魏志倭人伝の内容をかんたんに解説(まとめ)

卑弥呼や耶馬台国の学習で登場する魏志倭人伝。どんな内容が書かれているのかをすべて紹介。カンタンな言葉で子供から大人までわかりやすく解説しているよ。
難しい漢字にはフリガナがあるので、子供だけでも読むことができるよ。

yuminekoyumineko

このページでは、「魏志倭人伝ぎしわじんでん」にどんなことが書かれているのか、小学生にもわかるようなカンタンな言葉に通訳しながら解説するよ!

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魏志倭人伝の内容をかんたんに解説(まとめ)

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魏志倭人伝ぎしわじんでんとは?

魏志倭人伝ぎしわじんでんとは

中国でしょくという3つの国が対立していた時代のことを書いた「三国志さんごくし」という歴史書のなかの「魏書ぎしょ」のなかの「東夷伝とういでん」のなかの「倭人条わじんじょう」に書かれた部分のことをいうよ。

ややこしいよ(涙)
ヒトコトで言うと?


くまごろうくまごろう

つまり、国の歴史書にかかれていた日本についての部分のこと」だね。

魏志倭人伝について説明しているイラスト「三国志」は、陳寿ちんじゅという人が280年~297年の間に書いたんだ。

何が書かれているの?

①当時の(日本の昔の呼び名)に、卑弥呼ひみこがまとめている「邪馬台国やまたいこく」というクニがあること

②それがどこにあるのか、倭の人々がどんな暮らしをしていたか、どんな風習ふうしゅうがあったのか、どんな動植物がいたかなどが書かれているよ。

このころのことが書かれた日本の歴史書はないので、当時(3世紀ごろ)の日本のことを知る重要な手がかりと言われているんだ。

くまごろうくまごろう

まあ例えると、「君が特に日記を書いていなかったんだけど、学校のとなりの席の子が君の毎日の学校での様子を書いてノートにまとめていてくれた」
という感じだね。



ちょっと複雑・・

だけど確実かくじつ資料しりょうとは言えない・・・

さっきの例で考えてみて。

「となりの席の子が書いた、たろう君の毎日の様子」だけど、これって確実かな?

見落としていることや、勘違かんちがいで書いていることもあるかもしれないよね。
そのノートに書いてあることを、先生やお母さんが全部そのまま信じてしまって良いかといったらそうではないよね。

たろうたろう

そんなの困るよ

魏志倭人伝ぎしわじんでんもおなじ。
そもそも、魏志倭人伝を書いた「陳述」も、日本に実際に来たわけではないと言われているんだ。
つまり、「人から聞いたこと」をもとに書いているんだ。

ということは、魏志倭人伝に書かれていることは当時の日本の様子を完璧に記録しているという保証はないよね。

だから今でもずっと研究されて、いろんな受け取り方や解釈かいしゃくの仕方があって、いろいろな説が生まれる原因にもなっているんだ。

魏志倭人伝に書かれていることを解説!

ではいよいよ「魏志倭人伝」に書いてあることを紹介するよ。

邪馬台国までにある「くに」と「行き方」について

yuminekoyumineko

ここでは帯方郡たいほうぐん(今の韓国ソウルより北方面のあたり)から邪馬台国までの行き方とキョリが書いてあるよ。

三国時代に帯方郡がどこにあったかを表すイラスト

yuminekoyumineko

」や「帯方郡たいほうぐん」「」の位置関係はこんな感じ。
※もっと後に登場する地名も書いてあるよ

魏志倭人伝には「」という距離の単位が書いてあるんだけど、その「里」が何メートルに相当するのかは色々な説があるんだ。

ここでは、
・1里を約400メートルとする計算法
・1里を約70メートルとする計算法
2通りの説をもとに目安のキョリを書いておくよ。

※ちなみに、実際の韓国と日本の距離を考えると、1里=400メートルで計算した場合、本当よりも遠いことが多いよ。

yuminekoyumineko

では実際に書かれている内容を、カンタンな言葉に直したものを読んでみよう!

