宮宰カールマルテルと「トゥールポワティエ間の戦い」を解説

高校世界史で学習する「フランク王国の発展」について、トゥールポワティエ間の戦いで活躍した宮宰カール・マルテルとはどんな人物か、ウマイヤ朝との戦いの様子や、フランク王国が勝利した理由などを解説するよ。

フランク王国が発展した大きな3つの理由があったね。
今回解説するのは、そのうちのひとつ

「トゥールポワティエ間の戦いでイスラム勢力からキリスト教を守ることができた」→キリスト教を守ったヒーローとして権威を得ることができた!

というところ。

フランク王国の発展の流れの中の、どの部分のことかも確認しておくと、理解しやすくなるよ。

フランク王国の発展の流れ

フランク王国の建国とクローヴィスによるアタナシウス派への改宗】
ゲルマン人の大移動により、フランク人がガリア北部に建国をした
(キルデリク1世によるメロヴィング朝がスタート。)
※メロヴィングとは、キルデリクの父「メロヴィクの子孫」という意味。

496年にキルデリク1世の息子クローヴィス1世がアタナシウス派のキリスト教(キリスト=神)に改宗
(支配地域で信じられているアタナシウス派に改宗することで、反発を抑えた!)

【宮宰カール=マルテルとトゥールポワティエ間の戦い】
※現在の記事
クローヴィスの死後、内部争いで王権は弱くなり、宮宰が力をつけた

宮宰カール=マルテルがトゥールポワティエ間の戦いでイスラム勢力のウマイヤ朝軍を破った
(キリスト教を守ったヒーローとして権威を得る)

【ピピンの寄進】
カール=マルテルの息子ピピンがランゴバルド王国と戦い、奪ったラヴェンナ地方をローマ教皇へ寄進(ピピンの寄進)した
(ローマ教皇へ歩み寄り、良好な関係に)

【カール大帝の戴冠】
ピピンの子のカール大帝がイスラム勢力・ランゴバルド王国・アヴァール人・ザクセン人を屈服させ西ヨーロッパの広大な領域を支配下におくことに成功。伯管区に分けて巡察使に伯を監視させて管理。


広大な領土を支配下においたフランク王国は、かつての西ローマ帝国の復活ともいえるほどであり、ビザンツ帝国に並ぶ強国になったと考えたレオ3世(ローマ教皇)により、カール大帝にローマ皇帝の冠を載せた。(カールの戴冠)

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宮宰カールマルテルと 「トゥールポワティエ間の戦い」を解説

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目次

宮宰とは

宮宰カール・マルテルと言われても、どのくらいの立場の人なのかピンとこないかもしれないね。

宮宰(きゅうさい)というのは、「宮廷」の「長官」のことだよ。
王に次いでのナンバー2的な存在になるんだ。
ちなみにラテン語では、Major Domus(マヨール・ドムス)っていうんだ。
「大いなる家人(執事)」という意味だね。

宮宰は、ローマ帝国の終わりから、ゲルマン人が大移動をしていた時代のゲルマン人諸国家や諸侯の宮廷の中で一番偉い人が就く職だったんだ。

もともとは、王家や諸侯の家政機関の管理をする人だったんだよ。

フランク王国メロヴィング朝の宮宰のお仕事は、王家のプライベートな部分と政治的な部分の区別があいまいだったんだ。

それから、宮宰は王様の領地の管理をしたり、王の側近の従士たちの長を兼ねていたりしたんだよ。

フランク王国の相続方法は長子相続制度(主に長男がすべての財産を相続する方法)ではなくて、分割(均等)相続制度(子供たち(主に男子)で財産を分割して相続する方法)だったから、「フランク王国」と一言にいっても、王族たちがそれぞれ、いくつもの勢力に分裂していることが多かったよね。

だからメロヴィング朝の後期、王国内部にいくつもの分王国ができて、王家の権限が弱まっていったんだけど、宮宰が国政面で王の代理として政治や裁判、戦争を行って、大きな力を持つようになっていったんだ。

