律令国家への道をわかりやすく解説!白村江の戦い・天智天皇・壬申の乱・天武天皇
律令国家とは、律と令という法にもとづいて、天皇を中心に全国を支配する国家のしくみのことだよ。
「律」はおもに刑罰のきまり、「令」は政治や行政のしくみを定めたきまりを意味する。つまり律令国家とは、豪族がそれぞれに力を持っていた時代から、国全体を共通の法と制度で動かそうとする国家体制のことなんだ。
ただし、律令国家は一日で完成したわけではないよ。
645年の乙巳の変と大化改新を出発点として、663年の白村江の戦い、天智天皇の改革、672年の壬申の乱、天武天皇・持統天皇の時代の制度整備を経て、701年の大宝律令へとつながっていく。
この記事では、律令国家がどのように形づくられていったのかを、白村江の戦い、天智天皇の改革、壬申の乱、天武天皇の政治、持統天皇と藤原京、大宝律令を中心に整理していくよ。
この記事でわかること
- 律令国家とは何か
- 白村江の戦いが国づくりに与えた影響
- 天智天皇が進めた防衛・戸籍・法整備
- 壬申の乱と天武天皇への権力集中
- 天武・持統朝で進んだ制度整備
- 大宝律令によって律令国家が本格的に整う流れ
目次
律令国家とは?
律令国家とは、律令という法にもとづいて、天皇を中心に全国を支配する国家体制のことだよ。
律令のうち、律は刑罰のきまり、令は政治や行政のしくみを定めたきまりを指す。
律令国家では、中央政府が地方を管理し、戸籍を作って人々を把握し、土地を班給し、税や労役を負担させるしくみが整えられていった。
ただし、7世紀の半ばに突然すべてが完成したわけではない。大化改新から始まった中央集権化の流れが、白村江の戦い後の危機感によって強まり、天智・天武・持統の時代を経て、701年の大宝律令で本格的に制度化されていったんだ。
このころの日本列島の政権は、時代に合わせて倭国やヤマト政権と呼ぶと正確だよ。「日本」という国号は、7世紀後半から8世紀初めにかけて使われるようになっていったと考えられているため、時代によって表現に注意しよう。
たろう
くまごろう律令国家への流れを年表で確認しよう

まずは、大化改新から大宝律令までの流れを年表で確認しよう。
| 年 | 出来事 | ポイント |
|---|---|---|
| 645年 | 乙巳の変 | 中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を倒す。 |
| 646年 | 改新の詔 | 公地公民制など、改革の方針が示されたとされる。 |
| 660年 | 百済の滅亡 | 唐・新羅によって百済が滅ぼされる。 |
| 663年 | 白村江の戦い | 倭国が唐・新羅連合軍に敗れる。 |
| 667年 | 近江大津宮へ遷都 | 中大兄皇子が政治の中心を近江へ移す。 |
| 668年 | 天智天皇の即位 | 中大兄皇子が天智天皇として即位する。 |
| 670年 | 庚午年籍 | 全国的な戸籍が作られた。 |
| 672年 | 壬申の乱 | 大海人皇子が大友皇子を破る。 |
| 673年 | 天武天皇の即位 | 大海人皇子が天武天皇として即位する。 |
| 681年 | 律令編纂の命令 | 天武天皇が律令編纂を命じたとされる。 |
| 684年 | 八色の姓 | 豪族を天皇中心の新しい身分秩序に組み込む。 |
| 689年 | 飛鳥浄御原令の施行 | 持統天皇の時代に施行された令。 |
| 690年 | 庚寅年籍 | 戸籍にもとづく支配が進められる。 |
| 694年 | 藤原京へ遷都 | 本格的な都城が整えられる。 |
| 701年 | 大宝律令 | 律令国家のしくみが本格的に整えられる。 |
白村江の戦いと東アジアの緊張
律令国家づくりが急がれた大きな背景に、東アジアの国際情勢の変化があるよ。
7世紀、中国では唐が強大な帝国を築いていた。朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅が争っていたが、新羅は唐と結び、660年に百済を滅ぼした。
百済は、倭国と深い関係を持っていた国だった。そのため、百済の滅亡後、百済の復興をめざす勢力は倭国に助けを求めた。
倭国は百済復興を支援するために軍を送ったけれど、663年の白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗してしまった。
この敗戦は、倭国に大きな衝撃を与えた。唐や新羅の力を目の当たりにし、「国を守るためには、国内をもっと強くまとめなければならない」という危機感が高まったんだ。
たろう
くまごろう白村江の敗戦後、倭国はどうした?

