フランク王国の建国とクローヴィスによるアタナシウス派への改宗
高校世界史で学習する「フランク王国の発展」について、このページでは「フランク王国の建国」について、「クローヴィス」とはどんな人物か、なぜ「アタナシウス派へ改宗したのか」、そしてアタナシウスはへ改宗したことによってどのような結果となったかをくわしく解説していくよ。
ゲルマン民族の大移動で、ゲルマン民族はそれぞれ各地で建国をしたね。
その中でも大きく発展したのが、フランク人が建国した「フランク王国」なんだ。
フランク王国が発展した背景には、大きく3つの理由があるよ。
フランク王国が発展した3つの大きな理由
- メロヴィング朝のクローヴィスは、多くの住民が信じる「アタナシウス派」に改宗をした
→支配している地域で信じられているアタナシウス派に改宗することで、反発をおさえることができ、ローマカトリック教会の支持も得た - トゥールポワティエ間の戦いでイスラム勢力からキリスト教を守ることができた
→キリスト教を守ったヒーローとして権威を得ることができた - ラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進した(ピピンの寄進)
→ローマ教会に歩み寄り、良好な関係を築くことができた
これらの3つについて、それぞれくわしく解説していくよ。
このページでは、「アタナシウス派への改宗」の理由と結果をまとめているよ。
「フランク王国の発展」まとめ
フランク王国が発展した理由と流れをまとめているよ。
まずは大まかな流れをつかもう!
フランク王国の発展の流れ
【フランク王国の建国とクローヴィスによるアタナシウス派への改宗】
※現在の記事
ゲルマン人の大移動により、フランク人がガリア北部に建国をした
(キルデリク1世によるメロヴィング朝がスタート。)
※メロヴィングとは、キルデリクの父「メロヴィクの子孫」という意味。
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496年にキルデリク1世の息子クローヴィス1世がアタナシウス派のキリスト教(キリスト=神)に改宗
(支配地域で信じられているアタナシウス派に改宗することで、反発を抑えた!)
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【宮宰カール=マルテルとトゥールポワティエ間の戦い】
クローヴィスの死後、内部争いで王権は弱くなり、宮宰が力をつけた
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宮宰カール=マルテルがトゥールポワティエ間の戦いでイスラム勢力のウマイヤ朝軍を破った
(キリスト教を守ったヒーローとして権威を得る)
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【ピピンの寄進】
カール=マルテルの息子ピピンがランゴバルド王国と戦い、奪ったラヴェンナ地方をローマ教皇へ寄進(ピピンの寄進)した
(ローマ教皇へ歩み寄り、良好な関係に)
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【カール大帝の戴冠】
ピピンの子のカール大帝がイスラム勢力・ランゴバルド王国・アヴァール人・ザクセン人を屈服させ西ヨーロッパの広大な領域を支配下におくことに成功。伯管区に分けて巡察使に伯を監視させて管理。
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広大な領土を支配下においたフランク王国は、かつての西ローマ帝国の復活ともいえるほどであり、ビザンツ帝国に並ぶ強国になったと考えたレオ3世(ローマ教皇)により、カール大帝にローマ皇帝の冠を載せた。(カールの戴冠)
フランク王国とは
今回はフランク王国の発展というテーマについて、解説していくよ!
「フランク」って言葉は、「自由な人」「勇敢な人」を意味する言葉なんだって。「フランス」という国名もこの語から由来しているよ。
まず、フランク王国ってどんな国なのかおおまかに理解しよう。
ざっくりいうと
ゲルマン民族の大移動でフランク人がガリア北部にフランク王国を建国した
ガリアの人々はほとんどがカトリック(=アタナシウス派)だった
→「じゃあ、自分たちもアタナシウス派に改宗しよう!」と合わるために最初の王朝(メロヴィング朝)のクローヴィス1世がアタナシウス派に改宗した
→人々から支持を得た!
→ローマカトリック教会の支持も得た!
だからフランク王国は発展することになった!
