「鎌倉幕府」武家政権のはじまりをわかりやすく解説
源平の戦いで勝った源頼朝は、鎌倉に新しい政府を作ったよね。
源平の戦いって?
源頼朝はどうして勝ったの?とピンと来なかったら、「源平の戦い」の解説ページ「源平の戦い」をわかりやすく解説(期末テスト対策ポイント)を読もう!
これを「鎌倉幕府」と呼ぶよ。
いよいよ、日本の歴史ではじめての「武家による政治」が始まるよ。
このページでは、鎌倉幕府がどうやって誕生したかを詳しく解説するよ!
そもそも、政治って?朝廷って?幕府って?
鎌倉幕府が開かれて、武家による政治がはじまったんだよね。
ということは、「朝廷」はなくなっちゃったの??
いや。
鎌倉幕府が開かれた後も、朝廷はちゃんとあるよ。
・・・あれ?
鎌倉幕府ができたのに、朝廷もあるの?
それって政治をするところが2つもあるということ・・?
なんだかよく分からなくなってきたよ。
そうだよね。
ちょっとここで、キホンをおさらいしてみよう。
政治とは?
政治というのは、カンタンにいうと、国とか県、市のようにまとまった団体が、「これからどうするか」とか、「どんなルールにするか」とか、色々なことを決めることなんだよ。
キミの「家族」に例えて考えてみよう。
「どこに住むか」「今日のご飯は何にするか」「いつ、どこに旅行に行くか」「ペットの名前は何にするか」「ゲームの時間はどのくらいにするか」「お小遣いはいくらにするか」・・
家族の間でも、色々なことを決めたりするよね。
それは、これからも家族みんなが仲良く幸せに暮らしていくために必要なことを決めているんだよね。
時には家族で話し合って決めたり、お父さんやお母さんがリーダーになって決めたりもするよね。
国の政治も同じ。
国に住んでいる人、つまり国民がこれからも仲良く幸せに暮らせるように、「どんな法律を作るか」「税金をいくらにするか」「どこに学校を作るか」・・・など、沢山のことを決めなくちゃいけないんだ。
なかには、「国のトップの俺が決めたいようにする!」と、ひとりの人や、限られた人だけで好きなように政治をする国や、時代もあったりするけどね。(そういうのを独裁政治というよ。)
今の日本では、「国民」が中心になって政治をする権利があるんだ。
でも、国民全員の意見を聞いていたり、話し合いに参加してもらったりすることは出来ないから、「国民を代表する人たち」を選んで、代表の人達に政治をまかせているんだね。
「国民を代表する人たち」を選ぶのが「選挙」だよ。
代表で選ばれた人たちが「国会議員」だね。「国会」で、日本の法律なんかは話し合って決められているんだよ。※これは「公民」という科目でこれから勉強することになるよ!
朝廷とは?
「朝廷」という言葉は、「天皇が中心になって政治をする」仕組みや場所という意味の言葉なんだよ。
現代のように「国民」が政治をするのではなくて、「天皇(と貴族など)」が政治をするというのがポイント。
天皇が中心ということは、「天皇の考えで、ある程度のことが決められる」ということ。
だから奈良時代にあった「都の引っ越し」も天皇の考え優先で出来ちゃったし、税の種類や、法律なんかも「国民がどうしたいか」は関係なく決めることだってできちゃったよね。
※もちろん「あまり国民を怒らせないようにしよう」とか「国民が困らないようにしよう」とかいうことも考えながら決めていたけどね。
今の時代で例えるなら、天皇陛下が
「来月から消費税は30パーセントにしよう」なんて急に決めたりするということかぁ。
今の日本だと考えられないね。
幕府とは?
では「幕府」という言葉はというと、「武士」が中心になってする政治の仕組みや、場所のことなんだ。
戦の時は、軍のリーダーが「幕」を張って、みんなに指示するための陣地を作るよね。
「府」というのは「政府」でも使われるように、「政治を行う場所」のことなんだ。
武士が政治を行うから、戦の陣地を表す「幕」と政治を行う場所の「府」が合わさって「幕府」になったといわれているよ(他にも説はアリ)
ちなみに、「幕府」という言葉は江戸時代に生まれたんだ。
だから、実は源頼朝の時代には、「鎌倉幕府」という言葉はなかったよ。
えっ
じゃあ、頼朝は「鎌倉幕府を開きまーす」と宣言したワケじゃないということ?
