足利義満とはどんな人物かわかりやすく解説(完全版)
足利義満とは室町幕府の第3代将軍。
あの有名な金閣寺を建て、明との勘合貿易を行い、太政大臣として武家と公家のトップにまでのぼりつめた足利義満について小学生でもわかりやすく解説します。
目次【本記事の内容】
- 1.足利義満とはどんな人?
- 2.有力な守護大名を倒す
- 3.南北朝を統一する
- 4.金閣寺を建てる
- 5.明との勘合貿易をはじめる
- 6.北山文化について
室町幕府第3代将軍
足利義満ってどんな人?
- 誕生:正平13年(1358年9月25日)
- 没:応永15年(1408年5月31日)
- 室町幕府第3代将軍。
- 南北朝を統一した。
- 明と日明貿易(勘合貿易)を始めた。
- 京都の北山に金閣を建立した。
カリスマ性と強運とパワーの持ち主。
朝廷のケンカを仲直りさせ、邪魔者をどんどん消し、日本のトップ目指して突き進んだ。
武家としても公家としても頂点を極めて、「日本国王」として、夢の「明との貿易」を実現!金閣寺で朝廷へのライバル心をアピール!?
足利義満の家系図は?
足利義満は、室町幕府をひらいた足利尊氏の孫なんだ。
足利尊氏が亡くなった年(亡くなった日からちょうど100日後)に生まれたことから、「足利尊氏の生まれ変わりなのでは!?」と言われたよ。
足利義満の人生を年表で確認しよう!
1358年 京都に生まれる
1368年 父の義詮が亡くなる。
義満が11歳で室町幕府3代将軍に。
(管領 細川頼之がサポート)
1378年 御所を室町に移す。(花の御所)
1379年 周りの反対を受けて管領の細川頼之をクビに。(康暦の政変)
1383年 准三后の宣下を受ける
1390年 土岐康之の乱(土岐一族を倒す)
1391年 明徳の乱(山名一族を倒す)
1392年 南北朝合体
1394年 義持に将軍の役職を譲り、太政大臣に。
1395年 太政大臣を辞め、出家する。
九州探題の今川了俊をクビに。
1397年 西園寺から譲り受けた土地に山荘を作り始める(金閣寺)
1399年 応永の乱(大内一族を倒す)
1401年 明へ使いを送る。
1402年 明から日本国王として認められる。
1404年 勘合貿易を始める
1406年 妻の日野康子が後小松天皇の准母となる。
1408年 息子の義嗣の元服を皇太子と同じように内裏で行う。
その2日後、病気で倒れその後亡くなる。(50歳)
足利義満の肖像画
これはよく見る、有名な肖像画だよね。
法服(僧の服装)を着ているから、義満が出家した後の姿だね。
でも、他にもこんな肖像画は見たことあるかな?
この肖像は、松平定信が編集した「古画類聚」という、奈良時代以降の絵画作品を写した画集のようなものに載っているよ。
ちょっとイメージが違うけど、タレ目の感じは一緒だね。
足利義満の花押
花押とは、カンタンにいうと「サイン」のこと。
記号っぽくなっているんだ。
「これは確かに私が書いた文書だよ」ということを証明するために、ひとりひとりに決まったサインがあったんだ。
ちなみに、義満は花押を「公家用」と「武家用」の2種類持っていたと言われているよ。
花押を使う必要があるのは、トップレベルの人。
つまり、義満は公家としても武家としてもトップを目指す気マンマンだったということだね。
室町幕将軍って?
「室町幕府3代目将軍」ってサラッと言われてもピンとこないよ。
室町幕府とは
足利尊氏が開いた幕府
幕府って??
幕府というのは、「武士」による政治が行われていた時に使われる言葉なんだ。
日本では、ずっと「天皇」を中心にした政治が行われてきたよね。
「天皇を中心とした政治」のことを「朝廷」と呼ぶんだ。
それに比べて「武士(将軍)を中心にした政治」のことを「幕府」と呼ぶんだよ。
源頼朝が開いた鎌倉幕府が倒されたあと、今度は足利尊氏が京都に幕府を開いたんだ。
足利尊氏が幕府を開くことになった詳しい解説のページページもあるので、ぜひ読んでみてね。
室町に御所を建てた!→「室町幕府」と呼ばれる
幕府が開かれたのは分かったけど、どうして「室町幕府」っていうの??
