社会6

「魏志倭人伝」の内容を全部紹介!小学生にもわかりやすい言葉で解説!

yumineko
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このページでは、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にどんなことが書かれているのか、小学生にもわかるようなカンタンな言葉に通訳しながら解説するよ!

魏志倭人伝とは?

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)とは

中国で魏・呉・蜀(ぎ・ご・しょく)という3つの国が対立していた時代のことを書いた「三国志」という歴史書のなかの「魏書」のなかの「東夷伝」のなかの「倭人条」に書かれた部分のことをいうよ。

ややこしいよ(涙)
ヒトコトで言うと?
くまごろう
くまごろう
つまり、国の歴史書にかかれていた日本についての部分のこと」だね。

「三国志」は、陳寿という人が280年~297年の間に書いたんだ。

何が書かれているの?

①当時の倭(日本のこと)に、卑弥呼がまとめている「邪馬台国」というクニがあること

②それがどこにあるのか、倭の人々がどんな暮らしをしていたか、どんな風習があったのか、どんな動植物がいたかなどが書かれているよ。

このころのことが書かれた日本の歴史書はないので、当時(3世紀ごろ)の日本のことを知る重要な手がかりと言われているんだ。

くまごろう
くまごろう
まあ例えると、「君が特に日記を書いていなかったんだけど、学校のとなりの席の子が君の毎日の学校での様子を書いてノートにまとめていてくれた」
という感じだね。
ちょっと複雑・・

だけど確実な資料とは言えない・・・

さっきの例で考えてみて。

「となりの席の子が書いた、たろう君の毎日の様子」だけど、これって確実かな?

見落としていることや、勘違いで書いていることもあるかもしれないよね。
そのノートに書いてあることを、先生やお母さんが全部そのまま信じてしまって良いかといったらそうではないよね。

たろう
たろう
そんなの困るよ

魏志倭人伝もおなじ。

ここに書かれていることは当時の日本の様子を完璧に記録しているという保証はないよね。

だから今でもずっと研究されて、いろんな受け取り方や解釈の仕方があって、いろいろな説が生まれる原因にもなっているんだ。

魏志倭人伝に書かれていることを解説!

ではいよいよ「魏志倭人伝」に書いてあることを紹介するよ。

邪馬台国までにある「くに」と「行き方」について

yumineko
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ここでは帯方郡(たいほうぐん:今の韓国ソウルより北方面のあたり)から邪馬台国までの行き方とキョリが書いてあるよ。
yumineko
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「魏」や「帯方郡」「倭」の位置関係はこんな感じ。
※もっと後に登場する地名も書いてあるよ

魏志倭人伝には「里」という距離の単位が書いてあるんだけど、その「里」が何メートルに相当するのかは色々な説があるんだ。

ここでは、
・1里を約400メートルとする計算法
・1里を約70メートルとする計算法
2通りの説をもとに目安のキョリを書いておくよ。

※ちなみに、実際の韓国と日本の距離を考えると、1里=400メートルで計算した場合、本当よりも遠いことが多いよ。

yumineko
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では実際に書かれている内容を、カンタンな言葉に直したものを読んでみよう!

倭人(わじん:日本人のこと)は、帯方郡の東南の大きな海のなかにいる。

山を境(さかい)にしたり、島を単位にして「くに」や「邑(むら)」を作っている。
もともとは100あまりの国があって、中国が「漢(かん)」の時に朝見(ちょうけん:プレゼントを持って、あいさつに来ること)する者もいた。
今は30国がお使いを送ってくる。

帯方郡から倭に行くには、海岸にそって船で行く。
韓国を過ぎるのに、時には南に行って、時には東に行く。
そうすると倭の北岸にある狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。
7000余り里である。(1里=約400mの場合、2800000m、つまり2800㎞位。1里=約70mなら、490000m、つまり490㎞。)

さらに1000余り里進んで一つの海を渡ると(400㎞または70㎞)対馬国に到着する。対馬国の大官(身分の高い官吏のこと)は卑狗(ひこ)といい、副(副大官?)は卑奴母離(ひなもり)という。
対馬国は、離れ島で400余り里四方(160㎞四方、または28㎞四方)の島。
土地は山が険しく、深い林が多い。道は獣道(きれいに整えられていない道)のようである。1000余りの家がある。
良い田畑はないので、海産物を採って自分たちで生活している。
船で南北の市に行ったりしている。

