『岩倉使節団』の目的とメンバー!不平等条約改正や津田梅子について解説
前回は、廃藩置県や四民平等による「新しい国づくり」について勉強したね。
日本国内の仕組みをガラリと変えた明治政府だけど、彼らの目は「外の世界」にも向いていたんだ。
1871年、政府のトップリーダーたちが、ある重大なミッション(任務)のために、世界一周の大旅行に出発した。
それが「岩倉使節団」だよ。
ちょんまげを切って洋服を着た彼らは、世界で何を見て、何を感じたのかな?
今回は、日本の未来を変えることになった、この大冒険について見ていこう!

ちょんまげを切って世界へ!岩倉使節団の出発
1871年、横浜港からアメリカへ向けて一隻の船が出発した。
乗っていたのは、総勢100名を超える日本人の団体。
その中には、明治政府の超重要人物たちがズラリと揃っていたんだ。
豪華すぎるメンバーたち
中心となった5人は、幕末に活躍した4つの強い藩(薩摩・長州・土佐・佐賀)出身の、新政府のトップリーダーたちだよ。
- 岩倉具視(団長・全権大使):公家出身の政治家。ちょんまげ姿で出発して、アメリカで切ったんだよ。
- 大久保利通(副団長):元薩摩藩(鹿児島)出身。西郷隆盛の親友で、冷静沈着なリーダー。
- 木戸孝允(副団長):元長州藩(山口)出身。桂小五郎のことだよ。
- 伊藤博文(副団長):元長州藩(山口)出身。英語がペラペラで、通訳としても活躍したよ。のちに初代内閣総理大臣になる人物だね。
- 山口尚芳(副団長):元佐賀藩(佐賀)出身。佐賀藩は、幕末に最新のアームストロング砲を作ったりした「科学技術No.1」の藩だったんだ。山口はお金の計算が得意で、海外の裁判の仕組みなども詳しく調査した「縁の下の力持ち」だよ。
政府のトップ(大臣クラス)が何人も一度にいなくなるなんて、今で言えば「総理大臣と主要な大臣が全員で1年以上も海外旅行に行く」ようなもの。
それくらい、この旅にかける思いは強かったんだね。
最年少は6歳の女の子!?(津田梅子)
この船には、政府の役人だけでなく、海外で勉強するための「留学生」もたくさん乗っていたんだ。
その中には、なんと5人の女の子もいたよ。
最年少は、わずか6歳(数え年で8歳)だった津田梅子。
彼女のお父さんは、アメリカ通訳をしていた人で、「これからは女性も海外で学ばなきゃダメだ!」という熱い思いで、まだ幼い梅子を送り出したんだ。
彼女はアメリカで長く勉強し、帰国後に「女子英学塾(今の津田塾大学)」を作って、日本の女性教育に大きな力を尽くしたんだ。
(2024年に発行された新5000円札の肖像画にもなった人だね!)

旅の目的は?『不平等条約』を直したい!
岩倉使節団の最大の目的は、幕末に結ばれてしまった「不平等条約の改正(直し)」だったんだ。
「日本で外国人が罪を犯しても、日本が裁けない(治外法権)」
「関税を自由に決められない(関税自主権がない)」
この不利なルールを直して、外国と対等な付き合いができるようにしたかったんだね。
(※不平等条約について詳しくは、「黒船来航と開国」の記事を読んでみよう!)
アメリカでの失敗と、突きつけられた現実
意気込んでアメリカへ乗り込んだ岩倉たちだったけれど、結果は……大失敗だったんだ。
アメリカ政府からは、こんな風に言われて門前払いをされてしまった。
「日本の法律や裁判の仕組みは、まだ遅れているじゃないか。そんな国の裁判に、アメリカ国民を任せるわけにはいかないよ」
「まずは日本が近代的な国になってから出直してきなさい」
がーん! まったく相手にされなかったんだね…。
そうなんだ。彼らは「交渉すればなんとかなる」と思っていたけれど、世界の壁は厚かった。
「やっぱり、日本はもっと進んだ国にならなきゃダメだ!」と痛感させられたんだよ。
ちなみに、この不平等条約が完全に直るのは、この旅からもっと先のこと。陸奥宗光や小村寿太郎といった人たちが、何十年もかけて頑張って直していくんだよ。
転んでもただでは起きない!欧米の『文明』を学ぶ
条約改正には失敗したけれど、彼らはそこであきらめなかった。
「よし、それなら欧米の進んだ『文明』を徹底的に学んで、日本に持ち帰ろう!」と気持ちを切り替えたんだ。
見たこともない進んだ社会
彼らはアメリカやヨーロッパの国々(イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど)を回り、工場や学校、病院、議会などを熱心に視察したよ。
- 煙を上げて大量の製品を作る巨大な工場
- 国中に張り巡らされた鉄道や電信
- 国民が選挙で代表を選んで話し合う議会政治
(※議会政治とは、国民が選挙で選んだ代表者が集まって、話し合いで国の政治を決める仕組みのことだよ)
日本とは比べ物にならないほど発展した姿を見て、彼らは驚きとともに、強い焦りを感じたんだ。
「日本も早く近代化して、強い国を作らなければ、いつか外国に飲み込まれてしまうぞ!」
この「危機感」と「学ぶ意欲」こそが、約1年10ヶ月にわたる旅の最大のお土産だったんだね。
帰国した大久保利通たちは、さっそく日本の近代化(富国強兵や殖産興業)に全力を注ぐことになるよ。
言葉の意味
「富国強兵(ふこくきょうへい)」
=経済を豊かにして(富国)、強い軍隊を持つ(強兵)こと。
「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」
=工場を建てたりして、産業を盛んにすること。
また、「見た目も中身も西洋に近づかなきゃ!」という考えから、洋服を着たりレンガ造りの建物を建てたりする「文明開化」や「欧化政策」も進められていくことになるんだ。
特に有名なのが、外国人を招いてダンスパーティーを開いた「鹿鳴館」という建物だよ。「日本もこんなに立派な西洋風の国になりましたよ!」とアピールしようとしたんだね。
言葉の意味
「文明開化(ぶんめいかいか)」
=西洋の文明が入ってきて、生活や考え方が新しくなること。
「欧化政策(おうかせいさく)」
=「日本人は西洋人と同じだよ」とアピールするために、わざと西洋風の暮らしを真似すること。