幕府を開いた足利尊氏が亡くなると、「将軍」は代々引き継がれていくよ。
そうして、「3代目」に将軍になったのが足利義満。
将軍を引き継いだ足利義満は、1380年に引越しをしたんだ。
京都の「室町」という場所に御所(将軍の邸宅、つまり家のこと)を建てて、そこで政治を行ったんだよ。
だから、「室町+幕府」で室町幕府と呼ばれたんだ。
ちなみに、新しい御所には四季折々の花が植えられたので、別名「花の御所」とも呼ばれたよ。
11歳で征夷大将軍に
義満のお父さんである、室町幕府の2代将軍「足利義詮」は38歳の若さで病気で亡くなってしまったんだ。
お父さんのあとを継いで将軍になった義満は、まだたったの11歳だったので、 四国4カ国の守護だった細川頼之が「管領」(室町幕府で将軍を助ける、一番重要な役職のこと)として義満のサポートをしたよ。
将軍になれたのは強運??
足利義満のお父さんは足利義詮(足利尊氏の息子)で、お母さんは義詮の側室(妾のこと。正式ではない奥さんのこと)の紀良子(きのりょうし)。
もういちど家系図をチェックしてみよう。
側室ということは、つまり足利義詮には渋川幸子という正室(正式な奥さん)がいたんだ。
そしてその渋川幸子との間にも男の子が生まれているよ。
※ちなみに、義詮と紀良子との間には義満よりも前に生まれていた男の子がいたという説もあるよ。つまりお兄さんだね。でもこれは詳しい資料が見つかっていなくて、確証はないよ。
正室にも男の子がいて、どうして将軍になれたの?
ホントなら、将軍になるのは正室との男の子が優先だよね。
正室との間に生まれた男の子が亡くなってしまった
義詮と正室との間に生まれた男の子(千寿王というよ)は、たったの5歳で亡くなってしまったんだ。
そして、その後も正室との間には子供が生まれなかったんだよ。
正室に育ててもらった
義詮の正室の渋川幸子は、養母(育ててくれる義理のお母さんのこと)として義満のことを育てたんだ。
ちなみに、義満の幼名(幼い時の名前)は春王(読み方の資料なし)というよ。
「義満」という名前は、1366年に後光厳天皇からもらったんだ。
義満は、この後解説するけど、小さい頃から「スゴイ!」と人々に思わせる子供だったと言われているんだ。
義満が側室の子供でありながら将軍になれたのには、生まれ持った素質と強運のおかげかもしれないね。
義満のココがスゴイ!
小さい頃からまわりの人々にも「スゴイ!」と思われていた義満。
足利尊氏の生まれ変わり?
義満が生まれたのは、おじいさんである足利尊氏が亡くなったちょうど100日後だったんだ。
なので、「足利尊氏の生まれ変わりなのでは?」と噂されたよね。
景色を持って帰ろうとした
義満が小さい頃は、南北朝の争いや幕府内の争いがあって、義満は争いから逃れるために播磨(今の兵庫)に逃げていたんだ。
やがて北朝が勝って南北朝の争いがおさまると京へ帰れることになったんだけど、帰り道途中の摂津の琵琶塚の景色を気に入った義満は家臣に「この景色を持って帰りたいから運べ」と言ったんだよ。
この時義満は10歳くらい。
景色を持って帰ろうとするなんて、まさに「大物」という感じだね。
驚異の出世街道
足利義満といえば、驚くべきはその出世のスピードと内容。
義満の官暦(役職や位の記録)
1367年1月7日
従五位下:後光厳天皇から「義満」の名前をもらう
1367年12月7日
左馬頭
1367年12月24日
正五位下
1368年1月28日
征夷大将軍
1374年1月7日
従四位下・参議・左近衛中将
1375年12月13日
従三位・参議左近衛中将如元
1378年4月21日
権大納言
1378年8月27日(9月19日)
右近衛大将
1379年1月2日
従二位・権大納言右近衛大将如元
1379年2月4日
右馬寮御監
1380年2月11日
従一位・権大納言右近衛大将如元
1381年8月13日
内大臣・右近衛大将如元
1382年2月9日
左大臣・右近衛大将如元
1382年3月4日
蔵人別当※3月28日には牛車を許される
1382年4月11日
後円融院別当
1383年2月16日
源氏長者・淳和奨学両院別当
1383年6月26日
准三宮
1384年4月8日
右近衛大将辞任
1388年6月30日
左大臣辞任 ※1393年2月7日に還任
1393年10月22日
左大臣辞任
1395年1月8日
征夷大将軍辞職
1395年1月16日
太政大臣
1395年6月20日
太政大臣辞任
1395年6月20日(7月7日)
出家 ※号は道義
1402年8月20日
明より「日本国王」に封ぜられる
すごい経歴!!
