『日露戦争』はなぜ起きた?東郷平八郎の活躍やポーツマス条約を解説
前回は、日清戦争と三国干渉について勉強したね。
せっかく手に入れた領土をロシアたちに返させられ、「いつか見返してやる!」と力を溜めてきた日本。
ついにその時がやってきた。
1904年、日本は世界最強の大国・ロシアとの戦争「日露戦争」に踏み切ったんだ。
今回は、世界中が注目したこの大一番と、その後の日本の変化について見ていこう!
日露戦争、ココがピンとこない!
日露戦争、ココがピンとこない!
- 相手は世界最強のロシア。なんで勝てると思ったの?
- 戦争に勝ったのに、なんで国民は怒って暴れたの?(日比谷焼打事件)
- 日本が勝ったことは、世界にどんないい影響を与えたの?
いざ開戦!ロシアとの戦い
ロシアの南下と「日英同盟」
当時、ロシアは「凍らない港」を求めて、満州(中国の北東部)や朝鮮へと勢力を広げていた(南下政策)。
「凍らない港」って?
寒さが厳しいロシアでは、港は冬になると海が凍ってしまって、船が出せなくなるんだ。
だから、一年中いつでも軍艦を出せる、南の方の温かい港を喉から手が出るほど欲しがっていたんだよ。
「南下政策」とは、ある国家が自分の国の勢力の範囲を南の地域に拡大しようとする政策のこと。
ロシアは、日清戦争で日本が勝利した結果として、遼東半島を手に入れた時に「三国干渉」で「遼東半島を清に返せ!」と言ってきた国だったよね。
ロシアは、自分も南下政策で遼東半島を狙っていたから、日本に待ったをかけたんだね。
ロシアがどんどん南に勢力を伸ばそうとしているのを見た日本政府は、「このままでは朝鮮、そして日本までロシアに取られてしまう!」と強い危機感を持つよね。
そこで日本は、同じくロシアが勢力を拡大していくことを嫌がっていた、世界最強の国・イギリスと手を組んだんだ。
これが1902年の「日英同盟」だよ。
日本と英国(イギリス)の同盟だから、「日英同盟」だね。
世界最強のイギリスが日本の味方についたとなると、もしロシアが他の国を助っ人に呼ぼうとしても、他の国は「イギリスを敵に回すのはちょっと…」となるよね。
この強力なイギリスというバックアップを得て、1904年、日本はロシアと戦うことを決め、日露戦争が始まったんだ。
※日本と露西亜(ロシア)の戦争だから、日露戦争だね。明治時代では、外国の名前はカタカナではなく、漢字の当て字が使われていたよ。

与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」
当時は『国のために尽くすのが立派』という考え方が広まっていて、国民の多くが戦争を応援する空気になっていたよ。
当時の学校などでは「国や社会のために尽くすのが大切」という考え方も教えられていたよね。
でも、戦争に行かされる兵士の家族は心配でたまらないよね。
歌人の与謝野晶子は、戦場に行った弟を思って、「君死にたまふことなかれ(どうか死なないで)」という詩を発表したんだ。
当時は「国のために死ぬのは名誉なこと」とされていたから、「死なないで」と言うと、『非国民』と強く批判されるおそれもあったんだ。
それでも彼女は、大切な家族を思う素直な気持ちを発表したよ。これはとても勇気ある行動で、多くの人の共感を呼んだんだよ。

