口分田・墾田永年私財法・荘園とは?奈良時代をわかりやすく解説
中学歴史で学習する「奈良時代の人々のくらし」について、口分田とはなにか、墾田永年私財法はなぜ作られたのか、荘園はどうしてできたのか、わかりやすく解説するよ。
奈良時代の人々のくらしの流れ
- 戸籍に登録された6歳以上の人々には、性別や身分によって口分田という朝廷が管理する農地を支給していた
- 口分田の大きさに応じて稲を納める「租」を負担させた
- その人が亡くなると支給していた口分田は回収、また別の戸籍登録者に支給するというのを繰り返していた(班田収授法)
- 租の他にも布や特産物を納める調・庸などの税や土木工事などを行う労役、兵士となる兵役の義務が課されていた
- 純度の高い銅が見つかったことを記念して、和銅と年号を改めたり、和銅開珎という貨幣が作られた
- 藤原京の周辺で威張っていた豪族に負けずに天皇政治を確立させるためにも、藤原京から離れた位置にある平城京へ都をうつした
- 藤原不比等は父の藤原鎌足の活躍により朝廷の重要なポストにつき、娘を天皇に嫁がせることで権力をつけていった
- 藤原不比等が亡くなると、義理の息子の長屋王が権力を握っていった
- 税負担が重すぎるため、土地を捨てて逃げ出したり税を逃れようとするものが続出し、口分田が足りなくなってしまった
- 土地を開墾してもらうために、土地を開いた者に一代〜三代にわたる土地の所有権を認める「三世一身の法」を定めたが、一時的にしか自分のものにならないため開墾が進まなかった
- 藤原不比等の実子4人兄弟によって、長屋王は謀反の疑いをかけられ失脚する
- 天然痘の流行により、藤原不比等の実子4人兄弟が全員亡くなり、皇族の橘諸兄が実権を握る
- 立て続けの権力者の死によって荒れた政治を立て直すため、聖武天皇は吉備真備と玄昉の補佐を受けた
- 吉備真備と玄昉の補佐を受けたことに不満をもった藤原広嗣が派遣先の九州で反乱をおこす(広嗣の乱)
→反乱は鎮圧され、藤原氏の権力がさらに弱まる一因に - 立て続けの権力者の死や疫病、飢饉、反乱に不安をもった聖武天皇が都を3回うつし、最終的に平城京に戻る
- 仏教の力で何とかしよう(鎮護国家思想)と、全国に国分寺と国分尼寺を建てる
- 752年に奈良の大仏を完成させる
- 「三世一身の法」の失敗を踏まえ、開墾した土地はずっと自分のものにしてよい墾田永年私財法を定める
- 貴族たちが自分の奴隷たちに土地を開墾させ、私有地を増やしていった(荘園の形成)
目次
律令国家と班田収授法
律令国家の取り決め
奈良時代前半の日本の人口は450万人ほどで、飛鳥時代から2倍近くも人口が増えたね。
その理由は、飛鳥時代に聖徳太子が憲法十七条を定めたことで、豪族から天皇を中心とした政治にする基盤ができたこと、そして冠位十二階によって無法地帯だった豪族たちに一定の序列ができたからだよ。
これまでは序列がなかったから、あちこちでトップをめぐる争いが起き、その度にたくさんの人が亡くなったんだ。争いが落ち着いたことで、人口も増えたんだね。
ちなみに憲法十七条には、仏教を敬うこと、和の心を大切にして人と争わないようにしようといったことも含まれていたよ。そんなに争いばかりしてないで、少し落ち着いて話でもしようってことかな。
天皇中心の国として少しずつ基盤が整ってきたところで、庶民の管理のために朝廷は新しい政策を打ち出したんだ。
律令国家の土台となる、この2つが決められたね。
- 6年ごとに作られる戸籍
- 良民と賎民の身分区別・登録
班田収授法と差別
戸籍に登録された6歳以上の人々には、性別や身分によって口分田という朝廷が管理する農地を支給していたんだ。そして、口分田の大きさに応じて稲を納める「租」を負担させ、その人が亡くなると支給していた口分田は回収、また別の戸籍登録者に支給するというのを繰り返していたよ。これを班田収授法というんだ。
なかなか悪いことをしているよね。
ちなみに、男子には2段(約2300平方メートルで、これは小学校の体育館よりも大きいよ)、女子にはその3分の2、奴婢(当時の奴隷や召使のこと)はその3分の1の口分田が与えられていたんだ。
召使の方がたくさん土地持たされて働かされるイメージなのに、どうして奴婢に支給された土地は少ないの?