武家で2人目の「太政大臣」に!
太政大臣(※)って何?
太政大臣というのは、朝廷の最高位の役職のこと。
※「だいじょうだいじん」と読む場合もあるよ
今でいう「内閣総理大臣」のイメージだよ。
いつもいるワケじゃなくて、適任者(役にふさわしい人)がいる時だけ特別になることができるんだ。そもそも、基本的には貴族がなるものなんだよ。
歴史上2人目の快挙!
太政大臣を務めるのは、基本的には貴族なんだ。
武家で太政大臣になったのは平清盛についで2人目のことなんだよ。
しかも、その平清盛だって、「征夷大将軍」にはなれなかったから、
「征夷大将軍と太政大臣の座、どちらも手にしたというのはとてもスゴイことなんだ。
武家としても公家としても成功
このように足利義満は、武家としてのトップ「征夷大将軍」にもなって、朝廷でのトップ「太政大臣」にもなったんだ。
つまり、武家としても、公家としてもトップの座を極めたんだよ。
「一休さん」にも登場!
「一休さん」とは、日本に本当にいた一休宗純という僧(仏教の修行をする人)をモデルにした日本のアニメだよ。
「一休さん」では、一休さんが色々な人をトンチ(とっさの場合に、すばやく働く知恵のこと)で助けたり、うならせたりするんだ。
足利義満は、なんとこのアニメに「一休さんとよくトンチ合戦をしていた将軍さま」として登場しているんだよ。
たとえば、有名な「屏風の虎」のエピソードに出てくる将軍さまが義満。
でも、実際のところは一休宗純と足利義満の年代は違うので、アニメのように交流があったとは考えられていないよ。
有力な守護大名を倒す
=誰も逆らえないような力を持つ
なかなかのパワーと強運の持ち主の義満。
義満は、ここからは「邪魔者をどんどん倒して」さらに力をつけていくよ。
守護大名とは?
もともと「守護」というのは、幕府が日本の各国(今でいう都道府県のようなイメージ)に置いて、「その国の軍事的なこと」や「悪者を取り締まったり」する警察のような役職のこと。
でも室町時代になると、その守護がその国の財政や土地の権利も支配するようになって、幕府からほとんど独立するくらい力をつけたんだ。これを守護大名というよ。
有力な守護大名を倒して力をつけた
この時代、守護大名の中でもいくつかの「有力な」一族がいたんだ。
それが「土岐氏」「山名氏」「大内氏」。
①打倒「土岐氏」
土岐氏である土岐頼康の領国(守護大名として支配していた国というイメージ)は、美濃・伊勢・尾張の3国。
土岐頼康が亡くなった時、義満は土岐氏の領国の3国を、わざと土岐頼康の息子兄弟に分けさせたんだ。
兄の康行に美濃と伊勢の2国、
弟の満貞に尾張を継がせるように。
というように割り振ったよ。
ちなみに、この兄弟はもともとあまり仲が良くなかったんだ。
そんな兄弟にわざわざ土地を「分けて」与えたのは、「もっと兄弟仲を悪くさせる」義満の作戦だったんだ。
康行にしてみれば、「本当なら、兄である自分が全部土地を引き継ぐはずだったのに!」と不満が残るというわけだね。
義満の作戦通り、兄弟はお互いに衝突するようになってしまったんだ。
そして兄の康行が、弟の満貞を攻めたんだ。
これを「土岐氏の乱(土岐康行の乱)」というよ。
これを義満は「幕府への反逆だ!」ということにして、康行を討伐(やっつけること)したんだよ。
?
