元号一覧(由来と改元理由)まとめ
飛鳥時代から現代までの元号を一覧にまとめています。改元した理由もくわしく解説。
飛鳥時代
元号 | 期間 | 改元の理由と由来 | 主な出来事 |
大化 (皇極天皇) | 645年6月19日〜 650年 | 中大兄皇子と中臣鎌足が、天皇を中心とする政治を目指して、力を持ちすぎた豪族の蘇我氏を倒した(乙巳の変)。それにより新政府が誕生し、元号を定めることになった。 初めて定められた元号が「大化」。 「書経」の「ゆえに我大いに我が友邦の君を化誘(正しい道へ教えて導くこと)す」がもとになったという説があるが、確かではない。 | 大化改新(645年) 改新の詔(646年) |
白雉 (孝徳天皇) | 650年2月15日〜 654年 | 白雉とは、白いキジ(鳥の種類)のこと。穴戸(今の山口県)の国司(地方の国のリーダー的な役職の人のこと)が白いキジを献上(プレゼントすること)したときに、「これはとてもめでたい」と「白雉」に改元をした。白雉ではなく、白鳳という説も ある。 白雉のあと、次の朱鳥まで32年間元号がなかった期間がある。理由は不明。 | |
朱鳥 (天武天皇) | 686年7月20日〜 | 天武天皇が病気にかかってしまい、元号を改めれば病気が治るのではと考えられた。 しかし約1ヶ月の686年10月1日(朱鳥元年9月9日)に、天武天皇は亡くなってしまう。 朱鳥は中国の「四神」のひとつ。「良いことが起こる前ぶれ」を表す鳥だったからという説がある。 朱鳥は1ヶ月間だけで、このあと大宝が定められるまで14年間元号が無かった。理由は不明。 | |
大宝 (文武天皇) | 701年3月21日〜 704年 | 対馬から朝廷に金が献上(プレゼント)され、「金が採れた!」ということをお祝いするため改元された。 しかし、実際は対馬で採れたのではなく、朝鮮から持ち帰った金を対馬で採れたとごまかしたという説もある。 「たいほう」と読むほかに、「だいほう」と読む場合もある。 | 大宝律令(701年) |
慶雲 (文武天皇) | 704年5月10日〜 708年 | 慶雲とは、おめでたいことが起こる前兆を表す雲のこと。この雲が現れたので、改元した。 慶雲を発見した人は大出世した。 改元に合わせて、神馬(神様が乗る馬のこと)を朝廷に献上(プレゼントすること)した郡は、税金が免除(払わなくていいということ)された。 |
奈良時代
元号 | 期間 | 改元の理由と由来 | 主な出来事 |
和銅 (元明天皇) | 708年1月11日〜 715年 | 武蔵(今の東京・埼玉・神奈川)が朝廷に銅を献上(プレゼントすること)したので、貨幣を作りたいと考えていた天皇が喜んで改元した。 このとき作られた貨幣が「和同開珎」。この「和同」は、「呂氏春秋」にある一文の「天地和同」が由来という説がある。「和同」とは、人々が納得するという意味がある。 | 和同開珎(708年) 平城京へ遷都(710年) 古事記(712年) 風土記編纂の命令(713年) |
霊亀 (元正天皇) | 715年9月2日〜 717年 | 朝廷に霊亀が献上(プレゼントすること)されたので改元した。 霊亀とは、中国の神話に出てくる神の力をもった亀のこと。 実際に献上された亀は長さ21センチで、左目は白、右目は赤のめずらしい亀だったといわれている。 | |
養老 (元正天皇) | 717年11月17日〜 724年 | 元正天皇が出かけた途中、養老山地の多度山に「若返りの泉」を発見したのを喜んで改元した。 改元のときには、罪をおかした人の刑罰を少なくしてあげたり、お年寄りに位やお祝いの品を与えたり、病気の人を助けたり税をなくしてあげるようにした。 | 日本書紀(720年) 三世一身法(723年) |
神亀 (聖武天皇) | 724年2月4日〜 729年 | 聖武天皇が天皇に即位したため改元。 由来は、改元する前の年に献上(プレゼントすること)された亀の両眼が赤く、姿が白かったことから、神亀になった。 神亀とは、中国の占いで「良いことが起こる」ことを表す亀のひとつ。 | 長屋王の変(729年) |
天平 (聖武天皇) | 729年8月5日〜 749年 | 貴族の藤原麻呂が、亀を献上(プレゼントすること)したことをキッカケに改元。 亀の背中には「天皇の世の中は貴く、百年平和に続く」と書かれていた、その文から、天皇の「天」、平和の「平」が元号の由来と言われている。 | 藤原広嗣の乱(740年) 墾田永年私財法(743年) 大仏造立の詔(743年) 天平地震(745年) 天平文化が栄える |
天平感宝 (聖武天皇) | 749年4月14日〜 | 3ヶ月の期間しかなかった元号。 初めての4文字。 大仏を作りたいと考えていた聖武天皇だが、材料である金が足りなくて困っていたところに、陸奥(青森・岩手・宮城・福島・秋田)から黄金が献上(プレゼントすること)されたのを喜んで改元。 「天平」に「感宝」を加えて作った元号。 | 聖武天皇が譲位(749年) |
天平勝宝 (孝謙天皇) | 749年7月2日〜 757年 | 聖武天皇が譲位(天皇の位を譲ること)して、聖武天皇の娘である阿部内親王が即位して孝謙天皇になったため改元した。 天平→天平感宝→天平勝宝と、同じ年に2ど改元したのは日本の歴史上このとき以外にはない。「勝宝」の由来は不明。 | 大仏開眼供養(752年) 鑑真が来日(753年) |
天平宝字 (淳仁天皇) | 757年8月18日〜 765年 | 聖武天皇が亡くなり、1周忌法要の最後の日に、蚕が産んだ卵が「天皇の治める世の中は、100年安泰(安全で、危険がないこと)だろう」と読める形になっていたものが献上(プレゼントすること)されていたのがキッカケで改元された。 改元のときには、罪をおかしたひとの刑罰を少なくしたり、国民の税を減らしたりした。 | 藤原仲麻呂の乱(764年) |
天平神護(称徳天皇) | 765年1月7日〜 767年 | 孝謙天皇が、淳仁天皇を廃位(天皇ではんくさせること)させて、また称徳天皇として即位したのをキッカケに改元したと言われているが、詳しいことは分からない。 藤原仲麻呂の乱を無事におさえることが出来たのは「神様が護ってくれたから」という意味を込めて「神護」が使われたと言われている。 | |
神護景雲 (称徳天皇) | 767年8月16日〜 770年 | おめでたいことが起こる前兆を表すという雲「景雲」が発見されたのを喜んで改元。 雲は三河(愛知)と伊勢(三重)で発見され、同じ頃に天皇自身も目撃していた。 改元のときには、罪をおかしたひとの刑罰をすくなくしたり、国民のぜいを減らしたりした。 | |
宝亀 (光仁天皇) | 770年10月1日〜 781年 | 光仁天皇が即位するときに、白い亀が献上(プレゼントすること)されたことから 「宝亀」と改元された。 改元のときには、罪をおかしたひとの刑罰を少なくしたり、朝廷に仕えていた役人に新しい位を与えたり、出家した人にお祝いの品物をあげたり、お年寄りや生活に困っているひとを援助した。 ここからはまた2文字の元号が使われるようになった。 | 宝亀の乱(780年) |
天応(光仁天皇) | 781年1月1日〜 782年 | 伊勢神宮の宮殿に、美しい雲が現れたことを「良いことが起こりそう」考えて改元した。 1月1日に改元されたのはこの元号のみ。 ほかには、781年4月に桓武天皇が即位するために改元していたという説もある。 元号の由来は「易経」の一文「天に従いて人に応ず」がもとになっているという説がある。 |
平安時代
元号 | 期間 | 改元の理由と由来 | 主な出来事 |
延暦 (桓武天皇) | 782年8月19日~ 806年 | 桓武天皇が即位したため改元。 「群書治要」の「民徳政を詠ずれば、即ち期を延ばし歴(暦)を過ぐ」が由来という説がある。 滋賀県にある延暦寺はこの元号からつけられた名前。 | 長岡京へ遷都 (784年) 平安京へ遷都 (794年) 坂上田村麻呂が征夷大将軍になる(797年) 続日本紀(797年) 天台宗(最澄)805年 真言宗(空海)806年 |
大同 (平城天皇) | 806年5月18日~ 810年 | 平城天皇が即位したため改元。 「書経」の「これ大同という」からという説がある。大同とは、目的のために多くのものがひとつにまとまる」という意味がある。 改元の時には、罪をおかした人の刑罰を軽くしたり、僧に位を与えたり、税を免除するなどされた。 | 平城太上天皇の変 (薬子の変)(810年) |
弘仁 (嵯峨天皇) | 810年9月19日~ 824年 | 嵯峨天皇が即位し、さらに豊作(農作物がたくさん獲れること)があったため改元。 810年に薬子の変があったため、嵯峨天皇が即位してすぐの改元はできず、即位の1年半後に行われた。 「礼記正義」の「寛弘仁静の化を行う」からという説がある。 | 弘仁地震(818年) |
天長 (淳和天皇) | 824年1月5日~ 834年 | 淳和天王が即位したためと考えられているが、確かではない。 「老子」の「天長く地久し」からと言われている。 | |
承和 (仁明天皇) | 834年1月3日~ 848年 | 仁明天皇が即位したため改元。「芸文類聚」の「将に太和を承らんとす」から という説がある。 | 承和の変(842年) 最後の遣唐使(838年) |
嘉祥 (仁明天皇) | 848年6月13日〜851年 | 豊後(現在の大分県)で白い亀が見つかり、おめでたいこととして改元。 改元の時には、罪をおかした人の刑罰を軽くし、税を減らすなどされた。 また、はじめて伊勢神宮で改元したことを神様に報告する儀式が行われた。 | 長年大宝発行(848年) |
仁寿 (文徳天皇) | 851年4月28日~ 854年 | 文徳天皇の即位と、美作・備前(現在の岡山県)、摂津(現在の大阪・兵庫)から白い亀が献上されたこと、石見(現在の島根県)から甘露(すばらしい天皇のもとへ、天から降ってくるとわれている露のこと)が献上されたことをおめでたいとして改元。 「漢書」の「徳を行えばすなわち民仁寿たり」からという説がある。 改元の時には、罪をおかした人の刑罰を軽くし、献上した国の税を減らしたり免除したりした。 | |
斉衡 (文徳天皇) | 854年11月30日~ 857年 | 854年に、石見(現在の島根県)で醴泉(甘い味がする泉のこと。平和な時代だけに出ると言われている)が出たことを、おめでたいこととして改元した。 改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くして、醴泉が出た郡では税を免除したり、減らしたりした。また、役人に位を与えた。 「周礼」の「曲礼に君が器を執るは斉衡なり」がもとになったと言われている。 ※斉衡とは、物の釣り合いをとるという意味。 | |
