推古天皇・聖徳太子の改革を解説!『冠位十二階』『憲法十七条』『遣隋使』まとめ

推古天皇すいこてんのうの時代は、ヤマト政権が「豪族たちの連合」から、しだいに「天皇を中心とする国家」へ変わろうとしていった大切な時期だよ。

前の単元では、6世紀の東アジア情勢、加耶諸国の消滅、大伴氏の後退、蘇我氏と物部氏の対立、仏教受容の流れを見てきたね。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたことで、仏教を受け入れ、大陸の制度や文化を学ぼうとする流れが強まっていった。

そのあとに登場するのが、推古天皇、厩戸王うまやとおう、そして蘇我馬子そがのうまこだよ。厩戸王は、後世に聖徳太子と呼ばれるようになった人物として知られているんだ。

この記事では、推古天皇のもとで進められた冠位十二階憲法十七条遣隋使などの改革を、テストで問われやすいポイントに注意しながらわかりやすく解説するよ。

この記事でわかること

  • 推古天皇が即位した背景
  • 厩戸王(聖徳太子)と蘇我馬子が政治で果たした役割
  • 冠位十二階がなぜ重要なのか
  • 憲法十七条が現代の憲法とどう違うのか
  • 遣隋使が派遣された目的
  • 推古朝の改革が、大化改新や律令国家につながる理由

まず年表で流れを確認しよう

推古天皇のもとで厩戸王と蘇我馬子が政治を支え、冠位十二階・憲法十七条・遣隋使を通じて天皇中心の国家づくりへ進んだ流れを示す図解

推古天皇の時代は、出来事の順番を押さえると理解しやすいよ。まずは、6世紀末から7世紀初めの流れを確認しよう。

出来事ポイント
587年蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす仏教受容を進める蘇我氏が優位に立つ
589年隋が中国を統一する東アジアの国際環境が大きく変わる
592年崇峻天皇が暗殺される蘇我馬子の権力が強まる
593年推古天皇が即位する推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の政治へ
600年遣隋使が派遣される隋との外交が始まる
603年冠位十二階が定められる個人の能力や功績を評価しようとした制度
604年憲法十七条が定められる役人の心構えを示したもの
607年小野妹子が遣隋使として派遣される隋の制度や文化を学び、対等外交を示そうとした
618年隋が滅び、唐が成立する東アジアの国際秩序がさらに変化する
630年犬上御田鍬が遣唐使として派遣される唐との本格的な交流が始まる

たろう
600年の遣隋使と、607年の遣隋使があるんだね。

くまごろう
そうだよ。高校日本史では、特に607年の小野妹子の遣隋使がよく問われるけれど、600年の派遣も知っておくと流れがつかみやすいんだ。

推古天皇の即位と蘇我馬子の権力

6世紀末、ヤマト政権の中で大きな力を持つようになったのが、蘇我馬子だよ。

蘇我馬子は、587年に物部守屋を滅ぼし、仏教受容を進める蘇我氏の立場を強めた。その後、592年には崇峻天皇すしゅんてんのうが暗殺され、蘇我馬子の政治的な影響力はさらに大きくなっていく。

そして593年に即位したのが、推古天皇だよ。推古天皇は、敏達天皇びだつてんのうの皇后だった人物で、古代日本の女性天皇として重要な存在なんだ。

ここで大切なのは、推古天皇の時代の政治は、推古天皇だけが一人で進めたものではないということ。推古天皇のもとで、厩戸王と蘇我馬子が政治を支えていったんだ。

たろう
推古天皇、厩戸王、蘇我馬子の3人セットで考えるといいんだね。

くまごろう
その通り。推古天皇は政治の中心に立つ天皇、厩戸王は政治改革を進める皇族、蘇我馬子は大きな実力を持った豪族として見ると整理しやすいよ。

ここで押さえよう

  • 蘇我馬子は、587年に物部守屋を滅ぼした。
  • 592年、崇峻天皇が暗殺された。
  • 593年、推古天皇が即位した。
  • 推古天皇のもとで、厩戸王と蘇我馬子が政治を支えた。

厩戸王(聖徳太子)はどんな役割を果たした?

