「故郷(魯迅)」伝えたいこと・人物相関図・あらすじと内容を解説
中学校3年生の光村図書の教科書に掲載されている「故郷(魯迅)」について、あらすじや内容のポイント、作者の伝えたいこと、作品の時代背景や登場人物の相関図をイラストも使ってわかりやすく解説しているよ。
「故郷」は、舞台が昔の中国であることや、難しい言葉が多く使われていることで、なかなかお話の全体像をつかむのが難しい作品なんだ。
なので、まずはザックリと「どんな話なのか?」を説明するよ。
魯迅「故郷」をザックリ説明
当時の中国は革命によって、よりよい国となると期待した魯迅だったんだけれど、実際はますます人々の暮らしは貧しく苦しいものになっていたんだ。
そんな中、北京で暮らしていた魯迅が二十年ぶりに故郷へ帰ったよ。
思い出の中の美しい故郷はそこには無く、人々は貧しさに心を失い、かつて魯迅の小英雄だったルントウも困窮と暴政により「でくのぼう」となってしまっていたんだ。
さらにルントウに「旦那様」と呼ばれた魯迅は、自分たちの間には、悲しむべき厚い壁があったことを思い知り、失望するよ。
けれど甥のホンルとルントウの息子のシュイションは、かつての魯迅とルントウのように仲良くなっていたのを知り、「若い世代はずっと心を通い合わせていてほしい」「新しい生活をしてほしい」と願うよ。
もともと道がないところに人々が歩くと道ができるように、
人々がみな願えば、希望がそこに生まれるはずだから。
つまりこのお話は、不安な政治が続く中国で、貧困や身分の差がまだ残っていることに失望しつつも、人々がみな希望をもつことで、未来への道が切り開けるのではないか、と訴えているんだ。
魯迅「故郷」をアニメ調でわかりやすく解説している動画も用意したので、ぜひチェックしてみてね。
目次
故郷(魯迅)あらすじと作者について
私は故郷へ二十年ぶりに帰った。
いささかの活気もなくわびしい故郷に、寂寥の感がこみ上げる。
私の覚えていた故郷とはまるで違った。もっと美しかったはずだ・・・。いや、もともと故郷はこうだったのかもしれない。
私たちが一族で住んでいた家はもう他人のものである。
旧暦の正月前にはこの家と別れ、異郷の地へ引っ越すのだ。
やるせない表情の母が懐かしいルントウの名を出した。
三十年近く前、私とルントウは「仲良し」だった。
ルントウは当時の我が家の雇い人の息子であったが、彼の心は神秘の宝庫で、彼は私にとっての小英雄で、「美しい故郷の思い出」なのだ。
家には、家財道具を狙った連中もやってくる。
頬骨の出た、唇の薄い、まるでコンパスのような五十がらみの女性はかつての「豆腐屋小町」であったヤンおばさんだ。
「あたしたち貧乏人には、けっこう役にたちますからね。」
コンパスはそう言い、母の手袋を自分のズボンの下へねじ込む。
そしてついにルントウが訪ねてきた。
ルントウもまた記憶の中のルントウとは似もつかなかった。
「ルンちゃん」と呼びかける私に返ってきたのは「旦那様」という彼の言葉。
悲しむべき厚い壁が、私たち二人の間を隔ててしまったのだ。
子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんなが彼をでくのぼうにしたのだ。
彼が欲しいといった「わら灰」の中には、碗やら皿が十個あまり埋められていた。
元は鮮明このうえなかった私の中の小英雄の面影は、今では急にぼんやりとしてしまった。
いつまた故郷に帰るのかと甥のホンルが訊いた。
ルントウの息子のシュイションのもとに遊びに行く約束をしたという。
この言葉に、私も母もはっと胸をつかれた。
私とルントウとの距離は全く遠くなったが、若い世代は今でも心が通い合っている。
彼らにはずっと一つ心でいてほしい。
とはいえ私のように、むだの積み重ねで魂をすり減らす生活を共にするのではなく、ルントウのように、打ちひしがれて心が麻痺する生活を共にするのではなく、やけを起こして野放図に走る生活を共にするのではない。
私たちが経験しなかった、新しい生活をもたなくてはならないのだ。
それは偶像だろうか。
希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものとも言えない。
地上にはもともと道はない。歩く人が多ければ、それが道になるのだ。
多くの人が望めば、それが希望となるのだ。
故郷の作者「魯迅」について
魯迅(1881-1936)は、中国の小説家。本名は周樹人(チョウシュウレン)
もともとは祖父が高級官僚で、裕福な家だったんだけれど、祖父が入獄させられてしまったり、父親が病死するなどして生活が苦しくなってしまったよ。
そのためお金がかからないように官立の学校に入り、留学生試験にも合格すると、1902年(22歳)に日本へ留学したんだ。
このころの中国は日清戦争に破れたり、ロシアに満州を占領されるなど弱体化していたので、「中国には革命が必要だ」と魯迅は考えていたよ。
1909年に帰国して、故郷がある紹興で教員を務めるよ。
1911年に辛亥革命がおこり、中華民国が成立すると、魯迅は中華民国教育部に勤務して、1912年に北京に移ったんだ。
革命が起こって、それまでの皇帝支配体制から民主国家になり、よりよい国となることを魯迅は期待していたよ。
けれど、実際は国はまとまることなく分裂してしまって、各勢力が好き勝手に税を取ったり暴れるなどして、民衆はますます苦しい生活をすることになってしまったんだ。
「故郷」はいつのことを描いたお話なのか?