フランク王国は、このあと学習する最盛期のカール大帝の時代には、現在のフランス・ドイツ・イタリア北部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアにまたがる広大な領土を有していたんだ。
現在の西欧のほとんどの地域が含まれるね。
フランク王国を建国したのは、ゲルマン人の一派のフランク人だよ。
ゲルマン民族の大移動で、フランク人が移動した先でおこしたのが「フランク王国」だったね。
フランク王国の王様はキリスト教に改宗したよ。
だから、国を動かしていくうえで、ローマ・カトリック教会の聖職者たちが大きな影響力を持ったんだ。
それから、歴代の王様はローマ・カトリック教会と緊密な関係を持っていたんだ。
即位のときには、教皇によって聖別、つまり、フランク王国の王様は神様の祝福をうけた聖なる存在とされていたよ。
このように、フランク王国は西ヨーロッパにおけるローマ=カトリック教会の勢力の拡大と教会の文化の発展に大きな役割を果たしたんだ。
フランク王国は、メロヴィング朝、次いでカロリング朝という2つの王朝が統治したんだ。
フランク王国の相続方法は長子相続制度(主に長男がすべての財産を相続する方法)ではなくて、分割(均等)相続制度(子供たち(主に男子)で財産を分割して相続する方法)だったから、フランク王国と一言にいっても、王族たちそれぞれ、いくつもの勢力に分裂していることが多かったんだ。
だけど、フランク王国として、一つにまとまったときは大きな領土にたくさんの人口を抱えたとても強い勢力になったんだ。
たとえば、これより数百年後の時代に十字軍っていう西欧のカトリック教徒が、聖地イェルサレムを中東のイスラーム教徒の国々から奪還しよう!っていう遠征軍を派遣するっていう出来事があるんだ。
そのとき、イスラーム教徒は、西欧のカトリック教徒を「フランク人」って呼んでいたんだ。
このとき、フランク王国は既にフランス王国、神聖ローマ帝国、イタリア半島の諸国家に分裂して、存在していなかったにも関わらず、だよ。
ちなみにフランク王国の分裂については、次の単元で学習するよ。
フランク王国っていうのが、イスラーム教徒にとって、「西欧のカトリック教徒=フランク人」と認識するくらい、西ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えた存在だっていうのが、このエピソードからもわかるよね。
フランク王国は他の地域の人々に、大きな影響を与えていたんだね。
メロヴィング朝のクローヴィスによる改宗
フランク人は、定住地だったライン川の下流を確保しながら、ガリアの北部にフランク王国を建国したんだ。
496年にメロヴィング朝のクローヴィス1世(これからクローヴィスと表記するね)が キリスト教の主流派から正統と認められていたアタナシウス派(=ニカイア派)に改宗したんだ。
アタナシウス派(ニカイア派)への改宗=ローマ=カトリックへの改宗だよ。
クローヴィスの改宗は、とても歴史的に大きな出来事だったんだ。
改宗したことによって、クローヴィスは、キリスト教の司教として、地域社会を支配していたローマ人貴族層の支持を取り付けたんだ。
加えて、クローヴィスは戦上手だったんだ。
他のゲルマン諸国家は同じキリスト教でも異端のアリウス派を信じていたから、フランク王国の戦争はローマ=カトリックの名の下に正当化されて、ガリア地域の支配に成功したんだ。
メロヴィング朝とクローヴィスとは
メロヴィング朝は、フランク王国の最初の王朝なんだ。
「メロヴィング」という名前は、クローヴィスの祖父メロヴィクスにちなんでいるよ。
フランドル地域を支配していた若き王クローヴィス(465年~511年、在位481年~ 511年)は勢力を伸ばして領土を拡大していくんだ。
即位したクローヴィスはライン川北岸の諸部族をまとめ上げて、486年には父キルデリクと協力関係にあった北ガリアのシャグリウスを破り、試合地域をロワール川北部にまで拡大したんだ。
また、妹のアウトフレダを東ゴート王テオドリックに嫁がせて、クローヴィス自身は、ブルグンド王国の王女クロティルダと結婚するなど、婚姻も外交政策の一環としたんだね。
496年、クローヴィスは王妃の薦めで部下の兵士3000人とともにランスの司教レミギウスによって、カトリックの洗礼を受けたって伝えられているんだよ。
カトリックに改宗することで、伝統的な祭祀や慣習と結びついていた抵抗勢力の力を削ぐことができたし、同じ信仰を持つ国々や集団からのいろいろな関係も期待できるようになったんだ。
実際、当時のローマ帝国の時代から住んでいるガリアの人々はほとんどがカトリック(=アタナシウス派)だったからクローヴィスの改宗は、ガリアの住民との絆を強化することになったんだ。
当時の司教たちは、クローヴィスを受け入れて、ローマ帝国でキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝のようだって称賛したって伝わっているよ。
507年には、宿敵だった西ゴート王国に大勝して、国王アラリック2世を廃止させて、現在のフランス南部のアキテーヌ地方を手に入れたんだ。
ローマ=カトリックはローマ的統治方法や古代ローマやギリシア時代の教養と一体化していたから、クローヴィスのカトリックへの改宗はフランク王国のアイデンティティの形成にとても大きな影響を与えたんだ。
現在のヨーロッパは、古典古代文明とキリスト教とゲルマン人が結びつくことによって形成されたって言われているから、クローヴィスのカトリックの改宗は、この三つを結びつけたって意味でも歴史的にも重要な出来事だったのがよくわかるよね!