厩戸王うまやとおうは、後世に聖徳太子しょうとくたいしと呼ばれるようになった人物だよ。推古天皇のもとで政治に関わり、ヤマト政権が新しい国家の形へ進むための改革を進めたとされているんだ。

教科書や資料によっては、「聖徳太子」と書かれていることもあれば、「厩戸王(聖徳太子)」のように書かれていることもあるよ。テストでは、学校で使っている教科書や授業プリントの表記に合わせて確認しよう。

この時代の改革で特に重要なのが、603年の冠位十二階かんいじゅうにかい、604年の憲法十七条けんぽうじゅうしちじょう、そして隋との外交だよ。

では、なぜこのような改革が必要だったのかな。

それまでのヤマト政権は、有力豪族たちの力に支えられていた。つまり、天皇を中心にしながらも、実際には豪族たちの協力がなければ政治を動かしにくかったんだ。

けれど、東アジアでは隋が中国を統一し、国際関係が大きく変わっていた。ヤマト政権も、強い中国王朝や朝鮮半島の国々に対応するために、もっとまとまりのある国のしくみを整える必要があったんだよ。

たろう
つまり、国内の政治を整えることと、外国に対応することがつながっていたんだね。

くまごろう
そうなんだ。国の中がバラバラだと、外交でも不利になりやすい。だから、役人の制度や政治の考え方を整える必要があったんだよ。
冠位十二階は個人の能力や功績を評価する制度、憲法十七条は役人の心構え、遣隋使は隋との外交と大陸文化の摂取を目的としたことを比較した図解

冠位十二階とは?

603年に定められた冠位十二階は、役人に十二段階の位を与える制度だよ。

それまでのヤマト政権では、どの氏族に生まれたか、どの豪族の一族か、という家柄がとても重要だった。つまり、個人がどれだけ努力しても、氏族の地位によって政治での立場が左右されやすかったんだ。

冠位十二階では、家柄だけではなく、個人の能力や功績を評価しようとした点が重要だよ。また、氏族全体ではなく、個人に位を与えた点も大きな特徴なんだ。

冠位十二階のポイント

項目内容
603年
目的役人に十二段階の位を与える
特徴氏族ではなく、個人に位を与える
重要点家柄だけでなく、能力や功績を評価しようとした
背景豪族中心の政治から、役人を組織する政治へ近づけようとした

もちろん、冠位十二階によって、すぐに完全な実力主義の社会になったわけではないよ。古くからの有力豪族の力は、まだとても大きかった。

それでも、「家柄だけでなく、個人の能力や功績も見よう」という考え方を制度として示したことには、大きな意味があったんだ。

冠位十二階は何を変えようとしたの?

冠位十二階が目指したのは、豪族たちを「ただの有力な一族」としてではなく、朝廷の役人として組み込んでいくことだったと考えるとわかりやすいよ。

たとえば、これまでなら「この人は有力豪族の一族だから重要」という考え方が強かった。けれど、冠位十二階では「この人はどのような能力や功績があるのか」という視点も入ってくる。

これは、豪族連合的な政治から、朝廷が役人を組織して国を動かす政治へ進もうとする第一歩だったんだ。

たろう
冠位十二階って、ただのランク表じゃなくて、国のしくみを変えようとする制度だったんだね。

くまごろう
そうだよ。テストでは「603年」「個人の能力・功績」「氏姓制度との違い」をセットで押さえると強いよ。

氏姓制度との違い

  • 氏姓制度は、氏族や家柄にもとづく身分秩序だった。
  • 冠位十二階は、個人に位を与える制度だった。
  • 冠位十二階は、家柄だけでなく個人の能力や功績を評価しようとした。
  • ただし、有力豪族の力がすぐになくなったわけではない。

憲法十七条とは?