白村江の戦いに敗れたあと、倭国は唐・新羅の侵攻に備えて、防衛体制を強化した。
対馬・壱岐・筑紫などには、防人や烽が置かれた。
防人は、九州北部などに配置された防衛のための兵士だよ。烽は、敵の接近を知らせるためののろし台のことだよ。
さらに、筑紫には水城が築かれ、大野城や基肄城などの山城も整備された。これらには、百済から渡ってきた人々の知識や技術も生かされたとされる。
つまり白村江の敗戦は、倭国が「外国に対して国を守るしくみ」と「国内を中央でまとめるしくみ」を急いで整えるきっかけになったんだ。
白村江の戦い後の防衛体制
| 用語 | 内容 |
|---|---|
| 防人 | 国境防衛のために配置された兵士。 |
| 烽 | 敵の接近を知らせるためののろし台。 |
| 水城 | 筑紫に築かれた防御施設。 |
| 大野城・基肄城 | 九州北部に築かれた山城。 |
| 古代山城 | 外敵に備えて各地に整備された防衛施設。 |
近江大津宮と天智天皇の改革
白村江の戦いのあと、中大兄皇子は政治の中心を近江大津宮へ移した。これは667年のことだよ。
近江大津宮は、現在の滋賀県大津市周辺にあったとされる。琵琶湖の水運を利用でき、東国や北陸方面にもつながりやすい場所だった。
なぜ飛鳥から近江へ移ったのかについては、国防上の理由、交通上の理由、従来の豪族勢力から距離を置く意図など、いくつかの見方があるよ。
668年、中大兄皇子は天智天皇として即位した。天智天皇は、白村江の敗戦後の危機感を背景に、中央集権化を進める改革に取り組んだんだ。
その代表が、戸籍の作成と法整備の動きだよ。
たろう
くまごろう庚午年籍と近江令

天智天皇の時代の重要な制度として、670年の庚午年籍があるよ。
庚午年籍は、全国的な戸籍として知られている。戸籍を作ることで、国家は人々を把握し、税や労役、兵役などを管理する基礎を整えようとしたんだ。
律令国家では、誰がどこに住んでいるのか、どのような身分なのかを把握することがとても重要だった。戸籍がなければ、税を集めたり、兵士や労働力を動員したりすることが難しいからだよ。
また、天智天皇の時代には近江令が編纂されたと伝えられている。
ただし、近江令については、実際にどの程度完成していたのか、どのような内容だったのかについて、慎重に見る必要があるよ。現存している法典ではなく、実態には不明な点も多いんだ。
大切なのは、天智天皇の時代に、戸籍や法によって国を統治しようとする方向が強まったということだよ。
天智天皇の改革ポイント
- 667年:近江大津宮へ遷都。
- 668年:中大兄皇子が天智天皇として即位。
- 670年:庚午年籍を作成。
- 近江令が編纂されたと伝えられるが、実態には不明な点がある。
- 戸籍と法にもとづく支配の基礎が整えられていった。
壬申の乱とは?
