「ローマ=カトリック圏の形成」ローマ教皇グレゴリウス1世とは?

高校世界史で学習する「ローマ=カトリック圏の形成」について、グレゴリウス教皇とはどんな人物か、ローマ=カトリックとコンスタンティノープル教会との関係など、テスト対策ポイントをわかりやすく解説するよ。

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目次

今回は、ローマ=カトリック圏の形成とグレゴリウス1世について説明するよ。

ローマ=カトリック教会とは

初期キリスト教では、五つの総司教座を統べる教会(五本山)があったんだ。

五本山は、「コンスタンティノープル教会」「アレクサンドリア教会」「アンティオキア教会」「イェルサレム教会」「ローマ=カトリック教会」の五つだよ。

キリスト教の五本山の地図のイラスト

今でも5つの総司教座はあって、そこには総司教がいるんだ。

このうち、「コンスタンティノープル教会」がギリシア正教の中心地だったとのいうのは、この間勉強したよね?? 覚えているかな??

ちょっと内容を忘れてしまった人は、「東ローマ帝国とビザンツ帝国」の解説記事の「キリスト正教会とは」項目で内容を復習しておこう。

五本山のうち、現在の西ヨーロッパ地域にあったのは、ローマ教会だけだったんだ。

ローマ教会はローマ=カトリックともいうよ。

このカトリックという言葉の意味は、ギリシア語のカトリケー、ラテン語のカトリクスに由来しているんだ。

普遍的、世界的という意味を持つんだ。

カトリック教会は自分たちの教会を「使徒の筆頭者ペテロの後継者と使徒の後継者たちによって治められる『唯一の、聖なる、公同の(カトリックの)使徒的な教会』」といっているよ。

中世初期のローマ=カトリック教会は、ゲルマン人の大移動でとても大変な状況にあったんだ。

ローマ教会の長であるローマ総大司教は、自分たちが「キリスト十二使徒の筆頭者ペテロ」の後継者であると主張していたんだ。


(後に、ペテロが初代ローマ教皇であるとされているよ。)

使徒ペテロについて

新約聖書に登場する人物。
イエス・キリストの12人いる使徒の一人。
イエスの最初の信者で、十二使徒の代表格とされているよ。

ペテロは英語読みでは「ピーター」、ヘブライ語・ラテン語では「ペトロ」と呼ばれるよ。

もともとは貧しい漁夫だったけれど、キリストと出会い信者になったんだ。67年に、ローマ皇帝ネロによってキリスト教の迫害が行われたとき、ペテロは自らすすんで十字架に逆さに貼り付けられて、殉教(自らが信じる宗教のために命を捨てること)したんだ。

ローマの聖ピエトロ大聖堂は、ペトロ(ペテロのラテン語読み)の墓所(処刑された場所)の上に建立されたんだ。

勘の鋭い人はピンときたかもしれないけど、ペトロのイタリア語読みはピエトロ。

つまり、聖ピエトロ大聖堂=聖ペトロ大聖堂なんだね。

聖ピエトロ大聖堂

写真右にあるドームの建物が、聖ピエトロ大聖堂だよ。

ローマ=カトリック教会の特徴について、触れておくね。

ローマ=カトリックで1番重んじられているのは神様。これは簡単だよね。

じゃあ2番目は何だと思う?

ローマ=カトリックでは、2番目に重んじられているのは教会なんだ。

なんでかっていうと、聖書の解釈をしたのは教会だから。

聖書の文章の意味を分かりやすく解説して、こういう意味なんだよ、って教会がみんなに教えてくれたんだ。

ローマ=カトリックの教会に行ったことがある人はいるかな??

日本にある教会もとっても豪華で綺麗な装飾が施されているよね??

ローマ=カトリックの教会は大雑把に言うと、「神様の家」であり、「この世の天国」と考えられているんだ。

だから、信者が教会に来た時に敬虔な気持ちになれるように教会はとても綺麗に装飾されているんだね。

ローマ=カトリック教会の組織についても話しておくね。

ローマ=カトリック教会には聖職者(その宗教を信じている人に教えを伝えたり、導いたりするのをお仕事にしている人。日本でいうとお寺のお坊さんだったり、神社の神主さんだったり。)に階級があるんだ。

