「弥生時代」弥生土器・環濠集落・伸展葬とは?弥生文化を解説
高校日本史で学ぶ「弥生時代」について、弥生土器と縄文土器との違い、環濠集落とはなにか、伸展葬とはなにか、なぜ伸展葬が取り入れられたのか。高校の定期テストや大学受験に必要な弥生文化の特徴を解説するよ。
目次
弥生時代とは
縄文時代と弥生時代の大きな違いは稲作文化がおきたこと。
稲作文化が、人々にどのような影響を与えたかを解説するよ。
食料生産が始まったことによって生活が変化した
紀元前10世紀ごろから3世紀ごろ、日本は「弥生時代」と呼ばれているんだ。
この時代に、日本では稲作が始まっているよ。稲作とは、農耕(農業)をしてお米を作ることだね。
つまり自分たちで食べ物を作れるようになったんだよ。
稲作は日本人の生活や文化を大きく変えたんだ。1つずつ見ていこうね。
稲作はどこからきたの?
稲作はどこから日本に伝わったんだろう?
いろいろな説があるんだけど、中国から朝鮮半島を経由して、日本に入ってきたっていう説が1番有名だね。
今の九州北部あたりから始まって、弥生時代の後期(紀元前3世紀ごろから3世紀ごろ)には、ほとんどの地域で水田を使った稲作、つまり「水稲農耕(すいとうのうこう)」が行われていたんだ 。
水田は「田んぼ」とも言うね。
日本のお米は、今も田んぼで作られてるから、見たことがある人もいるんじゃないかな。
弥生時代の始めは水分をたくさん含んだ場所、つまり湿地に田んぼを作ったんだ。
これを「湿田(しつでん)」と言うよ。
だけど湿地ってなんで湿地だと思う?
日当たりが悪くて、水はけも悪いからだよね。
だから本来なら、お米の収穫には適してないんだ。
そこで弥生時代の中期あたりから、乾いた土地や高い場所に水を引いて、田んぼを作るようになったんだ。
これを「乾田(かんでん)」と言うよ。
稲作文化は日本人の生活や文化にどんな影響を与えたの?
今までの縄文時代(紀元前1万年頃から紀元前10世紀頃)は「狩猟採集」といって、人々は移動を繰り返して、木の実や魚などの食べ物を獲得して生活してきたんだ。
難しい言葉を使うと、縄文時代は「獲得経済」というんだ。
その一方で弥生時代は、自分たちで食べ物を生産できるようになった。
つまり農業(農耕)を始めて、同じ場所にずっと住む、つまり「定住生活」を始めたんだ。
だから弥生時代は「生産経済」というよ。
お米を生産して、お米を食べるようになって、日本人の生活は大きく変わったんだ。
まず食生活だね。
縄文時代の主食だったドングリやクリなどの木の実よりも、お米は栄養価が高いから、日本人は健康になって寿命も伸びたんだ。
だから弥生時代になって、人口が増えたんだよ。
お米は長い期間、保存できるのも便利だよね。
だけど湿気がある場所だとさすがに腐っちゃうし、そのまま置いてたら虫にも食べられちゃうかも…。
だから湿気や害虫からお米を守るために「高床倉庫」を作って、きちんとお米を保存できるようにしたんだ。
次に社会の構造も変わったよ。
弥生時代は人口も増えたから、たくさんお米を作らなくてはいけないよね。
だから田んぼもたくさん作らなくてはいけないね。
1人で作るよりも、たくさんの人と協力した方が早く作れるし、たくさん作れるよね。
だから人と人が協力をすることで「集団」ができるようになる。
この集団がさらに大きくなって、もっとたくさんの人が協力するようになると、社会が作られるんだ。
弥生時代はお米を作ること、つまり農業(農耕)を通じて、お互いに協力し合ったから「農耕社会」とも言うよ。
あとここからはちょっと暗い話。
みんながお米を作るようになると、たくさんお米が取れるところもあれば、取れない場所も出てきてしまうよね。
お米が取れない場所に住む人は「お米が取れる場所がほしい」って思う。
だから弥生時代になると、人々はお米が取れる場所をめぐって争うようになる。
戦争っていうのは、人類が農業によって定住生活を始めたことで起こるんだ。
争いごとから身を守るために必要なのは、自分たちの住むところが簡単に奪われないようにすることだよね。
だから自分たちの住む場所の周りに溝や柵を作って、簡単に外の人間が入ってこられないようにしたんだ。
これを「環濠集落(かんごうしゅうらく)」というよ。
集落っていうのは、まさに自分たちの住む場所とか、村を意味する言葉だね。
稲作まとめ
- 稲作は中国から朝鮮半島を経由して日本に入ってきた説が一番有名。
- 九州北部あたりから始まり、弥生時代後期にはほとんどの地域で水稲農耕が行われていた。
- 湿地に作られた田んぼを「湿田」という。
- 乾いた土地や高い場所に水を引いて作られた田んぼを「乾田」という。
- 弥生時代の始めは湿田だったが、中期あたりから乾田が作られるようになった
- 稲作文化により、縄文時代の獲得経済から、弥生時代は生産経済になった。
- 食生活が安定することで、弥生時代は人口が増えた。
- 湿気や害虫からお米を守るために「高床倉庫」を作った。
- 稲作文化により、人々が協力し、集団ができるようになった。
- 集団で行う農耕社会から、争いが生まれるようになった。
- 自分たちの住む場所を敵から守るために環濠集落ができるようになった。
墓の様式について
弥生時代に入ると、縄文時代にはなかった大きなお墓が作られるようになる。
その理由はなんだろう?