604年に定められた憲法十七条は、役人の心構えを示したものだよ。

有名なのが、「和を以て貴しとなす」という言葉だね。これは、争いを避け、話し合いや調和を大切にしようという考え方として知られているよ。

また、憲法十七条には、仏教を尊重する考えや、天皇の命令に従うこと、役人としてまじめに政治に取り組むことなどが示されている。仏教や儒教の考え方が取り入れられている点も重要だよ。

つまり、憲法十七条は、豪族たちに「自分の一族の利益だけを考えるのではなく、朝廷の役人として国全体のことを考えよう」と求める意味を持っていたんだ。

憲法十七条のポイント

項目内容
604年
性格役人の心構えを示したもの
有名な言葉「和を以て貴しとなす」
思想仏教や儒教の考え方が取り入れられている
目的豪族たちに、朝廷の役人としての意識を持たせる

憲法十七条は現代の憲法とどう違う?

憲法十七条は現代の憲法のように国民の権利を定めたものではなく、役人の道徳的な心構えを示したものだと比較する図解

ここで注意したいのは、憲法十七条は、現代の「憲法」とは性格がかなり違うということだよ。

現代の憲法は、国の基本的なしくみや国民の権利などを定める最高法規だよね。けれど、憲法十七条は、国民全体の権利を定めたものではなく、主に役人や豪族に向けて、政治に関わる心構えを説いたものなんだ。

だから、「憲法十七条=今の日本国憲法と同じような法律」と考えると、少しズレてしまう。

たろう
名前に「憲法」ってついているから、今の憲法みたいなものだと思ってたよ。

くまごろう
そこはテストでもひっかかりやすいよ。憲法十七条は、役人の道徳的な心構えを示したもの、と押さえるといいね。

テストでよく出る!憲法十七条の性格

憲法十七条は、現代の憲法のように国民の権利を定めたものではなく、役人の道徳的な心構えを示したものだよ。

テストでは「憲法十七条の性格を説明しなさい」と聞かれることがあるよ。そのときは、「役人の道徳的な心構えを示したもの」と答えられるようにしよう。

憲法十七条の注意点

  • 現代の憲法と同じものではない。
  • 国民の権利を定めたものではない。
  • 主に役人の心構えを示したもの。
  • 仏教や儒教の考え方が反映されている。

遣隋使はなぜ派遣されたの?

推古朝の改革は、国内だけで完結したものではないよ。東アジアの国際情勢とも深く関係していた。

589年、中国では隋が南朝の陳を滅ぼして中国を統一した。これは、東アジア全体に大きな影響を与える出来事だったんだ。

ヤマト政権にとって、隋はとても大きな存在だった。強大な中国王朝とどう向き合うかは、外交上の大問題だったんだよ。

そこでヤマト政権は、隋へ使者を送った。これが遣隋使けんずいしだよ。

遣隋使の目的は、隋と外交関係を結ぶこと、そして大陸の進んだ制度や文化を学ぶことだった。隋には、政治制度、法律、都市づくり、仏教、儒教など、ヤマト政権が学びたいものがたくさんあったんだ。

600年には遣隋使が派遣され、607年には小野妹子おののいもこが遣隋使として隋に送られた。高校日本史では、特に607年の小野妹子の派遣が重要だよ。

600年と607年の遣隋使

  • 600年にも遣隋使が派遣された記録がある。
  • 607年には、小野妹子が遣隋使として派遣された。
  • テストでは、607年の小野妹子と「日出づる処の天子」の国書が特によく問われる。

「日出づる処の天子」の国書とは?