天安 (文徳天皇) | 857年2月21日~ 859年 | 美作(現在の岡山県)から白い鹿が朝廷に献上(プレゼントされること)されて、常陸(現在の茨城県)から連理の木(2本の木がくっついて1本になったもの)が献上されたので、文徳天皇がおめでたいこととして改元した。 改元した時には、全国の税を免除したり、減らしたりした。また役人に位を与えた。また、お年寄りや僧に穀物を与えた。 「礼記」の「彼の国安くして天下安し」がもとになっていると言われている。 | |
貞観 (清和天皇) | 859年4月15日~ 877年 | 清和天皇が即位したことにより改元。 「易経」の「天地の道は貞にして観すものなり」がもとになっているという説がある。 | 貞観地震(869年) 貞観客式(法令) 応天門の変(866年) 清和源氏登場(873年) |
元慶 (陽成天皇) | 877年4月16日~ 885年 | 陽成天皇が即位した時に、但馬(現在の兵庫県)から白いキジが献上(プレゼント)され、さらに尾張(現在の愛知県)から2本の木がくっついて1本になったもの(連理の木と呼ばれる)が献上され、さらに備後(現在の広島県)からは白い鹿が献上されたのをおめでたいとして改元した。 改元する時には、罪をおかした人の刑罰を軽くし、役人に位を与えたり、献上した国では税が減らされたり免除されるなどした。 「易経」の「元いに吉とは、上にありておおいに慶あるなり」がもとになっているという説がある。 | 元慶官田の設置(879年) |
仁和 (光孝天皇) | 885年2月21日~ 889年 | 光孝天皇が即位して、2年目になったときに改元の詔(改元しなさいという天皇の命令)が出たため。 「礼記」の「歌楽は仁の和なり」がもとになっているという説がある。 | 仁和地震(887年) |
寛平 (宇多天皇) | 889年4月27日~ 898年 | 本当なら宇多天皇が即位したときに改元される のが普通だったが、宇多天皇が太政大臣の藤原基経とうまくいかず、政治が不安定だったので改元が遅くなったと言われている。 「漢書」の「寛大の政行われ、和平の気通ず」がもとになっているという説がある。 | 寛平の治 桓武平氏登場(889年) 遣唐使廃止(894年) |
昌泰 (醍醐天皇) | 898年4月26日~ 901年 | 醍醐天皇が即位したため改元した。 「詩経」の「寿なるものあいともにもちいられん。爾をして昌にして大ならしむ」がもとになっているという説がある、 ※大と泰はどちらも「大きい」という意味を持っている。 また、改元された日は4月16日や、8月16日だという説もある。醍醐天皇が即位したことで、宇多天皇は上皇になったが、899年に出家したので法皇になったが、これが日本史上初の法皇。 | |
延喜 (醍醐天皇) | 901年7月15日~ 923年 | 901年は辛酉の年だったので、(60年に一度くる「辛酉」には革命が起こるという言い伝えがある)革命を避けるために改元した。 中国の伝説とされている「禹」という王が、天からさずけられた宝玉に刻まれていた「禹が玄珪をたまい、文に延喜という」という一文がもとになっているという記録がある。 | 延喜・天暦の治 延喜の荘園整理令 (902年) 古今和歌集の編纂 (905年) 延喜通宝の発行(907年) |
延長 (醍醐天皇) | 923年4月11日~ 931年 | 日照り続きで作物が不作になったり、疫病が流行ったりしたので、改善された。 醍醐天皇が、皇太子が長く生きるように、長寿を願って「延長」と決めたと言われている。 | 清涼殿に落雷(930年) |
承平 (朱雀天皇) | 931年4月26日~ 938年 | 「しょうへい」と読むこともある。 資料はないが、朱雀天皇が即位したため改元されたと考えられている。 漢書の「今累世平を承け、豪富吏民はしすうきょまんにして、貧苦いよいよ困しむ(平和な世の中を受け継いで、お金持ちや役人は豊かだが、貧しい民はまずます困っているという意味)」がもとになっていると言われている。 | 平将門の乱(935年) 土佐日記 |
天慶 (朱雀天皇] | 938年5月22日~ 947年 | 地震や戦争による世の中の乱れが起こったので改元した。 9世紀から10世紀になると武士が登場するようになり、土地をめぐって争いなどが起きるようになっていた。 「漢書」の「ただ天子中和の極を建て、条貫を兼ねすべて、金声にしてこれを玉振し、もって順じて天の慶を成して、万世の基を垂る」がもとになっている。 | 藤原純友の乱(939年) |
天暦 (村上天皇) | 947年4月22日~ 957年 | 村上天皇が即位したため改元(即位の翌年の改元)地震が起きたため改元されたという説もある。 村上天皇が「天暦」に決めたと言われている。 「論語」の「朕寡昧なるをもって夙に天暦を承く」がもとになっている。 | |
天徳 (村上天皇) | 957年10月27日~ 961年 | 日照り続きにより、作物の不作が起きたため改元した。 「礼記」の「飛竜天にありとは、すなわち天徳に位するなり」がもとになっている。 | 乾元大宝発行(958年) |
応和 (村上天皇) | 961年2月16日~ 964年 | 平安京の内裏(天皇が住んでいるところのこと)で火事が起きたためと、961年は辛酉の年(革命が起きると言われている年のこと。60年に一度ある)だったため、改元した。 「晋書」の「峨々たる仁君応に秀生に和すべし」がもとになっている。 | |
康保 (村上天皇) | 964年7月10日~ 968年 | 964年は甲子の年(革命が起こると言われている年)のためと、日照りが続いて作物の不作が起きたため改元した。 「書経」の「別く古の先哲王に求め聞き、用て民を康保せよ」がもとになっている。 | |
安和 (冷泉天皇) | 968年8月13日~ 970年 | 「あんな」と読む場合もある。 冷泉天皇が即位したため改元。 「礼記」の「是の故に治世の音、安くして以て楽しめるは、その政和げばなり」がもとになっていると言われている。 | 安和の変(969年) |
天禄 (円融天皇) | 970年3月25日~ 974年 | 円融天皇が即位したため改元。 改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、民の税を免除したり減らしたりした。またお年寄りや尼(出家した女性のこと)に穀物を与えた。 「書経」の「四海困窮せば、天禄は永く終えん」がもとになっていると言われている。※天禄とは、天からの恵みということ。 | |
天延 (円融天皇) | 974年12月20日~ 976年 | 地震が起こったため改元した。 改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、民の税を免除したり減らしたりした。またお年寄りに穀物を与えた。 「芸文類聚」の「皇殪没すといえども、天禄は永延なり※」がもとになっていると言われている。 ※「たとえ、先代の皇帝が亡くなっても、天からの恵みは永遠」という意味。 | |
貞元 (円融天皇) | 976年7月13日~ 978年 | 地震が起きたため改元した。 平安京の内裏(天皇が住んでいるところ)で火事があったため改元したという説もある。 「文選」の「巫咸をして夢を占わしむ、すなわち貞吉の元符なり※」がもとになっているという説がある。 ※「夢を占わせたら、とてもめでたいことが起こる前触れだった」という意味。 | |
天元 (円融天皇) | 978年11月29日~ 983年 | 災害が起こったため、改元した。 改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、お年寄りに穀物を支給した。 改元された日付にはいくつか説がある。 「史記」の「天元※に推本し、その意を順承す」がもとになっていると言われている。 ※天元とは、いろいろなものの元になっているもの、という意味。 | |
永観 (円融天皇) | 983年4月15日~ 985年 | 日照りが続いて、作物の不作が続いたため改元した。 改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、お年寄りや僧や尼に食べ物を支給した。 「書経」の「万年それ永く朕が子を観て徳に懐かしめん」がもとになっていると言われている。 | |
寛和 (花山天皇) | 985年4月27日~ 987年 | 「かんな」と読む場合もある。 花山天皇が即位したため改元した。 「書経」の「寛にして制あり。従容としてもって和せよ」がもとになっていると言われている。 | |
永延 (一条天皇) | 987年4月5日~ 989年 | 一条天皇が即位したため改元した。 「漢書」の「陛下本としてこれを始め、もって永世祚を延ぶ、また優ならずや」がもとになっていると言われている。 | |
永祚 (一条天皇) | 989年8月8日~ 990年 | ハレー彗星が現れたり、地震が起こったので、「災い」を取り払うために改元。 この頃の彗星は「ほうき星」と呼ばれて、大な災害が起こる前触れとして不吉とされていた。 彗星を理由に改元したのはこれが初めて。 「詩経」の「君子は万年、永く祚胤を錫う」が由来という説がある。 | |
正暦 (一条天皇) | 990年11月7日~ 995年 | 台風や、洪水が起こったので改元した。 改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、お年寄りや僧や尼に穀物を支給した。 「史記」の「すこぶる暦、服色を正すのことを言う」がもとになっているとう言われている。 | |
長徳 (一条天皇) | 995年2月22日~ 999年 | 疫病が流行したため改元。 改元しても疫病はおさまるどころか全国まで広がってしまったので、「長毒」だと皮肉されることがあった。 中国の学者である楊雄の書いた文章「唐虞長徳にして、四海永延壊す」から。 唐虞とは、中国の伝説上の聖天子である陶唐氏と有虞氏をあわせて呼ぶ時の呼び方。 | 長徳の変 |
長保 (一条天皇) | 999年1月13日~ 1004年 | 長徳に流行した疫病や、日照りが続いて不作(作物が育たないこと)のために改元。「国語」の「施し偏くして民阜からば、すなわちもって長く民を保つべし」と、「易経」から引用している(易経のどの部分かは不明)。「全ての人に恵みを与えることができれば、長く人民を治めることができる」という意味。 改元のときには、罪をおかした人の刑罰が軽くされた。 | 藤原定子が皇后に、藤原彰子が中宮になる。(初の一帝二后)(1000年) 枕草子(1001年) |