キリスト教のヒエラルキーを図解したイラスト

一番偉いのが教皇。教皇は、ローマ=カトリック教会の代表者で、すべてのカトリック教会を治めているんだ。

教皇はローマのバチカンにある教皇庁ですべてのローマ=カトリック教会を統べているよ。

世界の教会は司教区に分かれているんだ。

司教区を治めるのが、司教。各国に数十人いるよ。

でも重要な司教区は、大司教が治めるんだ。ヨーロッパ全体で10数人くらいかな。

司教区はさらに教区に分かれているんだ。ヨーロッパのお話なんかによく出てくる村にある教会。これが教区の教会、って考えてもらうとわかりやすいかな。

日本でいうと、田舎の村にあるお寺だったり、神社だったりなイメージだね。

各教区の教会にいるのが、司祭(神父)。

人々と接し、十分の一税というのを徴収しているんだ。

十分の一税っていうのは、教会を支援するために支払う、人々の収入だったり、取れた作物だったりの十分の一を教会に収めるとした税金のことだよ。

全ての農作物の10%が神様のものであるって旧約聖書には書かれているんだ。これを根拠に教会は十分の一税を徴収していたんだね。

今でも、ドイツやスイスみたいに教会が経費を賄うために信徒登録をした人に課税を認めるという制度がある国もあるよ。

もちろん信徒たちから税金としてお金をもらうわりに、教会は人々の人生や生活にとってなくてはならない存在だったんだ。

まず、赤ちゃんが生まれたら、教会で洗礼を受けて、キリスト教徒になるんだ。

キリスト教徒は。キリストの復活を祝うために毎週日曜日に集まり、「主の晩餐」を行ってきたんだ。

これがローマ=カトリックで「ミサ」(感謝の祭儀)と呼ばれる礼拝集会なんだ。

ミサはキリストの生涯、特にその死と復活を思い起こし、キリストをとおして実現した救いの恵みに感謝し、パンとぶどう酒のしるしによって信者がキリストと一つに結ばれるものなんだ。

ローマ=カトリックの信者にとってもっとも大切な秘跡だってとされているね。

悩み事があったり、悪いことをしてしまったなあって思ったりしたら、人々は司祭にゆるしの秘跡(教会で執り行われるキリストの神秘を目に見える形で行う特別な儀礼)を求めに行くんだ。

ちなみに、今でもローマ=カトリックの真面目な信者たちは教会に告解に行っているよ。

悪いことをしてしまったなあと思って、悔い改めて回心した人が教会に行って、罪の告白と償いをすると、司祭は告白を聴いて、「父と子と聖霊のみ名によって」罪をゆるしてくれるんだ。

司祭は今でいうカウンセラーみたいな役割もしていたんだね。

結婚で男女が互いに、愛と忠実を約束し、相互に助け合いながら、生きていく二人の家庭への恵みを与えてくれるように秘跡を行ってくれるのも、亡くなるときに病者の塗油の秘跡、聖なる油を塗り、祈ってくれるのも全ー部司祭。

当時の人々にとって、ローマ=カトリック教会が生活と密接に結びついていたというのが分かったかな??

コンスタンティノープル教会との関係

コンスタンティノープル教会は東ローマ帝国に保護され、ギリシア正教の中心地だったんだ。

ローマ教会とコンスタンティノープル教会は、布教方法や東ローマ皇帝がローマ教会を管轄下に置こうとしたことなどをめぐって、少しずつ対立関係を深めていくよ。

ローマ総大司教は、ローマ教会の最高指導者として、「教皇」という称号を用いることにしたんだ。

日本語ではローマ法王なんて呼ばれることもあるね。法王も教皇も同じ意味だよ。

ローマ教皇は文書に署名をするとき、「〇〇〇(教皇の名前)、司教にして神のしもべのしもべ 」って書くことが多いんだって。

初期のローマ総大司教は、ペトロの後継者、代理人を任じていたんだけど、ゲルマン人たちへの布教が進んで、権威が大きくなっていくと「イエス・キリストの代理人」と評するようになっていくね。

これは、5つの総司教座の中で、ローマ総司教座の優位を示すものとしても用いられたんだ。

ローマはローマ帝国の首都として初期のキリスト教会の信者たちにとって、特別な場所だったんだ。

だけど、その頃のローマ総大司教の権威と影響力は都市ローマの中だけにとどまっていたんだね。

ローマ教皇「グレゴリウス1世」とは

都市ローマの中だけに留まっていたローマ総大司教の権威と影響力を西ヨーロッパに広めるのに、大きな影響を及ぼしたのが、教皇グレゴリウス1世(540年?ー604年、在位590年ー604年)だよ。

