歴史人物図鑑

足利義満とはどんな人?なぜ金閣寺を作ったの?わかりやすい【完全版】まとめ!歴史人物図鑑

一休さんに登場する足利義満のイラスト
yumineko
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足利義満あしかがよしみつってどんな人金閣寺きんかくじって何のために作ったの?室町幕府むろまちばくふ3代目将軍「足利義満」について、子供から大人まで読みやすい「かんたんな言葉」で詳しく解説するよ!

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足利義満ってどんな人?
(教科書の説明)

教科書に書いてある足利義満

誕生:正平しょうへい13年(1358年9月25日)
没:応永おうえい15年(1408年5月31日)

室町幕府第3代将軍。
南北朝なんぼくちょう統一とういつした。
みん日明貿易にちみんぼうえき勘合貿易かんごうぼうえき)を始めた。
京都の北山きたやま金閣きんかく建立こんりゅうした。

yumineko
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教科書の説明だけだと、ただの暗記作業あんきさぎょうになってしまうよね。
どうして義満が「そうしたのか」、理由と目的まで分かれば、ぐっと覚えやすくなるよ

義満がどんな人物だったか、キーワドに注目してザックリとまとめてみると・・

ザックリいうと

カリスマ性と強運とパワーの持ち主。

朝廷のケンカを仲直りさせ、邪魔者じゃまものをどんどん消し、日本のトップ目指めざしてき進んだ。

武家としても公家としても頂点を極めて、「日本国王にほんこくおう」として、夢の「みんとの貿易ぼうえき」を実現!金閣寺きんかくじで朝廷へのライバル心をアピール!?

ではひとつひとつ解説していくよ!


足利義満の基本データ

足利義満の肖像画しょうぞうが

まずは足利義満の外見がいけんはこんな感じ。

くまごろう
くまごろう
これはよく見る、有名な肖像画しょうぞうがだよね。
法服ほうふく(僧の服装)を着ているから、義満が出家しゅっけした後の姿だね。

でも、他にもこんな肖像画は見たことあるかな?

古画類じょうに描かれている足利義満の肖像のイラスト絵:yumineko

この肖像は、松平定信まつだいらさだのぶ編集へんしゅうした「古画類聚こがるいじゅう」という、奈良時代以降の絵画作品を写した画集のようなものにっているよ。

たろう
たろう
ちょっとイメージが違うけど、タレ目の感じは一緒だね。

足利義満の花押かおう

花押かおうとは、カンタンにいうと「サイン」のこと。
記号っぽくなっているんだ。
「これは確かに私が書いた文書だよ」ということを証明するために、ひとりひとりに決まったサインがあったんだ。

 

足利義満の花押のイラスト足利義満の花押

 

ちなみに、義満は花押を「公家用」と「武家用」の2種類持っていた と言われているよ。
花押を使う必要があるのは、トップレベルの人。
つまり、義満は公家としても武家としてもトップを目指す気マンマンだったということだね。


室町幕府むろまちばくふ将軍って?

たろう
たろう
「室町幕府3代目将軍」ってサラッと言われてもピンとこないよ。

室町幕府とは

足利尊氏あしかがたかうじが開いた幕府ばくふ

たろう
たろう
幕府って??

幕府ばくふというのは、「武士」による政治が行われていた時に使われる言葉なんだ。

日本では、ずっと「天皇」を中心にした政治が行われてきたよね。
「天皇を中心とした政治」のことを「朝廷ちょうてい」と呼ぶんだ。
それに比べて「武士(将軍)を中心にした政治」のことを「幕府」と呼ぶんだよ。

源頼朝みなもとのよりともが開いた鎌倉幕府かまくらばくふが倒されたあと、今度は足利尊氏が京都に幕府を開いたんだ。

yumineko
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足利尊氏が幕府を開くことになった詳しい解説のページページもあるので、ぜひ読んでみてね。
歴史を漫画で勉強しよう!「室町幕府」シンプルな漫画と説明でサクッと読める! 「元げん」が日本を攻めてきて、日本を守りきった鎌倉幕府だけれど、御家人ごけにんに十分な「御恩ごおん」をあげられなかったことで「幕府ば...

室町むろまち御所ごしょを建てた!→「室町幕府」と呼ばれる

たろう
たろう
幕府が開かれたのは分かったけど、どうして「室町幕府」っていうの??

幕府を開いた足利尊氏が亡くなると、「将軍」は代々引き継がれていくよ。
そうして、「3代目」に将軍になったのが足利義満。

将軍を引き継いだ足利義満は、1380年に引越しをしたんだ。
京都の「室町むろまち」という場所に御所(将軍の邸宅ていたく、つまり家のこと)を建てて、そこで政治を行った んだよ。
だから、「室町+幕府」で室町幕府と呼ばれたんだ。

くまごろう
くまごろう
ちなみに、新しい御所には四季折々しきおりおりの花が植えられたので、別名「はな御所ごしょ」とも呼ばれたよ。

11歳で征夷大将軍せいいたいしょうぐん

義満のお父さんである、室町幕府の2代将軍「足利義詮よしあきら」は38歳の若さで病気で亡くなってしまったんだ。

お父さんのあとを継いで将軍になった義満は、まだ たったの11歳だったので 四国しこく4カ国の守護しゅごだった細川頼之ほそかわよりゆきが「管領かんれい」(室町幕府で将軍を助ける、一番重要な役職のこと。)として義満のサポートをしたよ

将軍しょうぐんになれたのは強運きょううん??

