社会6

歴代の天皇一覧 小学生でもわかる言葉で歴代の天皇の特徴やエピソードをまとめてみた

yumineko
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神話の世界で語られている天皇

名称 在位期間 エピソード
1 神武天皇
(じんむてんのう)
紀元前660〜585 日本神話で語られている伝説上の天皇。日本を作ったと言われている。
「日本書紀(にほんしょき)」「古事記(こじき)」では、「天照大神「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の孫といわれている。
神武天皇が即位したとされている2月11日は、日本の建国記念日になっている。
2 綏靖天皇
(すいぜいてんのう)
紀元前581〜549
3 安寧天皇
(あんねいてんのう)
紀元前549〜511
4 懿徳天皇
(いとくてんのう)
紀元前510〜477
5 孝昭天皇
(こうしょうてんのう)
紀元前475〜393
6 孝安天皇
(こうあんてんのう)
紀元前392〜291
7 孝霊天皇
(こうれいてんのう)
紀元前290〜215
8 孝元天皇
(こうげんてんのう)
紀元前214〜158
9 開化天皇
(かいかてんのう)
紀元前158〜98
10 崇神天皇
(すじんてんのう)
紀元前97〜30
11 垂仁天皇
(すいにんてんのう)
紀元前29〜紀元後70
12 景行天皇
(けいこうてんのう)
71〜130
13 成務天皇
(せいむてんのう)
131〜190
14 仲哀天皇
(ちゅうあいてんのう)
192〜200
15 応神天皇
(おうじんてんのう)
270〜310

 

第16代〜第50代の天皇

 

