「邪馬台国連合(卑弥呼)」解説と期末テスト対策ポイントまとめ
「定住生活」によって、人間は文字を使うようになる
縄文時代や弥生時代は「原始時代」とも言うんだ。
原始時代に関する研究は、遺跡などから発掘されたもの、具体的には土器とかお墓(古墳)などを分析して行われるんだ。
この分析を通じて「縄文時代の人々は狩猟採集をしていたよ」「弥生時代から稲作が始まって、人は定住生活をした」ってことが分かったんだ。
こうした学問を「考古学」っていうよ。
今回紹介する時代(1世紀ごろ)あたりから、人間は文字を使い始めるんだ。
つまり人間は日々の生活とかを記録するようになる。
今の言葉でたとえると「日記」みたいなものかな。
「今年はお米がたくさん取れたぜー!」「小さいころは泣き虫だった小僧が、なんと集落のリーダーになったんだぜ」とか、そんな感じ。
それじゃあ、なんで文字を使うようになったんだろう?
その理由も、弥生時代に始まった「稲作」が関係しているよ。
稲作を始めるには、色々な技術や知識が必要になるよね。
たとえば「田んぼ(水田)の作り方」「お米が虫に食べられないようにする方法」とか、覚えなきゃいけないことがたくさんあるんだ。
もし君がこの時代に生きていたらどうする?
全部をいっぺんに覚えるなんて無理だよね。
だからあとから確認できるように、文字を作って記録したんだ。
今の言葉でいうと「説明書(マニュアル)」「本(書籍)」だね。
最初は絵とかを使ってたんだけど、絵だと自分しか分からないよね。
自分が死んだあと、生き残った人が分かるようなマニュアルがあった方が嬉しいよね。
こういった背景から「文字」が生まれたんだよ。
つまり農業を始めて、定住生活を送るようになって、人類は文字を使うようになったんだ。
昔の人々が書いた文字を読んで、当時の歴史を研究する学問を「文献学」とか「文献史学」というよ。
日本について書かれている『魏志』倭人伝
紀元前1世紀ごろになると、日本について書かれた歴史書(本)が登場するんだ。
だけど日本について書いたのは日本人じゃなくて、お隣の中国人なんだ。
中国人が書いた『漢書』地理志という本のなかに、初めて日本が登場するんだよ。
『漢書』地理志のなかで当時の中国人は、日本人のこと「倭人」と呼んでいたんだ。日本のことは「倭国」だね。
この時代に中国人が書いた歴史書のなかで、一番有名なのが『魏志』倭人伝だね。3世紀に書かれた本になるよ。
3世紀の中国はとても混乱した時代だったんだ。
中国には3つの国があって、戦争ばかりしていた。
だから「三国時代」とも呼ばれている。
その3つの国は「魏・呉・蜀」だよ
この国のなかで、日本は魏と仲が良かったんだ。
この魏と仲良くした日本の国が「邪馬台国」なんだ。
この邪馬台国のリーダーが「卑弥呼」という人物だよ。
聞いたことがある人もいるかもね。
卑弥呼とはどんな人物?
卑弥呼は自分の部下(使者)を魏に送ったんだ。
「仲良くしてください」っていうメッセージを送るためにね。
呉や蜀と戦争している、魏も喜んだんだ。
味方はたくさんいた方が嬉しいからね。
魏のリーダー(王様)は、卑弥呼に「親魏倭王」という称号を与えたんだ。
漢字を見れば意味が分かるかな。
「魏と親しくする、倭国(日本)の王様」っていう意味だね。
称号だけじゃなくて、当時では珍しい銅鏡を100枚もプレゼントしたんだ。
それだけ魏の王様も嬉しかったんだろうね。
弥生時代の項目でも説明したけど、銅鏡は何のために使われるんだっけ?
そうだね、祭祀(儀式)のために使われるんだったよね。
卑弥呼は祭祀を行う「シャーマン(呪術師)」だったんだ。
シャーマンっていうのは、普通の人とは違う能力を持っていて、未来の予言なんかをしたんだ。
これから起こる出来事を卑弥呼はバンバン的中させるから、多くの人が驚いたんだ。
そして卑弥呼は王様になった。なんでだと思う?
