『大日本帝国憲法』と『帝国議会』!伊藤博文の活躍と選挙の仕組みを解説
前回は、自由民権運動と、国会開設の約束について勉強したね。
国民の熱い思いに押されて、政府はいよいよ「国会」を開く準備を始めた。
でも、ただ人を集めて話し合うだけじゃダメだよね。
話し合いのルールや、国の形を決める最高ルールが必要だ。
それが「憲法(けんぽう)」だよ。
今回は、アジアで初めての憲法ができるまでのドラマと、初めての選挙の様子について見ていこう!
憲法を作るぞ、ココがピンとこない!
憲法づくり、ココがピンとこない!
- そもそも「憲法」ってなに?法律とは違うの?
- なんでドイツ(プロイセン)の憲法を真似したの?フランスやイギリスじゃダメだったの?
そもそも「憲法」ってなに?
憲法は、「国の最高の決まり(ルール)」のことだよ。
普通の法律は国民が守るものだけど、憲法は「国(政府)」が守らなきゃいけないルールなんだ。
「どんな国にするか」「国民にはどんな権利があるか」が書かれている、国の設計図みたいなものだね。
なんでドイツ(プロイセン)を真似したの?
板垣退助はフランス、大隈重信はイギリスが好きだったよね?
そうだね。でも、イギリスやフランスは「国民の力が強い(王様の力が弱い)」国だったんだ。
当時の日本の政府(伊藤博文たち)は、「天皇中心の強い国を作りたい!」と考えていたから、「君主(皇帝)の力が強い」ドイツ(プロイセン)の憲法をお手本に選んだんだよ。
伊藤博文と『大日本帝国憲法』の完成
憲法作りの中心になったのは、長州出身の伊藤博文だよ。
彼はヨーロッパへ渡ってドイツの憲法を必死に勉強して帰ってきた。
彼はまず、憲法を作る前に政府の仕組みを整えるために、それまでの古いやり方(太政官制)をやめて、1885年に内閣制度を作った。
※言葉の意味
「太政官制(だじょうかんせい)」=奈良時代から続く、昔ながらの役職(太政大臣・左大臣・右大臣など)で政治を行う仕組み。
太政官制と内閣制度、なにが違うの?
| 太政官制(昔) | 内閣制度(新) |
| 太政大臣がトップだけど、数人の有力者が話し合って決めるため、「誰が最終責任者なのか」が分かりにくかった。 | 「内閣総理大臣(首相)」という絶対的なリーダーを決める。 「外務大臣」「文部大臣」など、役割分担をはっきりさせて、責任の場所を明確にした。 |
そして、自らが日本で初めての内閣総理大臣(首相)になったんだ。
「誰が責任を持って国を動かすか(=自分だ!)」を先に決めておくことで、スムーズに憲法作りを進めたかったんだね。
(※ちなみに1890年に国会が開かれるまでの間も、内閣は天皇のサポート役として、重要な政治を行っていたんだよ)
1889年2月11日、ついに発布!
そして1889年2月11日、ついに「大日本帝国憲法」が発布(国民に発表)されたんだ。
2月11日って、今の「建国記念の日」だよね?
そうだよ。この日はもともと、初代天皇(神武天皇)が即位したとされるおめでたい日(紀元節)なんだ。
「天皇中心の新しい国が始まるぞ!」ということをアピールするために、わざと同じ日に発表したんだよ。
発布式では、明治天皇から黒田清隆首相に憲法が手渡されたよ。
(伊藤博文は、憲法の中身をじっくり作るために、途中で総理大臣を辞めて、憲法担当の役職に専念していたんだ。だから発布の時は黒田清隆が総理だったんだよ)
こうして日本は、アジアで初めて、憲法を持つ近代的な国(立憲国家)になったんだ。
「日本にはちゃんとしたルール(憲法)があるから、欧米と同じ文明国ですよ!」と世界に認めさせることは、不平等条約を改正するためにも、とても大事なことだったんだよ。
憲法の中身は?(天皇主権と国民の権利)
この憲法の特徴は、大きく2つあるよ。
- 天皇主権(てんのうしゅけん)
国のリーダーは天皇。「軍隊を動かす」「戦争を始める」「条約を結ぶ」などの重要な決定権は、すべて天皇が持っていたんだ。 - 臣民の権利
国民(臣民と呼ばれたよ)にも、「言論の自由」や「手紙の秘密」などの権利が認められた。
ただし、「法律の範囲内(はんいない)で」という条件付きだった。
実際、「新聞紙条例」などの法律によって「政府の悪口を書いてはいけない」と決められていたから、政府を批判した記者が逮捕されることもあったんだ。

