「元との戦い(鎌倉幕府)」をわかりやすく解説
小学校社会歴史で学習する「鎌倉幕府」について解説。元との戦いとは?その後、鎌倉幕府はどうなったのか?わかりやすく説明するよ。
鎌倉幕府とはなにかピンとこなかったら、まずは鎌倉幕府が開かれたときの解説ページを先にチェックしよう。
源頼朝が開いた鎌倉幕府なのに、いつのまにか北条氏が幕府の中心になってしまうし、急に「元」という国が攻めて来るし、「元」との戦いには勝ったのに幕府は滅んでしまうよね。
一体、何が起こったの??
- いつのまにか源頼朝がいなくなったけど、どうしたの?
- なんで急に北条氏がエバり始めたの??
- なんで元は日本を攻めてきたの?
- どうして日本は元に勝てたの?
- なんで幕府は滅びてしまったの?
鎌倉幕府を開いた源頼朝はどうしたの?
1192年に「せいいたいしょうぐん」。もともとは平安時代、朝廷に逆らっていた東国の「蝦夷」をやっつける軍のリーダーのこと。1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が開かれた。それから「征夷大将軍」=「武士のトップ」=「幕府のトップ」になった。征夷大将軍になって、鎌倉幕府のトップになった源頼朝だけど、その後どうなったのかな?
※背景に色のついた言葉は、クリック(タップ)するとくわしい意味が表示されるよ。
なんと、源頼朝は1199年に亡くなってしまったんだ
頼朝は亡くなってしまっていた!
1199年、相模川の橋が出来上がって、開通式に参加した頼朝は、その帰り道で馬から落ちて死んでしまったと言われているよ。
馬から落ちて・・って、武士の頼朝が??
馬に乗って戦ったりもしていたのに?
うん。
そういうハナシになっているけど、実は誰かに恨まれていて暗殺されたんじゃないか?とか、色々な説があるよ。
弟の義経を殺してしまったり、けっこう無茶なことをしていたからね。頼朝に不満を持つ人もチラホラいたらしいよ。
将軍の頼朝が亡くなってしまったので、幕府は次の将軍を決めなくてはならないよね。
頼朝には、「頼家」と「実朝」という2人の息子がいたよ。
なんと頼朝の子供たちも次々と亡くなってしまう
まずは「おれが次の将軍になる!」と立ち上がったのが「頼家」。
頼朝にも、「自分の後継は頼家に・・」と言われていたしね。この頃、頼家は18歳。
でもこの頼家、けっこうワガママで、御家人とあんまりうまくいかなかったんだ。
さらに1203年には重い病気にかかってしまって、頼朝の奥さん、つまりお母さんの北条政子に「出家」させられてしまったよ。
出家というのは、髪を剃り落として、家を出て仏教に入る事だね。歴史の中では権力争いから身を引かせるために出家させたりすることがあったんだ。
そして出家した頼家は、伊豆へ追いやられて、そのまま暗殺されてしまったよ。
頼家が出家してしまったあとは、弟の実朝が将軍になったよ。
この実朝は、なんとお兄さんである頼家の息子(つまり甥っ子だね)に「お父さんの仇討ち」として暗殺されてしまったんだ。
この頼家の息子もその後、実朝を暗殺した罪で殺されてしまった。
こうして、とうとう頼朝のあとを継ぐ人がいなくなってしまったんだ。
※余裕があったら読もう!
頼家と実朝以外の息子たちについて
細かく言うと、頼朝にはもうひとり息子がいたよ。
でも、北条政子との間の子供ではなかったので、やっぱり出家させられてしまっていたよ。
そして頼家にも、実朝を暗殺した息子の他に もうひとり息子がいたんだけど、その子は6歳のときに殺されてしまっているよ。
- 頼朝は鎌倉幕府を開いた7年後に亡くなってしまった!
- 子供たちも殺されてしまって、頼朝のあとを継ぐひとがいなくなってしまった!
なぜ北条氏が鎌倉幕府の中心になったの?
だって北条氏は頼朝の家族だったから!
頼朝の奥さんは北条氏の「北条政子」だよね。
北条政子のお父さんは「北条時政」。
つまり、北条氏は幕府のトップだった頼朝の家族ということになるよね。
だから幕府の中でも力を持っていたんだ。
北条時政は、頼朝が亡くなってしまった後鎌倉幕府の役職の名前。将軍の次に偉い。将軍のサポートをしたり、実際に政務(政治をおこなうのに必要な仕事)を行っていた。執権になったよ。
幕府ではナンバー2の「執権」だね。
さらに、頼朝の子供たちは殺されてしまったよね。
こうして「頼朝の血筋の将軍」が完全にストップしてしまうと、とうとう幕府は北条氏が中心になって幕府を動かすようになったんだ。
えっ
じゃあ、もう将軍はナシで北条氏がトップになったの?