倭人わじん(日本人のこと)は、帯方郡たいほうぐんの東南の大きな海のなかにいる。

山をさかいにしたり、島を単位にして「くに」や「むら」を作っている。
もともとは100あまりの国があって、中国が「かん(中国を統一とういつしていた国の名前)」の時に朝見ちょうけん(プレゼントを持って、あいさつに来ること)する者もいた。
今は30国がお使いを送ってくる。

帯方郡から倭に行くには、海岸にそって船で行く。
韓国を過ぎるのに、時には南に行って、時には東に行く。
そうすると倭の北岸にある狗邪韓国こやかんこくに到着する。
7000余り里である。(1里=約400mの場合、2800000m、つまり2800㎞位。1里=約70mなら、490000m、つまり490㎞。)

さらに1000余り里進んで一つの海を渡ると(400㎞または70㎞)対馬国つしまこくに到着する。対馬国の大官たいかん(身分の高い官吏かんり・お役人やくにんのこと)は卑狗ひこといい、副(副大官?)は卑奴母離ひなもりという。
対馬国は、離れ島で400余り里四方(160㎞四方、または28㎞四方)の島。
土地は山がけわしく、深い林が多い。道は獣道けものみち(きれいに整えられていない道)のようである。1000余りの家がある。
良い田畑はないので、海産物をって自分たちで生活している。
船で南北の市に行ったりしている。

また「瀚海(※瀚は、「ひろい」という意味」という名前の一つの海を1000余り里ほど渡る(400㎞位または70㎞)と、一大国に到着する。官は卑狗ひこといい、副は卑奴母離ひなもりという。300余り里四方(120㎞四方または21㎞四方)。
竹・木・草むら林が多い。3000ばかりの家がある。
田畑には差があって、田畑をたがやしても食べ物が足りないので、南北の市に行っている。

また一つの海を渡る。1000余り里(400㎞または70㎞位)進むと末廬国に到着する。4000余りの家があり、山や海に沿って住んでいる。前を行く人が見えなくなるくらい草木が生い茂っている。
魚やアワビをるのが上手。水が浅くても深くても関係なしに、みんな泳いでもぐってつかまえている。

そこから東南に陸を進むと、500里(200㎞または35㎞)で伊都国に到着する。官は爾支にきという。副は泄謨觚せもこ柄渠觚へくこという。1000余りの家がある。
王がいて、みんな女王国にぞくしている。帯方郡の使者ししゃが行き来する時にはいつもそこにとどまる。

東南に100里(40㎞または7㎞)進むと、奴国なこくに到着する。官は しまこという。副は卑奴母離ひなもりという。2万余りの家がある。

東へ100里(40㎞または7㎞くらい)行くと、不弥国に到着する。官は多模たもという。副は卑奴母離ひなもりという。1000余りの家がある。

南に向かって船で20日ほどいくと、投馬国に到着する。官は彌彌みみという。副は彌彌那利みみなりという。計算によると推定5万の家がある。

そこから南へ船で10日、陸路を1か月かけて行くと、邪馬台国に到着する。女王はそこを都と決めている。官は伊支馬いきまがいる。次に弥馬升みましょうがいる。次に弥馬支みまかくきがいて、次に奴佳鞮なかていがいる。計算するに推定すいてい(たぶん、ということ)7万余りの家がある。

※国の名前や官の名前などは色々な説があるよ。

なかなか果てしない旅だね。

くまごろうくまごろう

この「耶馬台国までの道順」では、最初の方に登場する島のことまでは大体ハッキリしているんだけど・・


帯方郡から耶馬台国までの道順を表したイラスト
くまごろうくまごろう

ここから先に登場してくる国の名前が、どこの国のことを言っているのか、どの方向に進んだのか、どうやって進んだのかなどがハッキリしないので、結局「耶馬台国の場所はよく分からない」んだ。

その他の国のこと

ここまでに書いた女王国よりも北の国については、家の数や道(距離)を簡単に書くことができたが、そのほかの国は遠すぎて、詳しいことがわからない。

斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国という国があって、これらの国までで女王がまとめている境界は終わる。

それより南には狗奴国がある。男性が王をしていて、官は狗古智卑狗くこちひくという。邪馬台国の女王にはぞくしていない。(仲間ではないということ)