「故郷」には、魯迅が十歳そこそこのときにルントウと出会い、それは「三十年近い昔」と書かれているよね。
ということは、1881年生まれの魯迅が十歳そこそこなので、ルントウと出会ったのが1891年ごろ、それが「三十年近い昔」なので、「故郷」で魯迅が帰郷したのは1920年ごろと考えることができるよ。
「別れて二十年にもなる故郷」とあるので、1900年ごろに魯迅は故郷を離れたんだね。
1902年から日本へ留学しているので、そのころからずっと「実家」には帰っていなかったのかもしれないね。
故郷(魯迅)伝えたいこと
魯迅が「故郷」で伝えたいことは、本文のつぎの部分に込められているよ。
「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」
「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる」とはどういうことかというと、地上には、自然にもとからある「道」というものはないよね。
ただ地面があって、そこに草や木が生えているだけだよね。
でも、どこかへ行くため(目的)に、そこを多くの人が通れば(行動)、通っているうちに跡がついていって、草が踏み分けられたり、地面が踏み固められたりして、いずれ「道」ができていくよね。
これがもし、1人が一度通っだけだったらどうだろう。
「道」とよべるほどのものはできないよね。
それどころか、誰もどこにも行こうとせず(目的がない)、ただその場にとどまっていたら(行動しない)どうだろう。
もちろん「道」はできないよね。
これとおなじで、人々がみな「思い」や「望み」(目的)をもって、たくさんの人がそのために何かをすれば(行動)、それが「希望」になる、と言っているんだ。
では、魯迅の言う「希望」とはなんだろう。
魯迅は、辛亥革命によって中華民国が成立して、これからはよりよい民主国家になっていくと期待していたんだ。
けれど、実際はそううまくいかず、民衆の暮らしはかえって苦しいものになってしまった。
そんな中、20年ぶりに故郷へ帰ると、思い出の中の美しい故郷はすっかり色あせて、人々は進歩せず、貧しさから野放図になり、魯迅にとっての小英雄だったルントウまでもが「でくのぼう」になっていた。
また、心を通い合わせていたと思っていたルントウから「旦那様」と呼ばれたことで、中国にはいまだに「身分制度」があり、自分たちの間には悲しい厚い壁があることを痛感したんだ。
すっかり失望した魯迅だったけれど、甥のホンルとルントウの息子のシュイションが、かつての自分とルントウのように、心を通い合わせていることを知り、若い世代たちには新しい生活を持って欲しい、と願ったんだ。
ここでの「新しい生活」とは、魯迅たちが今まで経験しなかったような生活のことだね。
たとえるなら、人々が理不尽な運命の犠牲になることなく、身分に足を引っ張られることもなく、もっと自由に、自分の可能性に挑戦できるような生活ということだね。
とはいえ、自分ひとりがこのような願いを持っていても、それはただの憧れ(偶像)に過ぎないと考えているんだ。
たくさんの人々が通ることで道ができるように、人々がみな「新しい生活」を望み、行動することで、「新しい生活」は「希望」になるのだと、この小説を通して訴えているんだよ。
故郷(魯迅)登場人物(人物相関図)
登場人物 | 人物像 |
---|---|
私(魯迅) | 北京から二千里離れた故郷へ20年ぶりに帰ってきた。 |
母 | ホンルと故郷の家で暮らしている |
ホンル(宏児) | 8歳。 私(魯迅)の甥。シュイションと仲良くなる |
ルントウ(閏土) | 「私」の家の雇われ人。 |
ヤン(楊)おばさん | 「私」の家の筋向いに住んでいる。かつての「豆腐屋小町」 |
シュイション(水生) | ルントウの5番目の息子。ホンルと仲良くなる |
「故郷」の登場人物は、魯迅の心の動きにどのような影響を与えたのか、まとめたよ。
私(魯迅)
「私」は、作者の魯迅のことだね。
魯迅の家は、おじいさんが高級官僚だったので裕福だったんだ。
魯迅のお父さんがまだ生きていたときは、家の暮らし向き(生活)も楽だったとあるね。
雇い人がいることからも、魯迅の家は「地主」だったと考えられているよ。
お父さんが亡くなってから、魯迅の家は生活が苦しくなって、魯迅はお金のかからない官立の学校で勉強をして、日本へ留学したりしたね。
帰国してからも中華民国教育部で働くため北京に住んでいたため、20年ほど故郷に帰らずにいたんだ。
魯迅は中国には革命が必要だと考え、民主国家として、「進歩」しなくてはならないと考えているよ。
だから、「進歩すること」を諦めてしまっている故郷の姿に、心を痛めるんだ。
ルントウ
ルントウは、魯迅の家の雇い人の息子だね。
つまり、本当なら魯迅とルントウは「主人と使用人」の関係なんだ。
けれど、幼いルントウの心の中は神秘の宝庫で、臆さずチャー達をやっつけるその生き方は、きらきらとしていて、魯迅にとってはまさに「小英雄」だったんだ。
このときの魯迅とルントウは「兄弟」であり、二人は心を通い合わせていたよ。
けれど、革命後、ますます苦しい生活をしいられたルントウは、深いシワが刻まれた「でくのぼう」になってしまった。
そして、兄弟であったはずの魯迅を「旦那様」とよぶようになってしまった。
ルントウのこの変化は、魯迅に「人々の心に希望がないこと」「いまだに身分という名の壁があること」を痛感させるよ。
ヤンおばさん
ヤンおばさんは、「私」の家の筋向い(道をはさんで斜め向かい)に住んでいる、五十歳くらいの女性だね。
ヤンおばさんは、「スカートをはかないズボン姿」と書かれているね。
これは、当時の中国では女性はズボンの上にスカートを付けた服装だったのだけれど、そのスカートを付けていなかったということ。
なぜそのような格好だったかというと、スカートを付けていると、動きにくくて労働に向いていないから。
ヤンおばさんは、「私」の家に何をしに来たのかというと、「私」の母が言う「道具を買うという口実で、その辺にある物を勝手に持ってゆく」というセリフや、ヤンおばさんの「こんながらくた道具、邪魔だから、あたしにくれてしまいなさいよ」というセリフから、「私」の家が明け渡しのために家財道具を処分するところなので、それをもらいにきたと考えられるね。
