古墳文化の変化をわかりやすく解説|横穴式石室・群集墳・副葬品・古墳の終末
高校日本史で学習する「古墳文化」は、古墳時代の前期・中期・後期で大きく変化していくよ。
特に古墳時代の後期になると、古墳の内部構造や副葬品、古墳を造る人々の広がりに変化が見られるんだ。
この記事では、古墳文化の後期に見られる変化と、古墳文化がどのように終わりへ向かっていったのかを、テスト対策のポイントも交えながらわかりやすく解説するよ。
目次
古墳文化の後期には何が変わった?
古墳時代の前期には、大きな前方後円墳が造られ、有力な首長の力を示す役割を持っていたよ。
巨大な古墳は、ただのお墓ではなく、「この地域を支配しているのはこの人だ」という権力のシンボルでもあったんだ。
ところが、古墳時代の後期になると、古墳のあり方が少しずつ変わっていく。
その大きなポイントが、竪穴式石室から横穴式石室への変化、そして群集墳の広がりなんだ。
たろう
くまごろう竪穴式石室とは?
まず、古墳時代前期によく見られる「竪穴式石室」を確認しよう。
竪穴式石室とは、古墳の上から穴を掘り、石で作った部屋に棺を納める形式の石室のことだよ。
イメージとしては、上からふたを開けて、棺を入れたあとに閉じるような形だね。
いったん埋めてしまうと、あとからもう一度中に入ることは難しい。だから、基本的には一つの古墳に一人の有力者を葬る性格が強かったんだ。
竪穴式石室のポイント
- 古墳の上から穴を掘って石室を作る。
- 棺を納めたあと、上からふさぐ。
- あとから入り直しにくい。
- 古墳時代前期の有力者の墓に多く見られる。
横穴式石室とは?
古墳時代の後期になると、「横穴式石室」が広がっていくよ。
横穴式石室とは、古墳の横から通路を作り、その奥に棺を納める部屋を作る形式の石室のことなんだ。
古墳の横から入る通路を「羨道」、棺を納める奥の部屋を「玄室」というよ。
横穴式石室では、入口をふさいでおけば、あとからまた開けて中に入ることができた。つまり、あとから別の人の棺を納める「追葬」がしやすくなったんだ。

この変化によって、古墳は一人の有力者だけの墓という性格に加えて、家族や一族を葬る墓としての性格を強めていったと考えられているよ。
横穴式石室のポイント
- 古墳の横から入る構造。
- 通路を羨道、奥の部屋を玄室という。
- あとから棺を追加する追葬がしやすい。
- 古墳時代後期に広がる。
- 家族や一族の墓としての性格が強まる。
群集墳とは?
横穴式石室が広がると、古墳を造る人々の範囲も広がっていった。
古墳時代の前期には、巨大な古墳を造ることができるのは、かなり力のある首長に限られていたよ。
でも後期になると、小規模な古墳が各地でたくさん造られるようになる。
このように、小さな古墳が一か所にたくさん集まっているものを「群集墳」というんだ。
群集墳は全国各地に見られ、関東地方や九州地方などでも多く確認されているよ。
群集墳が広がったことから、古墳を造ることができる人々の層が広がり、地域の有力者やその一族も古墳を造るようになったと考えられるよ。
つまり、古墳文化は一部の大首長だけのものではなく、より広い地域の有力者たちにも広がっていったんだね。
たろう
くまごろう副葬品はどう変化した?
