『自由民権運動』と板垣退助!西郷隆盛の『西南戦争』や政党の誕生を解説
前回は、富国強兵や文明開化による、新しい国づくりについて勉強したね。
国が豊かになり、人々の生活もどんどん便利になっていった。
でも、その裏側で、「俺たちのことを忘れるな!」と怒っている人たちがいたんだ。
それは、かつて日本の主役だった「士族(元武士)」たち。
今回は、彼らの怒りが爆発した「最後の大きな士族の反乱」と、そこから生まれた「新しい戦い方(自由民権運動)」について見ていこう!

明治時代の不満、ココがピンとこない!
士族や国民の不満、ココがピンとこない!
- 四民平等になったのに、なんで士族(元武士)はそんなに怒っているの?
- 西郷隆盛は政府の偉い人だったはずなのに、なんで政府と戦争したの?
- 「自由民権運動」って、難しそうな名前だけど、結局なにを求めていたの?
不満爆発!『士族の反乱』と西郷隆盛
なぜ士族は怒ったの?(特権を奪われた悲しみ)
明治政府が進めた「四民平等」や「廃刀令」によって、士族(元武士)たちは特権を次々と奪われてしまった。
刀を取り上げられ、ちょんまげを切られ、さらには「給料(秩禄)」までも打ち切られてしまったんだ。
言葉の意味:秩禄(ちつろく)
江戸時代から武士たちが政府(藩)からもらっていた「お給料(お米)」のことだよ。
これを「もう払いません!」と打ち切られてしまった(秩禄処分)から、仕事のない武士たちは食べていけなくなってしまったんだ。
商売に慣れていない彼らは、生活に困り、プライドも傷つけられた。
「俺たちが命がけで幕府を倒したのに、新しい政府は俺たちを切り捨てるのか!」
そんな彼らが頼ったのが、西郷隆盛だったんだ。
(西郷隆盛は、前の記事で勉強した「征韓論」で大久保利通たちと対立して、政府を辞めて故郷の鹿児島に帰っていたんだったね)
最後の内戦『西南戦争』と西郷隆盛の死
1877年、不満を持った士族たちが西郷隆盛をリーダーにして、ついに政府に対して反乱を起こした。
これが日本最大の内戦、「西南戦争」だよ。
西郷軍は強かったけれど、政府軍は「徴兵令」で集めた大量の兵士と、最新の武器を持っていた。
半年にも及ぶ激しい戦いの末、西郷隆盛は敗れて亡くなり(自害)、反乱は鎮圧されたんだ。
西郷さんは怪我をして動けなくなり、最後は部下に「もうここでいい(首をはねてくれ)」と言って亡くなったんだ。
敵だった政府軍の兵士たちも、偉大な英雄の死を悲しんだと言われているよ。
「もう武力の時代じゃない!」人々の気づき
最強と言われた西郷隆盛でも勝てなかったことで、人々は悟ったんだ。
「もう、武力(暴力)で政府を倒すことはできないんだな…」
ここから、戦い方は「武器」から「言葉」へと変わっていくことになるよ。

こういうワケだった!
- 特権や給料(秩禄)を奪われた士族たちが、政府に不満を爆発させた。
- 西郷隆盛を中心とした「西南戦争」で政府に挑んだけれど、負けてしまった。
- これにより、「武力による反乱」の時代は終わったんだ。
言葉で戦え!板垣退助と『自由民権運動』
武力ではなく、「言論(話し合い)」で政府と戦おうとしたのが、土佐(高知県)出身の板垣退助だよ。
彼も西郷と同じように政府を辞めた一人だったね。
なんで板垣退助は、そんなに「国民の権利」にこだわったの?
板垣は、本や知識人から「欧米の国々では国民が政治に参加して、国を強くしている」ということを学んでいたんだ。
それに、彼の出身である土佐藩は身分差別がとても厳しいところだったから、「身分に関係なく、みんなが平等に意見を言える国にしたい!」という思いが強かったと言われているよ。
『民撰議院設立建白書』ってなに?
1874年、板垣退助たちは政府に対してある意見書を提出した。
それが「民撰議院設立建白書」だよ。
言葉の意味
「民撰(みんせん)」=民(国民)が撰ぶ(えらぶ)。
「議院(ぎいん)」=話し合いをする場所(国会)。
「設立(せつりつ)」=作ること。
「建白書(けんぱくしょ)」=政府への意見書。
つまり、「国民が選んだ代表者による国会を作れ!」という要求なんだ。
これをきっかけに、国民にも政治に参加する権利(民権)を与えろ!という運動が全国に広まった。
これを「自由民権運動」というよ。
板垣死すとも自由は死せず
板垣退助は全国を回って演説をした。
ある時、演説中に暴漢に襲われて怪我をしてしまった。
ひえっ! なんで襲われたの?
襲ったのは、「国民が政治に参加するなんて生意気だ!」と考える古い考えの士族だったと言われているよ。
板垣は命は助かったけれど、その時に叫んだと言われる言葉が有名になったんだ。
「板垣死すとも、自由は死せず(私が死んでも、自由を求める心は消えないぞ!)」
この言葉に感動した人々によって、運動はさらに盛り上がっていったんだ。