道具を持っていくには、できるだけ動きやすい服装のほうがいいから、スカートをはかないズボン姿だったのかもしれないね。
ヤンおばさんは労働階級だから、ズボン姿だった、という考えもあるよ。
また、ヤンおばさんについて書かれている特徴的なことのひとつが、「纏足」。
「纏足(てんそく)」とは
唐の末期から辛亥革命ごろまで中国で行われていた風習で、女性が小さい頃から親指以外の足の指を下に折り曲げて、布でぐるぐる巻きに固定すること。
これによって、女性の足のサイズを10cm弱まで小さくしていたよ。
当時の中国では、「小さい足」が女性の美しさのひとつとされていたんだ。
なぜなら、纏足をするということは、その女性が畑仕事をする必要がない、良い家柄の娘であるというしるしになるんだ。
小さい足では、まともな畑仕事はできないからね。
また、纏足には「女性がずっと織物などの仕事を手伝うように、座りっぱなしにさせる」のが目的だったとも言われているよ。
ヤンおばさんが纏足をしていた理由は、豆腐屋の看板娘だったからと考えられるよ。
美しさが重要だったし、「一日中座りっぱなし」の仕事だったからだね。
「私」にとって、このヤンおばさんの「纏足」は、昔の風習に囚われている「進歩しない故郷と人々」の象徴のひとつでもあると考えることができるよ。
ホンルとシュイション
ホンルは魯迅の甥、シュイションはルントウの息子だね。
魯迅とルントウの間には「悲しむべき厚い壁」ができてしまって、二人の距離は全く遠くなってしまったことに、魯迅は心を痛めたよね。
けれど、ホンルとシュイションは今、かつての魯迅とルントウのように心を通い合わせているんだ。
このことは、魯迅が「若い世代には、自分たちが経験しなかったような新しい生活をもってほしい」と願うきっかけとなったよ。
故郷(魯迅)時代背景
魯迅の「故郷」を理解するには、お話の舞台である当時の中国の時代背景を知る必要があるよ。
- なぜ魯迅は故郷から遠く離れた北京にいるのか
- なぜ家を売らなくてはならないのか
- なぜ人々は貧乏な暮らしをしているのか
- なぜ私とルントウの間には厚い壁があるのか
- 私は、未来にどんな希望を抱いているのか
これらが、時代背景を知るとピンと来るようになるよ。
「故郷」の舞台は、1920年ごろの中国。
「辛亥革命」が起きたあとの中国なんだ。
辛亥革命とは
それまで中国を統一していた「清(シン)」が倒されて、中華民国が成立した革命。
あたらしく中華民国が成立して、人々は「これで私たちの暮らしは良くなるはず」と期待したものの、清の残党や、盗賊の集団などが入り乱れていて、混乱は続いていたんだ。
政治はまったく安定しなくて、兵隊は民衆に乱暴をするし、重い税金は取られるし、人々の暮らしはかえって貧しく苦しいものになってしまったんだ。
なぜ魯迅は故郷から遠く離れた北京にいるのか
魯迅は、お父さんが亡くなってから、魯迅の家は生活が苦しくなってしまったので、お金のかからない官立の学校で勉強をして、日本へ留学したりしたね。
帰国後は、北京にあった中華民国教育部に勤めたため、故郷には20年ほど帰ることなく、北京に住んでいたよ。
なぜ家を売らなくてはならないのか
魯迅の家はもともとは、おじいさんが高級官僚だったこともあって裕福だった。
どのぐらい裕福かというと、魯迅の家は10親等までの親族数十人がみな集まって暮らしていたくらい、とても大きな家だったんだ。
けれど、おじいさんが仕事で失敗をしてしまって牢獄に入れられてしまったんだ。
しばらくしてさらにお父さんも亡くなってしまうと、魯迅の家はすっかり生活に困るようになってしまったよ。
そういうわけで、最終的には家を手放して、一族で異郷の地へ引っ越さなくてはいけなくなったんだね。
なぜ人々は貧乏な暮らしをしているのか
魯迅の記憶の中では、故郷はもっと美しいはずだったね。
けれど実際は、いささかの活気もなく、人々は暮らすのにもやっとで、魯迅の家の家財道具を勝手に持っていってしまうくらい「野放図」になってしまっていて、かつては小英雄だったルントウまでも「でくのぼう」になってしまっていた。
どうしてこんなことになってしまったかというと、当時の中国は「辛亥革命」が起きた後で、皇帝支配体制から民主国家へと生まれ変わろうとしていたよ。
けれど、実際は清が統一していたころの残党が暴れたり、民主国家として一つにまとまることがうまくいかずに内部対立が起こったり、その影響で各地で権力者が好き勝手に税を取り立てるなどの大混乱が続いたんだ。
そのため、結局民衆にとってはかえって苦しく貧しい生活となってしまったんだよ。
なぜ私とルントウの間には厚い壁があるのか
革命が起こり、民主国家となっても、魯迅の故郷がある農村ではまだ身分制度が残っていたんだ。
ヤンおばさんの纏足も、魯迅にとっては「故郷=古い習慣」を痛感させるきっかけとなっていたよね。
魯迅は「中国は革命を起こさなくてはならない」「よりよい民主国家を目指さなくてはならない」「進歩すべき」と考えているのに対して、ルントウの「旦那様」という言葉は、まだここには「身分」という悲しむべき壁が立ちはだかっていることを表しているよ。
苦しい生活や貧しさに、人々が心を亡くして「でくのぼう」になってしまって、「進歩するために考えること」を放棄してしまっていることに、魯迅は心を痛めたんだね。
私は、未来にどんな希望を抱いているのか
美しかったはずの故郷がすっかり色あせて、小英雄だったはずのルントウがでくのぼうになってしまっていたことに失望した魯迅だったけれど、若い世代であるホンルとシュイションが心を通い合わせていることを知り、若い世代には自分たちが経験しなかったような新しい生活をもってほしいと願ったね。
新しい生活とはどういうことかというと、
魯迅のような「むだの積み重ねで魂をすり減らす生活」ではなく、
ルントウのような「打ちひしがれて心が麻痺する生活」でもなく、
ヤンおばさんたちのような「やけを起こして野放図に走る生活」でもない。
つまり、人々が身分や重い税に理不尽に苦しめられることもなく、仕事に制限されず、未来に希望の持てるような生活ということだね。