グレゴリウス1世

上の絵はゴヤっていう画家の描いたグレゴリウス1世だよ。

グレゴリウス1世の時代の頃に「教皇」の称号を用いるようになったんだ。

教皇の称号を用いるようになったこと、ローマ=カトリック教会の権威と影響力を西ヨーロッパに広めるのに多大な影響があったことからもグレゴリウス1世は実質的な最初のローマ教皇と言えるね。

グレゴリウス1世は、ローマ貴族の家に生まれて、政治家を目指していたんだけど、何か思うところがあったのか、修道院に入って聖職者になり、590年に教皇に選ばれたんだ。

グレゴリウス1世は、ブリテン島(現在のイギリス)に住んでいたアングロ=サクソン人をカトリックに改宗させて、カンタベリ大司教座を置くなど、ゲルマン人への布教を積極的に進めていくんだ。

グレゴリウス1世は、布教の手段として、聖画像の使用を認めたんだよ。

キリスト教では、元々は偶像崇拝禁止ということで初期の頃の布教活動には、聖画像は用いられていなかったんだ。

でも、時代が下って、聖書が書かれている言語であるローマ時代の公用語であるラテン語が使われなくなってしまった。

ローマ時代は、遺跡に庶民の落書きが残っているくらい、みんな読み書きができたんだけど、中世になると一部の限られた人しか文字(ラテン語)を読めなくなってしまった。

だから、聖書を読める人がすごく少なかったんだ。

布教活動をするためには、どんな教えなのか、本を読んで勉強してもらうか みんなにわかりやすく伝えるとかしないといけないよね??

人々が本を読めない以上、布教活動をするためには、どうしても絵や像を用いる必要があったんだね。

他にもグレゴリウス1世は、教義(宗教で公に認められた真理)や典礼(儀礼。一定の規定を持って行われる儀式)の統一なんかも行ったよ。

グレゴリウス1世の時代は、ちょうど東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が一時的に旧西ローマ帝国の領土を部分的に回復はしたものの、その支配が喪われて、再びゲルマン人の諸国家が勢いを盛り返した時期にあたるんだ。

ゲルマン人の諸国家が成立していく中で、グレゴリウス1世は西ヨーロッパ地域における教会の統一は守られる必要があると考えたんだね。

ローマ=カトリック教会の中心になる存在として、「教皇」を位置づけたんだ。

教皇は軍事力も経済力も持っていなかったから、はじめはその影響力も限定的なものだった。

でも、布教活動を行い、ゲルマン人がローマ=カトリックに改宗していくにつれて、その影響力も増していくんだ。

ローマ=カトリック教会圏の形成

ローマ=カトリック教会の西ヨーロッパのゲルマン人への布教が進むにつれて、教皇の権威は高まっていくよ。

11世紀半ばに、西ヨーロッパのローマ=カトリック教会圏は、ビザンツ帝国、スラブ人の住む東ヨーロッパを中心とするギリシア正教圏から分離したんだ。

というのも、ローマ=カトリック教会の教皇とコンスタンティノープル総主教がお互いに破門しあう事件があって、ローマ=カトリック教会とギリシア正教会は分離してしまったんだ。

その後、12世紀までには、ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパにあったいくつもの国の垣根を越えて西欧を統合していったんだ。

そして、西ヨーロッパには教皇を頂点とするローマ=カトリック圏が形成されたんだ。

教会とそれぞれの国の関係はまたこの後の単元で詳しく話していくよ。

ここでは、ギリシア正教圏とローマ=カトリック教会圏が分かれて、教皇を頂点とするローマ=カトリック教会圏が西ヨーロッパに成立したってことを覚えておこう!