名称 在位期間 エピソード
16 仁徳天皇
(にんとくてんのう)
313〜399 日本最大の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)である大山古墳(だいせんこふん)は仁徳天皇の古墳と考えられている。
17 履中天皇
(りちゅうてんのう)
400〜405
18 反正天皇
(はんぜいてんのう)
406〜410
19 允恭天皇
(いんぎょうてんのう)
412〜453
20 安康天皇
(あんこうてんのう)
453〜456
21 雄略天皇
(ゆうりゃくてんのう)
456〜479
22 清寧天皇
(せいねいてんのう)
480〜484
23 顕宗天皇
(けんぞうてんのう)
485〜487
24 仁賢天皇
(にんけんてんのう)
488〜498
25 武烈天皇
(ぶれつてんのう)
498〜506
26 継体天皇
(けいたいてんのう)
507〜531 事実上(実際に)現在の天皇の祖先となる天皇。
27 安閑天皇
(あんかんてんのう)
531〜535 継体天皇の皇子。66歳で即位して、4年で崩御(ほうぎょ:亡くなること)した。
即位していた時の政治のことが「安閑記」に書かれている。
関東から九州まで屯倉(みやけ:大和政権が管理する倉庫のこと。大和政権が管理している土地であるという意味もある。)をたくさん建てたと書かれている。
28 宣化天皇
(せんかてんのう)
535〜539
(古墳時代)
継体天皇の皇子。
先代の安閑天皇には皇子がいなかったので、異母弟(いぼてい:お母さんの違う兄弟のこと)の宣化天皇が69歳で即位した。
この宣化天皇が即位した時に大臣になったのが蘇我稲目(そがのいなめ)
任那(みまな:朝鮮半島にあった大和政権の拠点)が新羅(しんら:敵対していた国)に攻められたときに援軍を送った。
29 欽明天皇
(きんめいてんのう)
539〜571
(古墳時代)
継体天皇の皇子。
蘇我稲目は、自分の娘を欽明天皇の后(きさき)にした。生まれた皇子は用明天皇になり、さらに生まれた皇女は推古天皇になった。
552年に友好国(仲良くしている国)の百済(くだら)から仏像が伝わると、蘇我氏と物部氏が「仏教を受け入れるかどうか」でケンカ。
欽明天皇は蘇我氏の「仏教を受け入れる」を認めたが、翌年に疫病(えきびょう)がはやり、物部氏が「仏教を受け入れたのが原因」と責めた。
そのため次代の敏達天皇の時には寺は燃やされ、仏像は捨てられてしまい、しばらく仏教は普及しなかった。
571年に病気で死亡。「新羅(しんら:敵対していた国)を倒して、任那(みまな:朝鮮半島にあった大和政権の拠点)をもう一度栄えさせてほしい」と言い残したとのこと。
30 敏達天皇
(びだつてんのう)
572〜585
(飛鳥時代)
欽明天皇の皇子。
大臣は物部守屋、さらに蘇我馬子も大臣になった。
敏達天皇は仏教反対派だったので、蘇我馬子が寺を建てて仏像を祭った時に疫病が発生すると、「疫病が流行ったのは仏教を受け入れたから」という物部氏の意見を受けて、585年(と言われている)に寺と仏像を燃やし、仏教を禁止した。
その年に、病気が悪化して崩御した。
皇子はいなかったので、異母弟の用明天皇が即位した。
31 用明天皇
(ようめいてんのう)
585〜587
(飛鳥時代)
欽明天皇の第四皇子。
聖徳太子(厩戸皇子)のおとうさん。
蘇我稲目の孫。仏教賛成派。
即位して2年で病気で亡くなってしまった。用明天皇のために聖徳太子は法隆寺を建てた。
大臣は物部守屋と蘇我馬子。
32 崇峻天皇
(すしゅんてんのう)
587〜592
(飛鳥時代)
欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の娘。(敏達天皇・用明天皇・推古天皇とは異母兄弟)
力を持ちすぎた蘇我氏が、やりたい放題になって「天皇さえも暗殺してしまった」と学習したけど、それは崇峻天皇のこと。
蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したと言われている。
崇峻天皇は、自分よりも政治の権力を握っていた蘇我馬子のことが気に入らなかったため、592年に猪を献上(もらった)されたときに、「この猪の首を切るように、あいつの首を切りたい」と言った。
それを聞いた蘇我馬子は、自分が崇峻天皇に嫌われていると考え、暗殺した。
天皇に仕えていた人間が天皇を殺害したことがハッキリしているのは、この例だけ。
33 推古天皇
(すいこてんのう)
592〜628 初めての女性天皇。欽明天皇の皇女。蘇我馬子の姪で、聖徳太子の叔母さん。聖徳太子は推古天皇の摂政(せっしょう)をした。75歳で崩御。
34 舒明天皇
(じょめいてんのう)
629〜641 敏達天皇の皇子の皇子、つまり孫。(お父さんは天皇にはなっていない。)先代の推古天皇は次の天皇を誰にするか決めずに亡くなったため、蘇我蝦夷が舒明天皇を天皇にした。(理由は諸説あり)