故郷(魯迅)内容とポイント
「故郷」の段落分け
「故郷」のお話は、つぎの5つに大きく分けることができるよ。
※段落分けは、学校の先生によって変わることがあるよ。
段落 | 内容 | 内容➁ |
---|---|---|
1 | 帰郷 | 「私」が故郷へ帰り、母と会う(ルントウの名前が出る) |
2 | 回想 | ルントウとの思い出を振り返る |
3 | ヤンおばさん | 野放図にふるまう人々 |
4 | ルントウとの再会 | 変わり果てたルントウと「私」の失望 |
5 | 離郷 | 若い世代の新しい生活への希望 |
「覚えず寂寥の感が胸に込み上げた」
「寂寥の感」とは、「寂しくて心が空虚な感じ」のこと。
20年ぶりに故郷へ帰ってきた魯迅は、自分の記憶の中の故郷とのあまりの違いを見て、「寂寥の感」が胸に込み上げたんだ。
つまり、「自分の覚えている故郷は、もっとずっとよく美しかったはずなのに、今目の前にある故郷は、わびしい村々がいささかの活気もなく、あちこちに横たわっている」ことで、「故郷が変わってしまった=寂しい」と感じたということだね。
「もともと故郷はこんなふうなのだ」
故郷が変わってしまったと思った魯迅だけれど、すぐに「もともと故郷はこんなふうなのだ」と思い直しているね。
なぜなら、いざ故郷の「美しかったところ・長所」を言葉に表そうとしたときに、言葉が出なかったから。
つまり、いつの間にか思い出が美化されていたのかもしれないと思ったんだね。
さらに、「進歩もないかわりに、私が感じるような寂寥もありはしない」と言っているのは、「もともと故郷はこうだったから、変わっていない=進歩もない」ということ。
進歩がないというのは残念だけれど、そのかわり「故郷が変わってしまった寂しさ」も感じる必要はない、ということだね。
イメージで言うと、プラスもないかわりに、マイナスもない。つまり「プラスマイナスゼロ」という感じかな。
「今度の帰郷は決して楽しいものではないのだから」
本当なら、故郷に帰るのは嬉しいことだよね。
なのに、魯迅は「今度の帰郷は決して楽しいものではない」と言っているね。
これはなぜかというと、今回の帰郷は「故郷に別れを告げに来た」から。
魯迅の家は生活に困っているため、一族で住み慣れた家はもう他人の持ち物になってしまっているんだよね。
他人のものなので、今年いっぱいまでに明け渡しをしなければならないんだ。
明け渡すために、家財道具を処分して、後片付けをして、最終的に母とホンルを連れて、今魯迅が住んでいる北京へ連れて行くために帰郷したんだね。
「この古い家が持ち主を変えるほかなかった理由を説き明かし顔」
「説き明かし顔」とは、説明したり、納得させたりする顔の表情のこと。
なにを説明しているのかというと、「この古い家が持ち主を変えるほかなかった理由」だね。
つまり、「なぜ魯迅の家が他人のものになってしまったのか」ということ。
では、なにが説き明かし顔なんだろうか。
それは、「屋根に一面ある枯れ草のやれ茎」。「やれ茎」とは、折れて、干からびている茎のこと。
枯れて、さらに折れて干からびている草がや茎が、屋根一面にあるんだ。
それは、「屋根の手入れをする余裕もないほど、生活が苦しい」ということを表しているんだ。
だから、「屋根に一面ある枯れ草のやれ茎」=「魯迅の家は生活に余裕がないため、他人のものになってしまった」ことを表すんだね。
「さすがにやるせない表情は隠し切れなかった」
魯迅を出迎えてくれた母は、機嫌がよかったけれど、さすがにやるせない表情だったんだよね。
「やるせない」とは、どうしようもなくて、辛い気持ちのこと。
なぜそんな表情かというと、「住み慣れた家を明け渡さなくてはならない」からだね。
魯迅にとっても大切な家だけれど、母はさらにずっとこの家で過ごしてきたので、その辛い気持ちは計り知れないね。
だから、私にお茶をついでくれるなどして、すぐ引越しの話を持ち出すことはなかったんだね。
だって、せっかく再会したばかりなのに、辛い、暗い話はできるだけしたくないからね。
ルントウはどうして魯迅の家にやってきたのか
ルントウと魯迅がはじめて会ったのは、30年近い昔のことで、二人が10~12歳のころだったね。
そのころの魯迅の家はまだお父さんが生きていて、暮らしも余裕があったんだ。
当時、魯迅の家は三十何年目にただ一回順番が回ってくるというなんとも大切な大祭の当番だったね。
そこで、「年末や節季や年貢集めのときなど」に働いてくれる「マンユエ」という雇い人がやってきたんだよね。それがルントウのお父さんだったんだ。
大祭の準備ということで、人手が足りなかったので、祭器がとられないようにする番をさせるために、ルントウを連れてきたんだよね。
ルントウはどんな人物?
ルントウは、人見知りだったけれど、魯迅とは同じくらいの年頃だったので、半日もせずに二人は仲よくなったね。
ルントウは魯迅にいろいろな話をしてくれたよ。
ルントウの話 | 内容 |
---|---|
わなをかけて小鳥を捕る話 | 砂地に大雪が降ってから、雪をかいて、少し空き地をこしらえる。 大きな籠を持ってきて、短いつっかい棒をかって、屑籾をまく。 小鳥が来て屑籾を食べたら、遠くの方から棒に結わえてある縄をひっぱって、籠で捕まえる。 タオチー・チアオチー・はと・ランペイなどがいる。 |
貝殻拾いの話 | 夏の昼間は、海で貝殻を拾う。 赤・青、なんでもある。 「鬼おどし」や「観音様の手」という貝もある。 |
すいかの番の話 | 夏の晩には、お父さんとすいかの番に行く。 穴熊や、はりねずみ、チャーが月のある晩にすいかをかじるので、刺叉で突く。 チャーは利口で、股をくぐって逃げてしまう。 チャーの毛は油みたいに滑っこい。 |
跳ね魚の話 | 砂地では、高潮の時分になると「跳ね魚」がいっぱい跳ねる。 跳ね魚には、かえるみたいな足が二本ある。 |
ルントウの心は神秘の宝庫とは
ルントウの話を聞いた魯迅は、「ああ、ルントウの心は神秘の宝庫で、私の遊び仲間とは大違いだ。」と思っているね。