足利義満のお父さんは足利義詮あしかがよしあきら足利尊氏あしかがたかうじの息子)で、お母さんは義詮の側室そくしつ(妾のこと。正式ではない奥さんのこと)の紀良子きのよしこ

くまごろう
くまごろう
側室そくしつということは、つまり足利義詮には渋川幸子しぶかわこうしという正室せいしつ(正式な奥さん)がいたんだ。

そしてその渋川幸子しぶかわこうしとの間にも男の子が生まれているよ。

※ちなみに、義詮と紀良子きのりょうしとの間には義満よりも前に生まれていた男の子がいたという説もあるよ。つまりお兄さんだね。でもこれは詳しい資料が見つかっていなくて、確証はないよ。

たろう
たろう
正室せいしつにも男の子がいて、どうして将軍になれたの?
ホントなら、将軍になるのは正室との男の子が優先ゆうせんだよね。

正室せいしつとの間に生まれた男の子がくなってしまった

義詮と正室との間に生まれた男の子(千寿王せんじゅおうというよ)は、たったの5歳で亡くなってしまったんだ。
そして、その後も正室との間には子供が生まれなかったんだよ。

正室に育ててもらった

義詮の正室の渋川幸子しぶかわこうしは、養母ようぼ(育ててくれる義理ぎりのお母さんのこと)として義満のことを育てたんだ。

くまごろう
くまごろう
ちなみに、義満の幼名ようみょう(おさない時の名前)は春王(読み方の資料なし)というよ。
「義満」という名前は、1366年に後光厳天皇ごこうごんてんのうからもらったんだ。

義満は、この後 解説かいせつするけど小さい頃から「スゴイ!」と人々に思わせる子供だったと言われているんだ。

義満が側室の子供でありながら将軍になれたのには、生まれ持った素質そしつ強運きょううんのおかげかもしれないね。


義満のココがスゴイ!

小さい頃からまわりの人々にも「スゴイ!」と思われていた義満。

足利尊氏あしかがたかうじの生まれ変わり?

義満が生まれたのは、おじいさんである足利尊氏が亡くなったちょうど100日後だったんだ。
なので、「足利尊氏の生まれ変わりなのでは?」とうわさされたよ。

景色けしきを持って帰ろうとした

義満が小さい頃は、南北朝なんぼくちょうの争いや幕府内の争いがあって、義満は争いからのがれるために播磨はりま(今の兵庫)に逃げていたんだ。

やがて北朝が勝って南北朝の争いがおさまると 京へ帰れることになったんだけど、帰り道途中の摂津せっつ琵琶塚びわづかの景色を気に入った義満は 家臣かしんに「この景色を持って帰りたいからはこべ」と言ったんだよ。

この時 義満は10歳くらい。

たろう
たろう
景色を持って帰ろうとするなんて、まさに「大物おおもの」という感じだね。

驚異きようい出世街道
しゅっせかいどう

足利義満といえば、おどろくべきはその出世のスピードと内容。

義満の官暦(役職や位の記録)

1367年1月7日
従五位下:後光厳天皇ごこうごんてんのうから「義満」の名前をもらう
1367年12月7日
左馬頭
1367年12月24日
正五位下
1368年1月28日
征夷大将軍
1374年1月7日
従四位下・参議・左近衛中将
1375年12月13日
従三位・参議左近衛中将如元
1378年4月21日
権大納言
1378年8月27日(9月19日)
右近衛大将
1379年1月2日
従二位・権大納言右近衛大将如元
1379年2月4日
右馬寮御監
1380年2月11日
従一位・権大納言右近衛大将如元
1381年8月13日
内大臣・右近衛大将如元
1382年2月9日
左大臣・右近衛大将如元
1382年3月4日
蔵人別当※3月28日には牛車を許される
1382年4月11日
後円融院別当
1383年2月16日
源氏長者・淳和奨学両院別当
1383年6月26日
准三宮
1384年4月8日
右近衛大将辞任
1388年6月30日
左大臣辞任 ※1393年2月7日に還任
1393年10月22日
左大臣辞任
1395年1月8日
征夷大将軍辞職
1395年1月16日
太政大臣
1395年6月20日
太政大臣辞任
1395年6月20日(7月7日)
出家 ※号は道義
1402年8月20日
明より「日本国王」に封ぜられる

たろう
たろう
すごい経歴けいれき!!

武家で2人目の「太政大臣だじょうだいじん」に!

太政大臣だじょうだいじん(※)って何?

