「ピピンの寄進」カロリング朝・ランゴバルド王国との戦いを解説

カール・マルテルとピピンの関連地図

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「ピピンの寄進」カロリング朝 ランゴバルド王国との戦いをわかりやすく解説

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ピピン王とカロリング朝

カール・マルテルの子、ピピン(714年~768年)は、父と同じようにフランク王国の宮宰の職に就いていたんだ。

宮宰であったピピンは王になろうと考えた。衰えたりとはいっても、メロヴィング家は250年以上もわたる歴史と血統があったから、簡単には取って代わることは難しい。

伝統や慣習によらない権威、それは教会に王様として認められること!

これはクローヴィスのカトリックの改宗のときも同じだったんだ。

だから、ピピンは、750年教皇ザカリアスへ使者を遣わし、「王の称号を持つ者のみの者と、王ではないが王権を行使する者のいずれが王たるべきか」と尋ねたんだ。

教皇は「実権を持つ者が王となるべき」と答えたんだって。

翌751年、ピピンはメロヴィング朝の王を退位させて、修道院に幽閉してしまうんだ。

そして、ピピンは教皇の使節から塗油を受け、王として聖別されたんだ。

これがカロリング朝の始まりだよ。

754年にローマ教皇ステファヌス3世は、パリのサン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油したんだ。このとき教皇は、ピピンの2人の息子のカール(のちのカール大帝)とカールマンにも塗油を行なったんだ。つまり、このことは、王の地位はピピンから息子たちに受け継がれることが認められたってことなんだよ。

サン=ドニ聖堂での聖別は、フランク王国時代を経て、フランス王国が成立し、フランス革命がおこるまでは王様の戴冠式とされていたんだって。

教皇側としても、フランク王国をローマ=カトリック教会の保護者としての役割を期待していたんだね。

ピピンとは

ピピンは背が低かったから、小ピピン、または、ピピン短躯王とも呼ばれているんだ。

これに対して、ピピンの父のカール・マルテルや子のカール大帝は背の高い偉丈夫だったといわれているね。

ピピンは実力で王位に就いて、新たな権威、ローマ=カトリック教会に依った統治を確立しただけではないんだ。

ナルボンヌを奪還して、イスラーム勢力を追い出したり、服属が定かではなかったアキテーヌ地方をフランク王国の領土に組み入れたり、ザクセンやバイエルン(現在のドイツ)にも勢力圏を広げもしたんだよ。

ピピンは、父カールマルテルや子のカール大帝ほど、歴史上華々しい活躍はしていないかもしれないけど、とても有能な支配者だったんだ。

ランゴバルド王国との戦い

751年、北イタリアに入ったランゴバルド王国が、ビザンツ帝国の総督府のあったラヴェンナを占領したんだ。

ビザンツ帝国の総督府はラヴェンナから撤退し、ビザンツ帝国の北イタリア支配の拠点が失われてしまった。それは、ローマ=カトリック教会にとっても軍事的・政治的な保護者を失ったしまったことになるんだ。

ランゴバルド王国の勢いは、ローマ=カトリック教会をも圧迫するようになっってしまうんだ。ランゴバルド王国との関係が悪化したローマ教皇は、ラヴェンナの総督府が撤退したことで、ビザンツ帝国に頼れなくなってしまった。

そんなローマ=カトリック教会が新たな保護者として目をつけたのが、フランク王国だったってことなんだね。

ローマ教皇領

自分をフランク王国の王として認めてくれた教皇に対し、ピピンは756年、ランゴバルド王国を破って奪ったラヴェンナ地方などを教皇に献じたんだ。

歴史上ピピンの寄進って呼ばれていて、これがローマ教皇領の始まりなんだ。

ピピンの寄進によって、ローマ=カトリック教会とフランク王国の繋がりは更に強いものになったんだ。

世界で一番小さな国、バチカン市国はかつてのローマ教皇領の一部でもあるんだよ。

運営者情報

青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。

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