いやいや。
やっぱり幕府に「将軍」は必要だから、九条家という身分の高い家から小さい子供をむかえて将軍(第4代将軍。後の藤原頼経)にしたんだ。
えっ
全然関係ない子供を将軍に??
この子供の両親はどちらも「頼朝の妹の孫」なんだ。
なので、一応、血縁関係はあったんだよ。
そしてまだ小さい将軍の代わりに、北条政子が幕府を動かしていたよ。
北条政子は頼朝が亡くなったあとに出家して「尼」になっていたので、「尼将軍」と呼ばれていたよ。
朝廷「今がチャンス!」→幕府のピンチ
さて、こうやって幕府の将軍がどんどんと亡くなってしまってバタバタしているのを「チャンス!!」と思う人がいるよね。
朝廷は、幕府が力をつけてしまって困っていたもんね。
そう。
こうして幕府がバタバタしているうちに、後鳥羽上皇が幕府を倒してしまおうと兵を挙げたんだよ。
承久3年に起こったので、これを「承久の乱」と呼ぶよ。
北条政子が大活躍!!
相手はなんといっても上皇さまだし、将軍がどんどん亡くなってしまってバタバタの幕府側は大パニック。
そんな中、大活躍したのが尼将軍こと北条政子。
上皇相手にすっかりビビってしまっていた御家人達に対して演説をしたと言われているよ。
「みなのもの、よく聞きなさい。
これは私の最後のことばである。
頼朝公(頼朝のこと)は、鎌倉に幕府を開いてから、お前たち(御家人のこと)に恩賞を与え、領地を守ってくれた。
この恩は、すでに山よりも高く、海よりも深い。
この恩に報いようとは思わないのか。
もし朝廷側につきたい者があれば、ただちにこの場で申し出よ!」
この演説を聞いた御家人達は心を一つにして、朝廷に立ち向かう決意をしたんだ。
そしてたくさんの御家人が集まり、上皇は「これは敵わない」と負けを認めたよ。
幕府が朝廷よりも力を持つように
承久の乱で上皇を破った幕府はどんどん力を持つようになるよ。
まず、「また幕府を倒そうなんて企んだりしないように」朝廷を見張るために、「六波羅探題」という役所を京都に作ったし、上皇達を地方へ流してしまったよ。
武士の法律を作ろう
そして1224年になると、北条泰時が幕府の政治を動かす「執権」になった。
泰時は、世の中を平和に治めようと「武士の法律」を作ったよ。
そっか、今までは朝廷が作った法律ばかりだったもんね。
この法律を「御成敗式目」と呼ぶよ。
こうして、幕府の政治は安定していったんだ。
でも、日本のまわりでは「元」という国がうまれて大変なことになっていたんだよ。
- 頼朝の家族だったから力を持っていた!
- 承久の乱で北条政子が活躍したから
元はなぜ日本を攻めてきたの?
「元」ってどんな国!?
13世紀のはじめごろ、中央アジアで「チンギス・ハーン」という人が「蒙古(モンゴル)」という国を作ったんだ。
チンギス・ハーンは、どんどんまわりの国を倒していって、モンゴルはユーラシア大陸のほとんどを制覇してしまったよ。
モンゴルは、なんとその頃の世界の人口の半分以上を制覇してしまったと言われているよ。
人類史上最大の「世界帝国」と言われているんだ。
※世界の4分の1を制覇したともいわれているよ。
そのモンゴルが、またいくつかに分かれて国になったんだけど、そのひとつが「元」という国なんだ。
元は、「日本も制覇してやろう」と考えて、「元に従いなさい」という内容の使いを送ってきたよ。
でもこの頃幕府の執権になっていた北条時宗は、これを断った。
「従う」のももちろんイヤだけど、断ってしまって大丈夫だったのかな・・・
例えるなら、ジャイアンに「お前のものは俺のもの!おもちゃをよこせ!!」と言われた のび太が、「嫌だ!!」と逆らったようなもんだよね。
そうなると当然、ジャイアンからパンチが飛んでくるよね。
- 元はとっても強くて、たくさんの国を制覇していた
- 日本も従わせようと使いを送ってきた
- でも幕府が断ったので怒って攻めてきた
どうして日本は元に勝てたの?
元が攻めてきた!