良民の方が口分田のサイズがデカい理由っていうのは、彼らがちゃんと租を納めて、国のために働いてたから。
国から「がんばってるね!」って感じで、もっと収穫量の多い良い土地をもらえるわけ。
でも、奴婢は基本的には誰かの所有物みたいなもんで、言い方酷いかもしれないけど、ペットみたいなものだったんだよ。
ペットにわざわざ土地をあげたりしないよね。だから、土地を分け与える必要もなかったってわけなんだ。
過酷すぎる税金「租・調・庸」
成人した男性(この時代の成人年齢は12〜16歳と言われているよ)には、租の他にも布や特産物を納める調・庸などの税や土木工事などを行う労役、兵士となる兵役の義務が課されていたよ。
とはいっても、朝廷もただ取り立てていたわけじゃないんだ。
当時、まだ水防の技術が未熟だった日本では、あちこちで飢饉が起きていたよ。
租は、飢饉が発生した際の支給品として、郡の倉庫などに蓄えられていたんだよ。
調・庸は、人々の手によって都まで運ばれて、貴族や役人のお給料や朝廷の運営のために使われていたよ。
当時の暮らしを見る限り、貴族や役人はかなり贅沢してそうだよね。
兵士となった人々は、唐や新羅(今の中国や朝鮮半島)から日本を守るための防人に選ばれて、九州北部に送られたんだ。
でも、防人の仕事や訓練はとても大変だったんだろうね。逃亡する人たちも結構いたらしいよ。
和銅開珎と平城京に遷都
文部天皇の崩御と元明天皇の即位
ただ大宝律令が整って国として「これからだ!」って時に、タイミング悪く、当時の天皇である文武天皇が亡くなってしまったんだ。
一応皇子はいたんだけど(後の聖武天皇)、その時の皇子は7歳。さすがに若すぎて、朝廷を束ねられそうになかったから、文武天皇のお母さんである元明天皇が中継ぎとして後を継いだよ。
和銅開珎と貨幣取引の仕組みづくり
元明天皇が即位した翌年には、とても良い知らせが入ってきたんだ。なんと、武蔵国(今で言うと埼玉と東京あたりの地域)で純度の高い銅が見つかったんだ。これを記念して、和銅と年号を改めたり、和銅開珎という貨幣が作られたよ。
ただ、当時の日本では貨幣での取引という習慣がなくて、物々交換が主流だった。でもせっかく貨幣を作ったんだし、みんなにも使ってほしいよね。
だから朝廷は一定量の銭を貯めた者の官位を昇進させるという蓄銭叙位令を定めたよ。
まあ、結局みんなお金を貯め込むばかりで全然使ってくれなかったから、全く意味なかったんだけどね。
藤原京から平城京へ遷都
元明天皇の時代には、藤原京から平城京への遷都も行われた。藤原京は唐(今の中国)の都である長安をイメージして作られたんだけど、694〜710年のたった15年しかいなかったからすごくもったいないことしたんだよね。
じゃあなんで平城京へうつったのかというと、それは豪族のせいなんだ。古くからの豪族がその周辺で威張っていたこともあって、豪族に負けずに天皇政治を確立させたいこともあって、藤原京から離れた位置にある平城京へうつったんだよ。
平城京での暮らし
当時、平城京に住んでいたのは7〜10万人ほどと言われているけど、住んでいたのはほとんどが貴族と役人、そしてその家族たちだったよ。
平城京中央の北には、天皇が暮らす館と政治を行う役所が置かれたんだ。
上級の貴族たちは天皇の館に近い北側に、下級の役人は南側に家を建てたよ。
平城京の中でも身分による差は激しかったみたいだね。
