『条約改正』とノルマントン号事件!陸奥宗光・小村寿太郎の活躍を解説
前回は、大日本帝国憲法と帝国議会の開設について勉強したね。
日本は憲法を持ち、国会を開くことができる「近代的な国」になった。
でも、日本にはまだ解決していない大きな問題があったんだ。
それは、幕末にアメリカやヨーロッパの国々と結んでしまった「不平等条約」。
今回は、この不平等なルールを直すために戦った人々の努力と、世界との絆について見ていこう!

目次
条約改正の道のり、ココがピンとこない!
不平等条約の改正、ココがピンとこない!
- 幕末からずっと交渉しているのに、なんで直すのにこんなに時間がかかったの?(約50年!)
- ノルマントン号事件で日本人が亡くなったのに、なんで船長は無罪(軽い罪)になったの?
- 鹿鳴館でダンスパーティーをするだけで、本当に条約が直ると思ったの?
悔しい!『ノルマントン号事件』と国民の怒り
明治時代の初めから、岩倉具視たちが条約を直そうと交渉していたけれど、外国からは「日本の法律や裁判は遅れているからダメだ!」と断られ続けていたよね。
そんな中、1886年に国民の怒りが爆発する事件が起きたんだ。
日本人だけが助からなかった?
イギリスの貨物船「ノルマントン号」が、和歌山県の紀伊半島沖で嵐にあって沈没してしまった。
この船には、イギリス人の船員と、移動のために乗っていた日本人の乗客がいたんだ。
ところが、イギリス人の船員たちは全員救命ボートに乗って助かったのに、日本人の乗客25人は全員船に取り残されて、亡くなってしまったんだ。
イギリス人の船長が無罪になった理由
船長は「日本人に避難するように言ったが、言葉が通じなかった」と言い訳をしたけれど、日本人だけが全員亡くなったのは不自然だよね。
「日本人を見殺しにした船長を許すな!」と国民は激怒した。
でも、この事件の裁判は、「治外法権(領事裁判権)」のルールによって、イギリス人の領事がイギリスの法律で行ったんだ。
その結果、最初の裁判ではなんと「無罪」になってしまった。
ひどい! 25人も亡くなったのに、罪にならないなんておかしいよ!
国民もそう思って猛抗議したんだ。その結果、もう一度裁判(再審)が行われて有罪にはなったけれど、それでも「たった3ヶ月の刑務所入り(禁錮刑)」という軽い罰で済んでしまったんだよ。
この事件で、国民は「不平等条約のせいで、日本人の命が軽く扱われている!」ということを思い知らされたんだ。
そして、「早く条約を改正しろ!」という声が全国で高まったんだよ。

西洋化への努力と『鹿鳴館』のダンス
政府も、条約改正のために必死だった。
外務大臣の井上馨たちは、「日本はもうちょんまげの国じゃなくて、西洋と同じ文明国ですよ!」とアピール作戦に出たんだ。
「日本は文明国ですよ!」というアピール
東京に「鹿鳴館」という豪華な西洋風の建物を建てて、そこで外国人を招いてダンスパーティー(舞踏会)などを開き、「日本は文明国だ」とアピールしたんだ。
この「鹿鳴館」を作って、極端な西洋化を進めたのが、当時の外務大臣・井上馨だよ。
これを「欧化政策」というよ。
言葉の意味:欧化政策
「欧(おう)」=ヨーロッパ(欧州)のこと。
「化(か)」=変化すること。
つまり、「見た目も中身もヨーロッパ風に変えて、仲間に認めてもらおう!」という政策だね。
国民からの批判と失敗
でも、このやり方には国民から批判が殺到した。
「表面だけ西洋の真似をして、媚びへつらっているだけじゃないか!」
「ダンスなんてしてる場合か! もっと大事なことがあるだろ!」
結局、この欧化政策では条約改正は成功せず、失敗に終わってしまったんだ。