古墳の中に納められた品物を「副葬品」というよ。
副葬品を見ると、その時代の権力者が何を大切にしていたのかがわかるんだ。
古墳時代前期には、銅鏡や玉類など、祭りや呪術的な権威に関わるものが多く納められた。
中期になると、武器・武具・馬具などが目立つようになる。これは、ヤマト政権が軍事力を背景に勢力を広げていったことと関係しているんだ。
後期になると、横穴式石室が広がり、追葬が行われるようになる。すると、古墳は家族や一族の墓としての性格も強くなり、土器など生活に関係する品物も多く見られるようになっていくよ。
| 時期 | 副葬品の特徴 | 背景 |
|---|---|---|
| 前期 | 銅鏡・玉類など | 祭りや呪術的な権威を示す |
| 中期 | 武器・武具・馬具など | 軍事力や支配者の力を示す |
| 後期 | 土器・日用品など | 家族や一族の墓としての性格が強まる |
ただし、「前期はこれだけ」「中期はこれだけ」と完全に分かれるわけではないよ。古墳や地域によって違いはあるけれど、全体の流れとして、銅鏡・玉類から武器・馬具、さらに土器や日用品へと変化していくことを押さえておこう。
土師器と須恵器の違い
古墳時代の土器として重要なのが、「土師器」と「須恵器」だよ。
土師器は、弥生土器の流れをくむ素焼きの土器だよ。赤褐色で、比較的低い温度で焼かれたものなんだ。
一方、須恵器は、朝鮮半島から伝わった技術によって作られた、硬く焼きしめられた土器だよ。
須恵器は、窯を使って高い温度で焼かれるため、青灰色で硬いのが特徴なんだ。

須恵器の広がりは、朝鮮半島から日本列島へ技術や文化を伝えた「渡来人」の存在とも深く関係しているよ。
| 土器 | 特徴 | ポイント |
|---|---|---|
| 土師器 | 赤褐色の素焼きの土器 | 弥生土器の系統を引く |
| 須恵器 | 青灰色で硬い土器 | 朝鮮半島から伝わった技術で作られた |
渡来人がもたらした技術と文化
古墳時代には、朝鮮半島や中国大陸から日本列島に移り住んだ人々がいたよ。
こうした人々を「渡来人」というんだ。
渡来人は、須恵器の生産技術だけでなく、鉄器生産、機織り、土木技術、漢字の使用、仏教や儒教など、さまざまな技術や文化を日本列島にもたらした。
このような大陸文化の受け入れは、ヤマト政権の発展にも大きな影響を与えたよ。
特に6世紀半ばごろには仏教が伝わったとされ、のちの飛鳥時代の政治や文化にも大きく関わっていくんだ。
渡来人のポイント
- 朝鮮半島や中国大陸から日本列島に移り住んだ人々。
- 須恵器、鉄器、機織り、土木、漢字などを伝えた。
- 仏教や儒教などの大陸文化の受容にも関係する。
- ヤマト政権の発展を支えた。
装飾古墳とは?
古墳時代の後期には、「装飾古墳」も見られるようになるよ。
装飾古墳とは、石室の壁や石棺などに、絵や文様が描かれた古墳のことだよ。
文様には、円や三角形などの幾何学模様、武器、船、人物、動物などがある。
特に九州地方には、多くの装飾古墳が残されているんだ。
これらの装飾には、死者を守る願いや、悪いものを遠ざける意味、死後の世界への考え方などが込められていたと考えられているよ。
古墳文化はなぜ終わっていった?
古墳文化は、6世紀後半から7世紀にかけて、しだいに終末へ向かっていく。
特に6世紀後半から7世紀にかけて、巨大な前方後円墳の造営はしだいに少なくなり、古墳文化は終末期へ向かっていく。
その背景には、いくつかの大きな変化があったよ。
一つ目は、ヤマト政権の支配体制が変化していったことだ。
古墳は、有力者が自分の力を示すためのシンボルでもあった。けれど、ヤマト政権がしだいに中央集権的な政治を進めていくと、それぞれの豪族が巨大な古墳で力を示す意味は少しずつ弱まっていったんだ。
二つ目は、仏教の広がりだよ。
仏教が広まると、寺院の建設や仏教文化が重んじられるようになっていく。権力を示すものも、巨大な古墳から、寺院や仏像などへ少しずつ変わっていったんだ。
また、仏教の影響を受けて火葬の考え方も広がり始め、死者を古墳に葬る習慣にも変化が生まれていった。
ただし、「仏教が入ったからすぐに古墳がなくなった」と単純に考えるのは注意が必要だよ。
古墳文化の終末は、仏教の広がりだけでなく、ヤマト政権の政治体制の変化や、律令国家へ向かう動きと結びつけて理解することが大切なんだ。

古墳文化の終末のポイント
- 6世紀後半〜7世紀にかけて古墳文化は変化していく。
- 巨大な前方後円墳の造営はしだいに少なくなる。
- 中央集権化が進み、豪族が巨大古墳で力を示す意味が弱まる。
- 仏教の広がりによって寺院や仏像が重視される。
- 火葬の考え方も広がり始める。