初めての国会!『帝国議会』と選挙の始まり
憲法ができた翌年の1890年、いよいよ第1回「帝国議会(国会)」が開かれたよ。
議会は2つのグループ(二院制)に分かれていたんだ。
- 貴族院:皇族や華族など、選ばれた身分の人たち。
- 衆議院:国民の選挙で選ばれた人たち。
誰でも選挙に出られたわけじゃない!?(厳しい条件)
「よし、僕も選挙に行くぞ(投票)! 立候補するぞ!」と思ったかもしれないけど、実は当時の選挙にはとっても厳しい条件があったんだ。
【選挙権(投票できる人)の条件】
- 直接国税15円以上を納める(お金持ちだけ!)
- 満25歳以上の男子(女性はダメ!)
【被選挙権(立候補できる人)の条件】
- お金の条件は投票と同じ(15円以上)
- 年齢は満30歳以上の男子
当時の15円は、今の価値にすると数十万円から数百万円(公務員の初任給の数ヶ月分くらい)と言われる大金なんだ。
この条件を満たせたのは、国民のわずか約1.1%しかいなかったんだよ。
どうしてこんなに条件が厳しかったの?
政府は、「税金をたくさん払っているお金持ちなら、国のことを真剣に考えてくれるだろう」と考えたんだ。
(逆に言うと、政府に不満を持つ貧しい人たちが政治に参加して、国が混乱するのを防ぎたかったんだね)
女性が参加できなかったのは、当時は「政治は男の仕事」という考え方(男尊女卑)が強かったからだよ。

教育勅語と国民の道徳
国会が開かれたのと同じ1890年、「教育勅語」というものも発表されたよ。
※言葉の意味
「勅(ちょく)」=天皇の言葉。
「諭(ゆ)」=教え諭すこと。
天皇が国民に向けて、「こういう心構えでいなさいね」と教えるお言葉のことだよ。本ではなく、大切に保管された「書き物(掛け軸のようなもの)」として学校に配られたんだ。
これは、「親孝行をしよう」「友達と仲良くしよう」そして「いざという時は天皇のために国を守ろう」という、国民の道徳の基準を示したものなんだ。
政府は、自由民権運動などでバラバラになりかけていた国民の心を、「天皇中心の国」として一つにまとめたかったんだね。
(学校ではこれを大切に読むことが義務付けられたけれど、戦争が近づくにつれて、この教えが「お国のために命を捨てる」という方向に強く利用されていくことにもなるんだよ)

社会の発展と文化
政治の仕組みが整う一方で、社会や文化の面でも、日本の良さを見直す動きや新しい発明が生まれていたよ。
日本美術を守ったフェノロサと岡倉天心
文明開化で「西洋のものが一番!」という風潮の中、「古い仏像なんて時代遅れだ!」と、お寺や仏像が壊されそうになっていた(廃仏毀釈)。
これに「もったいない! 日本の美術は素晴らしいよ!」と声を上げたのが、お雇い外国人として東京大学で教えていたアメリカ人のフェノロサと、その教え子(弟子)の岡倉天心だよ。
彼らの努力で、法隆寺の夢殿の救世観音(秘仏)など、多くの貴重な文化財が守られたんだ。

日本の点字を作った石川倉次
目の不自由な人のために、東京の盲学校の先生だった石川倉次という人が、日本語の「点字(てんじ)」を考案したんだ。
フランスのブライユが発明した6点点字をヒントに、日本語の50音を表せるように工夫したもので、今でも使われているよ。

『大日本帝国憲法』と『帝国議会』まとめ
『大日本帝国憲法と議会開設』年表まとめ
| 1885年 | 内閣制度ができる (初代総理大臣:伊藤博文) |
| 1889年 | 大日本帝国憲法が発布される |
| 1890年 | 第1回帝国議会が開かれる (衆議院議員総選挙が行われる) 教育勅語が出される |
6年生はここを押さえればOK!「憲法と国会」まとめ
※赤いキーワードは必ず覚えよう!
- 伊藤博文が中心となり、ドイツ(プロイセン)を真似て憲法を作った
- 大日本帝国憲法の特徴
・天皇が強い力を持つ(天皇主権)
・国民の権利は「法律の範囲内」で認められた - 第1回帝国議会(国会)
・衆議院と貴族院の二院制
・選挙権は「直接国税15円以上の満25歳以上の男子」だけ(約1.1%) - 国民道徳の基準として教育勅語が出された
こうして近代国家としての仕組みが整った日本。
でも、世界では強い国同士の争いが激しくなっていた。
次回からは、いよいよ日本が外国との大きな戦争に巻き込まれていく「日清・日露戦争」について解説するよ!
運営者情報
檜垣 由美子(ゆみねこ)
詳しいプロフィールを見る
青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。