画面奥中央の王座に座っている灰色の衣をまとった人物がクローヴィス王だよ。
アタナシウス派とアリウス派とは
アタナシウス派っていうのは、キリスト教において、アレクサンドリアのアタナシウス(298年~373年。ギリシア語読みはアタナシオス)っていう神学者であり、聖職者でもあった人が、父なる神と子なる神であるキリストは同一本質(同質とも)であるとした主張した派を指すんだ。
アタナシウスは、出生地ははっきりしていないんだけど、ナイル河畔の人たちの言葉であるコプト語を話していたんだって。
若い頃には砂漠の修道士たちと一緒に厳しい修行をしていたって言われているよ。
それから、戒律もしっかり守る敬虔な聖職者だったんだって。
アタナシウスの考えは、325年に開催されたニカイア公会議でニカイア信条として採択されたんだけど、対立するアリウス派により繰り返し追放されてしまうんだ。でも、その都度カムバックしてきたって伝わっているよ。
波乱万丈の人生を歩んだ人なんだね。
アリウス派っていうのは、アレクサンドリアの司祭、アリウス(250年頃~336年頃。古代ギリシア語読みではアレイオス)とその考えに同調する人たちの集団を指すんだ。
アリウス派の考えは、イエスは神様に作られた被造物であるってことなんだ。だから、神様に従属するものってことになる。キリストの本性は、神聖ではあっても、神性をもつものではない、その本性は神の本性とは違うものである、と主張したんだ。つまり、大雑把に平たく言うと、イエスは人なんだよ。ってこと。
ニカイア公会議ではキリストは神様か人かってことで、議論されたんだね。
キリストが神様って言ったのが、アタナシウスさん。
キリストは人なんだよって言ったのが、アリウスさん。
議論の結果、キリストは神様であるっていうアタナシウスさんの考えが認められたってことになるね。
アタナシウス派の考え方は、三位一体説っていう「父と子と聖霊は三つの面を持つけど、一体である」という考え方につながっていくんだけど、みんなはすぐに理解できるかな??
ちょっと難しいな~と思った人もいるかもしれないね。
アリウス派の教義は異端ってことになったんだけど、神とイエスの関係をわかりやすく説明できたから、ゲルマン人に受け容れられやすかったんだ。
アリウス派はその後更にゲルマン人の土俗的な信仰と合体して、キリスト教ではあるけれど、独特な形の信仰となっていくんだ。
「フランク王国の建国とクローヴィスによるアタナシウス派への改宗」まとめ
- ゲルマン民族のフランク人がガリア北部に「フランク王国」を建国した
- ガリア北部では「アタナシウス派」が信じられていた
・アタナシウス派→キリストは神
・アリウス派→キリストは人間 - メロヴィング朝(フランク王国の最初の王朝)のクローヴィス1世がアタナシウス派に改宗
- 人々の支持、ローマカトリック教会の支持を得ることに成功した
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ゆみねこ
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。