奈良時代とはどんな時代かわかりやすく解説(前編)
飛鳥時代の後半は大化の改新が起こって、天皇中心の国づくりが始まったね。
実際に人々の暮らしはどう変わったんだろう?
都が作られる
これからは天皇が中心となって本格的に国づくりをはじめるんだ。
そのためには、皇族(天皇の一族のこと)と大和朝廷のトップの人たちが集まる「町」が必要だよね。
現代の「首都」である東京のことを考えてみて。
皇居(皇族のおうちのこと)もあるし、国の政治の中心になる国会や、他にも犯罪に対して罰を決める最高裁判所とか、国のお金の中心になる日本銀行とか、重要な施設が集まっているよね。
この時代もおなじ。
国づくりの中心となる人々が集まる町を作ったんだ。
それが「都」だよ。
都を作る時には、今回も中国の都の作り方を参考にしたんだ。
この時の中国は「隋」が滅ぼされて、「唐」という王朝(王様が支配する政府のこと)が中国を統一していたよ。
唐の都のデザインは囲碁で使われる碁盤の目のように路が交差している左右対称の方形(四角のこと)。
※このデザインのことを条坊制と呼ぶよ。
なんでそんな形なの?
風水的に縁起がいいとか、儒教(中国で起こった教えのこと)の教えに従っているとか言われているけど、なにより網目状に道があれば移動の時に便利だからね。
※京都の町は、この「条坊制」で作られた「平安京」の形が今でも残っているよね。
藤原京が作られる
こうして持統天皇の代である694年に今の奈良県の南の方(飛鳥地方に近い場所)に作られた最初の都が「藤原京」だよ。
藤原京?聞いたことないなぁ。平城京とか平安京なら知ってるんだけど・・
そうだね。710年に平城京ができるまでの16年しかなかったからね。
なんですぐ平城京に引越ししたの?
確実な理由はわかっていないけど、病気が流行って縁起が悪かったとか、地方から来るときのアクセスが不便だったとか言われているよ。唐の都である長安と比べて見劣りしちゃってたから、もっと立派な都を新しく作った、とか、飛鳥には力を持った豪族が多いから「ちょっと離れておこうと考えた」という説も有力だね。
平城京が作られる
というわけで、元明天皇の代の710年には平城京に都は移されたんだ。
場所は藤原京より北で、現在の京都との境に近いくらい。
「なんと綺麗な平城京」という覚え方が有名だね。
この平城京が出来たころから平安京ができるまでの80年間を「奈良時代」と呼ぶよ。
奈良に作られた都が中心の時代だからだね。
ところで、この頃から「貴族」という言葉が登場してくるけど、ピンと来てるかな?
今までは「豪族」という言葉が出てきていたよね。
豪族は、地方で栄えている一族のことで、貴族は「都」で天皇に仕えながら栄えている一族のことだよ。
中大兄皇子と一緒に蘇我氏を倒した中臣鎌足っていたよね。
中臣鎌足は、大活躍したので中大兄皇子に「藤原」という新しい氏をもらっていたよ。そして、都でも重要なポストについて「貴族」になったよ。
なるほど!このあと出てくる貴族の藤原氏って中臣鎌足の子孫だったんだ!
「藤原氏」とか「貴族」はこの後の時代で重要になってくるから覚えておいてね。
奈良時代の民の暮らしは?
都作りで働かされた
「都を作った」なんて簡単に言っているけど、一体だれが作るのか?
そう、皇族や貴族以外の普通の人たち。
この頃は「農民」と呼ばれていたよ。
都は藤原京も平城京もが広さは約25km2。
一辺が5㎞の正方形をイメージしてね。
こんなに大きい都を作るんだから、とても大変な工事になるよね。
農民は、強制的に都を作る工事をするために連れてこられて働かされたよ。
雨が降らないかぎり休みもなく、もらえる食べ物も必要最低限。
我慢できなくて逃げ出す人もいたよ。
でも、逃げて捕まってしまうと、鞭打ちの刑にあったりしたんだ。
奴隷みたい・・ひどすぎるよ!
長い間働かされて、やっと仕事が終わって帰れるかと思えば、故郷に帰るまでの食料がもらえないまま追い出されて、結局故郷にたどり着けなくて餓死(食べ物が無くて死んでしまうこと)してしまう人もいたんだって。
えっ
たくさん働いたのに、なにも報酬(働いたことに対するお礼のこと)をもらえないの?