しかも酷い話なのが、下級役人ほど役所から離れた場所に住んでいるし、役所が開く時間が朝の6時半ごろからで、少しでも時間が過ぎると、遅刻になって役所の中に入れなかったんだよ。
だから絶対に遅刻できない。遅刻できないから、遠くに住んでる分朝早く起きて出勤してたんだよね。
さらに、アルバイトのような非常勤勤務ともなるとお給料も激安なんだ。
お寺で写経のアルバイトをしたり、敷地内の庭で農作業したりしてなんとか生活していたよ。
普段の食事も、身分の差がかなりあったんだ。
ぶっちゃけると、庶民は玄米に塩や漬物だけのご飯なのに対して、上級貴族の食事内容は旅館のご飯くらいフルコースだったんだ。
バイキングみたいに品数も多くて、使ってる食器もとても価値のある高いものを使っていたよ。
権力の移り変わり
大化の改新で大活躍した中臣鎌足は、中大兄皇子(のちの天智天皇)から「藤原」という氏をもらって「藤原鎌足」になっていたよね。
藤原鎌足の息子「藤原不比等」はお父さんがスゴかったということで、その後の朝廷でも重要ポストについたんだ。
しかも、藤原不比等は自分の娘たちを貴族や重要なポジションにいる役人のところに嫁がせて、どんどん権力をつけていったんだ。聖武天皇にまで嫁がせちゃって、もう怖いものはないよね。
生粋のプリンス長屋王が権力を握る
ただ、藤原不比等も人間だからね。年には勝てないってことで、720年に亡くなってしまうんだ。
その後を継いで政治の中心になったのが、長屋王だよ。
長屋王は天皇の親戚で、奥さんは藤原不比等の娘だったよ。「義父さん、あとは俺に任せろ!」ってことで、意気揚々と後を継いだのはいいんだけど、さっそく大きな問題に頭を悩ませるんだ。
口分田が足りない
それは口分田足りなすぎてオワタ問題。
良民に口分田として農地を配っていたんだけれど、米以外にも布や特産物、労働といった税負担があまりにも大きくて普通に働くのが嫌になってしまったんだよね。
結局土地を捨てて逃げ出して、有力者の小作人になる良民が続出したほか、税をごまかすために戸籍の年齢や性別を偽ったり、僧侶になったりすることでなんとか税を逃れようとする人も出てきた。
※小作人:召使みたいなもの。有力者は自分が一生懸命働くより、小作人に働かせて自分は働かずに楽したいと考えたから、有力者からしたら小作人は都合のいい存在だったんだ。
結局のところ、せっかく与えた土地を捨てて逃げ出す良民がいるのに、それを返却しないからずっと農地としてはその良民の名義のままで、どんどん新しい人に農地を分け与えていかなくてはいけないという状況になってしまった。
開墾を進める計画はことごとく失敗
こんな状況だから土地を与えてるのに、それに対しての税が払われず、朝廷の税収はどんどん減っていく。なんとか税収を確保するために、朝廷は森や林を切り開いて土地を作り出すことを考えた。
そこで百万町歩の開墾計画を建てて、農民に開墾作業を行わせた。この時、朝廷が掲げていた目標は100万ヘクタール。
これは、今の日本でたとえると、青森県とほぼ同じ大きさになるよ。
さすがにこんなに広大な土地を開墾していくのは農民としてもキツすぎるよね。
自分に何のメリットもないし農民もやる気が起きないよね。
結局、この計画はうまくいかなかったんだ。
次に、朝廷は土地を開いた者に一代〜三代にわたる土地の所有権を認める「三世一身の法」を定めたんだ。