- 律令国家へ向かう流れとセットで理解する。
古代の信仰と儀式も押さえよう
古墳文化とあわせて、古代の人々の信仰や儀式についても押さえておこう。
古代の日本では、自然や神々の力を重んじる考え方があり、農耕や政治、裁判にも信仰が深く関わっていたんだ。
たとえば、春には五穀豊穣を祈る「祈年祭」、秋には収穫を神に感謝する「新嘗祭(にいなめのまつり)」が行われた。
また、人々は「穢れ」を取り除くために、「禊」や「祓」という儀式を行ったよ。
さらに、鹿の肩甲骨を焼いて、その割れ方で吉凶を占う「太占の法」や、熱湯に手を入れさせて神の判断を仰ぐ「盟神探湯」も知られている。
盟神探湯は、現代の裁判とはまったく違い、神の力によって正しさを明らかにしようとする方法だったんだ。
こうした信仰や儀式は、古代の政治や社会を理解するうえで大切なポイントだよ。
| 用語 | 読み方 | 意味 |
|---|---|---|
| 祈年祭 | としごいのまつり | 春に五穀豊穣を祈る祭り |
| 新嘗祭 | にいなめさい/にいなめのまつり | 秋に収穫を神に感謝する祭り |
| 禊 | みそぎ | 水で身を清め、穢れを取り除く儀式 |
| 祓 | はらえ | 穢れや災いを取り除く儀式 |
| 太占の法 | ふとまにのほう | 鹿の肩甲骨を焼いて吉凶を占う方法 |
| 盟神探湯 | くかたち | 熱湯を用いて神の判断を仰ぐ古代の裁判方法 |
テストで問われやすいポイント
テスト対策ポイント
- 古墳時代後期には横穴式石室が広がった。
- 横穴式石室では追葬がしやすくなった。
- 小規模な古墳が集まったものを群集墳という。
- 副葬品は、銅鏡・玉類から武器・馬具、さらに土器や日用品へと変化していく。
- 副葬品の変化は、時期や地域によって違いがあるため、大まかな流れとして理解する。
- 須恵器は朝鮮半島から伝わった技術で作られた。
- 渡来人は須恵器、鉄器、機織り、漢字、仏教などを伝えた。
- 装飾古墳は九州地方などに多く見られる。
- 古墳文化の終末は、仏教の広がりや中央集権化と関係する。
- 祈年祭、新嘗祭、禊、祓、太占の法、盟神探湯も古代信仰として押さえる。
よく出る確認問題
最後に、定期テストで出やすい形で確認しておこう。
- 古墳の横から入る通路を持ち、追葬がしやすい石室を何というか。
答え:横穴式石室 - 横穴式石室で、入口から玄室へ続く通路を何というか。
答え:羨道 - 横穴式石室で、棺を納める奥の部屋を何というか。
答え:玄室 - 小規模な古墳が一か所にたくさん集まっているものを何というか。
答え:群集墳 - 朝鮮半島から伝わった技術で作られた、青灰色で硬い土器を何というか。
答え:須恵器 - 朝鮮半島や中国大陸から日本列島に移り住み、新しい技術や文化を伝えた人々を何というか。
答え:渡来人 - 古墳の石室や壁などに文様や絵が描かれた古墳を何というか。
答え:装飾古墳 - 春に五穀豊穣を祈る祭りを何というか。
答え:祈年祭 - 秋に収穫を神に感謝する祭りを何というか。
答え:新嘗祭 - 鹿の肩甲骨を焼いて吉凶を占う方法を何というか。
答え:太占の法 - 熱湯を用いて神の判断を仰ぐ古代の裁判方法を何というか。
答え:盟神探湯
まとめ
古墳時代の後期には、古墳の形や役割が大きく変化したよ。
竪穴式石室から横穴式石室へ変わったことで、追葬がしやすくなり、古墳は家族や一族の墓としての性格を強めていった。
また、小規模な古墳が集まった群集墳が広がり、古墳を造る人々の層も広がっていったんだ。
副葬品も、銅鏡や玉類、武器や馬具、土器や日用品へと変化し、そこから古墳を造った人々の考え方や社会の変化を読み取ることができるよ。
さらに、須恵器や渡来人の存在からは、大陸文化の影響も見えてくる。
そして6世紀後半から7世紀にかけて、仏教の広がりやヤマト政権の中央集権化が進む中で、古墳文化はしだいに終末へ向かっていったんだ。
高校日本史では、古墳文化を「お墓の形の変化」としてだけでなく、ヤマト政権の発展、大陸文化の受容、律令国家への流れと結びつけて理解することが大切だよ。
ここまで学習できたら、ぜひ「古墳文化の変化」のテスト対策練習問題とドリルに挑戦しよう!
『古墳文化の変化』テスト対策練習問題と過去問まとめ
【高校日本史】「古墳文化の変化」重要語句ドリル
【高校日本史】「古墳文化の変化」内容理解ドリル
【高校日本史】「古墳文化の終末と古代信仰」発展ドリル
運営者情報
yumineko
詳しいプロフィールを見る
青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。 ※サイト全体の運営実績についてはこちらにまとめています。

