か」を示したものなんだ。
その中でいちばん有名なのが、「和を以て貴しとなす」という言葉だよ。これは、「みんなが争わず、話し合い、協力することを大切にしよう」という意味で考えると分かりやすいね。
どうして、こんなことを言ったのかな。それは、このころの政治では、力の強い豪族どうしがぶつかったり、自分の一族の利益を優先したりすることが多かったからかもしれないよ。
そんな時代に、「まずは和を大切にしよう」と言うことには、大きな意味があったんだ。聖徳太子は、ただ命令するだけではなく、「どういう気持ちで政治をしたらよいか」まで考えた人物として語られているんだね。
憲法十七条のポイント
| ポイント | 内容 |
|---|---|
| いつ | 604年 |
| だれ向け? | 主に役人たち |
| 何を示した? | 政治を行うときの心がまえ |
| 有名な言葉 | 和を以て貴しとなす |
| 今の憲法との違い | 国民の権利を定めたものではなく、役人の道徳的な心がまえに近い |
遣隋使で中国とつながる
聖徳太子の時代には、中国の隋という大きな国との交流も進んだよ。その代表が、遣隋使だね。
どうして中国と交流しようとしたのかな。それは、隋が進んだ政治のしくみや文化をもつ大きな国だったからだよ。日本にとっては、「学べることがたくさんある国」だったんだ。
このころの日本は、国のしくみをもっと整えようとしていた時代だったよ。だから、遠く海をこえて使いを送り、中国の制度や文化を学ぼうとしたんだね。
遣隋使として有名なのが、小野妹子だよ。小野妹子は男性だけれど、名前に「妹子」とあるので、初めて見たときに少しびっくりする人もいるかもしれないね。
外国へ使いを送ることは、今のように飛行機で行ける時代とはまったくちがうよ。海を渡るのも命がけだったはずなんだ。それでも日本は、外の世界から学ぼうとした。ここにも、聖徳太子の時代の国づくりの本気さが見えてくるね。
煬帝を怒らせた国書のエピソード
遣隋使の話で、とても有名なのが、隋の皇帝・煬帝を怒らせたとされる国書のエピソードだよ。
国書とは、国から国へ送る正式な手紙のことだよ。聖徳太子の時代に送られた国書には、こんな言葉があったと伝えられているんだ。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
少しむずかしいけれど、かんたんに言うと、「日ののぼる国の天子から、日のしずむ国の天子へ手紙を送ります」という意味だよ。
では、どうして煬帝は怒ったのかな。
中国の皇帝から見ると、「天子」と名乗れるのは、本来、中国の皇帝だけという考え方があったんだ。ところが、倭の国、つまり当時の日本の王も、自分のことを「天子」と表した。煬帝からすると、「小さな東の国が、自分と同じ立場のように書いてきた」と感じたのかもしれないね。
つまり、この国書は、中国に対してただへりくだるだけではなく、「日本も一つの国として向き合いたい」という気持ちを示したものとして考えられるよ。
ただし、ここは少し注意も必要だよ。『隋書』に出てくるのは倭国王からの国書で、これを聖徳太子が直接書いたとまでは言い切れないよ。でも、聖徳太子の時代の外交を考えるうえで、とても印象的なエピソードなんだ。
たろう
くまごろうなぜ仏教を大切にしたの?
聖徳太子は、仏教を大切にした人物としても知られているよ。
どうして仏教を大切にしたのかな。それは、仏教がただの新しい宗教だったからではなく、国をまとめるうえでも大切だと考えられたからかもしれないんだ。
仏教には、人の生き方や心の持ち方についての教えがあるよね。また、大きな寺をつくり、人々が同じ信仰をもつことは、国を一つにまとめる力にもなったと考えられているよ。
このころ、仏教を受け入れるかどうかをめぐって、豪族どうしの対立もあったよ。蘇我氏は仏教を受け入れることに積極的で、物部氏はそれに反対したとされているんだ。
だから、仏教を大切にすることは、ただ「お寺を建てる」というだけではなかったよ。新しい文化を受け入れ、国の形をつくっていくこととも深く関係していたんだ。
法隆寺や四天王寺との関わり
聖徳太子といえば、法隆寺や四天王寺との関わりでも有名だよ。
こうした寺は、ただお祈りをする場所というだけではなかったんだ。当時の寺は、文化や学びの中心にもなっていたよ。建物、仏像、経典など、さまざまな文化が集まる場所だったんだね。
法隆寺は、今でも世界最古の木造建築の一つとして知られているよ。そんな建物と聖徳太子が結びついて語られていることからも、この人物が日本文化の中でどれだけ大きな存在だったかが分かるね。
もし飛鳥時代に法隆寺を見に行けたら、きっと「こんな立派なものを作ったのか」と驚いたはずだよ。聖徳太子は、目に見える形でも、新しい時代をつくろうとしていたんだね。
聖徳太子はどんな性格だった?