弟を攻めただけなのに、幕府への反逆?
つまり、土地の振り分けは幕府が決めたことで、それに文句があってケンカを始めたということは、幕府に対して文句を言うのと同じ、という考え方だね。
②打倒「山名氏」
「山名氏」は、なんと丹羽・丹後・但馬・因幡・美作・伯耆・出雲・備後・隠岐・和泉・紀伊の11か国を領有していたんだ。 この時、日本には66の国があって、11か国を領有していた山名氏は、「六分一衆」と呼ばれたんだ。
「全国の6分の1を一族で持っていた」という意味だね。
ここでも、義満は作戦を練った。
山名氏は、さすがに11か国も領有していたので、11か国を一族の何人かで分けていたんだ。
和泉の「氏清」と出雲の「満幸」は、主筋(本家みたいなイメージ)の時熙に対して不満を持っていたんだ。義満は、これを利用したよ。
氏清、満幸。
幕府は時熙を討とうと思っているんだが、お前たちも協力しないか?(コソコソ)
えっ・・
本気ですか??
・・よし、やっちゃえ!
ばかめ。主筋に反逆するなんて!裏切り者の2人を討て!
だ、ダマされた!!
・・・こうなったら幕府倒しちゃえ!
これを、「明徳の乱」と呼ぶよ。
結果は、幕府側の勝利。
山名一族の領有は11か国から、たったの3国になってしまったんだ。
義満・・・
③打倒「大内氏」
大内氏の大内義弘も、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護で、大きな力を持っていたんだ。
実は大内氏は、②の打倒山名氏との戦いでは義満のために戦って大活躍したりしていたんだけど、やっぱりどんどんと力をつけ過ぎてしまって、義満にとってだんだんと邪魔な存在になってしまったんだ。
しかも、大内義弘は朝鮮と交流したり、「自分は百済王の後裔(子孫のこと)だから、百済の土地の権利を持っている」と主張したりしていたんだ。
この後に説明するけど、いずれ明と貿易をしようと思っていた義満にとって、外国とやりとりをしようとする大内義弘はちょっと困った存在だったというコト。
大内義弘側はというと、やっぱり義満に対してあまり良く思っていなかったよ。
それまでに土岐氏や山名氏をやっつけてしまったり、ずっと義満の為に働いていた人を急にクビにしたり・・ということを知っていたので、「今度は自分もやられてしまうのでは?」といつも不安に思っていたんだ。
こうやってお互い不安に思う状態が続いて、とうとう不安に耐えきれなくなった大内義弘は反義満の人間を集めて、反乱を起こしてしまう。
これを応永の乱というよ。
義満は、この乱も抑えて、これでとうとう有力守護を全部倒してしまったんだ。
南北朝を統一って?
南北朝って何?
南北朝というのは、ヒトコトで言うと「朝廷が2つある状態」のことで、それぞれ「北朝」「南朝」とに分かれていたから、合わせて「南北朝」と呼ぶんだ。
朝廷が分かれてしまったキッカケは、鎌倉幕府を倒した「後醍醐天皇」。
後醍醐天皇が天皇に即位するまで、天皇の位は「大覚寺統」と「持明院統」という2つの血筋で交代に即位するルールがあったんだけど、大覚寺統の血筋だった後醍醐天皇がこのルールを破ろうとしたんだ。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒した後に、天皇中心の政治を行おうとしたんだけど、これがあまりに天皇中心過ぎて、武士や人々の反感を買ってしまった。
結局、足利尊氏が「新しい天皇」として持明院統の光明天皇を即位させて、室町幕府を開いたんだ。
その時、後醍醐天皇は吉野というところに逃げて、「自分こそ本当の天皇だ!」と言い張ってできたのが「南朝」ということ。
それに対して、光明天皇側は「北朝」と呼ばれたよ。
義満がなんで統一しようとしたの?
なんで義満が2つの朝廷をくっつけようとしたの?
幕府には別に関係ないよね?
