「東ローマ帝国とビザンツ帝国」とは?違いや滅亡理由などを解説

高校世界史で学習する「東ローマ帝国」と「ビザンツ帝国」について、それぞれが栄えた理由、特徴、なぜ滅亡したのかをくわしく解説するよ。

「東ローマ帝国」と「ビザンツ帝国」の違いをよく確認しよう。

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「東ローマ帝国とビザンツ帝国」とは? 違いや滅亡理由などを解説

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目次

東ローマ帝国とは

東ローマ帝国っていうのは、395年にローマ帝国が東西に分割して統治されるようになってからのローマ帝国の東側の地域を指す言葉なんだ。

首都はコンスタンティノープル。コンスタンティヌス帝の都って意味だよ。

宗教はキリスト教(ギリシア正教会)だね。

初期の頃は、ローマ帝国の法律や政治体制を色濃く残していたんだ。

東ローマ帝国の皇帝は、西ローマ帝国が滅亡後、ヨーロッパ世界のたった一人の「皇帝」として、ゲルマン人たちから高い権威を認められていたんだ。

6世紀のユスティニアヌス帝の時代には、」滅んだ西ローマ帝国の領土を一時的に回復したりもするんだよ。

ほかにも、ユスティニアヌス帝は、ローマ時代からの法律をまとめたローマ法大全を整備したり、聖ソフィア大聖堂を建てたりしたよ。

だけど、ユスティニアヌス帝の死後、隣国のササン朝ペルシアや新しく興ったイスラーム勢力に領土を奪われてしまうんだ。

7世紀頃には、領土が縮小したこともあり、住民もギリシャ系が大半になって、公用語もラテン語からギリシア語になるんだ。

ユスティニアヌス帝とは

483年生まれ、565年没。庶民の出身で、法律と神学とローマの歴史に詳しかったんだ。

見た目は、背は低いけど、色白で丸顔、巻き毛のイケメンだったって同じ時代の人は書いているね。

ローマの歴史に詳しかったユスティニアヌス帝は、ローマ帝国の復活を目指したんだ。

とっても仕事熱心で「眠らない皇帝」って言われていたんだって。

人の忠告にもちゃんと耳を傾ける人で、有能な人がたくさん周りに集まったよ。それまでのローマ法をまとめたローマ法大全を編纂したトリボニアヌス、領土回復に大きな功績を挙げた将軍ベリサリウスなんかが有名だね。

ユスティニアヌス帝は、ゲルマン人の一派であるヴァンダル人の建国した北アフリカのヴァンダル王国と東ゴート人の興したイタリア人の東ゴート王国を将軍ベリサリウスを派遣して征服するんだ。

更に西ゴート王国の一部の領土を奪って、ローマ帝国の再編に一時的にだけど成功するんだ。

それから、聖ソフィア大聖堂を作ったのもユスティニアヌス帝だね。

他にも、ユスティニアヌス帝は、遠く中国から養蚕技術を取り入れたんだ。

以来、絹織物業は東ローマ帝国の主要な産業として発展していくよ。

ローマ法大全とは

東ローマ帝国は、古代ローマ帝国からの制度や法律の多くをそのまま引き継いでいたんだ。

でもユスティニアヌス帝の時代になると、古代ローマが建国されてから約1000年も経っていて、たくさんの法律が作られていたから、法律の体系がとてもわかりにくくなっていたんだ。

しかも、新しい法律ができると、古い法律と重なっているところは無効になるっていう決まりがあったから、法律のどの部分が有効で、どこが無効になっているのか、もうぐちゃぐちゃ。