帯方郡から女王国(邪馬台国のこと)までは12000余り里(4800㎞または840㎞)である。

倭国がどんな様子なのか

男性は大人も子供も、みんな顔や体にずみをしている。
古くから、中国に来たの使者たちはみんな自分のことを大夫たいふ(えらい位についている人のこと)だと言っている。
(むかし、)中国の王朝おうちょう「夏」の王だった「小康」の子供が、会稽(中国に昔あった群の名前)をまかされた時も、髪を切って入れ墨をして、みずち(へびに似ていて、角と四本足があり、毒気を吐くと伝えられる伝説上の動物)の害をけたという話がある。今、倭の漁師たちも好きで水にもぐって魚やハマグリをるのだが、その際には身体に入れ墨をして大魚や水禽(水鳥のこと)を避けていた。しかし後々それは飾りになった。

入れ墨は国ごとに違っていて、左にあったり右にあったり、大きかったり小さかったり、階級かいきゅう身分みぶんのレベルのこと)によっても差がある。

倭国の位置を計算してみると、ちょうどそれは会稽・東治(今の中国の上海シャンハイの少し南あたり)の東である。

風俗はみだらではない。(はしたなくない)男子はみんな髷(まげ)を見えるようにしていて、木綿の布を頭に巻いている。服装は、幅広はばひろい布を結び合わせているだけで、ほとんど縫われてはいない。
女性は髪にかぶものをして後ろでたばねていて、服装は単衣ひとえ(一枚の裏地うらじのない着物のこと)のように作られていて、真ん中に穴をあける貫頭衣かんとうい(穴に頭を通して着るタイプの服)だ。

稲や、からむし(植物性の糸が採れる植物)を植えている。くわかいこを育てていて、糸をつむいで上質の絹織物きぬおりものを作っている。

牛・馬・虎・ヒョウ・羊・かささぎはいない。

兵器はほこたて・木製の弓を使っている。弓は下が短くて、上の部分が長くなっている。矢は竹でできていて、矢の先には鉄や骨のじりがついている。

土地は温暖おんだんで、冬も夏も生野菜を食べている。皆、裸足はだしで過ごしている。

家屋かおくがあって、寝床は父母兄弟は別々に寝ている。体には赤丹しゅたん(赤い塗料とりょう)をっていて、まるで中国で使う白粉おしろい(顔を白くするお化粧の道具)のようだ。
飲み食いするときには高坏たかつき(少し高くなっている部分のあしがついた食器のこと)を使って、手づかみで食べている。

人が死ぬと、かんおけはあるがひつぎ・うわひつぎ(棺の外枠そとわく)はなく、土をかぶせてつか(土を盛り上げたところのこと)を作る。死んでからは10日あまりを「もがり」(のこと。死んだ人を思う期間のこと)として、その間は肉を食べない。喪主は哭泣こっきゅう(悲しんで泣き叫ぶこと)して、他の人々はお酒を飲んで歌って舞う。
埋葬まいそう(亡くなった人をめること)が終わると、家の人達は水の中に入って体をおきよめする。これは中国の練沐(「ねりぎぬ」を着て「水ごり(神様にお願いをするために冷水を浴びること)」)をするようである。

倭の人が中国にやってくる時はいつも、ひとが一人選ばれて、その人は髪もとかさず、シラミも取らず、服は汚れ放題で肉は食べない(食べさせてもらえない)。女性を近づけないで喪に服している人のようにしている。
この人のことを持衰じさいと呼ぶ。
もし旅がうまくいけば、褒美として奴隷や財産を持衰に与える。
もし旅の最中に病気があったり、暴害ぼうがい(災難など?)にあってしまったら、その持衰がつつしまなかった(きちんとしていなかった)のが原因だとされて、殺す。

真珠と青玉ひすいが採れる。倭の山には丹(硫黄と水銀が化合した赤土)があって、倭の木にはタブノキ、どんぐり(またはトチ)、クスノキ、ボケ、クヌギ、カシ、クワ、カエデがある。竹はじょうかん桃支とうしがある。ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガがあるが、まだ味付けに使うことを知らない。
猿と黒雉(キジ)がいる。

特別なことをするときには、骨を焼いて割れ目を見て吉凶きっきょう(良いか・悪いか)を占うぼくをする。
まず占うことの内容を告げるが、その解釈かいしゃくの仕方は令亀の法(中国で行われていた占いのやりかた)と同じように、火で焼けて出来る割れ目を見て、占う。

会合かいごう(集まって話し合うこと)での振る舞い方には、父と子、男と女の区別はない。
人々はお酒が好きで、相手に敬意けいい尊敬そんけいする気持ちのこと)をあらわす作法さほうは、拍手はくしゅを打って、うずくまっておがむことだ。
人々は長生きで、100歳や80歳のものもいる。