室町幕府は、もともと足利尊氏が北朝である光明天皇から征夷大将軍に任命されて開いたんだ。
それからずっと幕府は北朝側についていたよ。
でも、実は後醍醐天皇は、吉野へ逃げるときに「三種の神器」を持って行ってしまったと言われているんだ。
三種の神器は、「正当な天皇であることを証明するもの」でもあるので、それが「南朝」にあるままというのは、義満にとってちょっと不安な状態。
それに加えて、南朝をこのままにしてしまうと、もしかしたらいつか有力な守護と南朝がタッグを組んで、幕府を倒そうとするかもしれないしね。
どうやって統一したの?
有力な守護を倒して、すっごい力を持っていた義満。
かなり発言力を持っていたよ。
仲直りのチャンス到来!
いっぽう南朝では、後醍醐天皇の皇子たちや、重要な役割をしていた家臣たちがどんどん亡くなってしまっていて、すっかり勢いは衰えてしまっていたんだ。
そんな中、「北朝とは仲直りしないぞ!」という考え方だった長慶天皇の次に、弟皇子の「後亀山天皇」が天皇に即位した。
後亀山天皇は、「北朝とは仲直りした方が良いんじゃない?」と考えていた天皇なので、これは絶好のチャンスということで義満が動いたよ。
仲直りのための3つの約束
義満は仲直りのための3つの条件を伝えたよ。
3つの条件(明徳の和約)
①後亀山天皇(南朝)は三種の神器を後小松天皇(北朝)に渡す。
②これからは南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)で交代に皇位につく(天皇に即位すること)ことにする。
③国衙領(国の土地のイメージ)は大覚寺統、長講堂領(皇室の土地のイメージ)は持明院統が支配する。
この条件は、南朝にとってもかなりいい条件。
こうして、60年間の争いは終わって、南朝と北朝は「合体」したんだ。
でも・・
いざ仲直り(合体)したあとは、結局ずっと北朝が皇位を独占して、約束は守られなかったんだって。
金閣寺とは?
何のために作ったの?
足利義満といえば「金閣寺」というイメージだね。
あんな金ピカの建物、いったいどういう理由で建てたのかな?
もとは「西園寺」があった
金閣寺が作られた土地は、もともと西園寺家が持っていたんだ。
西園寺家は、もともとは藤原道長などで有名なあの藤原氏の遠縁(遠い血縁関係のこと)にあたるんだ。
その時には「西園寺」という山荘があったよ。
義満が持っていた領地とその西園寺家の土地を交換して、改築したりしたのが金閣寺なんだ。
なんのためのもの?
義満は1394年になると義満の息子の義持に将軍の座を譲ったんだ。
そして、1397年に西園寺家から譲り受けた土地に山荘(山の中にある別荘のこと)を作ったんだよ。
義満はそれ以降この山荘に住んだんだ。
つまり、「隠居後に住むための家」だったんだよ。
その山荘にある「舎利殿(仏様が祀られる建物のこと)」がいわゆる皆が「金閣寺」として知っている建物なんだ。
この山荘は、義満が亡くなったあとに「鹿苑寺」と呼ばれているよ。
公家・武家・中国のハイブリッド
この金閣寺、
1階は公家文化の「寝殿造」で作られていて、
2階は武家文化の「武家造(書院造)」
3階は禅宗様と呼ばれる「明」の文化の作りなんだ。
つまりは、「3つの文化が合わさったハイブリッド」な建物。
将軍(武家)と太政大臣(公家)の座をゲットして、
明との貿易を成功させた義満の人生そのものを表しているとも思えるね。
実は朝廷への皮肉が込められている!?
ところで「金ピカ」のイメージの金閣寺だけど、金箔が貼られているのは実は2階と3階だけなのは知っているかな?
ここで引っかかってくるのは、それぞれの階の様式(デザインのこと)と合わせて考えると・・
1階は公家文化の造り→木造(地味・・)
2階は武家文化の造り→金箔でピカピカ
3階(最上階)が明。
・・・なんとなく、「公家は1番下で地味!!」と言っているような気がするかも・・?
さらに、金閣寺には「朝廷に対するライバル心」がむき出しになってしまったと考えられる部分もあるんだ。
てっぺんの鳳凰は天皇家への対抗心??