日本海海戦と東郷平八郎
ロシアとの戦いは、陸でも海でも激しいものになったよ。
陸の戦い(旅順)と多くの犠牲
陸から攻める陸軍は、中国にあるロシアの強固な軍事基地・旅順を攻めたよ。
陸軍の指揮を執ったのは、乃木希典将軍。
※旅順は、遼東半島の先端にある天然の港だよ。船の出入りがしやすい「良港」で、ロシアが軍港として利用していたんだ。
だけれど、ロシア軍の守りは鉄壁で、日本軍は何度も突撃しては倒されて、数万人の兵士が亡くなる壮絶な戦いとなったんだ(203高地の戦い)。
乃木将軍自身も、この戦いで自分の息子2人を亡くしているよ。
それでも彼は涙を見せないで、兵士たちの先頭に立って指揮を執り続けたと言われているよ。
そして半年近くかけて、ロシア軍を降伏させて、日本軍が勝利したんだ。
乃木将軍の覚悟はすごいことだけれど、たくさんの命が失われた、とても悲しい戦いだったことも忘れないでね。
世界最強「バルチック艦隊」を破る!
海では、ロシアが誇る最強の艦隊「バルチック艦隊」が日本へ向かっていたよ。
これを迎え撃ったのが、東郷平八郎率いる日本の連合艦隊。
東郷平八郎は、薩摩藩(鹿児島)出身で「沈黙の提督」と呼ばれていたよ。普段は無口だけど、いざという時の判断力は凄まじかったんだ。
1905年、日本海での決戦(日本海海戦)。
東郷平八郎は、敵の目の前で急カーブをして一斉射撃を浴びせる「T字戦法」という、危険だけど効果抜群の作戦を実行したんだ。
T字戦法=T字になる瞬間を作って、有利に戦う作戦!

この作戦が見事に決まって、日本はバルチック艦隊を全滅させるという、奇跡的な大勝利を収めたよ。
日本の艦隊がロシアの艦隊を破ったという、このニュースは「アジアの小さな国が、大国に勝ったなんて信じられない!!」と世界中を驚かせたよ。
戦争の終わり『ポーツマス条約』
日本は、陸でも海でもロシア軍を追い払い、連戦連勝しているように見えた。
でも実は、日本ももう限界だったんだ。
「これ以上戦争を続けたら、お金も兵士も足りなくなって、次は絶対に負ける…」というギリギリの状態だったんだ。
だって、ロシアはとても大きな国だよね。「その気になれば、まだまだ陸軍を用意できる!ヨーロッパから援軍だって呼べる!」と強気だったんだ。
世界最強の国であるロシアが、アジアの小さい国に負けるなんて、プライドが許さないという面もあったしね。
とはいえ、ロシアも、国内で「戦争をやめろ!」という国民の大規模な反乱(血の日曜日事件から始まった革命)が起きて、実際は戦争どころではなくなっていたんだ。ロシアの国民も、戦争で生活が苦しくなっていたんだね。
この時の日本とロシアは、まるで「やせ我慢合戦」のようになってしまっていたんだよ。
アメリカの仲介と小村寿太郎
そこで、日本はアメリカのルーズベルト大統領に仲介(仲直りの手助け)をお願いしたよ。
どうしてアメリカが仲直りを手伝ってくれたの?
アメリカも、ロシアが強くなりすぎるのを警戒していたし、日本とは仲が良かったからね。
【参考】アメリカが仲介してくれた理由
- アメリカは、中国(満州)で自由に商売をしたかったので、ロシアが満州を独占しようとしているのが邪魔だった(日本に頑張ってほしかった)。
- 日本への期待:小村寿太郎などの留学生を受け入れていたこともあり、日本を「アジアにおける近代化の優等生」として好意的に見ていた。
- 大統領の個人的な好み:ルーズベルト大統領は新渡戸稲造の『武士道』を読んで感動して、日本ファンだったという説もあるよ。
1905年、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、日本からは外務大臣の小村寿太郎が出席して、「ポーツマス条約」を結んだんだ。
得たものと得られなかったもの
この条約で決まったことは以下の通りだよ。
- 韓国(朝鮮)における日本の優越権を認める
(他の国よりも優先的に、韓国を指導したり守ったりする権利) - 旅順・大連の権利と、南満州鉄道の権利をゆずり受ける
(軍事や貿易の拠点として、また資源を運ぶために重要な場所) - 樺太(サハリン)の南半分をもらう
(漁業などの資源が豊富な場所) - 賠償金はもらえない