太政大臣というのは、朝廷の最高位さいこういの役職のこと。
※「だいじょうだいじん」と読む場合もあるよ

今でいう内閣総理大臣ないかくそうりだいじん」のイメージだよ。
いつもあるワケじゃなくて、適任者てきにんしゃ(役にふさわしい人)がいる時だけ特別になることができるんだ。そもそも、基本的きほんてきには貴族がなるもの なんだよ。

歴史上れきしじょう2人目の快挙かいきょ

太政大臣を務めるのは、基本的には貴族なんだ。
武家ぶけで太政大臣になったのは平清盛たいらのきよもりについで2人目のことなんだよ。
しかも、その平清盛だって、「征夷大将軍せいいたいしょうぐん」にはなれなかったから、
「征夷大将軍と太政大臣の座、どちらも手にしたというのは とてもスゴイことなんだ。

武家ぶけとしても公家くげとしても成功

このように足利義満は、武家としてのトップ「征夷大将軍せいいたいしょうぐん」にもなって、朝廷でのトップ「太政大臣だじょうだいじん」にもなったんだ。

つまり、武家としても、公家としてもトップの座を極めたんだよ。

一休いっきゅうさん」にも登場!

「一休さん」とは、日本に本当にいた一休宗純いきゅうそうじゅんというそう(仏教の修行をする人)をモデルにした日本のアニメだよ。

一休さんでは、一休さんが色々な人をトンチ(とっさの場合に、すばやく働く知恵ちえのこと)で助けたり、うならせたりするんだ。

足利義満は、なんとこのアニメに「一休さんとよくトンチ合戦がっせんをしていた将軍さま」として登場しているんだよ。

たとえば、有名な「屏風びょうぶとら」のエピソードに出てくる将軍さまが義満。
一休さんに登場する足利義満のイラスト

くまごろう
くまごろう
でも、実際のところは一休宗純いっきゅうそうじゅんと足利義満の年代は違うので、アニメのように交流があったとは考えられていないよ。

なかなかのパワーのと強運の持ち主の義満。
義満は、ここからは「邪魔者じゃまものをどんどん倒して」さらに力をつけていくよ。

有力ゆうりょく守護大名しゅごだいみょうを倒す
=誰も逆らえないような力を持つ

守護大名しゅごだいみょうとは?

もともと「守護しゅご」というのは、幕府が日本の各国かくこく(今でいう都道府県のようなイメージ)に置いて、「その国の軍事的ぐんじてきなこと」や「悪者をまったり」する警察のような役職のこと。
でも室町時代になると、その守護がその国の財政ざいせいや土地の権利けんりも支配するようになって、幕府からほとんど独立するくらい力をつけたんだ。これを守護大名しゅごだいみょうというよ。

有力ゆうりょく守護大名しゅごだいみょうを倒して力をつけた

この時代、守護大名の中でもいくつかの「有力ゆうりょくな」一族がいたんだ。
それが「土岐とき氏」「山名やまな氏」「大内おおうち氏」。

①打倒「土岐とき氏」

土岐氏である土岐頼康ときよりやす領国りょうごく(守護大名として支配していた国というイメージ)は、美濃みの伊勢いせ尾張おわりの3国。

土岐頼康ときよりやすが亡くなった時、義満は土岐氏の領国の3国を、わざと土岐頼康の息子兄弟に「分けるように」させたんだ。

足利義満
足利義満
兄の康行やすゆき美濃みの伊勢いせの2国、
弟の満貞みつさだ尾張おわりを継がせるように。

というように割り振ったよ。

くまごろう
くまごろう
ちなみに、この兄弟はもともとあまり仲が良くなかったんだ。
そんな兄弟にわざわざ土地を「分けて」与えたのは、「もっと兄弟仲を悪くさせる」義満の作戦だったんだ。
たろう
たろう
康行やすゆきにしてみれば、「本当なら、兄である自分が全部土地を引きぐはずだったのに!」と不満が残るというわけだね。

義満の作戦通り、兄弟はお互いに衝突しょうとつするようになってしまったんだ。
そして兄の康行が、弟の満貞を攻めたんだ。
これを「土岐氏の乱(土岐康行ときやすゆきの乱)」というよ。

これを義満は「幕府への反逆はんぎゃくだ!」ということにして、康行を討伐とうばつ(やっつけること)したんだよ。

たろう
たろう

弟を攻めただけなのに、幕府への反逆?
くまごろう
くまごろう
つまり、土地の振り分けは幕府が決めたことで、それに文句があってケンカを始めたということは、幕府に対して文句を言うのと同じ、という考え方だね。

②打倒「山名やまな氏」

「山名氏」は、なんと丹羽たんば丹後たんご但馬たじま因幡いなば美作みまさか伯耆ほうき出雲いずも備後びんご隠岐おき和泉いずみ紀伊きいの11か国を領有りょうゆうしていたんだ。

くまごろう
くまごろう
この時、日本には66の国があって、11か国を領有していた山名氏は、「六分一衆ろくぶんのいちしゅ」と呼ばれたんだ。
「全国の6分の1を一族で持っていた」という意味だね。

ここでも、義満は作戦を練った。

山名氏は、さすがに11か国も領有していたので、11か国を一族の何人かで分けていたんだ。

和泉いずみの「氏清うじきよ」と出雲いずもの「満幸みつゆき」は、主筋しゅうすじ(本家みたいなイメージ)の時熙ときひろに対して不満をもっていたんだ。義満は、これを利用したよ。

義満
義満
氏清、満幸。
幕府は時熙ときひろとうと思っているんだが、お前たちも協力きょうりょくしないか?(コソコソ)
氏清&満行ペア
氏清&満行ペア
えっ・・
本気ですか??
・・よし、やっちゃえ!
義満
義満
ばかめ。主筋しゅうすじに反逆するなんて!裏切り者の2人を討て!
氏清&満行ペア
氏清&満行ペア
だ、ダマされた!!
・・・こうなったら幕府倒しちゃえ!