寛弘 (一条天皇) | 1004年7月20日~ 1013年 | 地震によって改元。「漢書」の寛弘にして下に尽くせることは、恭倹よりいでたり。」から引用。寛弘とは、心や度量が広いこと。恭倹とは、自分は慎ましく、人にはうやうやしくすること。 はじめ、「寛仁」に決定されたが、一条天皇の本名である「懐仁」と「仁」の字が被ってしまうので変えられた。 | 平安京内裏が火事により焼けて無くなる(1005年頃) 紫式部「源氏物語」(1008年) |
長和 (三条天皇) | 1013年12月25日~1017年 | 三条天皇の即位にあわせて改元。 「礼記」の「君臣正しく、父子親しく、長幼和し、而して後に礼立つ」から引用。 意味は「身分や年齢をわきまえることで、初めて礼儀が成り立つ」ということ。 | 藤原道長が後一条天皇の摂政になる(1016年) |
寛仁 (後一条天皇) | 1017年4月23日~1021年 | 後一条天皇の即位にあわせて改元。 「会稽記」「書経」のほか、「漢書」の「寛仁愛人、意豁如也」から。意味は「寛仁(心が広いこと)にして人を愛し、心が大きく小さなことにとらわれない」ということ。 | 藤原道長が「望月の歌」を詠む(1018年) |
治安 (後一条天皇) | 1021年2月2日〜 1024年 | 干支の中には「辛酉」という年があり、辛酉には革命が起こって朝廷が倒されると信じられていた。(詳しい解説は最後の「参考」を読もう) そのため、辛酉になる年には改元して革命を避けようとされていた。 1021年も辛酉だったので、改元して治安になった。 「漢書」の「因りて治安の策を陳べ、試みに詳らかにこれを択ぶ」から選ばれた。 改元の時には、罪を犯した人の罰が 軽くされ、お年寄りには穀物が贈られた | |
万寿 (後一条天皇) | 1024年7月13日〜1028年 | 治安の時と同じように、こんどは「甲子」の年になるため、革命を避けようと改元された。 「詩経」の「楽しきかな君子、万寿かぎりなからん」から。 改元の時には、罪を犯した人の罰が 軽くされ、お年寄りには食べ物が贈られた。 | 藤原道長が亡くなる(1027年) 平忠常の乱(1028年6月) |
長元 (後一条天皇) | 1028年7月25日〜1037年 | 疫病が流行ったり、干ばつ(雨が降らずに、農作物が取れなくなってしまうこと)があったので改元した。 関白をしていた藤原頼通が改元をすすめたと言われている。 「六韜」の「天の天たる、元の天たるや長し」から。 | |
長暦 (後朱雀天皇) | 1037年4月21日 〜1040年 | 後朱雀天皇が即位したため改元された。 「春秋」から元号は選ばれたと言われているが、どこの部分からは分かっていない。 | |
長久 (後朱雀天皇) | 1040年11月10日〜1044年 | 1040年に大地震が起こったこと、平安京にある天皇のおやしきが火事で燃えてしまったため改元された。 「老子」の「天長く地久し」から。 | 長久の荘園整理令(1040年) |
寛徳 (後朱雀天皇) | 1044年11月24日 〜1046年 | 疫病が流行したことと、日照りが続いて農作物の不作が起こったため改元した。 「後漢書」の「海内歓欣し、人寛徳を懐く」がもとになっている。 | 寛徳の荘園整理令(1045年) |
永承 (後冷泉天皇) | 1046年4月14日〜1053年 | 「えいじょう」という場合もある。 後冷泉天皇が即位したため改元した。 「宋書」と「書経」の「宜しく宗廟を奉り、永く天祚を承くべし」がもとになっている。 | 前九年の役(1051年) |
天喜 (後冷泉天皇) | 1053年1月11日〜1058年 | 疫病が流行したため改元した。 「抱朴子」の「人主道あればすなわち嘉祥ならびいたる、これすなわち天喜なり」がもとになっている。 天喜とは、「おめでたいことが起こる日」という意味。 | 天喜の荘園整理令(1055年) 平等院阿弥陀堂(1053年) |
康平 (後冷泉天皇) | 1058年8月29日〜1065年 | 平安京の中心にある天皇が即位式などの、大切なイベントを行う建物である「大極殿」が火事になってしまったため改元した。※京都にある法成寺がやはり火事で 無くなってしまったことが理由という説もある。 「漢書」の「文帝は寛恵にして温克、世の康平なるに遭う」がもとになっている。 康平とは、平和という意味。 | 更級日記 |
治暦 (後冷泉天皇) | 1065年8月2日〜1069年 | 日照りが続いて農作物の不作があり、さらに「三合」という厄年(悪いことが起きると言われる年のこと)だったため改元した。 「尚書正義」の「君子は暦を治るをもって時を明らかにする」が元になっている。 | |
延久 (後三条天皇) | 1069年4月13日〜1074年 | 後三条天皇が即位したため改元した。 「書経」の謀りてこれを延久ならしめんと欲す」がもとになっている。 | 延久の荘園整理令(1069年) |
承保 (白河天皇) | 1074年8月23日〜1077年 | 「しょうほう」と読む場合もある。 白河天皇が即位したため改元した。 災害が起きたので改元したという説もある。 「書経」の「王命ず、われにつとめて なんじの文祖命を受くるの民と、なんじの光烈なる考武王の弘朕とを承保せんことを」がもとになっている。 | |
承暦 (白河天皇) | 1077年11月17日〜1081年 | 天然痘という病気が流行り、日照りが続いて農作物の不作が起こったため改元した。 「維城典訓」の「聖人は懿徳をもって永く暦を ‘ く」がもとになっている。 「暦を承く」とは、「王位を受け継ぐ」という意味。 改元の時には、犯罪を犯した人の刑罰が軽くされた。 | |
永保 (白河天皇) | 1081年2月10日〜1084年 | 辛酉の年(革命が起こると言われる年)だったので改元した。 「書経」の「これ曰く、万年に至って、これ王の子子孫孫永く民を保つことを欲す」がもとになっている。 | 後三年の役(1083年) |
応徳 (白河天皇) | 1084年2月7日〜1087年 | 甲子の年(事件などが起こるといわれる年)だったので改元した。 「白虎通」の「陰陽和して万物序あり。休気充塞す。ゆえに符瑞ならびいたる。皆徳に応じて至る。」が、もとになっている。 | 白河上皇の院政(「1086年) |
寛治 (堀河天皇) | 1087年4月7日〜1095年 | 堀河天皇が即位したため改元した。 「礼記」の「湯は寛をもって民を治め、その虐を除く」がもとになっている。 | 後三年の役が終わる(1087年) |
嘉保 (堀河天皇) | 1095年1月29日〜1097年 | 天然痘という病気が流行したため改元した。 「史記」の「嘉びて太平に保んず」がもとになっている。 改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くした。 | 永長地震(1096年) |
永長 (堀河天皇) | 1097年1月9日〜 | 11ヶ月しか使わなかった元号。 大地震が起きたため、改元した。 「後漢書」の「故に夙夜もって永長なることを庶幾う」がもとになっている。 改元の時には、犯罪を犯した人の刑罰を軽くした。 | 都で田楽が流行 |
承徳 (堀河天皇) | 1097年11月21日〜1099年 | また1097年に地震が起きたため、 改元した。大風や洪水、彗星が現れたこと(不吉とされていた)が改元の理由だという説もある。 「易経」の「承くるに徳をもってするなり」がもとになっている。 | 永長の大田楽 永長地震(1096年) |
康和 (堀河天皇) | 1099年8月28日〜1104年 | 地震が発生したことと、疫病が流行ったため改元した。 「政論」の「四海康和し、天下楽を同じうす」がもとになっている。 改元の時には、一部の罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、人々の税を軽くしたり、お年寄りにお祝いの品を与えたりした。 | |
長治 (堀河天皇) | 1104年2月10日〜1106年 | 康和5年(1103年)の2月16日に月食が起こったため改元した。 月食が起こったことを、白河法皇と法皇の近臣(法皇のそばで仕える人のこと)とで「天で異変が起こっている」と考えて改元したことが中右記に書かれている。 「漢書」の「久安の勢を建て、長治の業を成し、もって祖廟に承け、もって六親に奉ず」がもとになっている。 改元の時には、一部の罪を犯した人々の刑罰を軽くした。 | |
嘉承 (堀河天皇) | 1106年4月9日〜1108年 | 「かしょう」と読む場合もある。 長治3年(1106年)に彗星が出現したため改元した。彗星は、悪いことが起きる前触れと考えられていた。 「漢書」の「皇皇としておおいに明かなり・・・嘉して天の和を承く、これその福を楽しむ」がもとになっている。 | |
天仁 (鳥羽天皇) | 1108年8月3日〜1110年 | 鳥羽天皇が即位したため改元した。 「文選」の「天は仁をおこし、地は富をおこし、人は法をおこす」がもとになっている。 | |
天永 (鳥羽天皇) | 1110年7月13日〜1113年 | 天仁3年(1110年)に彗星が出現したため改元した。 彗星は、悪いことが起きる前触れと考えられていた。 また、彗星が改元の理由なので、「天」の字が入っているものが良いと考えられた。 「書経」の「王小民をひきいて天の永命を受けんことを欲す」がもとになっている。 | |
永久 (鳥羽天皇) | 1113年7月13日〜1118年 | 麻疹が流行したためと、延暦寺と興福寺で争いが起こったため改元した。 「詩経」の「それ不戦の計を設くるは、守御の固きなり。みな社稷の臣なる永久の策なり」がもとになっている | |
元永 (鳥羽天皇) | 1118年4月3日〜1120年 | 病気が流行ったり、災害が起きたため改元した。 確かなことは分かっていないが、「易経」の「元永貞なれば、咎なし」がもとになっているという説がある。 | |
保安 (鳥羽天皇) | 1120年4月10日〜1124年 | 病気が流行ったり、災害が起きたため改元した。 確かなことは分かっていないが、「漢書」の「社稷を保守し、後嗣を安固す」がもとになっているという説がある。 | |
天治 (崇徳天皇) | 1124年4月3日〜1126年 | 崇徳天皇が即位したため改元した。 「易緯」「天子は天を継ぎて物を治む」がもとになっている。 | |
大治 (崇徳天皇) | 1126年1月22日〜1131年 | 天然痘が流行ったため改元した。 「河図挺佐輔」の「黄帝徳を修め義を立て、天下大いに治まる」 | |
天承 (崇徳天皇) | 1131年1月29日〜1132年 | 日照りが続いて作物がとれないことが続いたり、洪水などが起きたため改元した。 「漢書」の「天に奉じて親に承けて、朝に臨み臣にうけて、物ごとに節文あり、もって人倫をあきらかにす」がもとになっている。 | |