身分の高い人は4人や5人の妻を持っている。
身分の低い人でも2人や3人の妻を持っている人もいる。

女はつつしみ深くて、嫉妬しっとしたりはしない。

盗みもないし、ケンカも少ない。

ほう(ルール)をおかす(やぶること)ものは、軽い場合は妻と子供を没収ぼっしゅうする。
重い場合は一族を根絶ねだやし(皆殺しすること)にする。

宗族そうぞく(本家や分家を合わせた一族のこと)には「とうとい」と「いやしい」という順序があって、上のものの「いいつけ」はよく守られている。

起こったことの記録

景初けいしょ2年(238年)6月、倭の女王は大夫たいふ(位の偉い人)の難升米なんしょうみらを帯方郡たいほうぐんに使いによこし、天子てんし皇帝こうてい)にささげものをしたいと希望した。
太守(中国では、郡の長官のこと)の劉夏は吏將(役人)をつけて、京都(の都の洛陽らくようのこと)まで送った。

その年の12月には、倭の女王に詔書しょうしょ(皇帝からの文書)が出された。

正始せいし元年(240年)、太守の弓遵が中校尉(中国の長官の名称)の梯儁たちを使いにだし、倭国に行って詔書と印と綬(組みひも)を倭の王に捧げた。また、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物を与えた。倭の王は感謝の文書を皇帝に記した。

正始4年には、倭の王はまた大夫の伊聲耆と掖邪狗たち8人を遣いにやり、奴隷どれい・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹木・拊(搏拊)・短弓矢を献上けんじょう(偉い人へ何かをさしあげること)した。掖邪狗たちは善中郎將の印と綬(組みひも)を受け取った。

正始6年には、倭の難升米に黃幢(黄色い軍の旗)をあげようるようにと、帯方郡にかりに(とりあえず)預けておくよう文書が出された。

正始8年には王頎が太守になった。倭の女王の卑弥呼と狗奴国くなこくの男の王の卑彌弓呼はもともと仲が悪く、倭は載斯と烏越たちを郡に使いにおくり、お互い(邪馬台国と狗奴国が)に攻擊しあっている状態だということを説明した。

塞曹掾史の張政たちを使いにやって、皇帝からの文書と黃幢(黄色い軍の旗)を難升米に授け、告げて(卑弥呼に伝えるように?)、木の札にも記した。

(しかし)卑弥呼は亡くなってしまい、大きなつか(お墓のこと)が作られた。
大きさは直径100歩(魏の1歩は1.44mとされているので、144mほど)ほどで、卑弥呼と一緒に埋められた狥葬者じゅんそうしゃ(身分の高い人が亡くなったとき、一緒にお墓に入る人。生きたまま入れられることもあった)は奴隷どれいが100人ほどだった。

卑弥呼の次には男性が王になったが、国中がその王にはしたがわず、お互いに殺しあうようになってしまい、当時は1000人位が殺されてしまった。

その後には、また卑弥呼の宗女(一族の女性)の壹與いよ※という13歳の女性が王になり、やっと国中が安定あんていした。
※「いよ」の漢字には「壹与」や「壱与」など、ほかにも色々な説があるよ。

そのため、張政たちは壹與に(卑弥呼に伝えるはずだった内容などを)伝え、木札に書き記した。

壹與は倭の大夫の率善中郎將の掖邪狗たち20人を使いにやり、張政たちが(中国へ)帰るのを送りつつ、臺(魏の都の名前)に行かせて男女の奴隷を30人と、貢白珠(真珠)を5000個、青大句珠せいだくしゅ(ヒスイの勾玉)2枚、そして異文雜錦(見たことのない模様の布)20匹(この匹は布の単位で、「20反」のこと)を献上けんじょうした。

運営者情報

青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。

感想や意見を聞かせてね

  1. 赤ちゃん より:

    とても面白かったです
    ありがとうございます

  2. 匿名 より:

    わかりやしゅい

  3. 匿名 より:

    ふむふむ意味不!

  4. 歴史大好き(さすけ) より:

    もっと詳しく、面白くわかりやすくしれて良かった。

  5. 偉大な凡人 幡男 より:

    ひじょうに分かりやすく有難う