こういうワケだった!
- 日本は「もうこれ以上は戦えないから、早く終わらせて!」とお願いした側。
- ロシアは「負けたわけじゃない、まだ戦えるぞ」と強気だった。
- だから、「戦闘では勝った(判定勝ち)」けれど、お金(賠償金)をもらうことはどうしても認めさせられなかったんだ。
その後の日本と国民の怒り
日比谷焼打事件と韓国併合
戦争には勝ったのに、賠償金はもらえなかったことで、日本国民は激怒したよ。
それはそうだよね。「国のために」と、生活が苦しくても増税に耐えて、大切な家族を亡くしてまで戦ったのに、見返りが少なすぎると感じたんだ。
怒った人々は東京の日比谷公園に集まり、交番や新聞社を燃やすなどの暴動を起こしたよ。
これが「日比谷焼打事件」だよ。
暴動は全国に広がり、最後は軍隊が出動して抑え込んだんだ。
でも、この事件で「国民の怒りは無視できない」と分かった当時の内閣は、責任を取って辞めることになったんだよ。

歴史は繰り返す?(元寇との共通点)
鎌倉時代の「元寇」を覚えているかな?
あの時も、命がけでモンゴル軍を追い払ったのに、「攻め込まれた側だから、奪った土地がない(ご褒美がない)」ということで、武士たちの不満が爆発したよね。
元寇は“守る戦い”、日露戦争は“国と国の争い”で状況はちがうけれど、「頑張ったのに見返りがない!」という怒りのエネルギーは、いつの時代も変わらないんだね。
日露戦争で勝利したことで、韓国における優越権を手に入れた日本は、その後1910年に「韓国併合」を行い、朝鮮を完全に日本の領土(植民地)としたよ。
「併合」とは、一つの国にしてしまうこと。
これによって、日本はアジアを支配する「帝国(ていこく)」へと変わっていったんだ。

【考えてみよう】今も残る歴史の問題
韓国併合の後、日本は朝鮮の人々に、日本風の名前を名乗らせたり(創氏改名)、日本語を使うように強制したりしたんだ(同化政策)。
当時の支配の中で、言語や文化に関して厳しい政策が行われ、人々の反発や苦しみも生んだことは、100年以上経った今でも、日本と韓国の間の大きな歴史の問題として残っているんだよ。
世界の大国(列強)の仲間入り
日露戦争での日本の勝利は、世界中に大きな衝撃を与えたよ。
欧米では、人種差別的な見方から日本を下に見る声もあったので、日本の勝利にショックを受けて警戒する人もいたよ(黄禍論)。
逆に、欧米の植民地にされていたアジアやアフリカの人々は、「小さなアジアの国でも、頑張れば大国に勝てるんだ!」と勇気づけられ、「自分たちも独立できるかもしれない!」という大きな希望を持ったんだよ。
「日露戦争」まとめ
『日露戦争』年表まとめ
| 1902年 | 日英同盟を結ぶ |
| 1904年 | 日露戦争が始まる 与謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」を発表 |
| 1905年 | 日本海海戦で勝利(東郷平八郎) ポーツマス条約を結ぶ (日本側:小村寿太郎) |
| 1910年 | 韓国併合を行う |
| 1911年 | 関税自主権の回復(条約改正の完了) |
6年生はここを押さえればOK!「日露戦争」まとめ
※赤いキーワードは必ず覚えよう!
- ロシアに対抗するため、イギリスと日英同盟を結んだ
- 1904年、日露戦争が始まる
→東郷平八郎が日本海海戦で勝利 - アメリカの仲介でポーツマス条約を結んだ
(日本代表:小村寿太郎) - 条約の内容
①韓国での日本の優越権を認める
②旅順・大連の権利と、南満州鉄道の権利を得る
③樺太の南半分を得る
④賠償金はない - 賠償金がないことに怒った国民が、日比谷焼打事件を起こした
こうして明治時代が終わり、次は「大正(たいしょう)」という新しい時代へ。
戦争に勝って強くなった日本だけど、国民の生活はどうだったのかな?
次回からは、「大正デモクラシーと戦争への道」について解説するよ!
運営者情報
檜垣 由美子(ゆみねこ)
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。