天智天皇の死後、皇位継承をめぐって起こった内乱が、672年の壬申の乱だよ。
この戦いでは、天智天皇の子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子が争った。
大海人皇子は、東国の豪族などを味方につけて戦い、勝利した。そして673年に天武天皇として即位したんだ。
壬申の乱は、単なる皇位継承争いではなく、その後の天皇中心の国家づくりを大きく進めるきっかけにもなった。
なぜなら、天武天皇はこの戦いに勝ったことで、強い政治的権力を持つことになったからだよ。反対勢力を抑え、天皇を中心とする新しい国家づくりを進めやすくなったんだ。
壬申の乱のポイント
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 年 | 672年 |
| 原因 | 天智天皇の死後の皇位継承争い。 |
| 対立 | 大友皇子と大海人皇子。 |
| 結果 | 大海人皇子が勝利。 |
| その後 | 大海人皇子が天武天皇として即位。 |
| 意義 | 天皇中心の国家づくりがさらに進む。 |

天武天皇と天皇中心の国家づくり
壬申の乱に勝利した天武天皇は、天皇を中心とする国家づくりを大きく進めた。
天武天皇の政治では、皇族を重視した政治、豪族の序列づけ、律令編纂の命令、歴史書の編纂事業などが進められたとされる。
特に重要なのが、天皇の権威を高め、豪族たちを天皇中心の秩序の中に組み込もうとしたことだよ。
天武天皇の時代には、天皇を中心とする国家のあり方がより明確になっていった。壬申の乱の勝利によって強い権力を得た天武天皇は、中央集権国家の形成をさらに進めたんだ。
たろう
くまごろう八色の姓とは?
天武天皇の政治で特に重要なのが、684年に定められた八色の姓だよ。
八色の姓とは、豪族たちを新しい姓によって序列づけた制度のことだよ。
「姓」は、古代の豪族の身分や地位を表す称号のようなものだね。八色の姓では、真人・朝臣・宿禰などの姓が定められ、豪族たちは天皇を中心とする新しい身分秩序の中に組み込まれていった。
八色の姓では、次の8つの姓が定められたよ。
| 順位 | 姓 | 読み方 | おおまかな特徴 |
|---|---|---|---|
| 1 | 真人 | まひと | 皇族に近い氏族などに与えられた最上位の姓。 |
| 2 | 朝臣 | あそみ・あそん | 有力な豪族に与えられ、のちに重要な姓となった。 |
| 3 | 宿禰 | すくね | 有力氏族に与えられた姓の一つ。 |
| 4 | 忌寸 | いみき | 渡来系氏族などにも与えられた姓。 |
| 5 | 道師 | みちのし | 八色の姓の中位に置かれた姓。 |
| 6 | 臣 | おみ | もともと有力豪族に用いられていた古い姓。 |
| 7 | 連 | むらじ | もともと有力豪族に用いられていた古い姓。 |
| 8 | 稲置 | いなぎ | 八色の姓の中では下位に置かれた姓。 |
ポイントは、真人を最上位とし、豪族たちを天皇を頂点とする新しい序列の中に組み込んだことだよ。
また、もともと有力豪族の姓として使われていた臣や連は、八色の姓の中では下位に置かれた。これは、古い氏族中心の秩序を改め、天皇中心の新しい身分秩序を作ろうとしたことを示しているんだ。
つまり、八色の姓は、豪族がそれぞれ独立して力を持つのではなく、天皇を頂点とする序列の中に位置づけられることを意味していたんだ。
これにより、天皇中心の中央集権的な国家体制がさらに強められていったよ。
八色の姓のポイント
- 684年、天武天皇が定めた。
- 豪族を新しい姓で序列づけた。
- 天皇を中心とする身分秩序を作る目的があった。
- 中央集権化を進める制度として重要。
天皇号・日本国号の注意点