おとなしく従おうとしない日本を制覇しようと、1274年にいよいよ元が日本(今の博多)に攻めてきたよ。
「蒙古襲来絵詞」
文永11年の出来事だったので、「文永の役」と呼ばれるよ。
この時の元のリーダーは「フビライ(クビライ)」。
なんと兵士の数は、元軍が4万人(船は900隻)だったのに対して、日本軍は5~6千人だったんだって。
約8倍・・・!!
勝てっこないよ!!
しかも、元軍は「てつはう」という火と音で脅かす道具を使ったり、弓に毒を塗ったりしていて、日本軍が今まで経験したことのない戦い方ばかりだったんだ。
兵士の数もケタ違い、戦い方も難しいとくれば、日本軍はどうしようもないよね。
実際に日本軍はかなり苦労したんだ。
でもその時、暴風雨が起きたんだ。
海で待機していた元軍は、その暴風雨で大きなダメージを受けたんだよ。
そして、元軍は諦めて日本から引き上げていったよ。
今までは、元が攻めてきた日に暴風雨が起きて元が帰っていった、という説が一般的で「神風」と呼ばれていたんだ。
このあと説明する2回目に元が攻めてきた時も、暴風雨(神風)で元軍は滅びたと考えられていたよ。
でも、最近の研究では、元軍は何日かいたことが分かってきたんだ。
元軍が攻めてきたのは冬の玄界灘だったので、もともと「大荒れ」する頃だったという説も出てきているよ。
つまり、日本軍の武士が一生懸命戦って耐えているうちに海が荒れて、元軍が諦めて帰っていったということだね。
2回目の戦いは夏だったので、こんどは夏の九州にくる台風が原因で元軍はダメージを受けたと考える説もあるよ。
奇跡的な「神風」のおかげだけで日本が守られた、というよりは、武士が一生懸命戦って耐えているうちに日本の気候の特徴である大荒れや台風が元軍にダメージを与えた、という考え方があるんだね。
元が入ってこないようにバリケードを作ろう
暴風雨のせいで帰ったとはいえ、元は日本を征服することは諦めなかったよ。
元からはまた「従いなさい」と伝えるお使いが送られてきたんだ。
でも北条時宗は、なんとこの使いの人を今度は殺してしまうんだ。
えええっ
無茶するね・・・!
もちろん、元はもっとカンカンに怒って攻めて来るよね。
そこで前回の戦いで色々学んだ幕府は対策をするよ。
たとえば、現在の博多湾の場所に石を高く積み上げて高さ2.5メートルになる壁を20キロに渡って作ったんだ。
海から元軍がやってきても、上陸できないようにしたんだね。
これを「防塁」と呼ぶよ。
※石塁とも呼ぶよ。
元がまた攻めてきた!
そしていよいよ弘安4年の1281年に、元軍がまた攻めてきたんだ。
これを「弘安の役」と呼ぶよ。
この時の元軍の兵士はなんと14万人(船は4400隻)。そして日本軍は約4万人。
やっぱり圧倒的に日本軍が不利だね。
でもこの時も暴風雨(この時は台風との説もあるよ)が起きて、元軍の船は沈んでしまって大ダメージを受けるんだ。
こうして、2度にわたる元からの攻撃に日本軍は耐え抜いたんだよ。
ケタ違いの兵だった元からの攻撃を耐え抜いたたんて、日本軍はすごいね!
元軍の兵士は、それまでに支配してきた国のひとびとを集めたものだったので、「元のために戦う」という思いが弱かったというのも言われているよ。
くらべて、日本軍は「絶対に日本を守るぞ!!」と一生懸命だったもんね。
他にも、急いで日本に攻め込むために船を簡単に作ってしまったので、暴風雨に耐えられなかった、ということも言われているよ。
- 元が攻めてきた時に暴風雨が起こった
- 元軍の船はあまり頑丈じゃなかったので暴風雨に耐えられなかった
- 一度目の戦いで学んだ幕府軍が、防塁を作ったり、戦い方を変えて頑張った!
どうして幕府は滅んでしまったの?
あれ?ご褒美は・・?
さて、とても大変な思いをして元軍から日本(幕府)を守り抜いた御家人達。
鎌倉幕府の将軍と御家人の結びつきで大切なのはなんだったか覚えているかな?