土地から得られた収穫もいくらかは収めなければならないけれど、残りの収穫は自分のものにできたんだよ。
「自分の土地になる」なんて聞いたら頑張る農民も出てくるよね。
開墾はいくらか進んで、土地も増えたよ。
でも結局、数代後には所有権が朝廷にうつってしまうため、一時的にしか自分のものにならないよね。
頑張って開墾しても意味がないことに気づいたんだろうね。開墾はあまり進まなかったよ。
権力争いと仏教への依存
長屋王VS藤原不比等の4子
いよいよ成人した聖武天皇が天皇に即位したことで、また朝廷の権力争いは激化していくよ。
権力を握っていた長屋王だけれど、藤原不比等の4人の子どもたちによって、失脚してしまうんだ。
4人の子どもたちとしては、自分たちが実の息子なのに、権力が長屋王に集まっていたのが許せなかったんだろうね。長屋王に謀反の疑いをかけ、自殺にまで追い込んだよ。
天然痘の大流行と長屋王の祟り
長屋王から実権を取り返したのも束の間、735年ごろに天然痘という病気が流行ったんだ。
なんと、この天然痘によって、不比等の4人の子どもたちは全員亡くなってしまうよ。
立て続けの出来事だったため、貴族や役人たちはこれを「長屋王の祟り」と噂したよ。
次に政治の実権を握ったのは皇族の橘諸兄。病気はどんどん広がって、都の皇族や貴族、役人とたくさんの人が亡くなってしまった。
平城京の中だけじゃない。病気は、都以外に住む良民にもどんどん広がっていった。
大規模な反乱と政治の混乱
立て続けの権力者の死によって政治は荒れていたよ。
そのため、遣唐使から帰国していた吉備真備と僧侶の玄昉の補佐を受け、政治を安定させることを優先したんだ。
しかし、これに対してまた不満を持つ者がいた。それが、不比等の孫にあたる広嗣。
広嗣は自分のような血筋の良い貴族ではなく、ただの遣唐使から補佐を受けていたのが許せなかったんだよ。
当時、広嗣は九州地方に派遣されていたよ。
平城京からの目が届きにくい遠方で準備を整え、九州で大規模な反乱を起こしたんだ。
これを広嗣の乱というよ。
でもこの乱は鎮圧され、藤原氏の権力はさらに弱まる一因になったんだ。
聖武天皇、安寧の地を求めて
相次ぐ権力者の死や、疾病の流行、飢饉、大規模な反乱と聖武天皇は不安が大きくなってしまったんだろうね。
安住の地を求めて、恭仁京、難波京、紫香楽京と3回も都を移したんだ。
でも国が安定しない中、何度も引っ越しをしていたらお金もどんどん減っていくよね。庶民からも非難が殺到したよ。
しかも結局、聖武天皇は平城京に戻ってきたんだ。
仏教の力に頼りたい!
聖武天皇の妻、光明皇后は熱心な仏教徒で、聖武天皇は妻の影響で「仏教の力で国を何とかしよう」という鎮護国家思想を抱き始めていたんだ。742年、手始めとして全国に国分寺と国文尼寺を建て始めた。
その翌年には大仏を建造することを正式に発表し、752年には大仏が完成したよ。みんなもよく知ってる奈良の大仏だね。
大仏を収納するために東大寺が建てられ、そこに大仏は収められた。
大仏作りは、仏の力を借りるという目的もあったけれど、もう一つは仕事のなくなった人たちに仕事をあげるという目的もあったみたい。災害や飢饉が続いて、失業者が増えていたからね。
奈良の大仏作りと問題への取り組み
ところで、奈良の大仏は何で作られていると思う?