これを、「明徳めいとくの乱」と呼ぶよ。
結果は、幕府側の勝利。
山名一族の領有は11か国から、たったの3国になってしまったんだ。

たろう
たろう
義満・・・

③打倒「大内おおうち氏」

大内氏の大内義弘おおうちよしひろも、周防すおう長門ながと石見いわみ豊前ぶぜん和泉いずみ紀伊きいの守護で、大きな力を持っていたんだ。
実は大内氏は、②の打倒山名氏との戦いでは義満のために戦って大活躍だいかつやくしたりしていたんだけど、やっぱりどんどんと力をつけ過ぎてしまって、義満にとってだんだんと邪魔じゃまな存在になってしまったんだ。

くまごろう
くまごろう
しかも、大内義弘は朝鮮ちょうせんと交流したり、「自分は百済王くだらおう後裔こうえい(子孫のこと)だから、百済くだらの土地の権利をもっている」と主張しゅちょうしたりしていたんだ。

この後に説明するけど、いずれみん貿易ぼうえきをしようと思っていた義満にとって、外国とやりとりをしようとする大内義弘はちょっとこまった存在そんざいだったというコト。

大内義弘側はというと、やっぱり義満に対してあまり良く思っていなかったよ。
それまでに土岐とき氏や山名やまな氏をやっつけてしまったり、ずっと義満の為に働いていた人を急にクビにしたり・・ということを知っていたので、「今度は自分もやられてしまうのでは?」といつも不安に思っていたんだ。

こうやってお互い不安に思う状態が続いて、とうとう不安に耐えきれなくなった大内義弘ははん義満の人間を集めて、反乱を起こしてしまう。

これを応永おうえいの乱というよ。

義満は、この乱も抑えて、これでとうとう有力守護を全部倒してしまったんだ。


南北朝なんぼくちょう統一とういつって?

南北朝って何?

南北朝というのは、ヒトコトで言うと「朝廷が2つある状態」のことで、それぞれ「北朝ほくちょう」「南朝なんちょう」とに分かれていたから、合わせて「南北朝」と呼ぶんだ。

朝廷が分かれてしまったキッカケは、鎌倉幕府を倒した「後醍醐天皇ごだいごてんのう」。
後醍醐天皇が天皇に即位するまで、天皇の位は「大覚寺統だいかくじとう」と「持明院統じみょういんとう」という2つの血筋ちすじで交代に即位そくいするルールがあったんだけど、大覚寺統の血筋だった後醍醐天皇がこのルールをやぶろうとしたんだ。

後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒した後に、天皇中心の政治を行おうとしたんだけど、これがあまりに天皇中心過ぎて、武士ぶしや人々の反感を買ってしまった。

結局、足利尊氏あしかがたかうじが「新しい天皇」として持明院統じみょういんとう光明天皇こうみょうてんのうを即位させて、室町幕府を開いたんだ。

その時、後醍醐天皇は吉野よしのというところに逃げて、「自分こそ本当の天皇だ!」と言い張ってできたのが「南朝」ということ。

それに対して、光明天皇側は「北朝」と呼ばれたよ。

義満がなんで統一とういつしようとしたの?

たろう
たろう
なんで義満が2つの朝廷をくっつけようとしたの?
幕府には別に関係ないよね?

室町幕府は、もともと足利尊氏が北朝である光明天皇こうみょうてんのうから征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいされて開いたんだ。
それからずっと幕府は北朝側についていたよ。

でも、実は後醍醐天皇ごだいごてんのうは、吉野へ逃げるときに「三種さんしゅ神器じんぎ」を持って行ってしまったと言われているんだ。
三種さんしゅ神器じんぎは、「正当な天皇であることを証明しょうめいするもの」でもあるので、それが「南朝」にあるままというのは、義満にとってちょっと不安な状態。

それに加えて、南朝をこのままにしてしまうと、もしかしたらいつか有力な守護しゅご南朝なんちょうがタッグを組んで、幕府を倒そうとするかもしれないしね。

どうやって統一したの?