そんな宮宰の中でも代々メロヴィング朝の宮廷の実権を握るようになっていたのがカロリング家。
このカロリング家からカール・マルテルという人物が出てくるんだ。

宮宰カール=マルテルとは

カール・マルテル(688年~741年)は、とても有能な人物でフランク王国の宮宰になるんだ。

カール・マルテルは、フランク王国の東北部にあるアウストラシア(現在のドイツ南西部、フランス北東部、ベルギー、オランダ)っていう地域を治めていた分王国の宮宰の庶子(しょし・正式な奥さん以外の女性との間に生まれた子供のこと)として生まれたよ。

カール・マルテルのお母さんは側室(正式な奥さんではないこと)で、お父さんが亡くなると正妻に幽閉されてしまったり、いろいろ苦労したこともあったみたい。

一番の活躍は、このあとくわしく説明するけれど、フランク王国内の混乱のスキを狙って侵入してきたウマイヤ朝の軍にトゥ―ル・ポワティエの戦いで勝利したこと!

ウマイヤ朝とは

このころ中東から地中海地域にかけて、すごい勢いで勢力を広げていた「ウマイヤ朝」というイスラ―ム教徒の王朝があったんだ。

ウマイヤ朝は、その名前のとおりウマイヤ家による世襲王朝だよ。

ウマイヤ家はイスラームの預言者ムハンマドと同じ一族であるクライシュ族の名門で、イスラーム教の聖地メッカの指導層だったんだ。

ウマイヤ朝の首都は現在のシリアのダマスカス

ウマイヤ朝は、その支配の仕方に結構問題があって、ひとことで言うと「めっちゃアラブ人びいき」をしてしまったんだ。

どんなひいきかというと、人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)という税金があるんだけれど、これらの納税義務を以下のようにしてしまったんだ。

  • アラブ人なら→納税を免除!
  • アラブ人でないなら→ジズヤとハラージュを納税しなければならない!

本当なら、ジズヤは「イスラーム教徒でない人が納税する」もの。イスラーム教に改宗すれば免除されるはずなんだ。

なのに、「アラブ人かそうでないか」で納税義務が決まってしまって、たとえイスラーム教徒でもアラブ人でない場合は納税しなくてはならなかったという無茶ぶり。

同じ宗教を信じているのに、アラブ人じゃないと税金を支払わなきゃいけないなんて不平等だよね。
これには、不満が爆発したよ。

そんな無茶ぶりが目立つウマイヤ朝だけれど、その一方で、ディーワーン制(勅令管理・文書・軍事・徴税・司法・駅逓に関する行政機関)の整備や、一定の距離ごとに宿泊所などをととのえて、交通を便利にする「駅伝制」を整備したり、行政用語を統一したり、貨幣を作ったり・・・イスラム国家の土台を築いたというところが評価されているよ。

また、ウマイヤ朝は、たくさんの征服戦争をしていたんだ。

北アフリカを支配下におさめると、ジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに渡って、西ゴート王国軍を破って、イベリア半島の全域を征服してしまったよ。

そんなウマイヤ朝勢力が、732年にロワール川流域の都市、トゥールという街に迫ったんだ。狙っているのは、もちろんフランク王国に侵攻すること。
フランク王国にとっては大ピンチだね。

カール・マルテルはこのウマイヤ朝を迎え撃つために軍を出して、カール・マルテルとウマイヤ朝の両軍は、ポワティエ(現在のフランス中西部、ヴィエンヌ県の県都)の近くで激突するんだ。
これがトゥールーポワティエ間の戦いだね。