長承 (崇徳天皇) | 1132年8月11日〜1135年 | 「ちょうじょう」と読む場合もある。 伝染病が流行ったため改元した。他にも「火事が起きた」から、「説明ができないような不思議な事が起きた」のが原因という説もある。 「史記」の「後嗣業にしたがい、長く聖治を承く」がもとになっている。 | |
保延 (崇徳天皇) | 1135年4月27日〜1141年 | 伝染病が流行ったり、食べ物がなくてたくさんの人が亡くなったりしたため改元した。洪水が起きたのが原因という説もある。 「文選」の「実に至尊の御するところ、延寿を保ちて子孫によろし」がもとになっている。 | |
永治 (崇徳天皇) | 1141年7月10日〜1142年 | 1141年が辛酉(革命が起きるといわれている年)だったため、改元した。 改元の時には、罪を犯した人の罰を軽くしたり、税を減らしたり、なくしたりした。 またお年寄りと僧や尼に穀物を与えた。 「典論」の「天下の安きをみて千年にして永く治らんという」がもとになっている。 | |
康治 (近衛天皇) | 1142年4月28日〜1144年 | 近衛天皇が即位したため改元した。 「宋書」の「康をもって道を治む」がもとになっている | |
天養 (近衛天皇) | 1144年2月23日〜1145年 | 1144年が甲子(革命が起きると言われている年)だったので、改元した。 「後漢書」の「いずくんぞ天に応じ人を養い」がもとになっている。 | |
久安 (近衛天皇) | 1145年7月22日〜1151年 | ハレー彗星が現れたため、改元した。(このころ、彗星は不吉なものと考えられていた) 「漢書」の「久安の勢を建て、長治の輩を成す」がもとになっている | |
仁平 (近衛天皇) | 1151年1月26日〜1154年 | 1151年に起きた洪水のため改元した。 「後漢書」の「奮すでに節を立て、治仁平を貴ぶ」がもとになっている。 | |
久寿 (近衛天皇) | 1154年10月28日〜1156年 | 火事が起きたため改元した。 「隋書」の「基は北辰と同じくして久しく、寿は南山と共にして長し」がもとになっている。 | |
保元 (後白河天皇) | 1156年4月27日〜1159年 | 後白河天皇が即位したため改元した。 「願氏家訓」の「宜しく防慮しもって元吉を保つべし」がもとになっている。 | 保元の乱(1156年) 保元新制が出される(1156年) |
平治 (二条天皇) | 1159年4月20日〜1160年 | 二条天皇が即位したため改元した。 「史記」の「天下ここにおいて太だ平らぎ治まる」がもとになっている。 | 平治の乱(1159年) |
永暦 (二条天皇) | 1160年1月10日〜1161年 | 平治の乱が起こったため改元した。 「後漢書」の「永く代を暦て太平なり」がもとになっている。 | 平治の乱で平氏に敗れた源頼朝が伊豆へ流される(1160年) |
応保 (二条天皇) | 1161年9月4日〜1163年 | 天然痘という病気が流行ったため改元した。 「書経」の「殷の民を応保(和らげて安らかにするという意味)するなり」がもとになっている。 | |
長寛 (二条天皇) | 1163年3月29日〜1165年 | 天然痘という病気が流行ったため改元した。他にも、災害が起こったからという説もある。 「維城典訓」の「これを長くしこれを寛くせば、その功を施すこと博し」がもとになっている。 | |
永万 (二条天皇) | 1165年6月5日〜1166年 | 災害が起こったり、不思議なことが起こったため改元した。 二条天皇が天然痘にかかってしまい、治るようにと改元したという説もある。 「漢書」の「永永万年たり(平和な世の中が永く続くという意味)」がもとになっている。 | |
仁安 (六条天皇) | 1166年8月27日〜1169年 | 「にんなん」と読む場合もある。 六条天皇が即位したため改元した。 「毛詩正義」の「その寛仁にして安静なる政を行い、もって天下を定む」がもとになっている。 | 平清盛が太政大臣になる(1167年) |
嘉応 (高倉天皇) | 1169年4月8日〜1171年 | 高倉天皇が即位したため改元した。 「漢書」の「神爵五鳳の間、天下殷富にしてしばしば嘉応あり」がもとになっている。 | |
承安 (高倉天皇) | 1171年4月21日〜1175年 | 「じょうあん」と読む場合もある。天空に起こる変動(異常気象や、日食、隕石や彗星などの変わったこと)があったことと、高倉天皇の病気が治るようにと改元された。 「書経」の「王われに命じて来たり、なんじの文徳の祖を承け安んぜしむ」がもとになっている。 | |
安元 (高倉天皇) | 1175年7月28日〜1177年 | 天然痘という病気が流行ったため、改元した。 「漢書」の「民害を除いて元元を安んず」がもとになっている。 | 安元の大火(1177年) |
治承 (高倉天皇) | 1177年8月4日〜1181年 | 安元の大火により、大極殿(朝廷の正殿)が燃えてしまったので改元した。 「河図」の「治文をつつしみ、治天精を承く」がもとになっている。 | |
養和 (安徳天皇) | 1181年7月14日〜1182年 | 安徳天皇が即位したため改元した。 「後漢書」の「幸いにも命を保んじ、神を存し和を養うを得たり」がもとになっている。 | |
寿永 (安徳天皇) | 1182年5月27日〜1184年 | 食べ物がなくてたくさんの人が亡くなってしまったり、戦が起こったり、病気が流行ったりしたため改元した。 「三合」という厄年だったという説もある。 「詩経」の「率いて昭考に見え、もって考しもって享す。もって眉寿をたすけ、永くここに之を保つ」がもとになっている。 | |
元暦 (安徳天皇) (後鳥羽天皇) | 1184年4月16にち〜1185年 | 後鳥羽天皇が即位したため改元した。 「尚書緯考霊曜」の「天地開闢、暦を元め名を紀す」がもとになっている。 | 元暦の大地震(1185年) 壇ノ浦の戦い(1185年) |
鎌倉時代
元号 | 期間 | 改元の理由と由来 | 主な出来事 |
文治 (後鳥羽天皇) | 1185年8月14日~ 1190年 | 「百錬抄」には火災と地震が起きたため改元したとある。他にも「争いや乱が起きたため」とあるものも。 「文治」のほかに「建久」という案もあったが、後鳥羽天皇が「文治」が良いと考えたため選ばれた。 「礼記」の「文王は文によって国を治めた」という一文が由来。 意味は「文王(古代中国の伝説になっている王のこと)は武力に頼らず、文化や学問によって国を治める」というもの。 | 守護・地頭が置かれる (1185年) |
建久 (後鳥羽天皇) | 1190年4月11日〜1199年 | 1190年が三合という厄年だったので改元した。(地震が起きたのが理由という説もある) 「三国志」の「国を安んじて民を利し、久長の計を建つ」がもとになっている。 | 源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉幕府が開かれる(1192年) |
正治 (土御門天皇) | 1199年4月27日〜1201年 | 土御門天皇が即位したため改元した。 「荘子」の「天子、諸侯、大夫、庶人、この四者自ら正しくするは、治の美なり」がもとになっている。 | |
建仁 (土御門天皇) | 1201年2月13日〜1204年 | 1201年は辛酉(革命が起こるとされると言われる年)だったので、改元した。 「文選」の「智をつくし賢につく者は、必ず仁策を建て、人をもとめ士を求むる者は必ず伯跡を樹つ」がもとになっている | |
元久 (土御門天皇) | 1204年2月20日〜1206年 | 1204年は甲子(革命が起こるとされている年)だったので改元した。 「毛詩正義」の「文王国内に建元してより久し」がもとになっている | |
建永 (土御門天皇) | 1206年4月27日〜1207年 | 麻疹という病気が流行ったため改元した。天然痘という病気だったという説もある。 「文選」の「こいねがわくは力を上国に合わせ、恵みを下民に流し、永世の業を建て、金石の功を流さんことを」がもとになっている。 | . |
承元 (土御門天皇) | 1207年10月25日〜1211年 | 1207年は「三合」という厄年だったので改元した。「天然痘」という病気が流行ったのが原因という説もある。 「通典」の「いにしえ祭るに首時を以ってし、薦むるに仲月を用い、近代相承、元日祥瑞を奏す」がもとになっている。 | |
建暦 (順徳天皇) | 1211年3月9日〜1214年 | 順徳天皇が即位したため改元した。 「後漢書」「宋書」の「暦を建つるのもとは、必ず先に元を立つ」がもとになっている。 | 方丈記(1212年) |
建保 (順徳天皇) | 1214年12月6日〜1219年 | 災害があったため改元した。地震が起きたからという説もある。 「書経」の「またこれ天丕も建てて有殷を保がいす」がもとになっている。 | |
承久 (順徳天皇) | 1219年4月12日〜1222年 | 災害がおこったり、日照りが続いて作物がとれなくなってしまったりしたためと、1219年が「三合」という厄年だったので改元した。 「詩緯」の「周は后稷より起こり、歴世相承ぐこと久し」がもとになっている。 | 承久の乱(1221年) |
貞応 (後堀河天皇) | 1222年4月13日〜1224年 | 後堀河天皇が即位したため改元した。 「易経」の「中孚にしてもって貞しきに利しければ、すなわち天に応ずるなり」がもとになっている。 | |
元仁 (後堀河天皇) | 1224年11月20日〜1225年 | 日照りが続いて作物がとれなくなってしまったりしたため改元した。 「周易正義」の「元はすなわち仁なり」がもとになっている。 – | |
嘉禄 (後堀河天皇) | 1225年4月20日〜1228年 | 「天然痘」という病気が流行ったため改元した。 「博物志」の「陛下先帝の光耀を摛顕し、もって皇天の嘉禄を奉ず」がもとになっている。 | |
安貞 (後堀河天皇) | 1228年12月10日〜1229年 | 「天然痘」という病気が流行ったため改元した。 「易経」の「貞に安んずるの吉とは、地のかぎりなきに応ずるなり」がもとになっている。 | |
寛喜 (後堀河天皇) | 1229年3月5日〜1232年 | 「かんぎ」と読む場合もある。 暴風がおきたために改元した。 食べ物がなくて亡くなる人がたくさんいたのが原因という説もある。 「北魏書」の「仁にして温良を興し、寛にして喜楽を興す」がもとになっている。. | 寛喜の大飢饉(1230年) |
貞永 (後堀河天皇) | 1232年4月2日〜1233年 | 1232年に食べ物がなく、たくさんの人々が亡くなってしまう「大飢饉」が起きたので改元した。 「周易正義」の「利は永貞にあり。永は長なり。貞は正なり」がもとになっている。 | 貞永式目(1232年) |