有力な守護を倒したり、すっごい力を持っていた義満。
かなり発言力はつげんりょくを持っていたよ。

仲直りのチャンス到来とうらい

いっぽう南朝では、後醍醐天皇の皇子たちや、重要な役割をしていた家臣かしんたちがどんどん亡くなってしまっていて、すっかりいきおいはおとろえてしまっていたんだ。

そんな中、「北朝とは仲直りしないぞ!」という考え方だった長慶天皇ちょうけいてんのうの次に、弟皇子の「後亀山天皇ごかめやまてんのう」が天皇に即位した。

後亀山天皇は、「北朝とは仲直りした方が良いんじゃない?」と考えていた天皇なので、これは絶好ぜっこうのチャンスということで義満が動いたよ。

仲直りのための3つの約束

義満は仲直りのための3つの条件を伝えたよ。

3つの条件(明徳めいとく和約わやく
①後亀山天皇(南朝)は三種の神器を後小松天皇ごこまつてんのう(北朝)に渡す。
②これからは南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)で交代に皇位につく(天皇に即位すること)ことにする。
国衙領こくがりょう(国の土地のイメージ)は大覚寺統、長講堂領ちょうこうどうりょう(皇室の土地のイメージ)は持明院統が支配する。

くまごろう
くまごろう
この条件は、南朝にとってもかなりいい条件。
こうして、60年間の争いは終わって、南朝と北朝は「合体」したんだ。
でも・・
いざ仲直り(合体)したあとは、結局ずっと北朝が皇位を独占どくせんして、約束は守られなかったんだって。

日明貿易にちみんぼうえきとは?
勘合貿易かんごうぼうえきってどういうこと?

日明貿易って?

日明貿易にちみんぼうえきというのは、その言葉どおり「みん(この頃中国を統一とういつしていた国)」と「日本」とで貿易(外国相手に物を売ったり・買ったりすること)を行うことだよ。

なんで義満はみんと貿易がしたかったの?

義満の夢「明との貿易」

義満は、若い頃から明に憧れていたんだ。

明の皇帝こうていだった「洪武帝こうぶてい」にあやかって(影響を受けて同じ状態になろうとすること)、元号に洪武帝の「洪」の字を使おうとしたこともあるよ。

くまごろう
くまごろう
でも、日本には「洪水こうずい」という言葉があるように、「洪」の字はさすがにちょっと縁起えんぎが悪くない?という意見があって、実現しなかったよ。
代わりに決定した元号が「応永おうえい」なんだって。

明との貿易って、すっごくもうかるらしい!

明との貿易の仕組みは、簡単にいうと
①日本の特産品とくさんひんを明に売る(日本で売るより高く買ってもらえる)
②①でもうけたお金で明の特産品を買う
③②で買ったものを、日本で売る(日本で手に入りにくいものだから、高く売れる!)

 

日本の輸出品
どう硫黄いおう刀剣とうけん・金など

明からの輸入品
銅銭どうせん生糸きいと絹織物きぬおりものなど・・

例えば、日本では銅は沢山たくさんれるけれど、中国では不足していたんだ。
しかも日本の銅には銀が少し混じっていて、明の技術ならその銀を取り出すこともできた。
そうすると、日本国内で銅を売るより、明に売ったほうが「高く」売れるよね。

しかも、この日明貿易。
普通、「貿易」というと「どちらかの国だけが儲かる状態」って嫌がられるイメージがあるよね。
でも、この頃の明は「我が国は大国!まわりの国は臣下!」と考えていて、明と他の国との貿易は「明の皇帝が臣下を儲けさせてあげるために、ご褒美としてやってるんだぞ」というイメージなんだ。
だから日本の商品をどんどん買ってくれるし、運ぶ費用や明での宿泊費用も明が出してくれたんだって。
なので、ハッキリいってかなり「日本に有利」なやりとりだったんだ。

例えば、実際に明に行ってきた商人(楠葉西忍くすばさいにん)の話によると・・

楠葉西忍
楠葉西忍
明で生糸を250文で買ったんだけどさ、
それを日本で売ったらなんと5000文で売れたんだよね。
(20倍の儲け)
逆にさ、日本の銅を明で売ったら4〜5倍になるんだから大儲けだよ!
たろう
たろう
ということは、僕のお小遣いが月1000円だったとして、20倍だから2万円になって・・
それをもとにまた4〜5倍になったら・・・
10万円!!!!

義満が明との貿易をしたがったのも納得がいくね。

日本のトップとして認められたかった

明は、貿易する相手は誰でもいいというわけではなかったんだ。
まず、「明の臣下の国であること」
そして、「国トップの人間であること」が条件だったんだよ。

実際、義満は何度か明との貿易をしようと使者を送っているんだけど失敗しているんだ。

1回目の失敗
1374年に明にお使いを送ったよ。

でも、すでに明は後醍醐天皇ごだいごてんのうの皇子の「懷良親王かねよししんのう」を日本国王として認めていた。

懷良親王は、後醍醐天皇ごだいごてんのうの皇子。征西府せいせいふちょう(リーダー)として九州を任されていた。
明は、日本に使いを送った時に懷良親王を「倭寇わこう(海賊のこと。あとで説明するよ!)を倒してほしい」とお願いをしていて、日本国王として冊封さくほう称号しょうごうを与えて、皇帝こうてい家臣かしんとして認めること)していたんだ。

義満は、九州探題きゅうしゅうたんだい(室町幕府が九州地方をまとめるために おいた機関きかんのこと)として今川了俊いまがわりょうしゅん軍を派遣はけんしたんだ。そして懷良親王を筑後ちくごへ追いやったよ。