「御恩と奉公」だね。
つまり、御家人は今回「奉公」を頑張ったんだよね。
それに対して「御恩」を望むのはもちろんのこと。
そもそも、御家人は戦のために武器を揃えたり、食べ物を用意したり、とてもお金を使うんだ。
その時、「戦に勝てば御恩(土地など)が貰えるから、それでお金払う」という約束をして武器などを用意するんだよ。
つまり、「借金」するんだね。
でも、今回の戦いって、外国から攻めてきた敵から日本を守ったんだから・・
特に新しい土地が手に入るというワケじゃないよね。
ということは、御家人にご褒美として与える土地なんかが、ほとんど無い(結局、日本の中の土地を少しあげることにしたり)ということ。
御家人「解せぬ」
せっかく大変な思いをして戦ったのに、幕府から十分な御恩がなかった御家人は不満を持ったよ。
何より、御恩をあてにして借金していたお金を返せなくなって困ってしまったんだ。
お金を貸した人「解せぬ」
そこで幕府は御家人を守るために「御家人がした借金は、すべて無かったことにしろ」という命令を出してしまったんだ。
これを「徳政令」と言うよ。
じゃあ、これで丸くおさまったのかな?
御家人側はいいよね。
でも、太郎くんが「お金を貸した側」だったらどう??
お金を貸した側からしたら、たまったもんじゃないよね。
貸したお金がすべてパーになってしまったんだから。
それからは武士にお金を貸す人がいなくなってしまったんだ。
だって、いつまた「借金帳消し」なんて言われるかわからないからね。
そして結局は、誰からもお金を貸してもらえなくなって、武士はますます困ってしまったというわけ。
これがキッカケで、幕府と御家人との結びつきが弱くなってしまったんだよ。
とうとう鎌倉幕府が滅ぶ
こうやってまたバタバタしてしまった幕府のスキを狙ったのが後醍醐天皇(ごだいごてんのう)。
「今こそ幕府を倒して、もういちど朝廷が力を取り戻すぞ!」と兵を挙げたんだ。
そして、とうとう1333年に幕府は朝廷軍に滅ぼされてしまったんだよ。
- 元に勝ったものの、土地などを手に入れたワケじゃなかった
- 御家人に御恩として与える土地がなかった!
- 御家人が不満をもつ
- 幕府と御家人の結びつきが弱くなった
1203年 北条時政が執権になる
1219年 源氏のかわりに北条氏が幕府の実権を握るようになる
1221年 承久の乱
1232年 北条泰時が御成敗式目を定める
1268年 北条時宗が執権になる
1271年 モンゴルが国名を「元」と定める
1274年 元が日本に攻めてくる①(文永の役)
1276年 博多湾に「防塁」を作る
1281年 元が日本に攻めてくる②(弘安の役)
1333年 鎌倉幕府が滅ぶ
6年生はココを押さえればOK!
まとめ
※赤いキーワードは必ず覚えよう!
- 源頼朝の死後、源氏の将軍が途絶えてしまった
- 北条氏が執権になり、幕府の中心になって政治を動かすようになった
- 承久の乱で、後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵を挙げた
- 北条政子の演説で御家人がひとつになり、承久の乱をおさえた
- 承久の乱をきっかけに、幕府はますます力をつけた
- 朝廷を見張るために「六波羅探題」を作った
- 北条泰時が武士の法律「御成敗式目」を作った
- 文永の役で、元が日本に攻めてきた
- 弘安の役で、元が日本に攻めてきた
- 元軍との戦いのあと、御恩を与えられなかった御家人が不満を持った
- 後醍醐天皇が幕府を倒すために兵を挙げた
- 1333年に幕府が滅びた
このページで学習したことが理解できたかチェックできる鎌倉時代後半のテスト対策ページもあるので、力試ししてみよう!
次は室町幕府について解説するよ!
運営者情報
ゆみねこ
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。
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Max Verstappen
I'm Max in F1.I remember when I came to Japan and drove at the Suzuka Circuit, there was a time when I had doubts about this place. I wanted to find out more about it, so I looked it up on the internet and found this site. I'm glad it's really short, but it's easy to understand. I'm going to Suzuka next year, so please wait. I will never forget this site Thank you -
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テスト100点とれました!
ありがとうございます! -
わかりやすいです。これからもよろしくお願いします。
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これを見た次の日、授業で出てきました!!本当に感謝です。
一回で学んで防塁を作るなど、沢山の工夫をするという日本軍の賢さが伝わって来ました。
ありがとうございます!!テスト前、また見に来ます。これならきっと100点だ!! -
わかりやすいです!ありがとうございます♪
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他の単元もみたい! -
テストで満点get!
ホント感謝♡
知ってよかった -
最後にまとめてくれて嬉しいです
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理解しやすかったです
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鎌倉幕府の滅亡と元軍との戦いについて知れてよかった。わかりやすく、とてもありがたい。
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これでレポート?がかけます
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