35 皇極天皇
(こうぎょくてんのう)
642〜645 女性の天皇。舒明天皇のお后さま天智天皇の母。孝徳天皇に譲位(天皇の位を譲ること)した初めての天皇。
36 孝徳天皇
(こうとくてんのう)
645〜654
37 斉明天皇
(さいめいてんのう)
655〜661 皇極天皇がもう一度天皇をして、斉明天皇となったよ。
38 天智天皇
(てんじてんのう)
668〜671 中大兄皇子が天皇に即位したのが天智天皇。
舒明天皇と皇極天皇の第一皇子。
力を持ちすぎた豪族の蘇我入鹿をやっつけた。(乙巳の変)、天皇中心の国づくりをするために政治のやり方を新しくした(大化改新)。
670年には、「土地と民はすべて国のものにする」ために、日本初の戸籍(こせき)である「庚午年籍(こうごねんじゃく)」「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作った。
天智天皇の弟皇子は、天武天皇。
登場するページ→小学6年歴史「大化の改新」
万葉集には天智天皇の4つの歌が載っている。百人一首には「秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ」という歌が収められている。
皇子時代の660年に日本で初めて水時計(漏刻:ろうこく)を作った。
671年には、鐘鼓(しょうこ:鐘と太鼓のこと)を打って時間を知らせる、いわゆる「時報」を始めたといわれている。
39 弘文天皇
(こうぶんてんのう)
671〜672
40 天武天皇
(てんむてんのう)
673〜686 天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が天皇になったのが天武天皇だよ。
天智天皇が亡くなった時、天智天皇の皇子の「大友皇子(おおとものみこ)」と672年に天皇の座を争って戦った。(壬申の乱:じんしんのらん)。
大海人皇子が大友皇子に勝って、翌年の763年に飛鳥浄御原宮(あすかきよはらのみや)で天皇に即位した。
701年に作られた「大宝律令(たいほうりつりょう)」を作る、と発表した天皇。
天武天皇のころから、「大王」のかわりに「天皇」という称号が使われるようになったと言われているよ。
41 持統天皇
(じとうてんのう)
690〜697 女性の天皇。天武天皇のお妃さま。
都を藤原京に遷都(せんと:都を他の土地に移すこと)をした天皇だよ。
42 文武天皇
(もんむてんのう)
697〜707 701年に大宝律令が制定(せいてい:規則として決められること)された。
43 元明天皇
(げんめいてんのう)
707〜715 都を平城京に遷都(せんと:都を他の土地に移すこと)した天皇だよ。
44 元正天皇
(げんしょうてんのう)
715〜724
45 聖武天皇
(しょうむてんのう)
724〜749 藤原鎌足の息子、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘の宮古が母。
同じく藤原不比等の娘(異母姉妹)の光明子(こうみょうし)がお妃さま。
皇族以外の女性が皇后になったのは、これが初めて。
聖武天皇と光明子の間に生まれた皇女は、孝謙天皇。
の文化や仏教を取り入れることに力を入れた天皇。世の中を平和にし、人々を救おうと東大寺の大仏を作った。聖武天皇が大切にしていた外国の品々は正倉院に保管されている。
登場するページ→6年歴史「奈良時代」「奈良時代」
46 孝謙天皇
(こうけんてんのう)
749〜758 聖武天皇と光明子の皇女。
聖武天皇と光明子の間には、皇子が生まれなかったので、女帝になった。
史上6人目の女帝。天武天皇の系列では最後の天皇。
ずっと独身だった。もちろん子供もいない。
47 淳仁天皇
(じゅんにんてんのう)
758〜764
48 称徳天皇
(しょうとくてんのう)
764〜770 孝謙天皇がもう一度天皇に即位した天皇。
この後は、109代の明正天皇まで
女帝はいない。
子供がいないまま亡くなるとき、次の天皇は白壁王(しらかべおう)が指名されたと言われているが、色々説がある。
49 光仁天皇
(こうにんてんのう)
770〜781 称徳天皇が亡くなるとき、天皇になるよう指名された白壁王が即位して光仁天皇になった。
最高齢の60歳で即位したと言われている。
50 桓武天皇
(かんむてんのう)
781〜806 光仁天皇の皇子。
平安京へ都を移した。
平氏は桓武天皇の子孫。
藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件にかかわったとして、捕まった早良親王(さわらしんのう)は弟皇子。
早良親王は無実を訴えて、絶食し、亡くなった。
桓武天皇はその怨念が怖くて都を移した。