だってこれから起こることが予想できちゃうから、卑弥呼の予言に従えば、安心できるよね。
当時のリーダーは、卑弥呼のように呪術の力で国をまとめる、つまり政治を行なっていたんだ。
卑弥呼が死んだあと、邪馬台国は少し混乱してしまう。
やっぱり卑弥呼の力は偉大だったから、次のリーダーは大変だよね。
学校でもそうだよね。
担任の先生がすごく良い人で、そのあとイマイチな先生だったら「やっぱり昔が良かった」って比較しちゃうよね。
だけど卑弥呼の親戚で「壱与」という女性が王になった結果、邪馬台国の混乱はおさまったみたい。
やっぱり卑弥呼の親戚っていうのが、大きかったのかな。
壱与も中国に使者を送ったんだ。
だけど、中国では「三国時代」は終わっていた。
「晋」っていう国が中国を統一したんだ。
壱与は晋の首都・洛陽に使者を送ったんだけど、このあと中国の歴史書から日本についての記録がなくなってしまった。
1世紀以上、つまり100年ぐらいの期間、日本に関する情報がまったくないんだ。
このときはちょうど4世紀だったから「空白の4世紀」なんて言われてるよ。
邪馬台国は日本のどこにあったの? 近畿説と九州説
今まで邪馬台国について説明してきたんだけど、実は邪馬台国が日本のどこらへんにあったのか、現在も分かってないんだ。
理由としては、やっぱり「空白の4世紀」。
日本の情報が不足しているからなんだ。
つまり文字が少ないから「文献学」からは分からない。
『魏志』倭人伝に書かれている、邪馬台国の位置がかなり適当だから、いろんな考え方ができるんだ。
だからどうやって分析するのかな?
そうだね「考古学」だ。
『魏志』倭人伝にある数少ない情報と、日本で発見された遺跡などから、邪馬台国の位置は「近畿説」と「九州説」が有力なんだ。
近畿だと大阪や京都、奈良あたりになって、九州だと福岡や熊本あたりだと言われている。
奈良県桜井市には「纒向遺跡」という、とても大きな遺跡があるんだ。
4世紀ごろから始まる「ヤマト政権」が始まった遺跡だとされている。
だから4世紀以前に、大きな力を持っていた邪馬台国とも関係があると言われているんだ。
もしかすると「まさに邪馬台国があった場所」っていう可能性も指摘されているんだよ。
だけど本当に最近(2023年6月)なんだけど、佐賀県神埼市にある吉野ヶ里遺跡で、邪馬台国が栄えた時代の有力者だと考えられるお墓が発見されたんだ。
だから邪馬台国がどこにあったのかっていう論争は、まだまだ続きそうだね。
高校日本史「邪馬台国連合」まとめ
【高校日本史で追加されるポイント】
- 中国大陸では220年に後漢が滅び、魏・呉・蜀が並び三国時代を迎えた
三国時代の歴史書「三国志」の中にある「魏志倭人伝」に邪馬台国と卑弥呼について書かれていること - 三国志は紀元3年に晋の陳寿によって編纂された
- 卑弥呼は239年に魏の皇帝に使いをおくり、「親魏倭王」の称号と金印、100枚の銅鏡をおくられた
- 卑弥呼は呪術的権威を背景に政治をおこなった
- 邪馬台国には大人と下戸(げこ)などの身分差があった
- 邪馬台国には、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度があった
- 邪馬台国では市なども開かれていた
- 邪馬台国の卑弥呼は、狗奴国(くなこく)と争っていた
- 卑弥呼は247年か、その直後に亡くなった
- 卑弥呼の死後、男王が立つがまた国内で争いがおきたため、卑弥呼の同族の壱与が王となり治まった
- 266年に晋の洛陽(らくよう)に倭の女王が使いを送った
- 邪馬台国の所在地として、近畿説と九州説がある
- 奈良県の纏向遺跡は邪馬台国との関係があるのではないかと注目されている
運営者情報
ゆみねこ
詳しいプロフィールを見る
青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。