607年の遣隋使で小野妹子が隋に渡り、「日出づる処の天子」の国書を煬帝に届けたことと、ヤマト政権が独立した国として外交しようとした姿勢を示す図解

607年の遣隋使でよく知られているのが、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という表現だよ。

これは、ヤマト政権の君主を「日出づる処の天子」、隋の皇帝を「日没する処の天子」と表した国書として知られている。この国書を受け取った隋の皇帝は、煬帝ようだいだよ。

隋の皇帝である煬帝から見ると、自分と相手が同じ「天子」と表現されているように見えるため、不快に感じたと伝えられているよ。

ただし、ヤマト政権から見ると、この国書には「隋に従属するだけの国ではなく、独立した国として外交したい」という姿勢が表れていたと考えられるんだ。

たろう
隋から見れば失礼に感じても、ヤマト政権としては対等な立場を示したかったんだね。

くまごろう
そうだね。もちろん実際の国力には大きな差があったけれど、外交上は独立した国として認められたいという意識があったと考えられるよ。煬帝の名前も、遣隋使とセットで押さえておこう。

遣隋使・留学生・学問僧がもたらしたもの

遣隋使では、使者だけでなく、留学生や学問僧がくもんそうも大陸へ渡ったよ。

留学生や学問僧は、隋やその後の唐で、政治制度、法律、仏教、儒教、学問などを学んだ。彼らが持ち帰った知識は、のちの日本の政治改革に大きな影響を与えていく。

代表的な人物としては、高向玄理たかむこのくろまろ南淵請安みなみぶちのしょうあんみんなどがいるよ。

南淵請安は、中大兄皇子や中臣鎌足の師として知られている。高向玄理と旻は、大化改新後に国博士くにのはかせとして政治改革に関わった人物として重要だよ。3人とも大陸で学んだ知識をもとに、のちの改革に影響を与えた人物として整理しよう。

つまり、遣隋使はただの外交使節ではなかった。大陸の制度や文化を学び、日本の政治を変えていくための大切なルートだったんだよ。

その後、618年に隋が滅び、唐が成立すると、630年には犬上御田鍬いぬがみのみたすき遣唐使けんとうしとして派遣される。遣隋使から遣唐使へと、大陸に学ぶ流れは続いていくんだ。

遣隋使・遣唐使の流れ

  • 600年、遣隋使が派遣される。
  • 607年、小野妹子が遣隋使として派遣される。
  • 618年、隋が滅び、唐が成立する。
  • 630年、犬上御田鍬が遣唐使として派遣される。
  • 留学生や学問僧が、大陸の制度・文化・思想を学んだ。

推古朝の改革の意義と限界

推古朝の改革には、大きな意義があったよ。

冠位十二階によって、家柄だけでなく個人の能力や功績を評価しようとした。憲法十七条によって、豪族たちに朝廷の役人としての心構えを示した。遣隋使によって、隋との外交を行い、大陸の制度や文化を学ぼうとした。

これらは、ヤマト政権が中央集権的な国家へ向かうための大切な第一歩だったんだ。

ただし、推古朝の改革だけで、すぐに強い中央集権国家が完成したわけではないよ。有力豪族の力はまだ大きく、地方支配も十分に整っていたとは言いにくい。

また、政治の実権は蘇我氏に大きく集中していた。蘇我氏の力が強くなりすぎることは、のちの政治対立にもつながっていく。

つまり、推古朝の改革は「完成」ではなく、「出発点」だったんだ。

推古朝の改革を整理しよう

改革・政策内容意義
冠位十二階役人に十二段階の位を与える個人の能力や功績を評価しようとした
憲法十七条役人の心構えを示す豪族に朝廷の役人としての意識を持たせようとした
遣隋使隋へ使者を派遣する外交関係を結び、大陸の制度や文化を学ぼうとした
仏教の重視仏教を保護し、政治理念にも取り入れる新しい国づくりの思想的な支えとなった

次の時代へどうつながる?