ついに成功!『条約改正』を成し遂げた2人の英雄
しかし、あきらめずに交渉を続けた結果、ついに悲願が達成される時が来た。
活躍したのはこの2人の外務大臣だよ。
治外法権を撤廃した『陸奥宗光』
1894年、陸奥宗光が、イギリスとの間で「治外法権(領事裁判権)の撤廃」を決める条約を結ぶことに成功した。
(実際に撤廃されたのは1899年だよ)
陸奥宗光は、その鋭い頭脳から「カミソリ大臣」と呼ばれていた切れ者。
当時、イギリスはロシアと対立していたから、「ロシアに対抗するために、強くなってきた日本を味方につけたい」と考えていた。
陸奥はそのチャンスを逃さず、「味方になってほしいなら、条約を直してくれ!」と交渉したんだ。
関税自主権を回復した『小村寿太郎』
さらにその後、1911年に小村寿太郎が、アメリカなどとの間で「関税自主権の回復」に成功した。
小村寿太郎はアメリカに留学経験があり、英語もペラペラな優秀な外交官だった。
この頃、日本は「日露戦争」という大きな戦争に勝って、世界の強国(列強)の仲間入りを果たしていた。
「もう日本は対等な国だよね?」と認めさせることで、完全に不平等条約をなくすことができたんだ。

【整理しよう】条約改正のビフォー・アフター
幕末に結んだ不平等な条約が、誰のおかげでどう変わったのか確認しよう!
| いつ結んだ? | 1858年(幕末) 日米修好通商条約など (相手:アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダ) |
| 不平等な内容 | ①治外法権(領事裁判権)を認める (外国人が日本で罪を犯しても、日本が裁けない) ②関税自主権がない (輸入品の税金を、日本が自由に決められない) |
| いつ直した? | 1894年 担当:陸奥宗光 相手:イギリスなど 結果:治外法権の撤廃が決まった(1899年に施行) 1911年 担当:小村寿太郎 相手:アメリカなど 結果:関税自主権の回復に成功! |
世界との絆『エルトゥールル号遭難事件』
最後に、外国との関係で、とても心温まるエピソードを紹介するよ。
嵐の中でトルコ船を助けた村人たち
1890年、和歌山県の沖で、トルコ(当時はオスマン帝国)の軍艦「エルトゥールル号」が台風にあって沈没してしまった。
この船は、明治天皇に挨拶をするために、はるばるトルコから日本へ来てくれた帰り道だったんだ。
500人以上が亡くなる大惨事だったけれど、近くの村(串本町)の人々は、嵐の中を必死に救助に向かったんだ。
自分たちの食べ物も少ない中、村人たちは生存者を温め、手厚く看病した。
そのおかげで、69人のトルコ人が助かり、無事に国へ帰ることができたんだ。
今につながる日本とトルコの友情
この出来事はトルコでも語り継がれ、日本とトルコはとても仲の良い国(親日国)になったんだ。
約100年後の1985年、イラン・イラク戦争で日本人が取り残された時、トルコが「あの時の恩返しだ」と言って、危険な場所へ救援機を飛ばして日本人を助けてくれたこともあるんだよ。

まとめ
『条約改正の道のり』年表まとめ
| 1886年 | ノルマントン号事件が起きる |
| 1890年 | エルトゥールル号が遭難し、日本人が救助した |
| 1894年 | 陸奥宗光が日英通商航海条約を結び、治外法権(領事裁判権)撤廃が決まった(1899年に施行) (日清戦争が始まる直前) |
| 1911年 | 小村寿太郎が関税自主権を回復した (日露戦争のあと) |
6年生はここを押さえればOK!「条約改正」まとめ
※赤いキーワードは必ず覚えよう!
- 1886年、ノルマントン号事件が起きる
→イギリス人船長が軽い罪になり、条約改正を求める声が高まった - 外務大臣の井上馨は鹿鳴館で舞踏会を開いたが、失敗した
- 1890年、エルトゥールル号が遭難し、日本人が救助した
- 1894年、外務大臣の陸奥宗光が日英通商航海条約を結び、治外法権(領事裁判権)撤廃が決まった(1899年に施行)
- 1911年、外務大臣の小村寿太郎が関税自主権を回復した
条約改正が進む中で、日本はアジアの国々との関係で大きな問題を抱えるようになっていた。
それは、お隣の国「朝鮮」をめぐる争いだよ。
次回は、日本が初めて外国と本格的に戦った「日清戦争」について解説するよ!
眠れる獅子と呼ばれた中国(清)に、日本はどうやって挑んだのかな?
運営者情報
檜垣 由美子(ゆみねこ)
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。