第51~100代までの天皇

名称 在位期間 エピソード
51 平城天皇
(へいぜいてんのう)
806~809 桓武天皇の皇子。
諡号の「平城」は、平城京を愛していた天皇だったことからつけられたと言われている。
52 嵯峨天皇
(さがてんのう)
809~823 桓武天皇の皇子。
諡号の「嵯峨」は、お墓が作られた地名。
53 淳和天皇
(じゅんなてんのう)
823~833 桓武天皇の皇子。
54 仁明天皇
(にんみょうてんのう)
833~850 嵯峨天皇の皇子。
55 文徳天皇
(もんとくてんのう)
850~858
56 清和天皇
(せいわてんのう)
858~876 摂関政治が始まった。
源氏は、清和天皇の子孫。
57 陽成天皇
(ようぜいてんのう)
876~884
58 光孝天皇
(こうこうてんのう)
884~887
59 宇多天皇
(うだてんのう)
887~897 一度、臣籍降下(しんせきこうか:皇族を離れて、姓をもらって臣下になること)をした後に即位した
60 醍醐天皇
(だいごてんのう)
897~930 摂政や関白をおかず、天皇みずから政治を行う「親政:しんせい」をおこなった天皇として有名。
父の宇多天皇のころから仕えていた菅原道真(すがわらのみちざね)が謀反(むほん:天皇にさからうこと)を計画しているというウワサを信じて、菅原道真を大宰府へ左遷(させん:出世の反対)させてしまう。
その後、菅原道真が大宰府でなくなってしまうと、清涼殿(せいりょうでん)に雷が落ちるなどして、「菅原道真の怨霊のしわざではないか」と考えられた。
そのショックもあって、醍醐天皇はしばらくして亡くなり、ある物語では醍醐天皇は地獄で宇多天皇と菅原道真にずっと苦しめられていると語られている。※宇多天皇は、菅原道真を大切にするよう醍醐天皇に言っていたのに、それを破ったから怒っているとのこと。
醍醐天皇という諡号(しごう:亡くなった天皇につけられる名前)は、縁があった「醍醐寺(だいごじ)」からつけられたと言われている。
61 朱雀天皇
(すざくてんのう)
930~946
62 村上天皇
(むらかみてんのう)
946~967
63 冷泉天皇
(れいぜいてんのう)
967~969
64 円融天皇
(えんゆうてんのう)
969~984
65 花山天皇
(かざんてんのう)
984~986
66 一条天皇
(いちじょうてんのう)
986~1011 清少納言が仕えた定子は一条天皇の中宮。紫式部が仕えた彰子も一条天皇の中宮。※中宮は、正式な奥さんのこと。
諡号の「一条」は、譲位後に住んだ「一条院」からつけられたと言われている。
67 三条天皇
(さんじょうてんのう)
1011~1016 諡号の「三条」は、譲位後に住んだ「三条院」からつけられたと言われている。
68 後一条天皇
(ごいちじょうてんのう)
1016~1036 諡号の「後一条」は、一条天皇と同じく譲位後に住んだのが「一条院」なので、一条天皇と区別するために「後」がつけられている。
69 後朱雀天皇
(ごすざくてんのう)
1036~1045 藤原道長の娘の嬉子がお妃さまになって、生まれた皇子は後冷泉天皇になった。
道長の息子の頼通の娘もお妃さまになったが、皇子は生まれなかった。
三条天皇の皇女の禎子内親王(ていしないしんのう)がお妃になって、生まれた皇子は後三条天皇になった。
禎子内親王が頼通と仲が良くなかったので、後三条天皇も頼通とは疎遠(そえん:縁がないこと)になった。
そのため、藤原氏の力が弱くなった。
70 後冷泉天皇
(ごれいぜいてんのう)
1045~1068 後朱雀天皇の皇子。藤原道長の息子の頼通(よりみち)の娘である寛子(かんし・ひろこ)がお妃さまになった。
後冷泉天皇と寛子の間には、けっきょく皇子が生まれることはなく、藤原氏の力が弱くなったキッカケのひとつ。
71 後三条天皇
(ごさんじょうてんのう)
1068~1072 藤原氏とは縁の弱い後三条天皇が即位したことが、平安時代にずっと力を持ち続けていた藤原氏の力が弱くなったキッカケ。
それまで寄進系荘園が増えてしまい、税が集められなくなって困っていたところ、東宮時代(皇太子のころのこと)に学士(がくし:教育係のこと)をしていた大江匡房(おおえのまさふさ)の建議(けんぎ:意見のこと)を受けて「延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)」を発令した。
これによって券契(けんけい:証拠となる文書)のハッキリしない荘園は国のものとされた。こうして、摂関家の荘園のほとんどが国のものとなった。
72 白河天皇
(しらかわてんのう)
1072~1086 退位して、天皇の後ろから政治を動かす「院政(いんせい)」を始めた天皇。
なんと堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の3代の天皇のあいだ院政を行った。
実は、鳥羽天皇の皇子の崇徳天皇は白河天皇の息子であるという話もある。
諡号の「白河」は、天皇が住んだ御所のあった地名。
73 堀河天皇
(ほりかわてんのう)
1086~1107 白河天皇天皇の第二王子。
8歳で即位した。
とても上品な性格で、「末代の賢王(お釈迦さまが亡くなって1500年がたち、仏教の教えの効力が無くなってしまう時期に現れた素晴らしいリーダー」という意味。)」と言わる賢帝(かしこくて、正しい判断をする天皇ということ)。学問・和歌・管弦に才能を発揮した。
生まれながらに病弱で、天皇に在位のまま28歳で亡くなった。
74 鳥羽天皇
(とばてんのう)