金閣寺のてっぺんには、「鳳凰」の彫刻が飾られているんだ。
鳳凰は中国神話に登場する空想の生き物で、「世を治める君主が誕生した時」に現れる鳥なんだ。
なので、中国ではもちろん、日本でも鳳凰は「天皇」の象徴としてよく使われているんだ。
天皇が即位する時に着る黄櫨染御袍にも鳳凰が模様として使われているし、即位の儀式に使われる高御座の上にも鳳凰が飾られているよね。
他にも天皇に関係する品物などに沢山使われている鳳凰。
その鳳凰が義満の建てた金閣寺の屋根に飾られているんだ。 そ、それって・・自分は天皇だ!とアピールしているようにも取れるね・・
日明貿易とは?
勘合貿易ってどういうこと?
日明貿易って?
日明貿易というのは、その言葉どおり「明(この頃中国を統一していた国)」と「日本」とで貿易(外国相手に物を売ったり・買ったりすること)を行うことだよ。
なんで義満は明と貿易がしたかったの?
義満の夢「明との貿易」
義満は、若い頃から明に憧れていたんだ。
明の皇帝だった「洪武帝」にあやかって(影響を受けて同じ状態になろうとすること)、元号に洪武帝の「洪」の字を使おうとしたこともあるよ。
でも、日本には「洪水」という言葉があるように、「洪」の字はさすがにちょっと縁起が悪くない?という意見があって、実現しなかったよ。
代わりに決定した元号が「応永」なんだって。
明との貿易って、すっごく儲かるらしい!
明との貿易の仕組みは、簡単にいうと
①日本の特産品を明に売る(日本で売るより高く買ってもらえる)
②①で儲けたお金で明の特産品を買う
③②で買ったものを、日本で売る(日本で手に入りにくいものだから、高く売れる!)
日本の輸出品
銅・硫黄・刀剣・金など
明からの輸入品
銅銭・生糸・絹織物など・・
例えば、日本では銅は沢山採れるけれど、中国では不足していたんだ。
しかも日本の銅には銀が少し混じっていて、明の技術ならその銀を取り出すこともできた。
そうすると、日本国内で銅を売るより、明に売ったほうが「高く」売れるよね。
しかも、この日明貿易。
普通、「貿易」というと「どちらかの国だけが儲かる状態」って嫌がられるイメージがあるよね。
でも、この頃の明は「我が国は大国!まわりの国は臣下!」と考えていて、明と他の国との貿易は「明の皇帝が臣下を儲けさせてあげるために、ご褒美としてやってるんだぞ」というイメージなんだ。
だから日本の商品をどんどん買ってくれるし、運ぶ費用や明での宿泊費用も明が出してくれたんだって。
なので、ハッキリいってかなり「日本に有利」なやりとりだったんだ。
例えば、実際に明に行ってきた商人(楠葉西忍)の話によると・・
明で生糸を250文で買ったんだけどさ、
それを日本で売ったらなんと5000文で売れたんだよね。
(20倍の儲け)
逆にさ、日本の銅を明で売ったら4〜5倍になるんだから大儲けだよ!
ということは、僕のお小遣いが月1000円だったとして、20倍だから2万円になって・・
それをもとにまた4〜5倍になったら・・・
10万円!!!!
義満が明との貿易をしたがったのも納得がいくね。
日本のトップとして認められたかった
明は、貿易する相手は誰でもいいというわけではなかったんだ。
まず、「明の臣下の国であること」
そして、「国のトップの人間であること」が条件だったんだよ。
実際、義満は何度か明との貿易をしようと使者を送っているんだけど失敗しているんだ。
1回目の失敗
1374年に明に使いを送ったよ。
でも、すでに明は後醍醐天皇の皇子の「懷良親王」を日本国王として認めていた。
懷良親王は、後醍醐天皇の皇子。征西府の長(リーダー)として九州を任されていた。
明は、日本に使いを送った時に懷良親王を「倭寇(海賊のこと。あとで説明するよ!)を倒してほしい」とお願いをしていて、日本国王として冊封(称号を与えて、皇帝の家臣として認めること)していたんだ。
義満は、九州探題(室町幕府が九州地方をまとめるために おいた機関のこと)として今川了俊軍を派遣したんだ。そして懷良親王を筑後へ追いやったよ。
懷良親王を追いやった義満は、明の皇帝だった洪武帝のもとへ
「僕が倭寇を倒すよー」とお使いを送ったんだ。
でも「日本国王は兼良でしょ」と相手にされなかった んだよ。
2回目の失敗
1380年に「征夷大将軍 源義満」名義の書を持たせて明へ使者おくった時は、「将軍なんていっても、結局は天皇の家来なんでしょ。日本のトップじゃなきゃ話にならないよ。」 とやっぱり相手にしてもらえなかったんだ。
この失敗は、義満にとって耐えがたいものだったよ。
「ようし!じゃあ俺が日本国王になってやる!」
と決意したんだ。
プライドの高い人だったんだね。
じゃあ天皇の家臣やめます
明から相手にされなかった理由のひとつが「征夷大将軍だろうが太政大臣だろうが、つまりは天皇の家臣でしょ?」ということだったね。
じゃあ、将軍も太政大臣も辞めるよ。
そしたら家臣じゃなくなるでしょ。
そして、義満は出家したんだ。
これには他にも理由があって、出家することで寺社勢力も握ろうとしたとも言われているよ。
義満は出家することで法名(道号)が「道義」となったよ。
とうとう「日本国王」に!!