天福 (四条天皇) | 1233年4月15日〜1234年 | 「てんふく」と読む場合もある。 四条天皇が即位したため改元した。 「書経」の「政善なれば天これを福す」がもとになっている。 | |
文暦 (四条天皇) | 1234年11月5日〜1235年 | 天皇に近しい人が亡くなることが続いたため改元した。 地震が理由という説もある。 「唐書」の「天文、暦数を掌る」がもとになっている。 | 御鉢が噴火(文暦の大噴火)(1234年) |
嘉禎 (四条天皇) | 1235年9月19日〜1238年 | 地震が起きたため改元した。 「北斉書」の「千祀をつみ、嘉禎を彰明す」がもとになっている。 嘉禎というのは、「良いことが起きる前触 ‘ れ」という意味。 | |
暦仁 (四条天皇) | 1238年11月23日〜1239年 | 災害が起きたため改元した。 「隋書」の「皇明暦を御し仁海県よりも深し」がもとになっている。 | |
延応 (四条天皇) | 1239年2月7日〜1240年 | 地震が起きたため改元した。 「文選」の「俊がいこれ延む、ぬかれて嘉挙に応ず」がもとになっている。 | |
仁治 (四条天皇) | 1240年7月16日〜1243年 | 「にんち」と読む場合もある。 日照りが続いて作物がとれなくなってしまったりしたため改元した。 「新唐書」の「寛仁を以って天下を治む」がもとになっている。 | |
寛元 ( 後嵯峨天皇) | 1243年2月26日〜1247年 | 後嵯峨天皇が即位したため改元した。 「宋書」の「五教寛にあれば、元元もって平らかなり」 | |
宝治 (後深草天皇) | 1248年2月28日〜1249年 | 後深草天皇が即位したため改元した。 「春秋繁露」の「身を治むる者は精を積むをもって宝となし、国を治むる者は賢を積むもって道となす」がもとになっている。 | |
建長 (後深草天皇) | 1249年3月18日〜1256年 | 平安京にある天皇の住んでいるお屋敷で火事が起きたため改元した。 「後漢書」の「長久の策を建つ」がもとになっている。 | |
康元 (後深草天皇) | 1256年10月5日〜1257年 | 麻疹という病気が流行ったため改元した。 「隋書」の「康なるかな元首や、われに恵むにかぎり無し」がもとになっている。 | |
正嘉 (後深草天皇) | 1257年3月14日〜1259年 | 火事が起きたため改元した。 「漢書」の「はじめて嘉吉を正して弘めてもって昌ゆ」がもとになっている。 | 正嘉の大地震(1257年) 正嘉の大飢饉(1257年) |
正元 (後深草天皇) | 1259年3月26日〜1260年 | 食べ物がなくてたくさんの人々が亡くなったり、病気が流行したため改元した。 「詩緯」の「一なること正元のごとく、万載相伝す」がもとになっている。 | 正元の大飢饉(1259年) |
文応 (亀山天皇) | 1260年4月13日〜1261年 | 亀山天皇が即位したため改元した。 「春秋内事」の「八節を建分し文をもって気に応ず」がもとになっている。 | |
弘長 (亀山天皇) | 1261年2月20日〜1264年 | 1261年は辛酉(革命が起きるといわれている年)のため、改元した。 「貞観政要」の「理定の規を聞き、もって長代の業を弘むることを思えば、万古より易らず、百慮帰を同じくす」がもとになっている。 | |
文永 (亀山天皇) | 1264年2月28日〜1275年 | 1264年が甲子(革命が起きるといわれている年)だったので改元した。 「後漢書」の「武を統べ文を興し、永く祖宗の洪業をおもい」がもとになっている。 | 文永の役(1274年) |
建治 (後宇多天皇) | 1275年4月25日〜1278年 | 後宇多天皇が即位したため改元した。 「周礼」の「もって建国の学政を治む」がもとになっている 。 | |
弘安 (後宇多天皇) | 1278年2月29日〜1288年 | 病気が流行したため改元した。 「太宗実録」の「安民の道を弘む」がもとになっている。 | 弘安の役(1281年) |
正応 (伏見天皇) | 1288年4月28日〜1293年 | 伏見天皇が即位したため改元した。 「詩経」の「徳正に利に応ず」がもとになっている。 | 鎌倉大地震(1293年) |
永仁 (伏見天皇) | 1293年8月5日〜1299年 | 地震が起きたため改元した。 「晋書」の「永く仁風を載し、長く無外を撫す」がもとになっている。 | 永仁の徳政令(1297年) |
正安 (後伏見天皇) | 1299年4月25日〜1302年 | 後伏見天皇が即位したため改元した。 「孔子家語」の「この五行はもって身を正しくし国を安んずるに足る」がもとになっている。 | |
乾元 (後二条天皇) | 1302年11月21日〜1303年 | 後二条天皇が即位したため改元した。 「易経」の「大いなるかな乾元」がもとになっている。 乾元とは、「天の筋道(人として行うべき正しい道)」のこと。 | |
嘉元 (後二条天皇) | 1303年8月5日〜1307年 | 日照りが続いて作物が取れなくなってしまったり、彗星が現れたりしたので改元した。この頃は、彗星は「不吉なことが起こる前触れ」と考えられていた。 「貞観政要」の「元良盛んなるを嘉して万国貞し」がもとになっている。 | 嘉元の乱(1305年) |
徳治 (後二条天皇) | 1307年12月14日〜1308年 | 災害が起きたため改元した。 「尚書正義」の「俊徳治能の士並びて官にあり」がもとになっている。 | |
延慶 (花園天皇) | 1308年10月9日〜1311年 | 「えんけい」と読む場合もある。 花園天皇が即位したため改元した。 「後漢書」の「終わるに功名をもってし、慶を後に延べざるなし」がもとになっている。 | |
応長 (花園天皇) | 1311年4月28日〜1312年 | 病気が流行ったため、改元した。 「旧唐書」の「長暦の規に応じ、中月の度にのっとり」がもとになっている。 | |
正和 (花園天皇) | 1312年3月20日〜1317年 | 嵐が起きたり、日食や月食などが起こるなど、「いつもと変わったこと」が起こったため改元した。 「唐紀」の「皇帝朝を受け正和を奏す」がもとになっている。 正和は、曲の名前のこと。 | |
文保 (花園天皇) | 1317年2月3日〜1319年 | 「ぶんほう」と読む場合もある。 地震が起きたため改元した。 「梁書」の「姫周文を基とし、久しく七百を保つ」がもとになっている。 | |
元応 (後醍醐天皇) | 1319年4月28日〜1321年 | 後醍醐天皇が即位したため改元した。 「唐書」の「黎元を康済するの応なり」がもとになっている。 | |
元亨 (後醍醐天皇) | 1321年2月23日〜1324年 | 1321年は辛酉の年(革命が起こると言われている年)だったため、改元した。 「易経」の「これをもって元いに亨る」がもとになっている。 | |
正中 (後醍醐天皇) | 1324年12月9日〜1326年 | 酷い暴風雨が起き、たくさんの人が犠牲になったため改元した。 「易経」の「子曰く、竜徳ありて正中なる者なり」がもとになっている。 | 正中の変(1324年) |
嘉暦 (後醍醐天皇) | 1326年4月26日〜1329年 | 洪水でたくさんの人がなくなったり、大きな地震が起きたり、病気が流行ったりしたため改元した。 「旧唐書」の「四序の嘉辰、歴代増置す」がもとになっている。 | |
元徳 (後醍醐天皇) | 1329年8月29日〜1331年 | 伝染病が流行ったため、改元した。 「周易正義」の「天の元徳始めて万物を生ずるをいう」がもとになっている。 「元徳」とは、大きな徳(その人の身に備わった品性のこと)という意味。 後醍醐天皇は、1331年に「元徳」から「元弘」に改元したが、後醍醐天皇の出身である大覚寺統と対立していた持明院統の光厳天皇と鎌倉幕府がそれを認めず、持明院統と幕府では元徳の次は1332年の「正慶」が使われることになる。 | |
元弘 (後醍醐天皇) | 1331年8月9日〜1334年 | 伝染病が流行ったため、改元した。 「芸文類聚」の「嘉占元吉、無量の裕を弘む」がもとになっている。 | 元弘の変(1331年) 鎌倉幕府が滅ぶ(1333年) |
室町時代(南朝)
元号 | 期間 | 改元の理由と由来 | 主な出来事 |
建武 (後醍醐天皇) | 1334年1月29日~ 1336年 | 鎌倉幕府を倒し、「これからは天皇中心の新しい政治を行う」ということを示すために後醍醐天皇が改元した。 (災害や、即位、革命を避けるためなどの理由でない改元はこれが始めてと言われている) 「建武」は、中国の後漢で使われていた元号。 中国の皇帝「光武帝」が王朝(王が治める国家ということ)を復活させたときの元号が「建武」だったので、後醍醐天皇は自分も天皇が治める国家を取り戻したいという意味を込めて建武にしたと言われている。 | 建武の新政 |
延元 (後醍醐天皇) | 1336年2月29日〜1340年 | 後醍醐天皇に反するようになった足利尊氏によって後醍醐天皇側の楠木正成を湊川の戦いで破るなど、後醍醐天皇の政治に不安が続いたので改元した。 急な改元だったので、反対意見が出たが、後醍醐天皇が反対を押し切った。 「梁書」の「聖徳の被う所、上は蒼蒼より、下は元元に延ぶ」がもとになっている。 足利尊氏は光明天皇を立て、これにより京都(光明天皇)の北朝と吉野(後醍醐天皇)の南朝が並立した。(南北朝時代) | 湊川の戦い(1336年) 南北朝の並立(1336年) 建武式目(1336年) 室町幕府の創設(1336年) 足利尊氏が征夷大将軍になる(1338年) |
興国 (後村上天皇) | 1340年4月28日〜1347年 | 後村上天皇が即位したため改元した。 元号の出典は不明になっている。 | |
正平 (後村上天皇) | 1347年12月8日〜1370年 | 改元の理由、元号の出典も不明。 (正平一統が理由ではないかという意見もある。正平一統とは、一時的に南朝と北朝の対立をやめて、南朝の元号である「正平」を統一して使うという約束のこと。結局、南朝が京都を攻めるなどしてしまったため約束は無効になった。) | 正平一統(1351年) |
建徳 (長慶天皇) | 1370年〜1372年 | 改元した日付は不明。長慶天皇が即位したため改元した。 元号の出典は不明。 | |
文中 (長慶天皇) | 1372年4月6(〜28日)〜1375年 | 改元の理由は不明。 元号の出典も不明。 | |
天授 (長慶天皇) | 1375年6月2日ごろ〜1381年ころ | 山崩れが起きたため改元した。 元号の出典は不明。 | |