こういうワケだった!
- 一部の薩摩・長州出身者だけで政治を独占していること(藩閥政治)に反対した。
- 「国民にも政治に参加させろ!」と訴える自由民権運動が始まった。
- リーダーは板垣退助。「国会を作れ!」と要求したんだ。
運動の広がりと『国会開設』の約束
自由民権運動は、士族だけでなく、「豪農(お金持ちの農民)」や一般の人々にも広がっていったよ。
国民が作った憲法案『五日市憲法』
「自分たちの手で国のルール(憲法)を作ろう!」という勉強会が各地で開かれた。
これを「私擬憲法」というよ。
※言葉の意味
「私擬(しぎ)」=私的(自分たち)に擬して(真似して)作ること。
中でも有名なのが、東京の五日市(今のあきる野市)の土蔵で見つかった「五日市憲法」草案(下書きのこと)だ。
これは、地元の青年たちが千葉卓三郎という先生と一緒に勉強して作ったもので、国民の権利を大切にする素晴らしい内容が書かれていたんだ。
(※これはあくまで国民が考えた案で、実際の憲法には採用されなかったけれど、当時の人々の熱意が伝わる重要な資料だよ)
女性も立ち上がった!楠瀬喜多の訴え
高知県の楠瀬喜多という女性は、夫が亡くなって自分が家の戸主(責任者)になった時、あることに気づいた。
「私は戸主として税金を払っているのに、女だから選挙権がないのはおかしい! 権利がないなら税金も払いません!」
こう訴えて、税金の支払いを拒否したんだ。
この勇気ある行動で、彼女は「民権ばあさん」というあだ名で呼ばれるようになり、新聞でも取り上げられて、女性の権利を考えるきっかけになったんだよ。
政府の弾圧と、10年後の約束
盛り上がる運動に対して、政府は警察を使って演説を禁止したり、逮捕したりして「弾圧(力で押さえつけること)」した。
でも、人々の勢いは止まらなかった。
それに加えて、政府が北海道の開拓使の財産を、同じ薩摩出身の商人に安く売ろうとしたことがバレて、国民から「ずるいぞ!」と猛烈に批判される事件も起きた(開拓使官有物払下げ事件)。
ついに政府も「これ以上は無視できない」と観念して、1881年に「10年後に国会を開くことを約束します」という「国会開設の勅諭」を発表したんだ。
※言葉の意味
「勅諭(ちょくゆ)」=天皇から国民へのありがたいお言葉(命令)のこと。

『政党』の誕生と準備
「やった! 10年後に国会ができるぞ!」
人々は喜んで、国会で自分たちの意見を実現するためのグループ「政党(せいとう)」を作って準備を始めたよ。
まだ国会はないのに? 10年も待つの?
そうだよ。でも、選挙に勝つためには準備が必要だよね。
全国に仲間を増やしたり、新聞を作って自分たちの考えを広めたり、演説会を開いたりして、10年後の本番に向けて準備運動をしていたんだよ。
- 自由党
リーダー:板垣退助
特徴:フランス流の「自由」を大事にする考え方。自由民権運動の中心人物である板垣が党首になった。農村などで人気があった。 - 立憲改進党
リーダー:大隈重信
特徴:イギリス流の「少しずつ良くしていく(改進)」考え方。
大隈重信はもともと政府の役人だったけれど、「早く国会を作ろう!」と主張しすぎて、伊藤博文たちと対立して政府を追い出されてしまったんだ(明治十四年の政変)。その後、この党を作ったんだよ。
(早稲田大学を作った人だね)
こういうワケだった!
- 国民の熱意に押されて、政府は「10年後に国会を開く」と約束した。
- 選挙や国会に向けて、板垣退助(自由党)や大隈重信(立憲改進党)が政党を作った。
『士族の反乱と自由民権運動』まとめ
『士族の反乱と自由民権運動』年表まとめ
| 1874年 | 板垣退助らが民撰議院設立建白書を政府に出す (自由民権運動の始まり) |
| 1877年 | 西郷隆盛が西南戦争を起こす(最後の士族反乱) |
| 1881年 | 政府が「10年後に国会を開く」と約束する (国会開設の勅諭) 板垣退助が自由党を結成する |
| 1882年 | 大隈重信が立憲改進党を結成する |
6年生はここを押さえればOK!「自由民権運動」まとめ
※赤いキーワードは必ず覚えよう!
- 不満を持った士族の反乱
→西郷隆盛が起こした西南戦争(失敗に終わる) - 国民の政治参加を求める運動
→板垣退助が自由民権運動を始めた
→「国会を作れ!」という民撰議院設立建白書を出した - 国会開設に向けた政党
→板垣退助の自由党
→大隈重信の立憲改進党
国民との約束通り、政府はいよいよ国会を開く準備を始める。
でもその前に、国の最高ルールである「憲法」を作らなくちゃいけないよね。
次回は、伊藤博文が作った「大日本帝国憲法と議会開設」について解説するよ!
アジアで初めての憲法は、どんな内容だったのかな?
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檜垣 由美子(ゆみねこ)
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。