「神秘の宝庫」とは、ルントウの心の中には、魯迅がこれまで見たことも聞いたこともないような、鳥を捕まえる方法や、チャーと戦った経験や、珍しい貝殻、たくさんの跳ね魚が跳ねる景色などの、宝物がつまっていることを表現しているんだよね。
「彼らは私と同様、高い塀に囲まれた中庭から四角な空を眺めているだけ」とあるけれど、ここの「彼ら」とは、「私の友達」のこと。
魯迅である「私」も、「私の友達」も、町に住んでいるよね。
当時の中国では、町全体が城壁で囲まれていたので、町の中から見える空は、その城壁で囲まれた四角い空ばかりということを言っているんだ。
つまり、「狭い、閉ざされた世界」ということだね。
それに比べて、ルントウは海辺に住んでいるので、町の中にいるだけではとうてい経験できないような体験をし、珍しいものを知っていると魯迅は思ったんだね。
海辺で過ごすルントウの世界は、「無限に広がる、開け放たれた世界」ということだね。
このことから、魯迅にとってルントウはキラキラと輝くような「小英雄」になったんだね。
そしてこのことは、魯迅にとっての「美しい故郷」の思い出のひとつだったんだ。
「私はどきんとした」とは
ヤンおばさんに話しかけられたとき、「私」はどきんとしているね。
これは、「まあまあ、こんなになって、ひげをこんなに生やして」と話しかけられたということは、不意に現れたこの女性が、魯迅を知っているということだよね。
けれど、魯迅は「五十がらみの女」と書いているように、この女性が誰なのかを思い出せないんだ。
だから、「相手は自分を知っているのに、自分は相手が誰だか思い出せない」という状況に焦って「どきん」としているんだ。
簡単に言えば、「気まずい」ということだね。
すでに「まずいなあ」と、「どきん」としているところに、「忘れたかね。よくだっこしてあげたものだが。」だなんて追いうちをかけられたので、「ますますどきん」としというわけだね。
「フランス人のくせにナポレオンを知らず、アメリカ人のくせにワシントンを知らぬ」とは
皇帝だったナポレオンのことは、フランスでは誰も知らない人がいないほど、有名だね。
おなじく初代大統領のワシントンも、アメリカ人なら知らない人は誰もいないよね。
ヤンおばさんは、かつて「豆腐屋小町」と呼ばれるほど、豆腐屋の看板娘として魯迅の故郷では有名だったんだよね。
彼女のおかげで豆腐屋が繁盛しているとうわさされるくらいだったんだから、ヤンおばさんにとっては、「この町の人間のくせに、有名な私のことを知らないの??」という気持ちだということだね。
当時、魯迅はまだ子供だったので、「豆腐屋さんの美人の看板娘」という話には、あまり興味がなかったんだよね。
だから、ヤンおばさんのことも見忘れてしまっていて、すぐに思い出すことができなかったんだよね。
でもヤンおばさんは「あんなに美人と評判だった私をすぐに分からないなんて・・・」と不服(気に入らない)で、魯迅のことを蔑んだんだね。
「返事のしようがないので」とは
魯迅は、ヤンおばさんに次のようなことを言われたね。
- 身分のあるお方は目が上を向いているから(自分たちのような、下の人間のことは見向きもしないのだろう)
- 金持ちになったんだから、がらくた道具(魯迅の家の道具)は邪魔になるだけなので、自分たち貧乏人にくれてやるべき
- 知事様になっているのだから、金持ちのはずだ
- おめかけが三人もいる
- お出ましは八人かきのかごだ
この「知事になった」とか、「おめかけが三人もいる」というのは、デタラメだと考えられるよ。※魯迅は中華民国教育部に勤めていた
どうしてヤンおばさんがこんなに適当なことを言ったかというと、魯迅の家の道具を譲ってもらうために、「魯迅=お金持ち」で、「自分=貧乏人」だから、道具をもらうのは当然ということを主張するためだね。
自分が得をするために、好き勝手に話をするヤンおばさんの様子に、魯迅は「この人には何を言っても無駄だな」と思って、返事のしようがなかったんだね。
悲しむべき厚い壁とは
魯迅はルントウのことを「ルンちゃん」と呼びかけたのに対して、返って来たのはルントウの「旦那様」という言葉。
この一言には、魯迅とルントウの間にははっきりとした壁ができてしまったことを魯迅に感じさせたね。
この壁というのは、魯迅が主人で、ルントウはその雇われ人であるという主従の関係からくる「身分の違い」でもあるし、革命が起こることを期待して、中国は進歩するべきと考えている魯迅と、現状に苦しみながらも、それを仕方ないことと受け入れ、諦めて考えること、挑戦することを放棄してしまっているルントウとの「意識の違い」も表現しているよ。
とりとめのない話とは
ルントウが魯迅の家へ訪ねてきたとき、ルントウは魯迅の家に泊まっていったね。
夜、魯迅とルントウは話をしたのだけれど、それは「世間話」「とりとめのない話」と書かれているね。
「とりとめのない話」とは、「特に目的や方向性がない」話のこと。
子供の頃のルントウの話は、魯迅にとって「神秘の宝庫」とか、「私の友達は何も知っていない」と思ったように、とてもワクワク・キラキラする話だったよね。
けれど、大人になって、厳しい日々の生活にすっかり苦しめられ、「でくのぼう」になってしまったルントウとは、「とりとめのない話」しかできなかったんだ。
結局、二人の間には「悲しむべき厚い壁」ができてしまったので、心が通いあうような話はできなかったということを表しているんだね。
私と母が、はっと胸をつかれたのは
故郷を離れた船の中で、ホンルの「いつ帰ってくるの」「シュイションが家に遊びに来いって」という言葉に、魯迅と魯迅の母は「はっと胸をつかれた」とあるね。
これは、ホンルとシュイションの間に、かつての魯迅とルントウの間にあったような「友情」が生まれていたからなんだ。
魯迅も、母も、ルントウが魯迅のことを「旦那様」と呼ぶようになってしまって、かつての兄弟の仲にはもう戻れないことを残念に思っていたよね。
そんな中、次の世代にまた新たな絆が生まれていたんだ。
だから、魯迅と魯迅の母は、心を動かされたんだね。
灰の山から出てきた碗や皿について
魯迅たちが故郷をはなれる2日前、灰の山からは十個あまりの碗や皿が見つかったね。
これはどういうことかというと、ルントウが隠すために埋めていたということなんだ。