一方そのころ日本は?『留守番役』の苦悩
政府のトップたちが海外へ行っている間、日本で政治を任されていたのは誰だったかというと…
西郷隆盛や板垣退助たちだったんだ。
彼らは「参議(さんぎ)」という政府のトップグループ(大臣のようなもの)なんだけど、この時は「留守番役」として日本を守っていたんだよ。
彼らは、「留守の間は大きな改革はしない」という約束を守りながらも、学制(学校の制度)や地租改正(税金の改革)などの準備を進めていた。
「強い国を作るには、国民全員が学校に行って勉強しなきゃダメだ!」と考えたんだね。
「征韓論」をめぐる対立
でも、岩倉たちが帰国すると、留守番役との間で大喧嘩が起きてしまったんだ。
当時、お隣の国の朝鮮(韓国)は、かつての日本と同じように「鎖国(国を閉ざすこと)」をしていて、日本との付き合いを拒否していたんだ。
朝鮮は、「外国の文化は野蛮で危険だ」と考えて、国を固く閉ざしていたんだね。
そこで西郷隆盛たちは、「武力を使ってでも国を開かせよう」という「征韓論」を主張した。
※言葉の意味
「征韓(せいかん)」=「韓国(朝鮮)を征服する(武力で従わせる)」という意味だよ。
なぜかと言うと、ロシアなどの強い国が朝鮮を狙っていたから、その前に日本と国交を結ばせて、日本を守りたかったからだと言われているよ。
「俺が朝鮮に行って話し合ってくる!」と西郷はやる気満々だった。
しかし、海外を見てきた大久保利通たちは猛反対した。
「いやいや、今は外国と戦争をしている場合じゃない! まずは日本の国力を強くするのが先決だ!」
政府を去った西郷と板垣の「その後」
この対立の結果、意見を聞き入れてもらえなかった西郷隆盛や板垣退助たちは、「もうこんな政府にはいられない!」と怒って辞めてしまい、東京を去ってしまった(明治六年の政変)。
これが、大きな別れ道になったんだ。
- 西郷隆盛
地元の鹿児島へ帰り、不満を持つ士族(元武士)たちに担がれて、政府に対して日本最大の内戦「西南戦争」を起こすことになる。 - 板垣退助
武力ではなく「言葉」で戦おうと考え、「国民にも政治に参加させろ!」と訴える「自由民権運動」を始めることになる。

岩倉使節団と征韓論まとめ
『岩倉使節団と征韓論』年表まとめ
| 1871年 | 岩倉使節団が横浜港を出発 |
| 1872年 | 学制(学校の制度)が始まる 富岡製糸場ができる |
| 1873年 | 地租改正が始まる 岩倉使節団が帰国する 征韓論で政府が対立し、西郷隆盛らが辞める(明治六年の政変) |
6年生はここを押さえればOK!「岩倉使節団」まとめ
※赤いキーワードは必ず覚えよう!
- 1871年、岩倉使節団が欧米へ出発
- 主なメンバー:岩倉具視(全権大使)、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文
- 女子留学生として津田梅子も参加(当時6歳)
(2024年の新5000円札) - 目的:不平等条約の改正
→失敗した(日本の法律が遅れていると言われた) - 成果:欧米の進んだ政治や産業を視察し、日本の近代化の必要性を痛感した
- 帰国後、留守番役の西郷隆盛ら(征韓論派)と対立し、西郷たちは政府を去った
世界を見てきたリーダーたちは、「日本を強くすること」を急ぐようになった。
でも、同時に日本の「形(領土)」をハッキリさせることも急いでいたんだ。
次回は、北海道と沖縄がどのように日本の一部になったのか、「広がる日本(北海道の開拓と琉球処分)」について解説するよ!
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檜垣 由美子(ゆみねこ)
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。 ※サイト全体の運営実績についてはこちらにまとめています。