弘和 (長慶天皇) | 1381年ごろの6月ごろ〜1384年 | 1381年が辛酉(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 元号の出典は不明。 | |
元中 (後亀山天皇) | 1384年〜1392年 | 後亀山天皇が即位したため改元した。 室町幕府の3代将軍足利義満の働きで、後亀山天皇は北朝と話し合いをした。 三種の神器を北朝の後小松天皇に渡したことで、南朝と北朝は統一された。 元号は北朝の「明徳」となった。 | 明徳の和約・南北朝の合一(1392年) |
室町時代(北朝)
元号 | 期間 | 改元の理由と由来 | 主な出来事 |
建武 (後醍醐天皇) | 1334年1月29日~ 1338年 | 鎌倉幕府を倒し、「これからは天皇中心の新しい政治を行う」ということを示すために後醍醐天皇が改元した。 (災害や、即位、革命を避けるためなどの理由でない改元はこれが始めてと言われている) 「建武」は、中国の後漢で使われていた元号。 中国の皇帝「光武帝」が王朝(王が治める国家ということ)を復活させたときの元号が「建武」だったので、後醍醐天皇は自分も天皇が治める国家を取り戻したいという意味を込めて建武にしたと言われている。 1336年に南北朝が並立すると、北朝と南朝それぞれ別の元号を定めるようになった。 南朝は1336年に「建武」から「延元」に改元したが、北朝は1338年まで「建武」を使い、1338年に「暦応」に改元した。 | 建武の新政 |
暦応 (光明天皇) | 1338年8月28日〜1342年 | 光明天皇が即位したため改元した。 (光明天皇が即位したのは1336年) 「帝王代記」の「王者これをもって暦を占い、和に応じて生ず」がもとになっている。 | |
康永 (光明天皇) | 1342年4月27日〜1345年 | 京都にある法勝寺の塔が火事になったことと、病気が流行ったため改元した。 「漢書」の「海内康平にして、永く国家を保つ」がもとになっている。 | |
貞和 (光明天皇) | 1345年10月21日〜1350年 | 彗星(この頃は不吉をあらわすものと考えられていた)が現れたり、病気が流行ったため改元した。 「芸文類聚」の「乾霊の休徳を体し、貞和の純精をうく」がもとになっている。 | |
観応 (崇光天皇) | 1350年2月27日〜1352年 | 「かんのう」と読む場合もある。 崇光天皇が即位したことによって改元した。 「荘子」の「虚通の理をもって、応物の数を観じ、而してなすこと無し」がもとになっている。 弟と対立した足利尊氏が南朝に協力を依頼し、1351年の正平一統により、北朝は南朝の元号である「正平」に一度統一した。また、同時に崇徳天皇は廃位(天皇ではなくなること)になった。 しかしすぐにまた南朝と北朝は対立することになり、1352年に「観応」が復活し、後光厳天皇が即位することになった。 | 正平一統 |
文和 (後光厳天皇) | 1352年9月27日〜1356年 | 「ぶんな」とよむ場合もある。後光厳天皇が即位したため改元した。 「三国志」の「文内に和らぎ、武外に信ぶ」がもとになっている。 | |
延文 (後光厳天皇) | 1356年3月28日〜1361年 | 南朝と北朝の間で戦いがたくさん起こったため改元した。 「漢書」の文学・儒者数百人を延く」がもとになっている。 | |
康安 (後光厳天皇) | 1361年3月29日〜1362年 | 病気が流行ったり、あいかわらず南朝と北朝の間での戦いが続いたため改元した。 「史記正義」の「天下の衆事、みな康安を得れば、もって天下太平を致す」がもとになっている。 | |
貞治 (後光厳天皇) | 1362年9月23日〜1368年 | あいかわらず南朝と北朝との間で戦いがつづき、さらに地震や津波、火事などが起きたため改元した。 「易経」の「武人の貞しきに利しとは、志治まるなり」がもとになっている。 | |
応安 (後光厳天皇) | 1368年2月18日〜1375年 | 病気が流行ったり、災害などが起きたため改元した。 「毛詩正義」の「幸いに応に安定すべし」がもとになっている。 | 足利義満が征夷大将軍になる(1368年) |
永和 (後円融天皇) | 1375年2月27日〜1379年 | 後円融天皇が即位したため改元した。(即位は4年前) 「書経」の「詩は志を言い、歌は言を永くし、声は永きにより、律は声を和す」がもとになっている。 | |
康暦 (後円融天皇) | 1379年3月22日〜1381年 | 災害が起きたり、病気が流行ったり、戦がたくさん起こったりしたため改元した。 「唐書」の「成康の暦業を承く」がもとになっている。 | |
永徳 (後円融天皇) | 1381年2月24日〜1384年 | 1381年は辛酉(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 元号の由来は不明。 | |
至徳 (後小松天皇) | 1384年2月27日〜1387年 | 後小松天皇が即位したため改元した。 「孝経」の「先王に至徳要道有り、もって天下を順にす」がもとになっている。 | |
嘉慶 (後小松天皇) | 1387年8月23日〜1389年 | 「かきょう」と読む場合もある。 病気が流行ったため改元した。 「毛詩正義」の「嘉慶まさに有らんとするに、禎祥まず来たりて現わる」がもとになっている。 | |
康応 (後小松天皇) | 1389年2月9日〜1390年 | 朝廷の重要な役職の人や、位の高い僧が相次いで亡くなったため改元した。 「文選」の「国富み民康く、神応じさいわいいたり」がもとになっている。 | |
明徳 (後小松天皇) | 1390年3月26日〜1394年 | 災害が起きたり、戦が多く起こったりしたので改元した。 「礼記」の「大学の道は、明徳を明らかにするにあり」がもとになっている。 | 南北朝の合一(1392年) |
応永 (後小松天皇) | 1394年7月5日〜1428年 | 33年続いた元号で、明治以前まででは最も長く使われた元号。(明治は43年、昭和は62年、平成は30年) 後円融上皇が亡くなってしまったので改元した。 「唐会要」の「久しく応にこれを称し、永く天下を有つべし」がもとになっている。 | 足利義満が金閣寺を建てる(1397年) |
正長 (称光天皇) | 1428年4月27日〜1429年 | 称光天皇が即位したため改元した。 (実際に称光天皇が即位したのは16年前) 称光天皇の即位が理由としながら、実は「応永」が永く続きすぎたため改元したという考え方もある。 「礼記正義」の「在位の君子、威儀差忒あらず、もってこの四方の国を正長すべし」がもとになっている。 | 正長の土一揆(1428年) |
永享 (後花園天皇) | 1429年9月5日〜1441年 | 後花園天皇が即位したため改元した。 (室町幕府将軍に足利義教が就いたから改元したという考え方もある) 「後漢書」の「よく魏々の功を立てて子孫に伝え、永く無窮の祚を享く」がもとになっている。 | 永享の乱(1438年) 永享関東地震(1433年) 結城合戦(1440年) |
嘉吉 (後花園天皇) | 1441年2月17日〜1444年 | 1441年が辛酉(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 「易経」の「嘉にまことあり、吉とは、位正中なればなり」がもとになっている。 | 嘉吉の乱(1441年) |
文安 (後花園天皇) | 1444年2月5日〜1449年 | 「ふんあん」と読む場合もある。 1444年が甲子(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 「書経」の「文を尊び漢の社稷を安んず」がもとになっている。 | |
宝徳 (後花園天皇) | 1449年7月28日〜1452年 | 地震が起きたり、病気が流行ったため改元した。 「旧唐書」の「朕三徳を宝とす、いわく慈・倹・謙」がもとになっている。 | |
享徳 (後花園天皇) | 1452年7月25日〜1455年 | 三合という厄年だったためと、麻疹という病気が流行ったため改元した。 「書経」の「世世徳を享け、万邦式となす」がもとになっている。 | |
康正 (後花園天皇) | 1455年7月25日〜1457年 | 戦がたくさん起こったため改元した。 「書経」の「平康は正直」がもとになっている。 | |
長禄 (後花園天皇) | 1457年9月28日〜1461年 | 日照りが続いて作物が取れなくなってしまったため改元した。 「韓非子」の「その生を建つるや長く、禄を持するや久し」がもとになっている。 | 長禄・寛正の飢饉 (1459年〜) |
寛正 (後花園天皇) | 1461年12月21日〜1466年 | 日照りが続いて作物が取れなくなってしまったり、食べ物がなくてたくさんの人々が亡くなってしまったりしたので改元した。 「孔子家語」の「外寛にして内正し」がもとになっている。 | 長禄・寛正の飢饉 (〜1461年) |
文正 (後土御門天皇) | 1466年2月28日〜1467年 | 後土御門天皇が即位したため改元した。 「荀子」の「文学を積み、身行を正しくす」がもとになっている。 | 文正の政変(1467年) |
応仁 (後土御門天皇) | 1467年3月5日〜1469年 | 1466年に室町幕府将軍足利義教の子である足利義視を暗殺するという計画(文正の政変)が起こり、兄の足利義政の指示で改元された。 「維城典訓」の「仁の物に感じ、物の仁に応ずるや」がもとになっている。 | 応仁の乱(1467年〜) |
文明 (後土御門天皇) | 1469年4月28日〜1487年 | 応仁の乱が起こったため改元した。 「易経」の「文明にしてもって健、中正にして応ずるは、君子の正なり」がもとになっている。 | 山城の国一揆(1485年) |
長享 (後土御門天皇) | 1487年7月20〜1489年 | 火事が起きたり、病気が流行ったり、戦がたくさん起こったりしたので改元した。 「文選」の「功を全うし、長くその福を享くるを得んことを喜ぶ」がもとになっている。 | |
延徳 (後土御門天皇) | 1489年8月21日〜1492年 | 病気が流行ったため改元したと伝えられているが、実は室町幕府の足利義尚が亡くなってしまったのが理由とも言われている。 「孟子」の「道徳を開延す」がもとになっている。 | 足利義政が銀閣を建てる(1489年) |
明応 (後土御門天皇) | 1492年7月19日〜1501年 | 病気が流行ったため改元した。 「易経」の「その徳は剛健にして文明、天に応じて時に行う」がもとになっている。 | 明応地震(1498年) |