社会ができると、たくさんの人をまとめるリーダーが出てくる
お米をたくさん作るために、人と人が協力して社会を作ったことを確認したね。
たくさんの人が好き勝手に行動してしまうと、社会はぐちゃぐちゃになっちゃう。
社会はまさに学校のクラスそのものだ。
だからたくさんの人をまとめるリーダーが必要になる。
まさに学級(クラス)委員長だね。担任の先生もそうかも。
今の日本でいったら、総理大臣だね。
弥生時代の社会でも、たくさんの人をまとめようとするリーダーが出てくる。
そういったリーダーを有力者(権力者)とか、または「豪族」って呼ぶんだ。
お墓には争いを防ぐ効果もあった
弥生時代に入って大きなお墓が目立つようになったのは、こうしたリーダーのために作られるようになったからなんだ。
だけど弥生時代のお墓は、死者を祀るだけでなく、まだ生きている人に対するメッセージを持っていたんだよ。
お墓の形や大きさ、お墓のなかに入っている豪華なもの(副葬品)で、リーダー(豪族)の持っている力(権力)の大きさを見せつけるために、お墓を作ったんだ。
自分の権力を見せつけるために大きなお墓を作るって…なんでそんな面倒なことをしなくてはいけないんだろう?
少し考えてみよう。
たとえばお米がたくさん取れる集落があって、別の集落に住むリーダーがその集落を狙っていたとしよう。
だけどその集落には大きくて、立派なお墓が立っている。
狙っていたリーダーはこう思うんじゃないかな。
「こんな大きなお墓を作れるってことは、かなりの人数が住んでいるんだろうな。あんな立派なお墓があるってことは、あの集落には優秀なリーダーがいるに違いない…。ちょっとあの集落を攻めるのはやめておこう…」
つまり弥生時代のお墓は争いごとを防ぐ役割も果たしていたんだ。
それじゃあ、弥生時代の埋葬方法やお墓の種類について詳しく見ていこう。
どんどん豪華になるお墓
縄文時代の「屈葬(くっそう)」といって、遺体を曲げて土の中に入れていたけれど、弥生時代になると「伸展葬(しんてんそう)」が多くなったんだ。
死者の遺体をまっすぐにして土の中に入れるやり方だよ。
その理由はやはり稲作が関係している。
稲作を始めると、人は定住生活を始めることは確認したね。
言い方を変えると、人は土地にしばられ、ずっと同じ場所で生きていくことになるよね。
そうなると自分の住む土地を与えてくれた先祖やリーダーに、感謝の気持ちが生まれてくる。
この感情から遺体を丁寧に扱うようになり、今までの「屈葬」ではなく「伸展葬」になったと言われているよ。
そしてリーダーの埋葬方法は時代の経過に連れて、さらに変化していく。
どんどん豪華になっていくんだ。
やっぱり目立たないと意味がないからね。
初めは「甕棺墓(かめかんぼ)という、遺体がすっぽり入る土器(入れ物)を作って、そのなかに副葬品として金銀財宝をつめ込んで埋葬したんだ。
だけど甕棺墓にどっさり副葬品を入れたとしても、誰も見てくれない。
だから石墓(支石墓)の登場。
自分が埋まっている場所に石を置くんだ。
そしたら「自分はここに埋まってるぜ」って、生きてる人に伝わるよね。
さらにお墓は豪華になるよ。
弥生時代後期には、墓の周りに溝を掘った「方形周溝墓」や、盛り土をした「墳丘(墓)」が作られたんだ。
「墳丘(墓)」としては、岡山県倉敷市矢部の楯築遺跡にある「楯築墳丘墓」や、日本海に面する地域で見られる「四隅突出型墳丘墓」が有名だよ。
「方形周溝墓」と「墳丘(墓)」が組み合わさったものが、次の時代に登場する古墳になるんだ。
弥生時代の墓まとめ
- 稲作文化により、集団をまとめるリーダー(権力者・豪族)が登場した。
- お墓の形や大きさ、副葬品でリーダーの権力の大きさをみせつけた
- 縄文時代の「屈葬」から、弥生時代は遺体を丁寧に扱うようになり「伸展葬」が多くなった。