ローマ=カトリック教会と修道院

西ヨーロッパのゲルマン人への布教に、修道院が果たした役割は大きかったんだ。

サクラ・ディ・サン・ミケーレ修道院

写真はイタリアのサクラ・ディ・サン・ミケーレ修道院だよ。

修道院っていうのは、教会と並んで信仰の場であり、修道士(修道女)たちが共同で生活をする施設のことだよ。

6世紀にベネディクトゥス(聖ベネティクトとも。480年頃ー547年)がイタリアのモンテ=カッシーノに修道院を設立して以降、信仰の為に、修道士たちが共同で生活する修道制が広まったんだ。

モンテ=カッシーノ修道院は、本格的な修道院の最初のものといえるね。

ベネティクトゥスは中部イタリアのローマの貴族の家系に生まれたよ。

少年時代は両親とともにローマに住んで、将来は行政官になるべく、古典の教養を学んでいたんだ。

だけどキリスト教の教えに心を打たれたベネディクトゥスは神に自らの生涯を捧げることを決意し、退学して聖職者になるんだ。

田舎で自らの労働によって生活しながら、修行をしようと考えたよ。

「祈り、かつ働け(ora et labora)」をモットーをするベネディクトゥス派の戒律は、多くの修道院に受け入れられていくよ。

だから、モンテ=カッシーノ修道院は、本格的な修道院の最初のものといえるかもしれないね。

修道院で生活する男性を修道士、女性を修道女というんだ。

修道生活は、会則によっても多少の違いはあるけど、修道院に入ろうとする人は基本的には三つの誓願を立てるんだ。

三つの誓願っていうのは、財産を放棄して、禁欲的な生活を営む「清貧」、性的欲望を絶って異性との交わりを避ける「貞潔」、教会や会則、目上の者に従う「服従」っていうのが三つの誓願だよ。

修道院に入った人は、立てた誓願を一生かけて守るんだ。

「祈れ、かつ働け」というモットーにあるように、祈りは重要なものだったんだ。お祈りは、定時に行うもので、例えばベネディクト派なら一日七回。他に個人的にも行っていたみたいだね。

それから「働け」の言葉どおり、労働も修道士や修道女の大切なお勤めだったんだ。

労働には、農耕や手仕事、収入源としてのビールやワイン造りのほか、写本筆写や学問も含まれていたよ。

修道院では、信仰の修行の一環として、写本の制作をおこなっていたんだ。

当時は今のように、コピー機も印刷技術もないから、写本は当然全部手書きでとても大変な作業だったんだ。

だから、修行って考えられたんだね。

写本の制作は、古代ギリシアやローマの古典文化の保存、伝承に大きな役割を果たしたんだ。

その他、森林の開墾や寄進(寄付)された荘園(土地)の経営を行うなど、西ヨーロッパの修道院は、世俗社会と大きな関わりを持っていたんだよ。

司教や修道院長など高位の聖職者は、貴族の子弟だったんだ。

修道院での労働の一環として、ワインの製造が行われていたって、さっき説明したのを覚えているかな??

キリスト教にとってワインはとても大切なものなんだ。

なぜかっていうと、ワイン(葡萄酒)はキリスト教において、キリストの血とされているんだ。

だから、ミサでは絶対にワインが必要なんだ。

そんな需要もあって、修道院ではワインも作られていたんだね。

修道士には、純粋に神に仕える生き方をする人の他に、医療、工芸、食品加工といった特殊技能を持っている人も多かったんだ。

だから、修道院というのは、1つの社会を構成していたって考えられるかもしれないね。

「ローマ=カトリック圏の形成」ローマ教皇グレゴリウス1世まとめ

「ローマ=カトリック圏の形成」ローマ教皇グレゴリウス1世まとめ

・キリスト教の五本山は、「コンスタンティノープル教会」「アレクサンドリア教会」「アンティオキア教会」「イェルサレム教会」「ローマ教会」。

・ローマ教会はキリストの12人の使徒のうち、ペテロの後継者。

・ローマ教会と対抗関係にあった、キリスト教の五本山の一つである東ローマ帝国の保護のもとにギリシア正教の中心地はコンスタンティノープル教会。

・ローマ総大司教は、ローマ=カトリック教会の最高指導者として、教皇と名乗るようになった。

・実質的な最初のローマ教皇(在位590~604年)は、グレゴリウス1世

・グレゴリウス1世は、ゲルマン人への布教を積極的に行うために、聖画像の使用を認めた。

・東ローマ皇帝はローマ教会を管轄下におこうとしたが、ローマ教会はギリシア正教圏から分離して、西ヨーロッパにローマ=カトリック圏が形成された。

・ローマ=カトリック教会において、教会と並ぶ信仰の場であり、修道士たちが共同で生活をする施設は修道院

・本格的な修道院の最初のものとされる、イタリアのモンテ=カッシーノ修道院を創立したのはベネディクトゥス(聖ベネディクト)。

運営者情報

青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。

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