だから、ユスティニアヌス帝は法律の体系をきちんと整理しないとみんなが不便だ、と考えて、法学者のトリボニアヌスたちにローマ法の法典の編纂作業を命じたんだね。

ローマ法大全は「勅法彙纂」「学説彙纂」「法学提要」「新勅法」の4つの部分から成り立っているよ。

「勅法彙纂」は、ハドリアヌス帝からユスティニアヌス帝までの勅法(皇帝が作った法律)をまとめたもの。

「学説彙纂」は、ローマ帝国の初期から紀元500年くらいまでの有名な法学者の学説をまとめたもの。

「法学提要」は、法学を志す人のための法学校での教科書なんだ。

「新勅法」は「勅法彙纂」のできた後にユスティニアヌス帝が発した法律のことだよ。

「勅法彙纂」「学説彙纂」「法学提要」はラテン語、「新勅法」はギリシア語で書かれているんだ。

ラテン語はローマ帝国で使われていた言葉で、学問の分野や教会を除くと、東ローマ帝国ではユスティニアヌス帝の時代にはほとんど使われていなかったんだよ。

ちなみに、当時東ローマ帝国ではとして、ギリシア語が広く使われるようになっていたんだ。

古い法律は学問の世界で使われているラテン語。

ユスティニアヌス帝のつくった新しい法律は、みんながいつも使うギリシア語で書かれたいたんだね。

聖ソフィア大聖堂とは

ユスティニアヌス帝は聖ソフィア大聖堂も建立したよ。

首都コンスタンティノープルにある直径31メートルの大きなドームを持つとても立派な教会だね。

名前の意味は「聖なる叡智」って意味なんだって。

実は聖ソフィア大聖堂ができる前にも大きな教会があったんだけど、火災や暴動などで2回焼け落ちてしまっていたんだ。

ユスティニアヌス帝は聖ソフィア大聖堂の落成式典のとき、感動して「私はソロモン王の栄華を凌いだ!」って言ったんだって。

ソロモン王っていうのは、古代イスラエル王国の最盛期の王様で「ソロモンの栄華」って言葉があるくらい、繁栄の代名詞でもあるんだ。

聖ソフィア大聖堂はとても大きくて壮麗だったから、東ローマ帝国の威信はとても高まったんだ。

帝国第一の格式を誇って、コンスタンティノープル総主教座の所在地でもあった聖ソフィア大聖堂。

聖ソフィア大聖堂では、宗教的な儀式の他にも、皇帝の戴冠式や戦争に勝った凱旋式典なんかの主要な儀礼が行われていたんだ。

聖ソフィア大聖堂の南西部の扉の上には、聖母子像を挟んで左に聖ソフィア大聖堂を捧げ持つユスティニアヌス帝の姿を描いたモザイク画があるよ。

モザイク画は、10世紀初めに描かれたらしいんだけど、当時の人が聖ソフィア大聖堂を再建したユスティニアヌス帝をとても尊敬していたことがわかるね。

東ローマ帝国からビザンツ帝国へ

ユスティニアヌス帝の死後、イタリア半島では、北部の平原を中心にランゴバルド人(ロンバルド人)が国を建てるよ。

バルカン半島では、スラヴ人やトルコ系遊牧民のブルガール人が東ローマ帝国の領土に侵入を繰り返すようになっていくんだ。

また、帝国の東方では、ササン朝ペルシアとの争いが続くんだ。

だけど、ササン朝ペルシアは新しく興ったイスラーム勢力に滅ぼされてしまうんだ。

ほっとしたのもつかの間、7世紀後半には、今度は東ローマ帝国が領土だったシリア、エジプト、北アフリカをイスラーム勢力に奪われてしまうんだ。

こうして東ローマ帝国は、小アジアとバルカン半島に限定されたギリシア人の国に変わっていくんだ。

ギリシャ語が公用語とされた7世紀以降の東ローマ帝国は、首都コンスタンティノープルの昔の名前であるビザンティウムにちなんでビザンツ帝国って呼ばれているんだ。

ちなみにビザンティウムって名前は、ビュザンダスってギリシア人のある地域の王様が街を作ったことに由来するらしいよ。

これから後の説明では、ビザンツ帝国って呼んでいくね。

でも東ローマ帝国とビザンツ帝国は同じだってことも、ややこしいけど、しっかり覚えておこう!

ビザンツ帝国とは

まず、東ローマ帝国とビザンツ帝国の違いを見ていこう。

領土の面でいうと、東ローマ帝国の領土は東地中海地方全域だった。一方、ビザンツ帝国の領土は小アジアとバルカン半島に縮小した。

公用語の面からみると、東ローマ帝国はラテン語、ビザンツ帝国はギリシア語

次に、東ローマ帝国がビザンツ帝国になったのは、周辺諸国との戦いで、領土が縮小したのが一番大きな理由だね。

領土は縮小したけど、イスラーム勢力などの周囲の敵の脅威から、国は守られた。

東地中海の強国として、ビザンツ帝国は、繁栄の時代を迎えるんだ。

ビザンツ帝国の国章は双頭の鷲。かっこいいね!