- 甕棺墓(かめかんぼ)とは、遺体がすっぽり入る土器を使ったお墓。
- 自分が埋まっている場所に石を置くお墓を石墓(支石墓)という。
- 弥生時代後期には方形周溝墓や墳丘が作られた。
祭器について
弥生時代に入ると、金属器が使われるようになる。
日本には青銅器と鉄器がほぼ同時期にもたらされたと考えられているんだ。
そして青銅器は祭器(祭祀品)、または贅沢品として、鉄器は武器、農具、漁具、工具などに使われたんだ。
祭器としての青銅器
「銅剣・銅矛・銅戈」が中国や朝鮮からもたらされた最初の段階では、争いごとなどで使われる実用的な武器だったんだ
だけど日本でも青銅器が次第に作られるようになると、形も大きくて、刃も付かなくなった。
お墓の副葬品としても見つからず、まとまって発見されたことから、儀式のときに使われる祭祀品(祭器)、または豪族の権力を示すために使用されたと考えられているんだ。
「銅鐸」は日本独特のもので、その多くは集落から離れた山の上で発見されているんだ。
表面には農業に関係する絵が描かれているので、祭祀のときに使われていたと考えられているよ。
祭器は何のために使われるのだろう?
祭器(祭祀品)は何のために使われるのだろう? そもそも祭祀とは何だろうか?
弥生時代から稲作が始まり、お米は人々の生活を支える大事な基盤だったよね。
だけど農業は自然の条件に左右されてしまう。
雨が降ればお米はとれないし、逆に降らなくても困るよね。
虫や動物(獣)に食べられてしまう可能性だってある。
だから弥生時代の人々は、お米がとれるように、神に祈る豊作の儀式(祭祀:さいし)をしたんだ。
このような儀式は「農耕祭祀」と呼ばれ、多くの集落で行われていたんだ。
このとき青銅器が祭器として使用されたんだよ。
祭器まとめ
- 青銅器は祭器や贅沢品として使われた。
- 鉄器は武器や農具、漁具、工具などに使われた。
- 弥生時代の人々はお米がとれるように、神に祈る豊作の儀式(農耕祭祀(のうこうさいし)を行い、その際に祭器(祭祀品)が使われた。
お米が日本人を作った!?(まとめ)
以上、稲作が日本人に与えた影響を見てきたよ。
稲作は日本人の価値観、つまり考え方も作ったんだ。
日本人にとってお米は「神聖なもの」とされて、日常生活だけでなく、大事な儀式にも欠かせない存在なんだ。
天皇も参加する「新嘗祭(にいなめさい)」
今の天皇も「新嘗祭」という儀式を行うんだ。
11月23日に毎年行われるんだよ。この日は「勤労感謝の日」で祝日だね。
その年に収穫された新米を神様にお供えして、天皇が感謝の気持ちを伝えるんだ。
記録に残っているだけで、なんと千年以上続いている儀式なんだ。
天皇の歴史もお米と共にあるんだね。
季節を楽しんだり、和を大事にする文化も育てた!?
またお米の収穫なんだけど、春に田植えをして、暑い夏を過ごし、秋に収穫するね。
冬は次の春に向けての準備だ。
お米の収穫は、まさに1年をかけて行われるよね。
お米はいつも日本人の生活と共にあったんだ。
そしてお米の収穫サイクルは、四季の移り変わりと一致するね。
だからお米は、日本人の自然を大事にする考え方や、それぞれの季節を楽しむ生活スタイルを育んだんだ。
またお米なんだけど、人と人がお互いに協力して、たくさんの人(集団)が関わって出来上がるよね。
他人と仲良くしなければ、たくさんのお米を作れない。
だから日本人は集団の「和」を大事にする、日本人特有の性格も作ったんだ。
普段食べているお米にも「歴史」がある
弥生時代の歴史を知ると、まさにお米が日本人を作ってきたことが分かるよね。
いつも何気なく食べてるお米も少し違った“味”がするんじゃないかな。
運営者情報
ゆみねこ
詳しいプロフィールを見る
青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。