魯迅の母は、「持っていかぬ品物はみんなルントウにくれてやろう。」とまで言っていたのに、どうしてルントウはわざわざ隠したんだろう。
詳しくはお話には書かれていないけれど、ルントウは、子供の頃は魯迅と「兄弟の仲」というくらい、お互いに対等であるかのように遊んでいたんだよね。
ルントウは、自分が鳥を捕まえる話や、チャーを退治する話、貝殻を見つける話をしていたね。
これって、いわゆる「武勇伝」だよね。
魯迅が自分の話に感心してくれるので、ルントウは誇らしい気持ちにもなったんじゃないかな。
けれど、大人になるにつれて、現実を直視して、「魯迅は主人であり、自分は雇い人である」という身分の壁があることも理解して、日々の暮らしもやっとで、「自分は貧しい」ということを痛感するようになってしまった。
だから、ルントウは魯迅と再会したとき、喜びと「寂しさ」の色が顔に現れていたんだよね。
誇らしかった自分はもういなくなってしまって、今の自分を魯迅に見せるのは、辛いものもあったのではないかな。
貧しさに苦しんでいる自分を魯迅に知られるのは、恥ずかしいし、辛いと感じていたのだとしたら、碗やお皿を自分から欲しいとはなかなか言い出せないよね。
とはいえ、生活が本当に苦しいので、どうしても欲しい。
そうしてたどり着いたのが、「自分が持って帰る約束になっている灰の中に隠す」という行動だったのかもしれないね。
ヤンおばさんの手柄顔
灰の中にあった碗や皿を見つけたのは、ヤンおばさんだったね。
見つけたおばさんは「手柄顔」で、纏足の靴を履いているとは思えないほど速く走り去ったね。
「手柄顔」というのは、いわゆる「ドヤ顔」のようなイメージ。
ではなぜ、おばさんは手柄顔だったのかというと、ルントウが盗みともいえるようなことをしていたことが、嬉しかったから。
いくら魯迅の母が「みんなルントウにくれてやろう」と思っていたとはいえ、勝手に碗やお皿をもらおうとすることは悪いことだよね。
そんな「悪いこと」を、ルントウもしていたことに、ヤンおばさんは「悪いのは自分だけではない」ことに安心して、魯迅たちが心を寄せていたルントウまでもが魯迅たちを騙そうとしていたことに、「ほら、みたことか」という気持ちにもなったのかもしれないね。
そんなヤンおばさんの「あのルントウだって盗みをはたらくのだ。悪いのは自分だけではないのだ、ほらみたことか」という気持ちが、走り去る足を速くしていたんだね。
自分の周りの目に見えぬ高い壁とは
故郷が遠ざかっていくなか、魯迅は「名残惜しい気はしない」と考えているね。
本当なら、故郷を離れるときは、寂しくて名残惜しいはずだよね。
どうして魯迅は名残惜しくないのかというと、進歩しない人々、苦境に抵抗しようとせず、諦めてしまっている人々、古い風習や身分制度が未だにのこっていることに、魯迅は失望してしまったから。
故郷の美しい思い出のひとつであった、魯迅にとっての小英雄までもが、いまはその姿がぼんやりしてしまうくらい、魯迅は故郷の現実、ルントウの現実、革命が起きてもなお進歩しない社会の現実を痛感してしまったからなんだ。
それはまるで、故郷の町が城壁に囲まれていて「四角い空」しか見えなかったように、今は町の外にいるはずなのに、自分の周りには目に見えない高い壁がまだあるように感じているんだ。
この「目に見えない高い壁」とは、身分制度による壁だったり、貧富の差による壁だったり、意識の違いによる壁だったりだね。
ルントウとは、かつて「心を通い合わせていた」と魯迅は思っていたんだ。
つまり、二人は同じ場所にいたと思っていた。
けれど、今回の再会で、二人の間には悲しむべき厚い壁が出来ていた。いや、厚い壁があったことに、二人が気がついてしまった。
だから、「自分だけ取り残された」と魯迅は感じているんだね。
中国が民主国家になり、よりよい社会になると期待していたけれど、現実はまだ自分は壁の中に取り残されているのだ、と感じて、気がめいっているんだね。
「故郷」での対比について
「故郷」では、いろいろな「対比」が効果的に出てくるよ。
昔と現在や、私とルントウを対比させることで、より読み手に印象を強く残すことができるんだ。
昔と現在のヤンおばさんの対比
昔のヤンおばさん | 現在のヤンおばさん |
---|---|
おしろいを塗っていた | (塗っていないと考えられる) |
頬骨は出ていなかった | 頬骨が出ている |
薄くない唇 | 薄い唇 |
一日中座っていた | コンパスのように足を開いて立っていた |
豆腐屋小町とよばれていた | 五十がらみの女 |
母の手袋を勝手に持っていく |
昔のヤンおばさんは、「豆腐屋小町」と呼ばれていたね。
「小町」は、美人を象徴する言葉で、豆腐屋の看板娘として人気になるくらい、美しかったことがわかるね。
それに比べて、現在のヤンおばさんは、頬骨が出てることから、日々の生活に苦労してやつれている様子、満足ではない食生活が想像できるね。
おしろいを塗っていないことからも、身なりを気にするほど余裕がないこと、薄い唇からは、あまり幸せではない様子が伝わるね。
昔と現在のルントウの対比
昔のルントウと現在のルントウの対比を読みとくことも、このお話を理解するためにとても重要だよ。
昔のルントウは、魯迅にとっての小英雄で、キラキラとしていた。
それに対して、現在のルントウはすっかりと色あせてしまい、魯迅に「現実の厳しさ」をあらためて実感させるよ。
30年前(昔)のルントウ | 現在のルントウ |
---|---|
十一、二歳の少年 | 四十すぎの父親 |
艶のいい丸顔 | 黄ばんだ色 深いしわが畳まれている 目の周りが赤く腫れている 太い、節くれだった、ひび割れた、松の幹のような手 |
小さな毛織りの帽子をかぶっている | 古ぼけた毛織の帽子 身には薄手の綿入れ一枚 |
きらきら光る銀の首輪をはめていた | 紙包みと長いきせるを手に提げている |
人見知り | うやうやしい態度 |
「私」とは兄弟の中 | 他人行儀 |
「私」を「おまえ」「シュンちゃん」と呼ぶ | 「私」を「旦那様」と呼ぶ |
心は神秘の宝庫 | でくのぼう |
「私」の友達は知らない珍しい話 | とりとめのない話 |
貝殻を一包みと、美しい鳥の羽を何本か届けてくれた | 自分のところの青豆の干したのを持ってきた |