この時期には、「天皇」という称号や「日本」という国号の使用も重要なテーマになるよ。
ただし、ここは少し注意が必要だよ。
古い時代の君主は、一般に大王と呼ばれていた。やがて7世紀後半から8世紀初めにかけて、君主を「天皇」と呼ぶ表現が定着していったと考えられている。
また、「倭」から「日本」へという国号の変化も、7世紀後半から8世紀初めにかけて進んでいったと考えられているよ。
そのため、「天武天皇の時代に天皇号や日本国号が使われる方向が強まった」と理解するとよい。ただし、「この年に完全に正式決定した」と断定しすぎないほうが安全だよ。
高校日本史では、天武・持統朝ごろに、天皇中心の国家意識が強まっていったと整理しよう。
持統天皇と藤原京
天武天皇の死後、その政治路線を受け継いだのが持統天皇だよ。
持統天皇は、天武天皇の皇后で、天武天皇の死後に政治を支え、のちに即位した天皇だよ。
持統天皇の時代には、律令国家づくりがさらに具体化していった。
まず、689年には飛鳥浄御原令が施行された。これは、天武天皇の時代に編纂が進められ、持統天皇の時代に施行された令だよ。
また、690年には庚寅年籍が作成された。戸籍を整えることは、人々を国家が把握し、税や労役、兵役を管理するうえで欠かせないことだった。
さらに、694年には藤原京へ遷都した。
藤原京は、条坊制を備えた本格的な都城として重要だよ。都そのものを計画的に整えることも、律令国家づくりの一部だったんだ。
たろう
くまごろう飛鳥浄御原令・庚寅年籍・大宝律令

律令国家の完成へ向かう流れでは、次の3つを整理しておくとわかりやすいよ。
飛鳥浄御原令
飛鳥浄御原令は、689年に施行された令だよ。天武天皇の時代に編纂が進められ、持統天皇の時代に施行されたとされる。
これは、701年の大宝律令へ向かう重要な段階だった。
庚寅年籍
庚寅年籍は、690年に作られた戸籍だよ。
戸籍は、国家が人民を把握するための基本資料だった。のちの班田収授や税制の運用にも関わる重要な制度だよ。
大宝律令
大宝律令は、701年に制定された律令だよ。
大宝律令によって、中央官制、地方制度、税制、刑罰など、律令国家のしくみが本格的に整えられた。
ここで大切なのは、大宝律令が突然生まれたわけではないということ。大化改新、白村江の敗戦、天智天皇の改革、天武・持統朝の制度整備という長い流れの上に作られたんだ。
律令国家はどのように完成へ向かった?
律令国家への道のりを、もう一度整理しよう。
まず、645年の乙巳の変と大化改新によって、豪族中心の支配から天皇中心の中央集権国家をめざす方向が示された。
次に、663年の白村江の戦いで倭国が敗れると、国防強化と中央集権化の必要性がさらに強まった。
天智天皇の時代には、近江大津宮への遷都、庚午年籍、近江令の編纂伝承など、戸籍と法にもとづく支配の基礎が作られていった。
その後、672年の壬申の乱で勝利した天武天皇は、強い権力を背景に、天皇中心の国家づくりを進めた。八色の姓や律令編纂の命令も重要だよ。
持統天皇の時代には、飛鳥浄御原令の施行、庚寅年籍、藤原京への遷都によって、制度と都城の整備が進んだ。
そして701年の大宝律令によって、律令国家のしくみが本格的に整えられていった。
つまり、律令国家は、外からの危機と国内の政治改革の両方を背景に、長い時間をかけて作られていったんだ。
律令国家へのステップ
- 大化改新:天皇中心の中央集権国家をめざす出発点。
- 白村江の戦い:国防と中央集権化の必要性が高まる。
- 天智天皇:近江大津宮、庚午年籍、法整備の動き。
- 壬申の乱:天武天皇への権力集中。
- 天武天皇:八色の姓、律令編纂の命令。
- 持統天皇:飛鳥浄御原令、庚寅年籍、藤原京。
- 大宝律令:律令国家のしくみが本格的に整う。
重要語句ミニ辞典
この単元でよく出る重要語句を、短く整理しておこう。