ギリシア正教がビザンツ帝国の国教だったよ。

首都コンスタンティノープルは、東西交易路の要衝として繁栄したんだ。

商人や手工業者が市民の中核をなしていて、活気にあふれた商工業都市でもあったんだね。

ビザンツ帝国の発行する通貨(主に金貨。ノミスマと呼ばれた)は、純度が高くて、信用があったから地中海貿易で広く使われたんだ。

そのおかげで東地中海世界の経済的覇権を維持できたんだね。

国の制度としては、3世紀末からのローマ帝国末期以来の専制君主制を継承して、中央集権的な官僚機構を統治の基盤としていたんだよ。

官僚は自分たちを「皇帝の奴隷」と称していたんだ。

ただ、なかなかの曲者ぞろいで、一筋縄ではいかなかったみたいで歴代の皇帝も手を焼いていたって記録があるね。

でも、官僚はちゃんと仕事もしていたんだよ。

官僚の重要な仕事の一つに徴税(税金を集めること)があるんだ。

ビザンツ帝国では、きちんと徴税の仕組みが整っていて、皇帝が都にいても税金が集まってきていたんだ。

今では当たり前の話かもしれないけど、同じ時代のヨーロッパの王様たちは、税金を集めるために領地から領地へ宮廷ごと移動していたことを考えると、ビザンツ帝国の国歌としての仕組みが整っていたことがわかるよね。

「徴税要綱」っていう、税務官僚のためのマニュアル本まであったんだって。

それから、ビザンツ帝国の食についてもみていこう。

主食はパン。穀物からパンを作ったんだけど、お金持ちは小麦粉から作られた白いパン、お金がない人は燕麦やえんどう豆なんかの粉で作ったパンを食べていたんだって。

豚や山羊、羊、牛などの家畜や鹿や野兎などの狩りで得た肉を鉄板焼きや炙り焼き、揚げ物、蒸し物にして食べていたよ。

海に面したコンスタンティノープルでは、まぐろやたら、ます、鮭、かれいなんかのお魚を焼いたり、揚げたり、シチューに入れたりなんかして、食事をしていたんだって。

調味料は、塩や酢、コショウのほかに魚醤のガルムも使われていたよ。ガルムは今でいうとアンチョビが近いっていわれているね。

軍管区制とは

7世紀以降、ビザンツ帝国では、イスラーム教徒などの外敵の侵入に備えて、各地方に軍の駐屯地を置き、その長官に民政と軍政の両方をゆだねる軍管区制(テマ制)を導入したんだ。

テマの兵士は騎兵、歩兵、水兵など兵種ごとに土地の保有を義務付けられていたよ。

平時には家族たちと一緒に農地の耕作をして、戦争になったら、土地から得た自分の収入で武器や軍馬、軍装を整えて、兵士として出征し、テマの長官の指揮下で軍務についていたんだ。

こうした義務の代わりに兵士には、基本的な地租以外の付加税や賦役が免除されていたんだ。

今の日本でいうと、土地が国から与えられて、普段は農業がお仕事。戦争になったら、自分で武器を買って自衛隊の兵隊さんとして戦わなきゃいけない。

でも、作物の売り上げにかかる所得税以外、消費税とか固定資産税とか社会保険料とかは一切払わなくていいよ、っていう感じになるのかな??

ギリシア正教会とは

ビザンツ帝国の歴代の皇帝は神の代理人として、コンスタンティノープル教会(ギリシア正教会)の総主教を支配下におくよ。

古代のキリスト教では、「コンスタンティノープル総主教座(コンスタンティノープル教会)」「アレクサンドリア総主教座(アレクサンドリア教会)」「アンティオキア総主教座(アンティオキア教会)」「イェルサレム総主教座(イェルサレム教会)」「ローマ総主教座(ローマ教会)」の5つの教会が五総主教体制を為していたんだ。

だけど、東地中海地域にあったアレクサンドリア教会、アンティオキア教会、イェルサレム教会の3つがイスラームの支配下に落ちてしまった。

だから、コンスタンティノープル教会は東地中海地域で唯一のキリスト教の総主教座、首長として重んじられるようになるんだね。

コンスタンティノ―プル教会(ギリシア正教会)は東地中海地域にあったから、東方正教会なんていったりもするね。

これに対応するのが西地中海地域にあったローマ教会。

教会の東西対立、なんていうときの西側はローマ教会のことだよ。

皇帝はコンスタンティノ―プル総主教をはじめとする高級聖職者の人事権を掌握して、教会に大きな影響力をもっていた。

でも、教会も常に皇帝の言いなりになっていたわけではないんだ。

皇帝の勝手だったり、道徳に外れたりした行動に対しては、警告したり、正しい方向に導く存在として人々に認められていたんだ。

ビザンツ皇帝が神の代理人として、諸教会の上に立とうとする動きは、西ヨーロッパで自立し始めていたローマ教会との対立を引き起こすんだ。

レオン3世とは

685年生まれ、741年没。若い時は何をしていたのかは、諸説あってよくわかっていない。

レオン3世は出世して、テマの長官になり、更に反乱に成功して帝位についたんだ。

イスラーム教徒から国を守ったり、コンスタンティノープルの街のインフラを整えたり、テマ制を整備したり、ローマ法大全を改訂したり、いろいろなことをした有能な皇帝だったんだ。