将軍も辞めて、太政大臣も辞めて、これで「天皇の家臣」ではないよね!ということで、
いよいよ義満は明の皇帝に手紙を送るんだ。
義満がどんな手紙を送ったのか、今の言葉風に直して解説しているページもあるので、ぜひチェックしてみてね。
貿易したいがために、「自分が日本の国王」「明の皇帝の家臣です」という手紙を出してしまったんだ。
結果はというと・・
とうとう明の皇帝から「日本国王」として認められることに成功したよ。
この時の明の皇帝だった「建文帝」は、即位したばかりだったので、周りの国を味方につけておきたかったという事情もあると言われているよ。
朝廷の反感を買う一面も
明から日本国王に認められて貿易もできることになって、モチロン義満は大喜び。
でも、朝廷としては面白くない。
義満が日本国王だって!?
じゃあ天皇の立場はどうなる!!!
それに、勝手に「日本は明の臣下」と宣言したりするのもどうかと思うよ!!
ってなるよね。
実は天皇の座も狙っていた?
ところで、義満の生みのお母さんは実は順徳天皇の玄孫(孫の孫)なんだ。
・・・ということは、義満は天皇の血も引いているということになるよね!?
そうだね。
そもそも、足利氏は、もとは源氏の一族。源氏ももとは天皇の血筋だったしね。
天皇の血も引いているし、「日本国王」として明とやりとりしようとするなんて、もしかしたら
と思われてしまうのも無理がないよね。
実際、後小松天皇のお父さんとお母さんが続けて亡くなってしまった時、義満の正室(奥さんのこと)が准母に選ばれたんだ。
つまり、後小松天皇のお母さんがわりになったということ。
そうなると、その旦那さんの義満も「後小松天皇のお父さん」ということになるんだ。
それからというもの、すっかり「自分は天皇家と同じくらい偉い!」という考えになっていた義満は、自分の息子をまるで皇太子のような扱いにしたりもしたよ。
義満は「義嗣」という息子を特に可愛がっていて、義嗣が元服(成人になるための儀式)する時には、なんと内裏(天皇が住む御殿のこと。つまり皇居)で行ったんだ。
儀式のやり方も、まるで「皇太子の元服と同じ」だったとのことだよ。
義満がドラマの主役になれないワケ?
こういうことがあったので、義満の最終目的は「息子を天皇の位につけること」だったのではないかとも言われているんだ。
「天皇の座を奪おうとする」なんてことは、まさにタブー中のタブー。
義満は、征夷大将軍にもなって、太政大臣にまでなった人物で、エピソードも豊富だよね。
でも、織田信長や坂本龍馬、その他有名な歴史人物がいろいろドラマとして描かれているのに対して、足利義満を主役にしたドラマって今のところ無いんだ。
この「天皇の座を狙っていたのでは?」という疑惑が、義満がドラマ化されないワケかもしれないね・・
ちょっと暴走しすぎ?