いや、お給料はもらえたんだ。でも、そのころのお金「和同開珎」は都の中やその周辺の限られたところでしかまだ使えなかったから、結局帰り道で食べ物を買うことはできなかったんだよ。
お給料をもらってもほとんど意味がなかったということだね。
重い負担に苦しんだ
さらに、農民にはいろんな負担が決められていたよ。
「租・庸・調」だね。
租庸調というのは「税」のこと。
「租」は獲れたお米の3パーセントを都に渡さなければいけなかったよ。
「調」はその土地の特産物(その土地ならではの食材や品物)
「庸」は布を織って渡さなければいけなかったんだ。(または都で働く)
つまり、都で貴族や皇族が食べる食材、使う道具、着る服を作るための布を農民たちから集める必要があったんだね。
税のほかにも
雑徭という負担もあって、これは都で土木工事をして働くことなんだ。
兵役というのもあって、これは都で衛兵として警備をするか、中国や朝鮮に攻め込まれないように九州地方で守る「防人」として働くことだよ。
そういう税があったってどうして分かったの?
それはね、都の跡地から「木簡」という木の板が見つかっているんだ。
この頃は紙なんてすごい高級品だったんだ。
だから木の板に「これはどこから取り立てた税か」などを記録して、品物と一緒に都へ運んだんだよ。荷札の役割だね。
この木簡がたくさん見つかって、この頃にどんな税があって、都の貴族や皇族がどういう暮らしをしていたかが分かったんだね。
農民の暮らしが大変だったことは、「万葉集」の中の「山上憶良」の作品を読んでも分かるよ。
万葉集というのは、奈良時代に詠まれた和歌を集めた日本で最も古い和歌集。
収録されている和歌も、天皇が詠んだものから農民や防人が詠んだものまで、身分に関係なく入っているのが特徴。「令和」の元号の元になったということでも有名だね。
山上憶良がこのころの農民の生活の様子を詠んだ和歌。
「伏せ庵の曲げ庵の内に 直土に藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは
足の方に 囲み居て 憂え吟い かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて・・・・しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばいぬ・・」
意味は
「倒れたような曲がって傾いている家の中、地面に直接藁をしいて、お父さんとお母さんは枕の方に、お嫁さんと子供は足の方に、自分を囲んで固まって雑魚寝している。
かまどには火の気なんてなく、甑(米を蒸すための道具のこと)にもクモの巣が張っているくらい使っていない。
それなのに、ムラの役人である里長が家の入り口までやってきて「税を出せ」と叫んでいる。」
農民は食べ物もなくて大変な中、厳しい税の取り立てがあった様子がわかるね。
↓
都を作るために、農民を働かせる
↓
都へ納める米や布などの税と強制労働が農民を苦しめる。
6年生はココを抑えればOK!
まとめ
・710年に平城京が作られた
・農民は租庸調の税や労働を強制的に負担させられた
次は「奈良時代(後編)」について解説するよ!
運営者情報
ゆみねこ
詳しいプロフィールを見る
青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。
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雑魚寝ってここからきたのか!笑
無化して大変なんだなあ。 -
奈良はすごいね
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自学の参考になりました!!
ありがとうございます -
小6です。
社会科の新聞を作る学習に役立ちました!
先生からも褒めてもらえました!
ありがとうございます! -
ありがとうございます
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倉敷の小6です。わかりやすくって、深い理解につながりました!!
これからもがんばってください!! -
小6です
新聞づくりに役に立ちました。 -
参考ありがとう
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とてもわかりやすくイラストも可愛くて良かったです
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わかりやすかったっす。!
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分かりやすいのでよく使わせてもらうし、感謝しています。
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新聞作りの学習の参加になりました。
ありがとうございます。 -
社会で奈良時代について発表することになってそのスライドを作るのに参考にさせてもらいました。とても参考になりました!ありがとうございます♪
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面白い。ありがたすぎる。イラストもわかりやすい。
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社会のまとめに役に立ちました!
これで中学校も安心だ!-
マジでありがたい。
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参考になりました。
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大仏って奈良時代じゃないの???
すごいね