1107~1123 堀河天皇の皇子、けれど、お母さんが産後すぐ亡くなってしまったので、白河天皇に引き取られて育てられた。
皇子の崇徳天皇が、実は白河天皇の息子で「自分の息子ではない」可能性があったので、崇徳天皇を政治の世界から追い出そうとしたと言われている。
そのため、崇徳天皇を退位させて弟の近衛天皇や後白河天皇を即位させた。
さらに後白河天皇の皇子である二条天皇を即位させようとして、それが崇徳天皇と後白河天皇が争う「保元の乱」のキッカケになったと言われている。
75 崇徳天皇
(すとくてんのう)
1123~1141 保元の乱で負けてしまって、天皇に逆らった罪として讃岐(さぬき)に流されてしまった天皇。
上皇が流されるのは400年ぶりのことだった。
崇徳天皇が上皇になっていたときに、弟である後白河天皇と天皇の座(正確には、自分の息子を天皇にさせたかった)を争って戦ったのが保元の乱。
保元の乱では、藤原氏、平氏、源氏それぞれが親子や兄弟も入り乱れて戦った。
保元の乱をキッカケに、平氏は政治の力を持つようになった。
鳥羽天皇の皇子だけれど、実は白河天皇の子供という話もあり、そのせいで鳥羽天皇にダマされて政治の世界から追い出されてしまったと言われている。
讃岐で亡くなってしまうと、都では色々不幸なことが起こり、人々は崇徳天皇の呪いだと恐れた。
そのため、「平将門(たいらのまさかど)」「菅原道真(すがわらのみちざね)」に並んで、日本三大怨霊の1人になっている。
76 近衛天皇
(このえてんのう)
1141~1155 鳥羽天皇の皇子。鳥羽天皇が崇徳天皇に院政をさせないためにダマして退位させ、近衛天皇を即位させたとも言われている。
しかし、近衛天皇は若いころに亡くなってしまう。そこで鳥羽天皇は第4皇子の後白河天皇を即位させる。
77 後白河天皇
(ごしらかわてんのう)
1155~1158 鳥羽天皇の第4皇子。譲位してから34年間も院政を行った。保元の乱では、崇徳上皇と天皇の座を争って戦った。保元の乱で活躍した平清盛平清盛を太政大臣にするなどしていたが、力を持ち過ぎた平氏をおさえるために平氏の荘園を没収してしまった。
それに怒った平清盛に幽閉(閉じ込められること)された。
後白河天皇の皇子の以仁王(もちひとおう)が、平氏を倒そうとして、源氏に「平氏をやっつけろ!」と命令を出した。
この命令が、源義朝を動かして、壇ノ浦の戦いのキッカケになった。
78 二条天皇
(にじょうてんのう)
1158~1165 後白河天皇の皇子。
79 六条天皇
(ろくじょうてんのう)
1165~1168 なんとたったの生後七か月で天皇に即位したよ。歴代で最年少の天皇。
80 高倉天皇
(たかくらてんのう)
1168~1180 後白河天皇の皇子。母は平滋子。
平氏が全盛期だった頃の天皇。
お妃さまは平清盛の娘の平徳子(たいらのとくこ)。
平徳子との間に皇子が生まれ、安徳天皇になった。
81 安徳天皇
(あんとくてんのう)
1180~1185 高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘の徳子。たった1才3か月で天皇に即位した。6歳のころ、壇ノ浦の戦いで平氏が源氏に負けることが確実になると、祖母の平時子に抱えられて神器と一緒に入水して亡くなったと平家物語に書かれている。
82 後鳥羽天皇
(ごとばてんのう)
1183~1198 高倉天皇の第四皇子。源頼朝が亡くなって、後継ぎもいなくなってしまってバタバタな鎌倉幕府を倒そうとした天皇。その時の反乱のことを「承久の乱(じょうきゅうのらん)」と言う。
でも負けてしまい、承久の乱のあと、隠岐(おき)に流されてしまった。
1239年にそのまま隠岐で亡くなった。
安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したので、2年間が重なっている。
安徳天皇が入水して亡くなるとき、三種の神器の宝剣は海に沈んだまま見つからなかった。そのため、三種の神器が揃わないまま即位することになってしまった。
後鳥羽天皇にとって、「三種の神器」が揃わないままの天皇ということは「コンプレックス」だったと言われている。
「神器が無い」分、なんとか天皇としての力を示そうとして幕府を倒そうとしていたという説もある。
歌の才能があり、小倉百人一首に選ばれている。
「ひともをし ひともうらめし あじきなく よをおもふゆえに ものおもふみは」(人間をいとおしいとも、恨めしいとも思う。この世はつまらないと思うために悩んでしまう私にとっては)
83 土御門天皇
(つちみかどてんのう)
1198~1210 後鳥羽天皇の第一皇子。後鳥羽上皇が1198年に譲位し、3歳で即位した(政治は、後鳥羽上皇が院政を行った)(占いの結果で即位することになったという話も)。とても優しい性格だったので、「これでは幕府に対抗できない」と考えた後鳥羽上皇は、土御門天皇天皇に退位するようにせまって異母弟(いぼてい:お母さんの違う兄弟)の順徳天皇が即位した。承久の乱では、土御門天皇天皇は何も関係がなかったのに、「後鳥羽天皇が流されてしまったのに、自分が京都にそのままいるのは申し訳ない」と自分から進んで土佐(とさ:現在の高知県)に流された(その後、幕府によって、もう少し京都に近い阿波国(あわのくに:現在の徳島)に流された。ちなみに、後鳥羽上皇が承久の乱を計画したときには、土御門天皇は「今はその時ではない」と止めていたと言われている。
37歳で亡くなった。
皇子の後嵯峨天皇は、承久の乱の1年前に生まれていて、土御門天皇が土佐に流されるとお母さん側で育てられ、四条天皇が急に亡くなってしまって天皇に即位するまで苦しい生活をしていたと言われている。