聖徳太子の性格を、本当の意味でそのまま知ることはむずかしいよ。でも、伝説や仕事の内容から、どんな人物として見られていたのかは考えることができるんだ。
まず感じられるのは、人の話をよく聞く人ということだね。十人の話を同時に聞いたという伝説は、その象徴のようなものだよ。
次に、新しいことを学ぼうとする人でもあったと考えられるよ。隋との交流を進め、外国の制度や文化を学ぼうとしたところからも、それが見えてくるね。
そして、争いより協力を大切にする人というイメージも強いよ。「和を以て貴しとなす」という言葉は、まさにそこを表しているんだ。
聖徳太子の人物像
| 聖徳太子の一面 | どんなところに表れている? |
|---|---|
| 人の話をよく聞く | 十人の話を同時に聞けたという伝説 |
| 新しいことを学ぶ | 遣隋使、冠位十二階など |
| 協力を大切にする | 憲法十七条の「和を以て貴しとなす」 |
| 国づくりに熱心 | 政治のしくみを整えようとしたこと |
| 仏教を大切にする | 寺づくりや仏教の保護 |
こうして見ると、聖徳太子は「力で押し切る人」というより、考え、聞き、学びながら国をよくしようとした人として見ると分かりやすいね。
聖徳太子の死後、一族はどうなった?
聖徳太子は622年に亡くなったよ。でも、太子が亡くなったあとも、その一族は政治の中で大きな意味をもっていたんだ。
とくに大切なのが、聖徳太子の子である山背大兄王だよ。山背大兄王は、次の天皇になれるかもしれない人物の一人として見られていたんだ。
でも、飛鳥時代の政治は、とても複雑だったよ。だれが天皇になるのか、どの豪族が力をもつのかをめぐって、激しい争いが起こることがあったんだ。
聖徳太子の死後、蘇我氏の力はさらに大きくなっていくよ。その中で、蘇我馬子の孫にあたる蘇我入鹿は、山背大兄王をじゃまな存在と見たとされているんだ。
643年、山背大兄王は斑鳩宮を襲われ、最後には一族とともに命を絶ったと伝えられているよ。聖徳太子がめざした国づくりのあとに、こんな悲しい争いが起きたことも、飛鳥時代を考えるうえで大切なんだ。
この話を知ると、聖徳太子の時代が、ただ「すばらしい政治が行われた時代」だったわけではないことが分かるよ。新しい国づくりの裏側には、豪族どうしの力争いや、皇族の中の緊張もあったんだね。
たろう
くまごろう伝説の人?それとも歴史上の人?
聖徳太子には、伝説がたくさんあるよ。だから、「本当にそんなにすごい人だったの?」と思う人もいるかもしれないね。
でも大切なのは、伝説が多いことと、歴史上の人物であることは別だということなんだ。
厩戸王という人物がいたこと、そして飛鳥時代の政治に深く関わったことは、歴史上の大事なこととして考えられているよ。ただ、そのまわりに、あとから人々が「この人は特別だった」と感じて、伝説をたくさん重ねていったんだね。
だから聖徳太子を学ぶときは、「伝説だから全部うそ」と考えるのでもなく、「伝説の中に、その人がどう見られていたかが表れている」と考えると、ぐっとおもしろくなるよ。
聖徳太子が歴史にあたえた影響
聖徳太子は、日本の国づくりに大きな影響をあたえた人物だよ。
その影響は、次のように見ることができるよ。
聖徳太子が歴史にあたえた影響
| 分野 | 聖徳太子の影響 |
|---|---|
| 政治 | 冠位十二階や憲法十七条で、新しい政治の考え方を示した |
| 外交 | 遣隋使によって、中国との交流を進めた |
| 宗教 | 仏教を大切にし、国づくりと結びつけた |
| 文化 | 法隆寺などに代表される文化の発展につながった |
| 後の時代 | 理想の政治家のように見られ、長く特別な人物として語りつがれた |
聖徳太子は、ただ一つの大きな戦いで有名になった人ではないよ。考え方やしくみを残し、日本の国の形を少しずつ整えていったところに、この人物の大きさがあるんだ。
聖徳太子の年表
聖徳太子の主なできごとを年表で見てみよう。
聖徳太子の年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 574年ごろ | 厩戸王(聖徳太子)が生まれる |
| 593年 | 推古天皇を助ける立場として政治に関わる |
| 603年 | 冠位十二階を定める |
| 604年 | 憲法十七条を定める |
| 607年 | 小野妹子らを遣隋使として送る |
| 622年 | 聖徳太子が亡くなる |
| 643年 | 聖徳太子の子・山背大兄王が斑鳩宮を襲われ、一族とともに命を絶ったと伝えられる |
年表で見ると、聖徳太子は政治・外交・宗教のいろいろな面に関わり、その死後も一族が政治の争いに巻きこまれていったことが分かるね。
歴史人物新聞にまとめるなら?