穴熊・はりねずみ・チャーを退治する | 子だくさん・凶作・重い税金・兵隊・匪賊・役人・地主に寄ってたかっていじめられている |
「刺叉があるじゃないか」(立ち向かう) | 首を振りどおし(諦める・無気力) |
魯迅とルントウの再会における二人の心の動き
現在のルントウに再会するまで、魯迅の心の中にはまだ「小英雄のルントウ」の像がはっきり存在していた。
けれど、再会してそのルントウの変わりようと、自分への態度の変化に心を大きく動かされたんだ。
このときの、2人の心の動きや行動の対比をおさえておこう。
私(魯迅) | ルントウ |
---|---|
思わずあっと声がでかかった 急いで立ち上がって迎えた | 突っ立ったままだった |
感激で胸がいっぱいになった | 喜びと寂しさの色が顔に現れた |
どう口をきいたものやら思案がつかない | 唇が動いたが、声にはならなかった |
「ああルンちゃん」 | うやうやしい態度 「旦那様!」 |
チアオチー、跳ね魚、貝殻、チャーらが頭の中を駆け巡る(魯迅にとっての美しい思い出) | あの頃は子供で、何のわきまえもなく… |
身震いした 口がきけなかった | 後ろを向いて、シュイションへ話しかけ、前へ出す |
悲しむべき厚い壁(身分制度を残念に思っている) | めっそうな(身分制度を受け入れている) |
彼の境遇を思ってため息をついた | うれしくてたまりませんでした(思考の停止) |
魯迅も,ルントウも、かつては兄弟のように仲良くあそんでいた自分たちが、今は大人になり、「身分制度」というものが自分たちが歩む道をはっきりと分けてしまったことを理解しているよね。
「寂しさの色」という表現から、ルントウも魯迅との間に壁ができてしまったことを悲しく思ってはいるものの、それを「仕方がないこと」「昔の自分が、図々しかったのだ」と、悲しい現実を受け入れてしまっているね。
それに対して、魯迅の心の中にはまだかつてのルントウとの思い出が輝くように残っていた。
だからこそ、自分たちの間に壁ができてしまったことに大きなショックを受けているよね。
そして幸せとは言えない境遇を「仕方ない」と諦めているルントウに対して、魯迅は「悲しむべきこと」だと否定的にとらえているよ。
だから、自分の境遇を受け入れてしまい、ただ首をふるだけで変えようとしないルントウを、「石像のよう」「でくのぼう」と表現しているんだね。
ここまで学習できたら、魯迅の「故郷」のテスト対策練習問題に挑戦してみよう!
故郷(魯迅)言葉の意味
「故郷」は中国のお話なので、あまりなじみのない言葉が多く使われているよ。
また、難しい言い回しも多く出てくるので、テストで狙われる可能性が高いよ。しっかり確認しておこう。
言葉 | 意味 |
---|---|
二千里の果て | 中国での一里は約500mなので、約1000kmのこと 非常に遠く離れた場所のことを意味する。 「魯迅」では、当時「私」が住んでいた北京から故郷は、中国東南部の町「紹興」が遠く離れていることを意味している。 |
真冬の候 | 「候(こう)」は時期や季節を表す言葉で、「真冬の候」とは一年の中で最も寒い時期を指す。 |
空模様 | 空の状態や天気の様子のこと |
苫 | 屋根や壁に使われる藁(わら)や草を編んで作った「すだれ」のようなもの ここでは、故郷へ向かう船に雨露を防ぐためにかけられていたもの。 |
鉛色 | 鉛(なまり)のような灰色のことを指します。暗い灰色で、重く鈍い印象の色 |
わびしい | 寂しくて心が沈むような状態 |
いささか | 少し、わずかに、という意味 |
活気 | 元気で生き生きとしている状態のこと |
寂寥の感 | 寂しくて心が空虚な感じのこと |
二十年来 | 20年間続いていることや、20年ぶりに何かが起こること |
片時 | 非常に短い時間のこと |
明け渡しの期限 | 物を他の人に渡す、または場所を空けるための締め切りの日 |
旧暦 | 昔使われていた暦(こよみ)のこと 現在使われている新暦(グレゴリオ暦)とは異なり、月の満ち欠けを基にした暦で、中国では、民間では旧暦を使う習慣が残っていた。 |
異郷の地 | 自分の故郷(ふるさと)ではない、遠く離れた土地のこと |
やれ茎 | 折れて、干からびている茎のこと |
折からの風 | ちょうどその時に吹いていた風のこと |
説き明かし顔 | 説明したり、納得させたりする顔の表情のこと |
ひっそり閑 | 静かで目立たない様子のこと 「関(かん)」は「しずか」という意味。 |
やるせない | どうしようもなくて、辛い気持ちのこと |
しきりに | 何度も何度も繰り返す様子 |
脳裏 | 頭の中や心の中、記憶や考えのこと |
紺碧の空 | 深く青い空のこと 「紺碧(こんぺき)」は深い青色。 |
月が懸かる | 月が空に浮かんでいること |
刺叉 | 先が二股や三股に分かれた道具のこと |
チャー | 中国でみられる、穴熊ににた動物 |
暮らし向き | 生活の状況や状態のこと 経済的な面や生活環境などを表す |
供物 | 神様や仏様に捧げるもののこと |
吟味 | 注意深く選んだり調べたりすること |
マンユエ | 「忙月」。年末や節季や年貢集めなどの忙しいときに、決まった家で働く雇われ人のこと |
チャンネン | 「長年」。年間通して決まった家で働く雇われ人のこと |
トアンクン | 「短工」。日決めで働く雇われ人のこと |
耕作するかたわら | 農作業をしながら、という意味 「かたわら」は他のことを同時に行うことを指す。 |
節季 | 年末や年度末など、特定の時期 ここでは、盆と暮れなどの、年に数回ある決算期のこと。 |
年貢集め | 農民が年貢(税金)として収穫物を納めること |
かねて | 以前から、前もって、という意味 |
閏月 | 太陰暦や太陽暦で、暦を調整するために追加される月のこと |
五行の「土」 | 中国の五行思想で、木、火、土、金、水の5つの要素のうちの一つ |
溺愛 | 非常に強く愛すること、過剰に愛すること |
屑籾 | 米のもみ殻の屑(くず)のこと |
タオチー | 畑を荒らす小鳥 |
チアオチー | 畑を荒らす小鳥 |