「土御門」の諡号は、京都の内裏の名前。
84 順徳天皇
(じゅんとくてんのう)
1210~1221 後鳥羽天皇の第三皇子。土御門天皇の異母弟(いぼてい:お母さんが違う兄弟)。やさしい性格の土御門天皇と違って、とてもエネルギッシュで激しい性格だったということで、幕府にも対抗できるのではと後鳥羽上皇の期待された。
そのため後鳥羽上皇は土御門天皇に退位するようにせまって、順徳天皇が14歳のときに即位させた。
後鳥羽上皇が承久の乱を計画すると、後鳥羽上皇以上に倒幕に積極的だったと言われている。
承久の乱に備えて1221年に退位し、皇子の仲恭天皇に譲位した。
承久の乱のあとは、幕府によって佐渡(さど)に流されてしまった。
佐渡で21年過ごし、1242年にそのまま亡くなった。
歌の才能があり、小倉百人一首に1首入っている。
「ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なほあまりある むかしなりけり」(昔は栄えていた内裏の屋根には「ノキシノブ(草の名前)」がぶら下がっているくらい落ちぶれてしまった。)醍醐天皇や村上天皇の時代のように、皇室や貴族が栄えていた時代が懐かしい、という思いをこめた歌。
85 仲恭天皇
(ちゅうきょうてんのう)
1221~1221 承久の乱がおこったときの天皇
86 後堀河天皇
(ごほりかわてんのう)
1221~1232
87 四条天皇
(しじょうてんのう)
1232~1242 後堀河天皇の皇子。1232年に後堀河天皇が譲位したので、2歳で即位した。12歳の時、女房(にょうぼう:皇居などで働く女性のこと)を転ばせようと、イタズラで「よく滑る石」を撒いておいたところ、自分が滑ってしまい、頭を打って亡くなってしまったという話は有名。まだ12歳だったので子供がおらず、後堀河天皇の血統はここでストップしてしまう。
代わりに後鳥羽天皇の血統の後嵯峨天皇が即位した。
88 後嵯峨天皇
(ごさがてんのう)
1242~1246 後鳥羽天皇の血統である、土御門天皇の皇子。承久の乱の影響で土御門天皇が土佐に流されてしまうと、お母さん側で育てられたが苦しい生活を送る。四条天皇が亡くなってしまって「誰を次の天皇にするか」となったとき、幕府は「同じ後鳥羽天皇(承久の乱で幕府に反発した天皇)の子孫でも、幕府にあまり反発しなさそうな後嵯峨天皇を即位させた(順徳天皇の血統を避けたということ)。
即位して4年で皇子(後深草天皇)に天皇の座を渡し、院政を始める。
諡号の「後嵯峨」は、「嵯峨天皇」と同じく嵯峨にお墓がつくられたから。
89 後深草天皇
(ごふかくさてんのう)
1246~1259 後嵯峨天皇の皇子。
4歳で即位し、後嵯峨天皇が院政を行った。
まだ17歳のうちに後嵯峨天皇に「弟に天皇の座を譲るように」と命令され、しぶしぶ退位する。(理由は、弟の方が両親に愛されていたとのこと・・)
後嵯峨天皇はさらに後深草天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子を皇太子に立てて亡くなってしまう。
これ以降、後深草天皇の子孫(持明院統:じみょういんとう)と、亀山天皇の子孫(大覚寺統:だいかくじとう)で天皇の座を争うようになる。
90 亀山天皇
(かめやまてんのう)
1259~1274 後嵯峨天皇の皇子で、後深草天皇の弟皇子。
後嵯峨天皇の命令で後深草天皇から天皇の座を譲られる。
91 後宇多天皇
(ごうだてんのう)
1274~1287 後醍醐天皇の父。
92 伏見天皇
(ふしみてんのう)
1287~1298
93 後伏見天皇
(ごふしみてんのう)
1298~1301
94 後二条天皇
(ごにじょうてんのう)
1301~1308
95 花園天皇
(はなぞのてんのう)
1308~1318 伏見天皇の第四皇子。光厳天皇を育てた。その時「誡太子書」を書いた。
諡号の「花園」は、御所から。(天皇みずから「花園にして」とも言っていたとのこと。
96 後醍醐天皇
(ごだいごてんのう)
1318~1339 大覚寺統の天皇。
後宇多天皇の皇子。
天皇が自分で政治をおこなう「親政(しんせい)」を絶対と考え、院政摂関政治、幕府を認めない考えをもっていた。
親政をおこなった「醍醐天皇」を尊敬していたので、名前も自ら「後醍醐天皇」とするよう決めた。(加後号:かごごう)
大覚寺統と持明院統で交代に天皇に即位するルールを無視して自分の子孫に天皇を継がせていこうと、幕府を倒す計画を立てる。
1度目は計画がバレて失敗、2度目は戦いに負け、幕府によって隠岐(おき)に流されてしまう。
しかし隠岐から脱出し、1333年にとうとう鎌倉幕府を倒す。
幕府を倒したあとは、建武(けんむ)と定めて、新しい政治を行った。(建武の新政)けれど、公家(くげ)ばかりが重要とされる政治に人々や武士が反感をもった。
幕府を倒す時に後醍醐天皇に味方していた足利尊氏(あしかがたかうじ)が幕府を作るのではないかと疑い、倒そうとする。足利尊氏は京都で新しい天皇を立て、足利軍に負けた後醍醐天皇は奈良の吉野に逃げて、自分こそ本当の天皇と主張した。このため、京都の(北朝)と奈良の(南朝)の2つの朝廷ができてしまった(南北朝時代)。
97 後村上天皇
(ごむらかみてんのう)
1339~1368
98 長慶天皇
(ちょうけいてんのう)
1368~1383
99 後亀山天皇
(ごかめやまてんのう)
1383~1392
100 後小松天皇
(ごこまつてんのう)
1382~1412 南北朝が統一されたときの天皇