懷良親王を追いやった義満は、明の皇帝だった洪武帝こうぶていのもとへ
僕が倭寇わこうを倒すよー」とお使いを送ったんだ。
でも「日本国王は兼良でしょ」と相手にされなかった んだよ。

2回目の失敗
1380年に「征夷大将軍せいいたいしょうぐん 源義満」名義の書を持たせて明へ使者おくった時は、「将軍なんていっても、結局は天皇の家来なんでしょ。日本のトップじゃなきゃ話にならないよ。」 とやっぱり相手にしてもらえなかったんだ。

この失敗は、義満にとってえがたいものだったよ。

と決意したんだ。

たろう
たろう
プライドの高い人だったんだね。

じゃあ天皇の家臣かしんやめます

明から相手にされなかった理由のひとつが「征夷大将軍せいいたいしょうぐんだろうが太政大臣だじょうだいじんだろうが、つまりは天皇の家臣でしょ?」ということだったね。

義満
義満
じゃあ、将軍も太政大臣もめるよ。
そしたら家臣じゃなくなるでしょ。

そして、義満は出家しゅっけしたんだ。

くまごろう
くまごろう
これには他にも理由があって、出家することで寺社勢力も握ろうとしたとも言われているよ。

義満は出家することで法名ほうみょう(道号)が「道義どうぎ」となったよ。

とうとう「日本国王」に!!

将軍も辞めて、太政大臣も辞めて、これで「天皇の家臣」ではないよね!ということで、
いよいよ義満は明の皇帝に手紙を送るんだ。

日明貿易のきっかけとなった足利義満と明の皇帝の手紙の内容とは?資料集「足利義満の国書」 足利義満が明の皇帝へ送った国書の内容 原文げんぶん(もとのままの文)(善隣国宝記) 日本准三后じゅさんごう 某それがし、...
yumineko
yumineko
義満がどんな手紙を送ったのか、今の言葉風に直して解説しているページもあるので、ぜひチェックしてみてね。

貿易したいがために、「自分が日本の国王」「明の皇帝の家臣かしんです」という手紙を出してしまったんだ。

結果はというと・・
とうとう明の皇帝から「日本国王」として認められることに成功したよ。

くまごろう
くまごろう
この時の明の皇帝だった「建文帝けんぶんてい」は、即位そくいしたばかりだったので、周りの国を味方につけておきたかったという事情じじょうもあると言われているよ。

朝廷の反感はんかん一面いちめん

明から日本国王に認められて貿易も出来ることになって、モチロン義満は大喜び。
でも、朝廷としては面白くない。

朝廷
朝廷
義満が日本国王だって!?
じゃあ天皇の立場たちばはどうなる!!!

それに、勝手に「日本は明の臣下しんか」と宣言せんげんしたりするのもどうかと思うよ!!

ってなるよね。

実は天皇のも狙っていた?

ところで、義満のみのお母さんは実は順徳天皇じゅんとくてんのう玄孫げんそん(孫の孫)なんだ。

たろう
たろう
・・・ということは、義満は天皇の血も引いている ということになるよね!?
くまごろう
くまごろう
そうだね。
そもそも、足利氏あしかがしはもとは源氏げんじの一族。源氏ももとは天皇の血筋だったしね。

天皇の血も引いているし、「日本国王」として明とやりとりしようとするなんて、もしかしたら

と思われてしまうのも無理がないよね。

実際、後小松天皇ごこまつてんのうのお父さんとお母さんが続けて亡くなってしまった時、義満の正室(奥さんのこと)が准母じゅんぼに選ばれたんだ。
つまり、後小松天皇のお母さんがわりになったということ。
そうなると、その旦那さんの義満も「後小松天皇のお父さん」ということになるんだ。

それからというもの、すっかり「自分は天皇家と同じくらい偉い!」という考えになっていた義満は、自分の息子をまるで皇太子こうたいしのような扱いにしたりもしたよ。

義満は「義嗣よしつぐ」という息子を特に可愛がっていて、義嗣が元服げんぷく(成人になるための儀式)する時には、なんと内裏だいり(天皇が住む御殿ごてんのこと。つまり皇居こうきょ)で行ったんだ。
儀式のやり方も、まるで「皇太子の元服と同じ」だったとのことだよ。

義満がドラマの主役になれないワケ?

こういうことがあったので、義満の最終目的は「息子を天皇の位につけること」だったのではないかとも言われているんだ。

「天皇の座を奪おうとする」なんてことは、まさにタブー中のタブー。
義満は、征夷大将軍にもなって、太政大臣にまでなった人物で、エピソードも豊富ほうふだよね。
でも、織田信長おだのぶなが坂本龍馬さかもとりょうま、その他有名な歴史人物がいろいろドラマとして描かれているのに対して、足利義満を主役にしたドラマって今のところ無いんだ。

くまごろう
くまごろう
この「天皇の座を狙っていたのでは?」という疑惑が、義満がドラマ化されないワケかもしれないね・・

ちょっと暴走しすぎ?