そう。
この時は「朝廷とは別に、頼朝が鎌倉で政治を行った」というカンジ。
それを江戸時代になって、歴史を振り返って考えたときに、「あの頃の頼朝の政府を幕府と呼ぼう」となったということだね。
中心になった場所が鎌倉だったから、「鎌倉幕府」と呼ばれたということだね。
頼朝が政府を作るまで
朝廷とは別に政府を作るなんて、スゴイことだよね。
一体、頼朝はどうやって政府を作ることができたか解説していくよ。
キッカケ①
鎌倉を拠点に、東国を任される
頼朝が鎌倉入りをする
平氏がやりたい放題になってきて、それが許せなかった以仁王は源氏に「平氏を倒せ!」と命令を出したよね。
以仁王って?命令って何?と思ったら、「源平の戦い」の解説ページを読もう!
それで、頼朝が「打倒平氏」の兵を挙げたのが1180年の8月。
10月には、鎌倉に入って(拠点にするために移り住んだイメージ)お邸を作ったよ。
鎌倉を選んだ理由はもう解説したよね。
源氏のゆかりの土地だったんだよね。
そう。
それと、鎌倉は地形で考えたときも、とても良い場所だったんだよ。
頼朝が拠点にした鎌倉の地形は、三方(東・西・北)が山に囲まれていて、南側は海。
だから、「敵から攻め込まれにくい」んだ。
だって海から敵が船で攻めてきても、すぐに見つけられるし、陸地でも、山を越えてくるのは大変だから、なかなか攻め込むことはできないからね。
頼朝は、山を削って「切通し」という道を作ったんだけど、この道はとても狭くできていて、馬一頭(と乗った人)がやっと通れるくらいなんだ。
鎌倉から他の場所へ行き来する分には困らないくらいの広さだけど、「軍で攻め込む」にはとても狭くて無理、ということだね。
東国を任される
朝廷は、九州から関東までを統一していたけれど、東北地方をまだ統一できていなくて、困っていたよね。
それで、朝廷に反対している地方の人々が反乱などを起こしたときには、源氏に東国(関東地方などのこと)に行って、戦ってもらったりしていた。
だから関東でいつも活躍していた源氏には、関東の武士団(武士の団体)の味方も多かったし、平氏を倒そうと兵を挙げた時も、関東の武士たちがたくさん集まってくれた。
なので、関東の武士団を頼朝が管理することになったんだよ。
軍事・警察の役割「侍所」を作る
鎌倉に入った頼朝は同じ1180年に、武士団を管理するために「侍所」という組織を作ったんだ。
「侍所」という言葉はもともと平安時代からあって、「軍事(軍隊の管理や、戦に関することをする)」や「警察」のようなことをする組織だよ。
鎌倉時代の侍所では、行事が行われる時の警備を行ったり、罪人の収監(犯罪を犯した人を牢屋に入れる)を任されていたりしたんだ。
侍所のトップは、別当と呼ぶよ。
1184年に裁判をする「問注所」、行政機関の「公文所」を作る
頼朝としては、管理することになった武士団にはお互い仲良くしてもらう方が助かるよね。
今まではもめごとが起こると、一族同士でケンカしたりしていたけど、ちゃんと裁判のように、お互いの言い分を聞いて、どちらが悪いかなどを頼朝が判断してあげる「問注所」を作ったよ。
「公文所」というのは、政治をするために必要な手紙や文書を作るところ。
こうやって、東国を任された頼朝は、政治をするための組織をそろえていったんだ。
とはいえ、まだまだ東国以外は朝廷が支配しているよ。
キッカケ②
義経と対立
義経は、頼朝の弟で一緒に平氏と戦って大活躍した人だよね。
でも、平氏を倒したあと、義経があまり頼朝の言うことを聞かなくて、頼朝は義経のことを「謀反人(裏切った人のこと)」として、捕まえて殺すことにしたんだ。
えぇっ
弟なのに・・
一体なにがあったの?