ランペイ | 畑を荒らす小鳥 |
鬼おどし | 貝の呼び名 魔除けになると考えられている貝で、糸でつないで子供の腕や足首にかけた。 |
観音様の手 | 貝の呼び名 |
獰猛 | 非常に凶暴で荒々しい性質のこと |
高潮の時分 | 海の水位が最も高くなる時のこと |
跳ね魚(はねうお) | トビハゼのこと |
ことづける | 誰かに言いたいことや伝えたいことを、別の人を通じて伝えてもらうこと |
電光 | 雷が鳴る時に空がピカッと光る現象のこと ここでは、子供の頃の思い出がパッとよみがえった衝撃を表している。 |
口実 | 何かをするための理由や言い訳のこと |
不意 | 予想していないことや、突然のこと |
甲高い声 | 高くて鋭い声のことです。女性や子供の声で、特に興奮した時に出ることが多い |
五十がらみの女 | おおよそ50歳くらいの女性のこと 「がらみ」は「〜くらい」という意味 |
スカートをはかないズボン姿 | 当時の中国では、ズボンの上にスカートを着けるが、労働の時にはスカートを着けないため、それを「スカートをはかないズボン姿」と呼んだ。 |
製図用の | 図面を描くために使う道具や用紙のこと |
口添え | 誰かのために助ける言葉を添えること |
筋向い | 道を挟んで斜め向かいにある場所のこと |
豆腐屋小町 | 豆腐を売っている店の看板娘(かんばんむすめ)のこと 「小町」は美しい女性の代名詞。 原文では、古代中国の美女「西施(シーシー)」をもとに「豆腐西施」となっている。 |
おしろい | 顔を白くするために塗る化粧品のこと |
不服 | 納得できないことや、受け入れられないこと |
蔑む | 他の人を見下して、価値が低いと思うこと |
嘲る | 他の人を馬鹿にして、笑うこと |
冷笑 | 冷たい態度で笑うこと 優しさや温かさのない笑い方。 |
どぎまぎする | 緊張したり、慌てたりして落ち着かない状態のこと |
おめかけ | 昔の言葉で、正式な妻ではなく愛人のこと |
お出まし | ある場所に誰かが現れること |
八人かきのかご | 八人の人がかついで運ぶ、昔の乗り物のこと 裕福な人や身分の高い人が使っていた。 |
駄賃 | 何かをしてくれた人に対するちょっとしたお礼や報酬のこと |
暇をみて | 忙しい中で少しの時間を見つけて、という意味 |
きせる | 煙草を吸うための道具の一種 細長い管に煙草を詰めて吸う。 |
節くれだつ | 手や指が硬くて、ごつごつしている状態 長い間手作業をしてきた人の手に見られる。 |
松の幹 | 松の木の中心部分のこと |
思案がつかぬまま | 何をどうすればよいか考えがまとまらない状態のこと |
数珠つなぎ | 連続していること 特に、人や物がつながって並んでいる状態。 |
せき止められる | 何かが流れるのを止められること |
うやうやしい態度 | 非常に丁寧で礼儀正しい態度のこと |
御隠居 | 年をとって引退した人のこと 特に、おじいさんやおばあさんを指す。 |
めっそうな | とんでもないこと |
わきまえる | 自分の立場や状況を理解して、それに応じた行動をすること |
はにかむ | 恥ずかしがって少し顔を赤くすること |
暮らし向き | 生活の状態や状況のこと |
作柄 | 農作物の出来具合のこと |
元が切れる | もともとの額よりも安くなること つまり、もとが取れないこと。 |
都合をきく | 予定などを聞くこと ここでは、母がルントウの予定を確認している。 |
匪賊(ひぞく) | 山賊や海賊のような盗賊のこと 武装して物を奪う悪者のこと |
でくのぼう | 何もできない、役に立たない人のこと |
くれてやる | 誰かに物を与えること |
わら灰 | 藁(わら)を燃やしてできる灰のこと 農業で肥料として使われることもある。 |
とりとめのない | 特に目的や方向性がないこと |
たそがれ | 夕方の薄暗い時間のこと 特に、日が沈んでから暗くなるまでの間を指す。 |
薄墨色 | 薄い灰色のこと 墨を薄くしたような色。 |
目をみはる | 驚いたり、感動したりして目を大きく開けること |
はっと胸をつかれる | 驚いたり感動したりして、心が強く動かされること |
手柄顔 | 何か良いことをして得意そうな顔をすること |
犬じらし | 木の板に柵を取り付け、中に食べ物を入れて、鶏がついばめうようにする道具 犬が食べられないので、みて「じれる」ことから「犬じらし」と呼ばれる。 |
纏足 | 中国の古い習慣で、女性の足を小さくするために布で縛ること |
よくもと思うほど | びっくりするほど、あるいは信じられないほどのこと |
名残惜しい | 別れるのが辛く、離れるのが悲しいこと |
気がめいる | 落ち込んだり、気分が沈んだりすること |
このうえない | これ以上ないほどの、という意味 |
心が通い合う | お互いの気持ちが理解し合えること |
隔絶する | 完全に離れて、交流がない状態のこと |
野放図 | 好き勝手にふるまうこと 特に、制約やルールに縛られず自由に行動することを指す。 |
香炉 | お香を焚くための器のこと |
燭台 | ろうそくを立てるための器のこと |
所望する | 何かを強く望むこと |
偶像崇拝 | 神様や仏像などの像を信仰し、崇拝すること 具体的な形を持つ神や仏を信じること。 |
心ひそかに | 自分の心の中で静かに、こっそりと思うこと |
まどろみかける | うとうとと眠りかけること |
故郷(魯迅)新出漢字
漢字 | 音読み | 訓読み |
---|---|---|
閑 | カン | |
紺 | コン | |
雇 | コ | やと(う) |
艶 | エン | つや |
溺 | デキ | おぼ(れる) |
畜 | チク | |
塀 | ヘイ | |
塗 | ト | ぬ(る) |
乏 | ボウ | とぼ(しい) |
駄 | ダ | |
旦 | ダン・タン | |
那 | ナ | |
慕 | ボ | した(う) |
麻 | マ | あさ |
崇 | スウ |
運営者情報
ゆみねこ
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。