7世紀以降、イスラーム勢力が急速に成長し、その脅威は小アジアにも及ぶようになってきたんだ。

イスラーム勢力は、ビザンツ帝国に抑圧されていた人々を解放するときに、キリスト教は聖像や聖画(イコンとも。イエス・キリストや聖母マリア、諸聖人を描いた板絵)を信仰の対象とする偶像崇拝を行う間違った宗教だって宣伝していたんだよ。

「そんな宗教を信じるのはよくない」って、イスラームに改宗する人も増えてきてしまったんだ。

たから、レオン3世は、イスラーム勢力の攻勢から教会を守るために、偶像崇拝を禁止したんだ。

本当はキリスト教でも、偶像崇拝は禁止だったんだよ。

だけど、言葉の通じないゲルマン人やスラヴ人に、ローマ教会は偶像崇拝という形で布教活動をしていた。

レオン3世の偶像崇拝禁止令に、「そんなこと言われたら、布教活動できないよ!」とローマ教会は猛反発。

これが後の東西教会の分裂につながっていくよ。

ビザンツ様式とは

ビザンツ帝国では、ギリシア語の古典やローマ法が研究、保存され、その成果はイスラーム世界や西ヨーロッパに受け継がれていくよ。

ビザンツでは、西ヨーロッパと違って学術活動が教会の独占物ではなくて、ローマ時代以来の世俗教育の伝統が残っていたんだ。

たった1時間で東方国境から首都まで、烽火によって敵の侵略など、緊急の知らせを送る烽火台システムみたいな実用性のとても高いものから、古代以来の宮中儀式の故実をまとめたような書物まで本当にいろいろなことが研究されていたんだ。

古代への関心は、ビザンツ帝国が国力を回復して、古代ローマ帝国としての後継者としての自覚を高め、栄光の時代との連続性を強調する機運の現れだったのかもしれないね。

また、4世紀から発達したキリスト教美術は、ドーム型の屋根を用いた教会建築やモザイク画によって代表されるビザンツ様式として確立していったんだ。

教会などの天井部分が丸いドーム型になっているという特徴があるんだ。

コンスタンティノ―プルにある「聖ソフィア大聖堂」は、このドーム型の屋根、それからビザンツ様式の代表例の建築物だよ。

石で作られた巨大なドームの天井を支えるためには、側面から壁をサポートしたり、重さを分散したり、高度な技術が必要になるんだ。

ローマ時代から受け継がれた建築技術を駆使して造られたドームの内部には、モザイク画などで装飾が施されていることが多いんだよ。

モザイク画っていうのは、絵具を使って絵を直接描くのではなく、鉱石など色のついた小さな石や貝殻を埋め込んで絵を作っていくんだ。

東ローマ帝国とビザンツ帝国まとめ

東ローマ帝国とビザンツ帝国まとめ

  • ユスティニアヌス帝は、地中海の覇権を回復した。
  • ローマ法大全は、これまでのローマの法をまとめたもの。
  • 聖ソフィア大聖堂は、ビザンツ様式の代表的な建築物でコンスタンティノープル教会の総主教座でもあった。
  • ユスティニアヌス帝の死後、新たな外民族の侵入が始まった。イタリア半島では、ランゴバルド人(ロンバルド人)。バルカン半島ではスラヴ人やトルコ系遊牧民のブルガール人
  • ビザンツ帝国の公用語はギリシア語(東ローマ帝国はラテン語)。
  • 周辺諸国との戦いで東ローマ帝国の領地が縮小した結果、ビザンツ帝国になった。
  • 7世紀以降、各地方に軍の駐屯地を置き、その長官に民政と軍政の両方をゆだねる軍管区制(テマ制)を導入。
  • ギリシア正教会(コンスタンティノープル教会)はビザンツ帝国の国教。東地中海地域で唯一のキリスト教圏の総主教座が置かれ、高い権威を持っていた。
  • 皇帝レオン3世は726年、勅令によって聖画像を禁止した。→ローマ教会は強く反発した。
  • イエス・キリストや聖母マリア、諸聖人を描いた板絵のことをイコンと呼び、キリスト教は布教活動に用いていた。
  • ビザンツ様式の特徴は、丸いドーム型の屋根とモザイク画。

運営者情報

青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。

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