101~今上天皇まで

 

名称 在位期間 エピソード
101 称光天皇
(しょうこうてんのう)
1412~1428
102 後花園天皇
(ごはなぞのてんのう)
1428~1464
103 後土御門天皇
(ごつちみかどてんのう)
1464~1500 応仁の乱がおこったときの天皇
104 後柏原天皇
(ごかしわばらてんのう)
1500~1526
105 後奈良天皇
(ごならてんのう)
1526~1557
106 正親町天皇
(おおぎまちてんのう)
1557~1586
107 後陽成天皇
(ごようぜいてんのう)
1586~1611 豊臣秀吉が天下を統一したときの天皇
108 後水尾天皇
(ごみずのおてんのう)
1611~1629 徳川幕府禁中並公家諸法度を制定したときの天皇
109 明正天皇
(めいしょうてんのう
1629~1643
110 後光明天皇
(ごこうみょうてんのう)
1643~1654
111 後西天皇
(ごさいてんのう)
1654~1663
112 霊元天皇
(れいげんてんのう)
1663~1687
113 東山天皇
(ひがしやまてんのう)
1687~1709
114 中御門天皇
(なかみかどてんのう)
1709~1735
115 桜町天皇
(さくらまちてんのう)
1735~1747
116 桃園天皇
(ももぞのてんのう)
1747~1762
117 後桜町天皇
(ごさくらまちてんのう)
1762~1770
118 後桃園天皇
(ごももぞのてんのう)
1770~1779
119 光格天皇
(こうかくてんのう)
1779~1817 現在の天皇陛下は、光格天皇の直系の子孫。
120 仁考天皇
(にんこうてんのう)
1817~1846
121 孝明天皇
(こうめいてんのう)
1846~1866 ペリーが来航したときの天皇
122 明治天皇
(めいじてんのう)
1867~1912 明治維新(めいじいしん)がおこったころの天皇。明治天皇以降から、「元号+天皇」とお呼びするようになる。
123 大正天皇
(たいしょうてんのう)
1912~1926
124 昭和天皇
(しょうわてんのう)
1926~1989
125 上皇さま 1989~2019 生前退位をされた。
126 今上天皇・天皇陛下 2019~ 今上天皇(きんじょうてんのう)とは今現在、皇位(こうい)につかれている天皇のこと。元号は令和。