また「瀚海(※瀚は、「ひろい」という意味」という名前の一つの海を1000余り里ほど渡る(400㎞位または70㎞)と、一大国に到着する。官は卑狗(ひこ)といい、副は卑奴母離(ひなもり)という。300余り里四方(120㎞四方または21㎞四方)。
竹・木・草むら林が多い。3000ばかりの家がある。
田畑には差があって、田畑を耕しても食べ物が足りないので、南北の市に行っている。

また一つの海を渡る。1000余り里(400㎞または70㎞位)進むと末廬国に到着する。4000余りの家があり、山や海に沿って住んでいる。前を行く人が見えなくなるくらい草木が生い茂っている。
魚やアワビを捕るのが上手。水が浅くても深くても関係なしに、みんな泳いで潜って捕まえている。

そこから東南に陸を進むと、500里(200㎞または35㎞)で伊都国に到着する。官は爾支(にき)という。副は泄謨觚(せもこ)柄渠觚(へくこ)という。1000余りの家がある。
王がいて、みんな女王国に属している。帯方郡の使者が行き来する時にはいつもそこにとどまる。

東南に100里(40㎞または7㎞)進むと、奴国に到着する。官は̪しまこという。副は卑奴母離(ひなもり)という。2万余りの家がある。

東へ100里(40㎞または7㎞くらい)行くと、不弥国に到着する。官は多模(たも)という。副は卑奴母離(ひなもり)という。1000余りの家がある。

南に向かって船で20日ほどいくと、投馬国に到着する。官は彌彌(みみ)という。副は彌彌那利(みみなり)という。計算によると推定5万の家がある。

そこから南へ船で10日、陸路を1か月かけて行くと、邪馬台国に到着する。女王はそこを都と決めている。官は伊支馬(いきま)がいる。次に弥馬升(みましょう)がいる。次に弥馬支(みまかくき)がいて、次に奴佳鞮(なかてい)がいる。計算するに推定7万余りの家がある。

※国の名前や官の名前などは色々な説があるよ。

なかなか果てしない旅だね。

その他の国のこと

 

ここまでに書いた女王国よりも北の国については、家の数や道(距離)を簡単に書くことができたが、そのほかの国は遠すぎて、詳しいことがわからない。

斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国という国があって、これらの国までで女王がまとめている境界は終わる。

それより南には狗奴国がある。男性が王をしていて、官は狗古智卑狗(くこちひく)という。邪馬台国の女王には属していない。(仲間ではない)

帯方郡から女王国(邪馬台国のこと)までは12000余り里(4800㎞または840㎞)である。

倭国がどんな様子なのか

 

 

男性は大人も子供も、みんな顔や体に入れ墨をしている。
古くから、中国に来た倭の使者たちはみんな自分のことを大夫(えらい位についている人のこと)だと言っている。
(むかし、)中国の王朝「夏」の王だった「小康」の子供が、会稽(中国に昔あった群の名前)を任された時も、髪を切って入れ墨をして、蛟(みずち:へびに似ていて、角と四本足があり、毒気を吐くと伝えられる伝説上の動物)の害を避けたという話がある。今、倭の漁師たちも好きで水に潜って魚やハマグリを捕るのだが、その際には身体に入れ墨をして大魚や水禽(水鳥のこと)を避けていた。しかし後々それは飾りになった。

入れ墨は国ごとに違っていて、左にあったり右にあったり、大きかったり小さかったり、階級(レベル)によっても差がある。

倭国の位置を計算してみると、ちょうどそれは会稽・東治(今の中国の上海の少し南あたり)の東である。

風俗は淫らではない。(はしたなくない)男子はみんな髷(まげ)を見えるようにしていて、木綿の布を頭に巻いている。服装は、幅広い布を結び合わせているだけで、ほとんど縫われてはいない。
女性は髪に被り物をして後ろで束ねていて、服装は単衣(ひとえ:一枚の裏地のない着物のこと)のように作られていて、真ん中に穴をあける貫頭衣(穴に頭を通して着るタイプの服)だ。

稲や、からむし(植物性の糸が採れる植物)を植えている。桑と蚕(かいこ)を育てていて、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。