白村江の戦いと国防に関する用語
| 用語 | 説明 |
|---|---|
| 白村江の戦い | 663年、倭国が唐・新羅連合軍に敗れた戦い。国防強化と中央集権化のきっかけとなった。 |
| 唐 | 7世紀の東アジアで強い影響力を持った中国王朝。 |
| 新羅 | 唐と結び、百済や高句麗と争った朝鮮半島の国。 |
| 百済 | 倭国と関係が深かった朝鮮半島の国。660年に唐・新羅によって滅ぼされた。 |
| 防人 | 外敵に備えて配置された兵士。 |
| 烽 | 敵の接近を知らせるためののろし台。 |
| 水城 | 筑紫に築かれた防御施設。 |
| 大野城・基肄城 | 九州北部に築かれた山城。 |
天智天皇の改革に関する用語
| 用語 | 説明 |
|---|---|
| 中大兄皇子 | 乙巳の変・大化改新の中心人物。のちの天智天皇。 |
| 天智天皇 | 中大兄皇子が668年に即位した天皇。白村江の敗戦後、中央集権化を進めた。 |
| 近江大津宮 | 667年に遷都した宮。現在の滋賀県大津市周辺。 |
| 庚午年籍 | 670年に作られた全国的な戸籍。 |
| 近江令 | 天智天皇の時代に編纂されたと伝えられる令。実態には不明な点がある。 |
天武・持統朝に関する用語
| 用語 | 説明 |
|---|---|
| 壬申の乱 | 672年、天智天皇の死後に起きた皇位継承をめぐる内乱。 |
| 大友皇子 | 天智天皇の子。壬申の乱で大海人皇子と争った。 |
| 大海人皇子 | 壬申の乱に勝利し、天武天皇として即位した人物。 |
| 天武天皇 | 壬申の乱後に即位し、天皇中心の国家づくりを進めた天皇。 |
| 八色の姓 | 684年、天武天皇が定めた新しい姓の制度。豪族を天皇中心の序列に組み込んだ。 |
| 持統天皇 | 天武天皇の皇后で、のちに即位。律令国家づくりを進めた。 |
| 飛鳥浄御原令 | 689年に施行された令。大宝律令へ向かう重要な段階。 |
| 庚寅年籍 | 690年に作られた戸籍。 |
| 藤原京 | 694年に遷都した本格的な都城。 |
| 大宝律令 | 701年に制定された律令。律令国家のしくみを本格的に整えた。 |
テストで問われやすいポイント
テスト対策ポイント
- 律令国家は、律と令にもとづいて天皇中心に全国を支配する国家体制。
- 律は刑罰、令は政治や行政のきまり。
- 663年、倭国は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた。
- 白村江の敗戦後、国防強化と中央集権化の必要性が高まった。
- 敗戦後、防人・烽・水城・大野城・基肄城などが整備された。
- 667年、中大兄皇子は近江大津宮へ遷都した。
- 668年、中大兄皇子は天智天皇として即位した。
- 670年、庚午年籍が作られた。
- 近江令は編纂されたと伝えられるが、実態には不明な点がある。
- 672年、壬申の乱が起こった。
- 壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子が争い、大海人皇子が勝利した。
- 大海人皇子は、天武天皇として即位した。
- 684年、天武天皇は八色の姓を定めた。
- 天皇号や日本国号は、7世紀後半から8世紀初めにかけて定着していったと考えられる。
- 689年、飛鳥浄御原令が施行された。
- 690年、庚寅年籍が作られた。
- 694年、持統天皇は藤原京へ遷都した。
- 701年、大宝律令が制定され、律令国家のしくみが本格的に整えられた。
- 律令国家は一気に完成したのではなく、段階的に整えられた。
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。 ※サイト全体の運営実績についてはこちらにまとめています。