しかも足利義満が亡くなっのは「病気のため」とされているんだけど、
暗殺あんさつされた」という噂もあるんだ。

どうしても、一部の人々からは
「義満、やり過ぎでしょ!」
反感はんかんを買っていた部分があるからね。

義満の後に将軍をいだ、息子の義持よしもちにもあまり良く思われていいなかったという話もあるよ。
説明したように、義満は息子の義嗣よしつぐを特別に可愛がっていて、同じ息子の義持は面白くないと思うことも多かったと言われているよ。

実際、義満が亡くなったあと、朝廷は義満に「太上法皇だじょうほうおう上皇じょうこうのこと。出家した場合こう呼ばれる)」の称号をおくろうとしたんだけど、義持は「いや、それはいいです」と断っているんだ。

たろう
たろう
義満に対して、色々不満があったんだね・・

勘合貿易かんごうぼうえきとは?

たろう
たろう
義満が明と貿易を始めたことは分かったけど、「勘合貿易かんごうぼうえき」って何のこと?
日明貿易にちみんぼうえき」じゃないの?

海賊かいぞくがウロウロ

チラッと説明したけれど、この頃、日本・中国・朝鮮の周りの海には「倭寇わこう」と呼ばれる海賊かいぞくがウロウロしていたんだ。

たろう
たろう
明が懷良親王かねよししんのうに「倒してほしい」とお願いしたやつだね。

なので、明と貿易ぼうえきするためには、明にやってきた船が「海賊ではない」「正式に貿易することを認められた船」であることを証明しょうめいするために、なにか工夫する必要があったんだ。

そこで明で考えられたのが「勘合かんごう」という便利アイテム。

勘合とは?

勘合とは、「調べ合わせること」という意味の言葉なんだ。

その意味のとおり、文字を半分に割ったものをそれぞれお互いで持っていて、「合わせた時」に、その文字がぴったりと重なるかどうかを調べるものなんだ。

勘合貿易の勘合がどういうものか説明したイラスト

明はこの「勘合」を、取引をする国それぞれに渡してチェックしていたよ。

くまごろう
くまごろう
この義満の「明との貿易」は、そのまま「日明貿易(日本と明の貿易)」と呼ぶこともあれば、「勘合貿易(勘合を使った貿易)」と呼ぶこともあるよ。
日本が勘合貿易をしたのはこの時だけなので、日本では「日明貿易=勘合貿易」で問題ないよ。

なんで金閣寺を作ったの?

足利義満といえば「金閣寺」というイメージだね。
あんな金ピカの建物、いったいどういう理由で建てたのかな?

もとは「西園寺さいおんじ」があった

金閣寺が作られた土地は、もともと西園寺家さいおんじけが持っていたんだ。
西園寺家は、もともとは藤原道長ふじわらのみちながなどで有名なあの藤原氏の遠縁とおえん(遠い血縁けつえん関係のこと。)にあたるんだ。

その時には「西園寺」という山荘さんそうがあったよ。

義満が持っていた領地とその西園寺家の土地を交換して、改築かいちくしたりしたのが金閣寺なんだ。

なんのためのもの?

義満は1394年になると義満の息子の義持よしもちに将軍の座をゆずったんだ。
そして、1397年に西園寺家さいおんじけからゆずり受けた土地に山荘さんそう(山の中にある別荘のこと)を作ったんだよ。

義満はそれ以降はこの山荘に住んだんだ。
つまり、「隠居いんきょ後に住むための家」だったんだよ。

その山荘にある「舎利殿しゃりでん(仏様がまつられる建物のこと)」がいわゆる皆が「金閣寺」として知っている建物なんだ。

この山荘は、義満が亡くなったあとに「鹿苑寺ろくおんじ」と呼ばれているよ。

公家・武家・中国のハイブリッド

この金閣寺、
1階は公家文化の「寝殿造しんでんづくり」で作られていて、
2階は武家文化の「武家造ぶけづく書院造しょいんづくり)り」
3階は禅宗様ぜんしゅうようと呼ばれる「」の文化の作りなんだ。

つまりは、「3つの文化が合わさったハイブリッド」な建物。

将軍(武家)と太政大臣(公家)の座をゲットして、
明との貿易を成功させた義満の人生そのものを表しているとも思えるね。

実は朝廷への皮肉ひにくが込められている!?

ところで「金ピカ」のイメージの金閣寺だけど、金箔が貼られているのは実は2階と3階だけなのは知っているかな?

1階は実は金箔が無い!!

ここで引っかかってくるのは、それぞれの階の様式ようしき(デザインのこと)と合わせて考えると・・

1階は公家文化の造り→木造(地味・・)
2階は武家文化の造り→金箔でピカピカ
3階(最上階)が明。

たろう
たろう
・・・なんとなく、「公家は1番下で地味!!」と言っているような気がするかも・・?
くまごろう
くまごろう
さらに、金閣寺には「朝廷に対するライバル心」がむき出しになってしまったと考えられる部分もあるんだ。

てっぺんの鳳凰ほうおうは天皇家への対抗心たいこうしん??