しかも足利義満が亡くなったのは「病気のため」とされているんだけど、
「暗殺された」という噂もあるんだ。
どうしても、一部の人々からは
「義満、やり過ぎでしょ!」
と反感を買っていた部分があるからね。
義満の後に将軍を継いだ、息子の義持にもあまり良く思われていいなかったという話もあるよ。
説明したように、義満は息子の義嗣を特別に可愛がっていて、同じ息子の義持は面白くないと思うことも多かったと言われているよ。
実際、義満が亡くなったあと、朝廷は義満に「太上法皇(上皇のこと。出家した場合こう呼ばれる)」の称号を贈ろうとしたんだけど、義持は「いや、それはいいです」と断っているんだ。
義満に対して、色々不満があったんだね・・
勘合貿易とは?
義満が明と貿易を始めたことは分かったけど、「勘合貿易」って何のこと?
「日明貿易」じゃないの?
海賊がウロウロ
チラッと説明したけれど、この頃、日本・中国・朝鮮の周りの海には「倭寇」と呼ばれる海賊がウロウロしていたんだ。
明が懷良親王に「倒してほしい」とお願いしたやつだね。
なので、明と貿易するためには、明にやってきた船が「海賊ではない」「正式に貿易することを認められた船」であることを証明するために、なにか工夫する必要があったんだ。
そこで明で考えられたのが「勘合」という便利アイテム。
勘合とは?
勘合とは、「調べ合わせること」という意味の言葉なんだ。
その意味のとおり、文字を半分に割ったものをそれぞれお互いで持っていて、「合わせた時」に、その文字がぴったりと重なるかどうかを調べるものなんだ。
明はこの「勘合」を、取引をする国それぞれに渡してチェックしていたよ。
この義満の「明との貿易」は、そのまま「日明貿易(日本と明の貿易)」と呼ぶこともあれば、「勘合貿易(勘合を使った貿易)」と呼ぶこともあるよ。
日本が勘合貿易をしたのはこの時だけなので、日本では「日明貿易=勘合貿易」で問題ないよ。
北山文化の立役者
義満の時代には、文学や絵画・建築に芸能など、いろいろな文化が発展して、今までの公家文化(公家の間で栄えていた文化)と新しい武家文化が組み合わさったんだ。
これを「北山文化」と呼ぶよ。
義満の建てた金閣寺がある「北山山荘」にちなんで「北山文化」と呼ばれているんだ。
北山文化の中でも、例えば芸能のうちの「能」の発展には義満が関係しているよ。
北山文化で発展した能楽
「能」というのは、「シテ」と呼ばれる主役がお面を被って、笛や鼓で演奏される「囃子」を伴奏に歌ったり舞ったりする芸能のことだよ。
もともとは、猿楽や田楽という、農村などで田植えなどの行事で行われた「ものまね」や「面白おかしい寸劇(ちょっとした短い演劇のこと)」だったんだ。
室町時代の観阿弥という猿楽師が、この猿楽や田楽などをもっと芸術的なものにして能を生み出したよ。
観阿弥には世阿弥という息子がいたんだけど、この世阿弥がものすごい「天才&美少年」。
義満「世阿弥 推し」
この世阿弥が12歳の時に、観阿弥が世阿弥を連れていって、京都の今熊野の舞台で舞ったんだけど、それを観た義満はすっかり世阿弥の大ファンに。
それまで、「能なんて、庶民のやること!」と能は朝廷の人々などには相手にされなかったんだけど、義満は世阿弥を庇護(かばって守ること)したんだ。
世阿弥を幕府「お抱え」にして、いつもそばにおいたんだって。
義満のサポートもあって、世阿弥はどんどん努力と研究をかさねて、能をさらに気品ある芸術性の高いものにしたんだ。それが今の「能楽」なんだよ。
ちなみに、義満が亡くなってしまうと、義満の息子の義教は世阿弥を佐渡へ追いやってしまうんだ。世阿弥がその後、どうなったかは知られていないんだ。
「金閣寺を建てた」というイメージがあるくらいの足利義満だけど、よくよく知ると、とてもエネルギッシュな人だったんだね。
日本のトップを目指して突き進むパワーには圧倒されるね。
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ゆみねこ
詳しいプロフィールを見る
青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。
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図や疑問などがありとても分かりやすかったです
最後にまとめが欲しいです
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最後にまとめが欲しいです
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足利義政もありますか?
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足利義政の記事はありますか?
すっごいわかりやすいです!