戦いの時に、勝手な行動をしたとか、頼朝に黙って朝廷から官位(偉くなってもらう位のこと)をもらってしまったとか、色々説があるよ。
頼朝は、朝廷とは別の政治を行うつもりだったから、朝廷から官位を受けたりすることをとても嫌がっていたらしいよ。
キッカケ③
全国に守護・地頭をおく
頼朝は、「義経を捕まえてやっつける」と朝廷からも許可をもらったんだ。
そして、1185年に「義経を捕まえるため」ということで、朝廷の支配している全国の国ごとに「守護」と「地頭」をスタンバイさせたんだ。
守護というのは、警察のようなものだよ。
地頭というのは、朝廷の持っている土地や、貴族などが持っている荘園で税を集めて管理する人。
さらに、戦うために必要ということで、お米を集めることもOKをもらったんだ。(兵糧米と呼ぶよ)
こうして、とうとう頼朝の力が全国にも影響するようになったんだ。
キッカケ④
奥州の藤原氏を倒す
頼朝に追われた義経だけど、奥州にいる藤原秀衡のところへ逃げたんだ。
奥州の藤原秀衡のところで、義経は少年時代を過ごしたからね。
秀衡は、義経をかくまおうとしたんだけれど、しばらくして死んでしまうんだ。
秀衡が死んでしまうと、秀衡の息子の泰衡は、「お父さんは義経をかくまったけど、頼朝に逆らうのはやっぱりマズいでしょ(汗)」と考えて、義経を襲ったんだ。
そして、襲われた義経は「もう逃げられない」と諦めて自殺してしまったよ。
だけど結局、頼朝は泰衡のことも「今まで義経をかくまっていたのは裏切りだ!」と倒してしまうよ。
容赦ないね(恐)
実は頼朝は、鎌倉で政治を行っていくためには奥州の藤原氏を倒しておくほうが安心、と思っていたんだよ。
つまり、「倒してしまう理由ができて、いいキッカケだった」ということだね・・
こうして、奥州の藤原氏も、義経のことも倒した頼朝は敵なし状態となったんだ。
キッカケ⑤
朝廷から「征夷大将軍」に任命される
こうして鎌倉で政治するための組織はそろって、全国にも守護・地頭をおくことに成功して、奥州の藤原氏も倒すことができて、頼朝オリジナルの政府はカタチがそろったんだ。
でも、いくらカタチはそろっても、国の人々に「朝廷とは別の政府が出来た」と認めてもらうには、まだ説得力が足りなかったよ。
でも、とうとう1192年に頼朝は朝廷から「征夷大将軍」に任命されたんだ。
征夷大将軍というのは、朝廷が東北地方をおさえるために送る軍のリーダーのことだったね。
朝廷は京都にあるよね。
でも、戦いをする場所は東北地方。
戦う兵士や、兵士が食べるお米が足りなくなった場合、東北地方から京都までいちいち相談に行っていたら大変。
なので、「征夷大将軍」は天皇の代わりに、東北地方で兵士を増やしたり、お米を集めたりする「権利」を与えられていたんだ。
つまり、「天皇の代わりに政治を行うことができる」役なんだよ。
この「征夷大将軍」に任命された頼朝は、とうとう「天皇の代わりに政治を行うことができる」というお墨付きを朝廷からもらった、というワケだね。
こうして、鎌倉幕府は「頼朝(武士)による政権」と認められることになったんだよ。
この「頼朝が征夷大将軍に任命された」1192年に、「鎌倉幕府」が政府として認められることになった、と考えて「1192年に鎌倉幕府が開かれた」とすることが多いよ。※最近は、鎌倉幕府のスタートをどのタイミングにするか色々説があるんだ。
(侍所・問注所・公文所の設置)
↓
・平氏を倒す
↓
・義経が裏切ったとして、捕まえるために全国に守護・地頭を置く
↓
・義経と、奥州藤原氏を倒す(敵がいなくなる)
↓
・征夷大将軍に任命される
6年生はココを押さえればOK!
まとめ
・頼朝は、全国に守護・地頭を置き、全国に力をおよぼした
・1192年に、朝廷から征夷大将軍に任命された
・頼朝が始めた武士による政治を鎌倉幕府という
運営者情報
ゆみねこ
詳しいプロフィールを見る
青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。
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こちらのおかげで、小6娘が鎌倉時代のテストで95点を取ってきました。ありがとうございます。
これからも見させて頂きます。 -
こちらのおかげで、小6娘が鎌倉時代のテストで95点を取ってきました。ありがとうございます。
これからも見させて頂きます。 -
とてもわかりやすいです!!
中学生用はないんですか?
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源義経のページも作ってほしい
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面白く、わかりやすいです。
くまごろうの、独裁政治を、赤字にしてはどうでしょうか。
ありがとうございます。 -
とても分かりやすかったです。もう終わっていますが塾の鎌倉時代のテストでクラス2位に入れました。
とても分かりやすかったです。テス勉に使わせてもらいます!