金閣寺のてっぺんには、「鳳凰ほうおう」の彫刻が飾られているんだ。
鳳凰は中国神話に登場する空想の生き物で、「世を治める君主が誕生した時」に現れる鳥なんだ。

なので、中国ではもちろん、日本でも鳳凰は「天皇」の象徴としてよく使われているんだ。

天皇が即位する時に着る黄櫨染御袍こうろぜんのごほうにも鳳凰が模様として使われているし、即位の儀式に使われる高御座たかみくらの上にも鳳凰が飾られているよね。
他にも天皇に関係する品物などに沢山使われている鳳凰。

その鳳凰が義満の建てた金閣寺の屋根に飾られているんだ。

たろう
たろう
そ、それって・・自分は天皇だ!とアピールしているようにも取れるね・・


北山文化きたやまぶんか立役者たてやくしゃ

義満の時代には、文学や絵画・建築に芸能など、いろいろな文化が発展して、今までの公家文化くげぶんか(公家の間で栄えていた文化)と新しい武家文化ぶけぶんかが組み合わさったんだ。
これを「北山文化」と呼ぶよ。

くまごろう
くまごろう
義満の建てた金閣寺がある「北山山荘きたやまさんそう」にちなんで「北山文化」と呼ばれているんだ。

北山文化の中でも、例えば芸能のうちの「のう」の発展には義満が関係しているよ。

北山文化で発展した能楽のうがく

のう」というのは、「シテ」と呼ばれる主役がお面を被って、ふえつづみで演奏される「囃子はやし」を伴奏ばんそうに歌ったり舞ったりする芸能げいのうのことだよ。

もともとは、猿楽さるがく田楽でんがくという、農村などで田植えなどの行事で行われた「ものまね」や「面白おかしい寸劇すんげき(ちょっとした短い演劇のこと)」だったんだ。

室町時代の観阿弥かんあみという猿楽師さるがくしが、この猿楽や田楽などをもっと芸術的なものにして能を生み出したよ。
観阿弥には世阿弥ぜあみという息子がいたんだけど、この世阿弥がものすごい「天才&美少年」。

義満「世阿弥ぜあみ し」

観阿弥がこの世阿弥が12歳の時に連れていって、京都の今熊野いまぐまのの舞台で舞ったんだけど、それを観た義満はすっかり世阿弥の大ファンに。

足利義満が世阿弥に夢中だったことを表すイラスト

それまで、能は「能なんて、庶民のやること!」と朝廷の人々などには相手にされなかったんだけど、義満は世阿弥を庇護ひご(かばって守ること)したんだ。

くまごろう
くまごろう
世阿弥ぜあみを幕府「おかかえ」にして、いつも傍においたんだって。

義満のサポートもあって、世阿弥はどんどん努力と研究をかさねて、能をさらに気品ある芸術高いものにしたんだ。それが今の「能楽」なんだよ。

ちなみに、義満が亡くなってしまうと、義満の息子の義教よしのりは世阿弥を佐渡へ追いやってしまうんだ。世阿弥のその後、どうなったかは知られていないんだ。


足利義光の人生を年表で確認しよう!

1358年 京都に生まれる
1368年  父の義詮よしあきらが亡くなる。
義満が11歳で室町幕府3代将軍に。
管領かんれい 細川頼之ほそかわよりゆきがサポート)
1378年 御所ごしょを室町に移す。(花の御所)
1379年 周りの反対を受けて管領かんれい細川頼之ほそかわよりゆきをクビに。(康暦こうりゃく政変せいへん
1383年 准三后じゅさんごう宣下せんげを受ける
1390年 土岐康之ときやすゆきの乱(土岐一族を倒す)
1391年 明徳めいとくの乱(山名やまな一族を倒す)
1392年 南北朝なんぼくちょう合体
1394年 義持よしもちに将軍の役職をゆずり、太政大臣だじょうだいじんに。
1395年 太政大臣を辞め、出家する。
九州探題きゅうしゅうたんだい今川了俊いまがわりょうしゅんをクビに。
1397年 西園寺から譲り受けた土地に山荘を作り始める(金閣寺)
1399年 応永おうえいの乱(大内一族を倒す)
1401年 明へ使いを送る。
1402年 明から日本国王として認められる。
1404年 勘合貿易かんごうぼうえきを始める
1406年 妻の日野康子ひのやすこ後小松天皇ごこまつてんのう准母じゅんぼとなる。
1408年 息子の義嗣よしつぐ元服げんぷく皇太子こうたいしと同じように内裏だいりで行う。
その2日後、病気で倒れその後亡くなる。(50歳)
くまごろう
くまごろう
「金閣寺を建てた」というイメージがあるくらいの足利義満だけど、よくよく知ると、とてもエネルギッシュな人だったんだね。
日本のトップを目指して突き進むパワーには圧倒あっとうされるね。

 

 

 

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yumineko
2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。 志望校にトップ10位内で合格を果たす。 勉強をみるにあたって感じたのは、教科書の説明には子供には分かりづらい部分が多く、子供にイメージしやすく噛み砕いて説明するのがとても有効だということ。 同じように教科書の内容が分かりづらいと感じている子供たちの ヒントになれば、との思いで「教科書を分かりやすく通訳するサイト」創設。

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