ウマイヤ朝のヨーロッパへの征服はこの732年のトゥール・ポワティエの戦いでフランク王国軍に敗れるまで続いたんだよ。

そう考えると、ウマイヤ朝の侵攻を防いだカール・マルテルがヒーローになるのは当然だね。

トゥールポワティエ間の戦い

有能なカール・マルテルはこの戦いでも能力を発揮したよ。
騎兵の多いウマイヤ朝の軍隊に対して、カール・マルテル率いるフランク王国軍は、陣をかまえる場所を工夫して考えたんだ。
騎兵の機動力をうまく発揮できないように、丘や樹木などの地形の場所を選び、重装した歩兵であるファランクス(槍を持った重装備した歩兵が、密集して戦う形態のこと)を上手く活用して、防衛体制をしっかり整えたんだ。

歩兵と騎兵の戦闘だったんだけど、なかなか決着はつかず、小競り合いが続いていたよ。
ウマイヤ朝の軍隊は、フランク王国軍の主な戦力は歩兵だから、「戦いは勝てるだろう」と思っていたんだ。

戦いは7日間に及んでいたよ。
最終日、フランク王国軍はウマイヤ朝の軍の略奪品の荷車などを襲ったよ。

当時の戦いでは、略奪品がそのまま兵士たちのお給料になるんだ。だから、奪われてしまったら、タダ働きということになっちゃうから大変なことだったんだよ。
だから「戦利品を守らなきゃ!」となるよね。とはいえ、フランク王国軍への攻撃もしなくてはとで、指揮系統が乱れてしまったんだね。

ウマイヤ朝の軍隊は、複数の人種・民族・宗教の人々が混ざっていたし、ウマイヤ朝の軍の兵士たちは家族を同伴していたこたということもあって現場は大混乱してしまったんだ。

混乱した自軍をまとめようとしたウマイヤ朝の軍司令官は、前に出たところを矢で射られて戦死してしまうんだ。
司令官を失ったウマイヤ朝の軍隊は、撤退。
こうして7日間の戦いの末、カール・マルテル率いるフランク王国軍は守り抜いたというわけだね。

たろうたろう

「ウマイヤ朝は、ウマが嫌がっていた王朝だから、トゥ―ル・ポワティエ間の戦いでも負けちゃった」と覚えてみよう

この戦いの後、しばらくの間ウマイヤ朝の軍隊はピレネー山脈を越えて、フランク王国の領土に侵入することはなかったんだ。

キリスト教圏をウマイヤ朝の侵入から守ったということで、カール・マルテルはフランク王国のヒーロー!

ちなみにカール・マルテルの「マルテル」という称号(あだ名とも)はこの戦いの後につけられたとも言われているよ。
肝心の「マルテル」とはどういう意味か、由来にはいろいろな説があるけれど、一説には「鉄槌」という意味があるとも言われているよ。
ウマイヤ朝を撃退した=「鉄槌」ということだね。(外征したことから、鉄槌と呼ばれたという説もある)

この戦いの勝利によって、カール・マルテルはフランク王国内における地位を確固たるものとしたんだ。

トゥ―ル・ポワティエ間の戦いの後にも、カール・マルテルは積極的に外国に出軍していくよ。

メロヴィング朝の国王は後継者を決めないまま亡くなってしまったんだけれど、フランク王国の実権は完全にカール・マルテルが握っていたんだ。

カール・マルテルは王国内の諸侯を抑えたり、カトリックの信仰を統括する大司教を任命したりもしたんだって。

カール・マルテルがフランク王国内での実権を握ったことから、この後のフランク王国に大きな影響を与えていくよ。

宮宰カールマルテルと「トゥールポワティエ間の戦い」まとめ

宮宰とは、「宮廷」の「長官」のことで、王に次いでのナンバー2的な存在

クローヴィスの死後、王権が弱まり、宮宰が力をつけた

カール・マルテルが宮宰となった

フランク王国の内部争いのスキを狙って、イスラム教徒の王朝「ウマイヤ朝」が侵攻してきた

カール・マルテルがウマイヤ朝をトゥールポワティエ間の戦いによって撤退させ勝利する

キリスト教圏をウマイヤ朝から守り抜いた功績により、カール・マルテルがメロヴィング朝の実権を握るようになる

運営者情報

青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。

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