奈良の大仏の本体は、銅約500トン、錫8.5トン、外装を金440kg、水銀2.5トンで作られているよ。近くの土地からだけじゃ素材が足りないからね。
全国から、大仏建造のために河川があれば筏を作って運び、陸路なら地車かコロを使って奈良まで運ばれたよ。運ぶだけで相当大変だよね。
そして、奈良の大仏作りと並行して、前々から問題になってた土地と税収不足問題にも着手し始めたんだ。
墾田永年私財法と荘園の形成
三世一身の法で国に土地を返却しないといけないのがネックで、開墾は思うように進まなかったんだ。だから、今度は「開墾した土地はずっと自分のものにしていいよ」という法令を作ったんだよ。
これを墾田永年私財法といい、どんどん土地が増えていくことが推測されたんだ。
実際に増えたの?
実はあまり増えなかったんだよね。
理由は、大多数の庶民が土地を開墾するだけの余力がなかったから。
みんな自分に割り振られた土地の対応だけで精一杯だった。じゃあ、どうなったかというと貴族にこの法令はうまく利用されてしまったんだよね。
貴族たちは自分の奴隷たちに土地を開墾させたんだ。
その結果、貴族たちはどんどん自分の土地を増やして小作人に農業をさせた一方で、庶民は割り当てられた自分の土地で毎日頑張って農業を行うようになった。つまり、庶民を救うための法律だったのが、逆に貧富の差を広げてしまう結果となったんだよね。
最終的に、貴族はたくさんの土地を私有地にし、これは荘園と呼ばれるようになったよ。
「奈良時代の人々のくらし」流れとまとめ
奈良時代の人々のくらしの流れ
- 戸籍に登録された6歳以上の人々には、性別や身分によって口分田という朝廷が管理する農地を支給していた
- 口分田の大きさに応じて稲を納める「租」を負担させた
- その人が亡くなると支給していた口分田は回収、また別の戸籍登録者に支給するというのを繰り返していた(班田収授法)
- 租の他にも布や特産物を納める調・庸などの税や土木工事などを行う労役、兵士となる兵役の義務が課されていた
- 純度の高い銅が見つかったことを記念して、和銅と年号を改めたり、和銅開珎という貨幣が作られた
- 藤原京の周辺で威張っていた豪族に負けずに天皇政治を確立させるためにも、藤原京から離れた位置にある平城京へ都をうつした
- 藤原不比等は父の藤原鎌足の活躍により朝廷の重要なポストにつき、娘を天皇に嫁がせることで権力をつけていった
- 藤原不比等が亡くなると、義理の息子の長屋王が権力を握っていった
- 税負担が重すぎるため、土地を捨てて逃げ出したり税を逃れようとするものが続出し、口分田が足りなくなってしまった
- 土地を開墾してもらうために、土地を開いた者に一代〜三代にわたる土地の所有権を認める「三世一身の法」を定めたが、一時的にしか自分のものにならないため開墾が進まなかった
- 藤原不比等の実子4人兄弟によって、長屋王は謀反の疑いをかけられ失脚する
- 天然痘の流行により、藤原不比等の実子4人兄弟が全員亡くなり、皇族の橘諸兄が実権を握る
- 立て続けの権力者の死によって荒れた政治を立て直すため、聖武天皇は吉備真備と玄昉の補佐を受けた
- 吉備真備と玄昉の補佐を受けたことに不満をもった藤原広嗣が派遣先の九州で反乱をおこす(広嗣の乱)
→反乱は鎮圧され、藤原氏の権力がさらに弱まる一因に - 立て続けの権力者の死や疫病、飢饉、反乱に不安をもった聖武天皇が都を3回うつし、最終的に平城京に戻る
- 仏教の力で何とかしよう(鎮護国家思想)と、全国に国分寺と国分尼寺を建てる
- 752年に奈良の大仏を完成させる
- 「三世一身の法」の失敗を踏まえ、開墾した土地はずっと自分のものにしてよい墾田永年私財法を定める
- 貴族たちが自分の奴隷たちに土地を開墾させ、私有地を増やしていった(荘園の形成)
運営者情報
ゆみねこ
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。