推古天皇の時代に始まった改革は、次の時代へ受け継がれていくよ。

厩戸王の死後、蘇我氏はさらに大きな力を持つようになる。やがて蘇我蝦夷・蘇我入鹿の時代になると、蘇我氏の政治的な力が強くなりすぎたことが問題になっていくんだ。

その流れの中で、645年に中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたりらが蘇我入鹿を倒した。この事件を乙巳の変いっしのへんというよ。その後、政治改革が進められ、これを大化改新と呼ぶんだ。

大化改新では、公地公民制など、天皇中心の政治をさらに進める改革が行われることになる。つまり、推古朝の改革は、大化改新や律令国家へつながる前段階として、とても重要なんだ。

たろう
推古天皇の時代で全部完成したわけじゃなくて、次の改革につながる土台だったんだね。

くまごろう
そうだよ。冠位十二階・憲法十七条・遣隋使は、天皇中心の国家づくりへ向かう第一歩として理解するといいね。

重要語句ミニ辞典

この単元でよく出る重要語句を、短く整理しておこう。

推古朝の人物

用語説明
推古天皇593年に即位した天皇。厩戸王や蘇我馬子とともに政治を進めた。
厩戸王後世に聖徳太子と呼ばれるようになった人物。推古天皇を支え、冠位十二階・憲法十七条・遣隋使などに関わった。
聖徳太子厩戸王の後世の呼び名として広く知られる。教科書によって表記の扱いが異なることがある。
蘇我馬子物部守屋を滅ぼし、推古朝で大きな政治的影響力を持った豪族。
小野妹子607年に遣隋使として隋へ派遣された人物。
煬帝607年の遣隋使の国書を受け取った隋の皇帝。
犬上御田鍬630年に遣唐使として派遣された人物。
南淵請安大陸で学んだ人物。中大兄皇子・中臣鎌足の師として知られる。
高向玄理大陸で学び、大化改新後に国博士として政治改革に関わった人物。
学問僧として大陸で学び、大化改新後に国博士として活動した人物。

制度・外交に関する用語

用語説明
冠位十二階603年に定められた制度。役人に十二段階の位を与え、個人の能力や功績を評価しようとした。
憲法十七条604年に定められた、役人の道徳的な心構えを示したもの。現代の憲法とは性格が異なる。
遣隋使隋へ派遣された使節。隋との外交や大陸文化の摂取を目的とした。
遣唐使唐へ派遣された使節。630年に犬上御田鍬が派遣された。
留学生・学問僧大陸で制度・文化・仏教・儒教などを学び、帰国後の政治改革に影響を与えた人々。
中央集権化天皇を中心に、中央政府が国全体を支配するしくみを整えていくこと。
乙巳の変645年に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を倒した事件。
大化改新乙巳の変の後に進められた政治改革。天皇中心の政治をさらに進めようとした。

テストで問われやすいポイント

テスト対策ポイント

  • 593年、推古天皇が即位した。
  • 推古天皇のもとで、厩戸王(聖徳太子)と蘇我馬子が政治を支えた。
  • 厩戸王は、後世に聖徳太子と呼ばれるようになった人物。
  • 603年、冠位十二階が定められた。
  • 冠位十二階は、氏族ではなく個人に位を与え、能力や功績を評価しようとした制度。
  • 604年、憲法十七条が定められた。
  • 憲法十七条は、現代の憲法ではなく、役人の道徳的な心構えを示したもの。
  • 「和を以て貴しとなす」は憲法十七条の有名な言葉。
  • 607年、小野妹子が遣隋使として派遣された。
  • 遣隋使は、隋との外交や大陸文化の摂取を目的とした。
  • 「日出づる処の天子」の国書は、ヤマト政権が独立した国として外交しようとした姿勢を示すもの。
  • 国書を受け取った隋の皇帝は煬帝。
  • 推古朝の改革は、中央集権国家への第一歩だったが、完成ではなかった。
  • 推古朝の改革は、のちの乙巳の変・大化改新・律令国家形成へつながる。

練習問題とドリルに挑戦しよう

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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。 ※サイト全体の運営実績についてはこちらにまとめています。

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