文亀 (後柏原天皇) | 1501年2月29日〜1504年 | 1501年は辛酉(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 「爾雅」の「十朋の亀は、一に曰く神亀・・・五に曰く文亀」がもとになっている。 | |
永正 (後柏原天皇) | 1504年2月30日〜1521年 | 1504年は甲子(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 「易緯」の「永くその道を正し、みな吉化を受く」がもとになっている。 | 永正地震(1520年) |
大永 (後柏原天皇) | 1521年8月23日〜1528年 | 戦争がたくさん起こったため改元した。 「通典」の「その大なればすなわちもって業を永くす」がもとになっている。 | |
享禄 (後奈良天皇) | 1528年8月20日〜1532年 | 戦争が多く起きたため、改元した。 「易経」の「天位におりて天禄を享くるなり」がもとになっている。 | |
天文 (後奈良天皇) | 1532年7月29日〜1555年 | 病気が流行ったため改元した。 「書経」の「舜天文を察し七政をひとしくす」がもとになっている。 | 鉄砲の伝来(1543年) キリスト教の伝来(1549年) 川中島の戦い(1553年) |
弘治 (後奈良天皇) | 1558年10月23日〜1558年 | 「こうぢ」と読む場合もある。 災害が起きたため改元したと言われている。 「北斉書」の「ただ宝命を承け、志して治体を弘む」がもとになっている。 | |
永禄 (正親町天皇) | 1558年2月28日〜1570年 | 正親町天皇が即位したため改元した。 「群書治要」の「永く福禄を全うする者なり」がもとになっている。 | 桶狭間の戦い(1560年) 織田信長が足利義昭と京都へ入る(1568年) |
元亀 (正親町天皇) | 1570年4月23日〜1573年 | 戦争がたくさん起きたため改元した。 足利義昭が室町幕府将軍になったのが理由という説もある。 「詩経」の「元亀象歯、大いに南金を賂る」がもとになっている。 | 姉川の戦い(1570年) 織田信長による比叡山焼き討ち(1570年) 室町幕府の滅亡(1573年) |
安土桃山時代
元号 | 期間 | 改元の理由と由来 | 主な出来事 |
天正 (正親町天皇) | 1573年7月28日〜1593年 | 戦争がたくさん起きたため改元した。 「老子」の「清静は天下の正たり」がもとになっている。 | 長篠の戦い(1575年) 本能寺の変(1582年) 天正遣欧使節(1582年) 天正地震(1586年) 刀狩令(1588年) 豊臣秀吉による全国統一(1590年) |
文禄 (後陽成天皇) | 1593年12月8日〜1596年 | 後陽成天皇が即位したため改元した。 「天正」が長く続きすぎたのが改元の理由という説もある。 「通典」の「すべて京の文武の官、毎歳禄を給わる」がもとになっている。 | 文禄の役 |
江戸時代
元号 | 期間 | 改元の理由と由来 | 主な出来事 |
慶長 (後陽成天皇) | 1596年10月27日〜1615年 | 1596年に地震が起こったため改元した。 「毛詩注疏」の「文王功徳深厚なり、ゆえに福慶延長す」がもとになっている。 | 慶長地震(1596年) 豊臣秀吉が亡くなる(1598年) 関ヶ原の戦い(1600年) 徳川家康が征夷大将軍になり、江戸幕府を開く(1603年) 大坂冬の陣(1614年) 大阪夏の陣(1615年) |
元和 (後水尾天皇) | 1615年7月13日〜1624年 | 「げんわ」と読む場合もある。 後水尾天皇が即位したため改元した。江戸幕府が豊臣氏を滅ぼしたことで改元するよう朝廷に求めたのが理由という説もある。 もとになった書物などはなく、唐で使われていた「元和」をそのまま使った。 | 武家諸法度(1615年) 禁中並公家諸法度(1615年) 徳川家康が亡くなる(1616年) 元和大殉教(1622年) |
寛永 (後水尾天皇) | 1624年2月30日〜1645年 | 1624年は甲子(革命があると言われている年)だったため改元した。 「詩経集注」の「寛は広なり、永は長なり」がもとになっている。 | 絵踏の開始(1629年) 寛永小田原地震(1633年) 参勤交代の開始(1635年) 寛永通宝(1636年) 島原・天草一揆(1637年) 鎖国の開始(1641年) |
正保 (後光明天皇) | 1645年12月16日〜1648年 | 後光明天皇が即位したため改元した。 「尚書正義」の「先正保衡は我が烈祖をたすけ、皇天にいたる」がもとになっている。 | |
慶安 (後光明天皇) | 1648年2月15日〜1652年 | どうして改元したかは分かっていないが、「正保」という言葉の発音が「焼亡(焼けて亡くなる)」と似ているなど良くないイメージがあったからという説もある。 「易経」の「東北には朋を喪うとは、すなわち終りには慶有るなり。貞に案ずるの吉とは、地のかざりなきに応ずるなり」がもとになっている。 | 慶安の変(1651年) |
承応 (後光明天皇) | 1652年9月18日〜1655年 | どうして改元したかは分かっていないが、江戸幕府の徳川家光が亡くなったことなどが原因で幕府が朝廷に改元を求めたのではないかという説もある。 「晋書」の「夏・殷運を承ぎ、周氏期に応ず」がもとになっている。 | 承応事件(1652年) |
明暦 (後西天皇) | 1655年4月13日〜1658年 | 「めいりゃく」と読む場合もある。 後西天皇が即位したため改元した。 「漢書」の「大法九章、五紀暦法を明らかにす」がもとになっている。 | 明暦の大火(1657年) |
万治 (後西天皇) | 1658年7月23日〜1661年 | 大規模(スケールが大きいこと)な火災(明暦の大火)が起きたため、改元した。 「史記」の「衆民すなわち定まり、万国治をなす」がもとになっている。 | |
寛文 (後西天皇) | 1661年4月25日〜1673年 | 1661年に京都にある皇居が火災で燃えてしまったため改元した。 「荀子」の「節奏陵なれば文あり、民をやしなうこと寛なれば安し」がもとになっている。 | 寛文地震(1662年) シャクシャインの戦い(1669年) |
延宝 (霊元天皇) | 1673年9月21日〜1681年 | 霊元天皇が即位したため改元した。 他にも火災が多くおきたとか、洪水が起きたから改元したという説もある。 「隋書」の「宝祚を延ぶれば、渺として疆なし」がもとになっている。 | 延宝房総沖地震(1677年) |
天和 (霊元天皇) | 1681年9月29日〜1684年 | 「てんわ」と読む場合もある。1681年は辛酉(革命が起こると言われている年)だったため改元した。 「後漢書」の「天人は協和し、万国はみな寧んず」がもとになっている。 | |
貞享 (霊元天皇) | 1684年2月21日〜1688年 | 1684年が甲子(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 「易経」の「永貞なれば吉。王もって帝を享る、吉。」がもとになっている。 | |
元禄 (東山天皇) | 1688年9月30日〜1704年 | 東山天皇がを即位したため改元した。 「文選」の「元勲を建立し、もって顕禄に応ぜば、福の上なり。」がもとになっている。 | 元禄地震(1703年) |
宝永 (東山天皇) | 1704年3月13日〜1711年 | 大きな地震(元禄地震)と江戸で大きな火事が起きたのを理由に改元した。 「旧唐書」の「宝祚ただ永く、暉光日に新たなり」がもとになっている。 | 宝永金銀(1706年) 宝永地震(1707年) 宝永大噴火(1707年) |
正徳 (中御門天皇) | 1711年4月25日〜1716年 | 中御門天皇が即位したため改元した。 「尚書正義」の「正徳の者は自らその徳を正しくす」がもとになっている。 | 正徳金銀 |
享保 (中御門天皇) | 1716年6月22日〜1736年 | 江戸幕府の徳川家宣と、徳川家継が亡くなり、幕府が改元を朝廷にもとめたため改元した。 「北周書」の「ごの大命を享け、万国を保有す」がもとになっている。 | 享保の飢饉(1732年) 享保の改革 |
元文 (桜町天皇) | 1736年4月28日〜1741年 | 桜町天皇が即位したため改元した。 「文選」の「武は元基を創め、文は大命を集す」がもとになっている。 | |
寛保 (桜町天皇) | 1741年2月27日〜1744年 | 1741年は辛酉(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 「国語」の「寛は本を保つ所以なり」がもとになっている。 | 寛保の洪水・高潮(1742年) 公事方御定書(1742年) |
延享 (桜町天皇) | 1744年2月21日〜1748年 | 1744年は甲子(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 「芸文類聚」の「聖主寿延び、祚を享くること元吉なり」がもとになっている。 | |
寛延 (桃園天皇) | 1748年7月12日 | 桃園天皇が即位したため改元した。 「文選」の「寛裕の路を開き、もって天下の英俊を延く」がもとになっている。 | |
宝暦 (桃園天皇) | 1751年10月27日〜1764年 | 「ほうりゃく」と読む場合もある。 地震が起きたり、桜町上皇が亡くなってしまったり悪いことが続いたので改元した。 「貞観政要」の「恭しく宝暦を承け、つつしんで帝図をうけたまわるに及んで」がもとになっている。 | |
明和 (後桜町天皇) | 1764年6月2日〜1772年 | 後桜町天皇が即位したため改元した。 「書経」の「百姓昭明にして、万邦を協和す」がもとになっている。 | 明和の大火(1772年) |
安永 (後桃園天皇) | 1772年11月16日〜1781年 | 大火事(明和の大火)が起きたため改元した。 「文選」の「寿安、永寧」がもとになっている、 | 解体新書(1774年) 安永大噴火(1779年) |
天明 (光格天皇) | 1781年4月2日〜1789年 | 光格天皇が即位したため改元した。 「書経」の「この天の明命を顧みる」がもとになっている。 | 天明の飢饉 天明の大火(1788年) |
寛政 (光格天皇) | 1789年1月25日〜1801年 | 大火事(天明の大火)が起きたため改元した。 「春秋左氏伝」の「寛もって猛を済い、猛もって寛を済う。政ここをもって和す」がもとになっている。 | 寛政の改革(1787年〜1793年) 寛政異学の禁(1790年) 寛政地震(1793年) |