天皇にまつわる豆知識

大王(おおきみ)から天皇になったのはいつ?

古墳時代に大和朝廷が誕生して、トップのことを「大王(おおきみ)」と呼ぶようになったね。
大化の改新で、中央集権国家(政治を行う権利が、中央の政府に集まった国家のこと。大化の改新で、土地や民はすべて国のものとされたよね。)が本格的にスタートし、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:のちの天智天皇)の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ:のちの天武天皇)が即位したときから、「天皇」と呼ばれるようになったという説が有力だよ。

天皇の呼び方について

天皇って、明治天皇とか昭和天皇とか、「元号+天皇」でお呼びするよね。
でも平成天皇とか、令和天皇って呼び方は聞いたことないんだけど・・どうして?
くまごろう
くまごろう
実は、「〇〇天皇」という呼び方は、諡号(しごう)といって、「天皇が崩御(ほうぎょ:お亡くなりになること)されたあとに贈るものなんだ。

それまでは「御門(みかど」とか、「今上帝(きんじょうてい)」などと呼ばれるよ。

諡号は、その天皇の人生をあらわしたり、性格や好きなもの、縁のあったもの、住んでいた地名などからつけられるよ。
※単純に地名などのばあいは、諡号と言わずに「追号(ついごう)」ともいうよ。

たろう
たろう
時々「後〇〇天皇」というのがあるけど??

たとえば住んでいたところが同じ天皇がいた場合、同じ名前だとややこしいので、区別をつけるために「後〇〇天皇」とつけることがあるよ。
例:一条天皇と後一条天皇
「一条」は住んでいた御所の名前

「後」をつけるパターンのもう一つは、天皇みずからが「自分の諡号は○○天皇と同じにしてくれ!」と決めるパターン。

尊敬する天皇の名前をつけたりするんだ。
例:醍醐天皇を尊敬していたので、「後醍醐天皇」。
白河天皇を尊敬していたので、「後白河天皇」。

くまごろう
くまごろう
こういうパターンは「加後号(かごごう)」と呼ばれるよ。
この加後号の天皇は、武士と戦ったり、幕府を倒す計画をしたりと結構パワフルな人が多いよ(笑)

ちなみに、それぞれの天皇さまごとに元号が定められるようになったのは明治以降で、それからは諡号には元号がそのまま使われるようになっているよ。
なので、「明治+天皇」、「昭和+天皇」と呼ばれているんだね。

平成の天皇である明仁(あきひと)さまのことは「上皇陛下(じょうこうへいか)」、「明仁上皇(あきひとじょうこう)」とお呼びするよ。

令和の天皇である徳仁(なるひと)さまは、「今上天皇(きんじょうてんのう」、「天皇陛下(てんのうへいか)」、「徳仁天皇(なるひとてんのう)」とお呼びするんだ。

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yumineko
2019年の長女の高校受験時、訳あって塾にはいかず自宅学習することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。 志望校にトップ10位内で合格を果たす。 勉強をみるにあたって感じたのは、教科書の説明には子供には分かりづらい部分が多く、子供にイメージしやすく噛み砕いて説明するのがとても有効だということ。 同じように教科書の内容が分かりづらいと感じている子供たちの ヒントになれば、との思いで「教科書を分かりやすく通訳するサイト」創設。

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