聖徳太子は、歴史人物新聞のテーマとしてとてもまとめやすい人物だよ。伝説、政治、仏教、外国との交流、そして死後の一族の悲劇まで、新聞にできる材料がたくさんあるからなんだ。
人物新聞にするなら、次のような切り口がおすすめだよ。
聖徳太子を歴史人物新聞にまとめるテーマ例
| まとめるテーマ | 新聞タイトルの例 | 調べるポイント |
|---|---|---|
| 伝説 | 十人の話を聞いた!? 聖徳太子のふしぎな話 | 厩で生まれた話、十人の話を聞いた話 |
| 名前 | 聖徳太子?厩戸王?名前にかくれた歴史 | 「聖徳太子」という呼び名と、厩戸王という名前 |
| 政治 | 国のしくみを変えた聖徳太子 | 冠位十二階、憲法十七条 |
| 人物関係 | 推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子のチーム政治 | 三人の立場と役割の違い |
| 外交 | 煬帝を怒らせた!? 遣隋使と国書のなぞ | 遣隋使、小野妹子、日出づる処の天子 |
| 仏教 | 聖徳太子はなぜ仏教を大切にしたの? | 法隆寺、四天王寺、仏教の役割 |
| 死後の一族 | 聖徳太子の一族に何が起きたのか | 山背大兄王、蘇我入鹿、斑鳩宮 |
| 伝説と史実 | 本当?伝説?聖徳太子を調べよう | どこまでが事実で、どこからが伝説かを考える |
歴史人物新聞に入れるとよいこと
- 聖徳太子の基本データ
- 用明天皇の子として生まれたこと
- 本名としての「厩戸王」
- 厩で生まれた伝説と、その意味
- 十人の話を同時に聞いた伝説
- 推古天皇や蘇我馬子との関係
- 冠位十二階・憲法十七条・遣隋使
- 煬帝を怒らせた国書のエピソード
- 仏教や寺との関わり
- 聖徳太子の死後、一族に何が起きたのか
- 自分が「どんな人物だと思うか」という感想
聖徳太子を新聞にまとめるときは、「何をした人か」だけでなく、どうしてそんなことをしたのか、そして人々からどんな人物だと思われていたのかまで考えると、ぐっと深い新聞になるよ。
歴史人物新聞の作り方を知りたい人は、小学生向け「歴史人物新聞」の作り方や、中学生向け「歴史人物新聞」の作り方も参考にしよう。
聖徳太子の重要語句まとめ
最後に、聖徳太子を学ぶときに覚えておきたい重要語句をまとめるよ。
聖徳太子の重要語句
| 語句 | 意味・ポイント |
|---|---|
| 聖徳太子 | 飛鳥時代に活躍し、新しい国づくりを進めた人物として知られる |
| 厩戸王 | 聖徳太子のもとの名前として知られる呼び名 |
| 用明天皇 | 聖徳太子の父にあたる天皇 |
| 推古天皇 | 聖徳太子が助けた女性天皇 |
| 蘇我馬子 | 当時の有力な豪族で、政治の実力者 |
| 冠位十二階 | 役人の位を十二に分けた制度。能力や働きを見る考え方につながる |
| 憲法十七条 | 役人の心がまえを示したもの。「和を以て貴しとなす」が有名 |
| 遣隋使 | 中国の隋へ送った使い |
| 小野妹子 | 遣隋使として知られる人物 |
| 煬帝 | 隋の皇帝。倭国からの国書に怒ったと伝えられる |
| 日出づる処の天子 | 遣隋使の国書に出てくる有名な言葉 |
| 仏教 | 聖徳太子が大切にした宗教 |
| 法隆寺 | 聖徳太子と関わりが深い寺 |
| 四天王寺 | 聖徳太子と関わりが深い寺 |
| 山背大兄王 | 聖徳太子の子。のちに政治の争いに巻きこまれた人物 |
| 飛鳥時代 | 聖徳太子が活躍した時代 |
聖徳太子は、戦いで有名になった人物というより、考え方や国のしくみを整えることで大きな足あとを残した人物だよ。
そして、たくさんの伝説を生み出すほど、人々に「特別な人物」と思われてきた人でもあるんだ。そんなふうに見ると、聖徳太子は、ただ暗記する名前ではなく、ぐっと身近でおもしろい人物に感じられるね。
運営者情報
yumineko
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。 ※サイト全体の運営実績についてはこちらにまとめています。