享和 (光格天皇) | 1801年2月5日〜1804年 | 1801年は辛酉(革命が起きると言われている年)だったので改元した。 「文選」の「天に順いてその運を享け、人に応じてその義を和す」がもとになっている。 | |
文化 (光格天皇) | 1804年2月11日〜1818年 | 1804年は甲子(革命が起きると言われている年)だったので改元した。 「易経」の「天文を観てはもって事変を察し、人文を観てはもって天下を化成す」がもとになっている。 | 文化の大火 |
文政 (仁孝天皇) | 1818年4月22日〜1831年 | 仁孝天皇が即位したため改元した。 「漢書」の「豪俊を選び文学を講じ、政事に稽参して民の心を進めんことを祈む」がもとになっている。 | 日本地図(1821年) シーボルト事件(1828年) |
天保 (仁孝天皇) | 1831年12月10日〜1845年 | 1831年に地震が起きたため改元した。 「書経」の「つつしんで天道を崇び、永く天命を保て」がもとになっている。 | 天保の飢饉(1833年) 天保の改革 大塩の乱(1837年) 蛮社の獄(1839年) |
弘化 (仁孝天皇) | 1845年12月2日〜1848年 | 江戸幕府のお城である、江戸城の本丸(お城の中心となる部分)で火事が起きたため改元した。 「書経」の「化を弘め、天地をつつしみ亮く」がもとになっている、 | 善光寺地震(1847年) |
嘉永 (孝明天皇) | 1848年2月28日〜1855年 | 孝明天皇が即位したため改元した。 「宋書」の「ここに皇いに多裕を享け、楽永く央ること無きを嘉す」がもとになっている。 | ペリー来航(1853年) 日米和親条約(1854年) |
安政 (孝明天皇) | 1855年11月27日〜1860年 |
天皇の住む屋敷で火事が起きたため改元した。 | 安政の大地震(1855年) 安政の大獄(1858年) 日米修好通商条約(1858年) 桜田門外の変(1860年) |
万延 (孝明天皇) | 1860年3月18日〜1861年 | 江戸城が火事で燃えてしまったので改元した。 「後漢書」の「千億の子孫を豊かにし、万載を歴て永く延べん」がもとになっている。 | |
文久 (孝明天皇) | 1861年2月19日〜1864年 | 1861年が辛酉(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 「後漢書」の「文武並び用い、長久の計を成す」がもとになっている。 | 文久の改革(1862年〜) 生麦事件(1862年) |
元治 (孝明天皇) | 1864年2月20日〜1865年 | 1864年は甲子(革命が起きると言われている年)だったため改元した。 「易経」の「乾元の用九は、天下治るなり」がもとになっている。 | 池田屋事件(1864年) 禁門の変(1864年) |
慶応 (孝明天皇) | 1865年4月7日〜1868年 | 1864年に起きた禁門の変で、京都で激しい戦いが起こり、2万軒もの家が焼けてなくなってしまったりしたため、改元した。 「文選」の「慶雲応に輝くべし、皇階木に授けらる」がもとになっている。 | 薩長同盟(1866年) 大政奉還(1867年) 戊辰戦争(1868年) |
明治からは、「一世一元制」となり、1代の天皇に1つだけの元号を定めることになったよ。
【提案者】
岩倉具視
【理由】
①改元するには、元号のそのものや、使われる字などについて たくさん議論する必要があり、時間がもったいないということ
②中国の清では、1代の天皇に1つの元号としていることを参考にした
③1代の天皇に1つの元号のほうが、国民にとっても分かりやすく、長く同じ元号を使うので、親しみをもちやすくなる。
明治
1868年9月8日~1912年
天皇:明治天皇(睦仁)
改元の理由
明治天皇が即位したため改元。
由来
「易経」の一文
「聖人南面して天下を聴き、明に嚮いて治む」から。
「理想的な徳をもつ人は南の方を向いて※天下の人々の声をよく聴き、明るい方向に向かって世の中を治める」という意味。
※南を向くというのは、古代中国では天子(日本での天皇のイメージ)は南の方を向いて臣下と対面していたから。
明治政府の中心だった松平春嶽が2~3つの元号の案を出し、その中から天皇が「くじ引き」をして明治に決定した。
主な出来事 | |
1869年 | 版籍奉還 |
1871年 | 廃藩置県 |
1874年 | 民選議員設立の建白書 |
1876年 | 日朝修好条規 |
1877年 | 西南戦争 |
1881年 | 国会開設の詔 自由党結成 |
1882年 | 立憲改進党結成 |
1885年 | 内閣制度のはじまり |
1889年 | 大日本帝国憲法 |
1890年 | 教育勅語 第1回目の帝国議会が開かれる |
1894年 | 領事裁判権撤廃 日清戦争 |
1895年 | 下関条約 三国干渉 |
1902年 | 日英同盟 |
1904年 | 日露戦争 |
1905年 | ポーツマス条約 |
1910年 | 韓国併合 |
1911年 | 関税自主権の回復 |
大正
1912年7月30日~1926年
天皇:大正天皇(嘉仁)
改元の理由
1912年に明治天皇が崩御し、皇室典範によって大正天皇が即位したため。
由来
「易経」の一文「大いに亨りて以て正しきは天の道なり」から。「あらゆる物事が大いにうまくいき、正しく行われることが天の道理である」という意味。こは段落ブロックです。
当時首相をつとめていた西園寺公望が「大正」「天興」「興化」の3つの案を出し、その中から「大正」が選ばれた。
また、明治天皇から「天皇が亡くなると、その天皇の在位中の元号を追号(亡くなった天皇に対して贈られる称号のこと)として贈る」ようになった。
それまでは、その天皇の特徴にちなんだ言葉や、住んでいた院の名前などが付けられていた。
主な出来事 | |
1914年 | 第一次世界大戦 |
1917年 | 米騒動 シベリア出兵 |
1919年 | 国際連盟に常任理事国として加盟 |
1923年 | 関東大震災 |
1925年 | 普通選挙法 |
昭和
1926年12月25日~1989年
天皇:昭和天皇(裕仁)
改元の理由
1926年12月25日に大正天皇が崩御したため改元。
由来
「書経」の一文
「百姓昭明にして、万邦を協和す」から。
「国民が明るく輝き、あらゆる国々が互いに調和する」という意味。。
主な出来事 | |
1931年 | 満州事変 |
1932年 | 五・一五事件 |
1933年 | 国際連盟脱退 |
1936年 | 二・二六事件 |
1937年 | 日中戦争 |
1940年 | 日独伊三国同盟 |
1941年 | 日ソ中立条約 太平洋戦争 |
1945年 | 広島原爆投下 長崎原爆投下 ポツダム宣言受諾(終戦) |
1946年 | 日本国憲法公布 |
1951年 | サンフランシスコ平和条約 日米安全保障条約 |
1956年 | 日ソ共同宣言 国際連合に加盟 |
1960年 | 日米新安全保障条約 |
1972年 | 沖縄が日本に復帰 日中国交正常化 |
1973年 | 石油危機 |
1978年 | 日中平和友好条約 |
平成
1989年1月8日〜2019年4月30日
天皇:上皇明仁
改元の理由
1989年1月7日に昭和天皇が崩御し、皇太子だった明仁親王が即位した。
皇位継承をうけて、元号法に基づき改元。
法律によって改元されたのは日本史上はじめて。
小渕恵三官房長官が新元号を公表した。
由来
「史記」の一文「内平かに外成る」
「書経」の一文「地平かに天成る」
「国の内外(中も外も)、天地とも平和になる」という意味。
東京大学名誉教授の山本達郎氏が提案した。
他にも「正化」「修文」の候補があった。
その中で「平成」が採用されたのは、「明治・大正・昭和」をアルファベットの頭文字で表したときに、「M・T・S」となるので、「正化」と「修文」では「S」がかぶってしまって見分けづらい、という理由もあった。
主な出来事 | |
1989年 | 消費税導入(3パーセント) |
1995年 | 阪神・淡路大震災 |
2002年 | 日朝首脳会談(拉致被害者5名帰国) |
2003年 | 自衛隊イラク派遣 |
2011年 | 東日本大震災 |
令和
2019年5月1日〜
天皇:今上天皇(徳仁天皇)
改元の理由
2016年8月8日に当時の天皇陛下(明仁天皇)が譲位(天皇の位を譲ること)することを発表され、改元の準備がされた。
あらかじめ新天皇の即位と改元を2019年5月1日に行うと決め、新元号の発表もその1ヶ月前に行うことが発表された。
新元号を先に発表するのは、コンピューターや書類などの変更手続きの時間を確保するため。
菅義偉官房長官が新元号を公表した。
由来
「万葉集」の中の、梅花の歌三十二首 あわせて序より。
【原文】
時に、初春の令月にして、気淑く風和らぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。こは段落ブロックです。文章をここに入力してください。
【意味】
時に、初春の正月の令き月(おめでたい月のこと)にして、気候は快く、風はおだやかだ。梅は鏡の前の「おしろい」のように白く花開いて、蘭は香り袋のように香っている。
「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められている。
「万葉集」は、天皇や貴族はもちろん、庶民(一般の人のこと)の作品までおさめられた和歌集。初めて日本で書かれた書物から元号が選ばれた。
主な出来事 | |
2019年10月 | 消費税10パーセント 沖縄県首里城火災 |
2020年4月 | 新型コロナウィルスによる緊急事態宣言 |
2021年1月 | 新型コロナウィルスによる2度目の緊急事態宣言 |
随時更新します
干支というのは、「十二支のこと」と思われがちだけど、実は十二支の他に「十干」という漢字があり、十干と十二支を合わせたものが干支なんだ。
【十干】
甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸
【十二支】
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥
組み合わせは全部で60通り。
その中でも甲+子の「甲子」と、辛+酉の「辛酉」の年にはそれぞれ「甲子革令」と辛酉革命」が起こり、朝廷が倒されてしまうと信じられてきていたんだ。
そのため、革命をさけるために甲子と辛酉の年には改元が行われていたよ。
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ゆみねこ
詳しいプロフィールを見る
青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。
大化から令和までは、だいたい何個くらいあるんですか?