牛・馬・虎・ヒョウ・羊・かささぎはいない。

兵器は矛・盾・木製の弓を使っている。弓は下が短くて、上の部分が長くなっている。矢は竹でできていて、矢の先には鉄や骨の矢じりがついている。

土地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べている。皆はだしで過ごしている。

家屋があって、寝床は父母兄弟は別々に寝ている。体には赤丹(しゅたん:赤い塗料)を塗っていて、まるで中国で使う白粉(おしろい:化粧の道具)のようだ。
飲み食いするときには高坏(たかつき:脚がついた食器)を使って、手づかみで食べている。

人が死ぬと、棺はあるが槨(ひつぎ・うわひつぎ:棺の外枠)はなく、土をかぶせて塚を作る。死んでからは10日あまりを「もがり」(喪)として、その間は肉を食べない。喪主は哭泣(こっきゅう:悲しんで泣き叫ぶこと)して、他の人々はお酒を飲んで歌って舞う。
埋葬が終わると、家の人達は水の中に入って体をお清めする。これは中国の練沐(「ねりぎぬ」を着て「水ごり(神様にお願いをするために冷水を浴びること)」)をするようである。

倭の人が中国にやってくる時はいつも、ひとが一人選ばれて、その人は髪もとかさず、シラミも取らず、服は汚れ放題で肉は食べない(食べさせてもらえない)。女性を近づけないで喪に服している人のようにしている。
この人のことを持衰(じさい)と呼ぶ。
もし旅がうまくいけば、褒美として奴隷や財産を持衰に与える。
もし旅の最中に病気があったり、暴害(災難など?)にあってしまったら、その持衰が謹まなかった(きちんとしていなかった)のが原因だとされて、殺す。

真珠と青玉(ヒスイ)が採れる。倭の山には丹(硫黄と水銀が化合した赤土)があって、倭の木にはタブノキ、どんぐり(またはトチ)、クスノキ、ボケ、クヌギ、カシ、クワ、カエデがある。竹は篠(じょう)、簳(かん)、桃支(とうし)がある。ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガがあるが、まだ味付けに使うことを知らない。
猿と黒雉(キジ)がいる。

特別なことをするときには、骨を焼いて割れ目を見て吉凶(良いか悪いか)を占うト(ぼく)をする。
まず占うことの内容を告げるが、その解釈の仕方は令亀の法(中国で行われていた占いのやりかた)と同じように、火で焼けて出来る割れ目を見て、占う。

会合(集まって話し合う)での振る舞い方には、父と子、男と女の区別はない。
人々はお酒が好きで、相手に敬意(尊敬する気持ち)をあらわす作法は、拍手を打って、うずくまって拝むことだ。
人々は長生きで、100歳や80歳のものもいる。

身分の高い人は4人や5人の妻を持っている。
身分の低い人でも2人や3人の妻を持っている人もいる。

女は慎み深くて、嫉妬したりはしない。

盗みもないし、ケンカも少ない。

法(ルール)を犯すものは、軽い場合は妻と子供を没収する。
重い場合は一族を根絶やし(皆殺し)にする。

宗族(そうぞく:本家や分家を合わせた一族のこと)には「尊い」と「卑しい」という順序があって、上のものの「いいつけ」はよく守られている。

起こったことの記録

 

景初2年(238年)6月、倭の女王は大夫(位の偉い人)の難升米らを帯方郡に使いによこし、天子(皇帝)に捧げものをしたいと希望した。
太守(中国では、郡の長官のこと)の劉夏は吏將(役人)をつけて、京都(魏の都の洛陽のこと)まで送った。

その年の12月には、倭の女王に詔書(しょうしょ:皇帝からの文書)が出された。

正始元年(240年)、太守の弓遵が中校尉(中国の長官の名称)の梯儁たちを使いにだし、倭国に行って詔書と印と綬(組みひも)を倭の王に捧げた。また、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物を与えた。倭の王は感謝の文書を皇帝に記した。

正始4年には、倭の王はまた大夫の伊聲耆と掖邪狗たち8人を遣いにやり、奴隷・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹木・拊(搏拊)・短弓矢を献上した。掖邪狗たちは善中郎將の印と綬(組みひも)を受け取った。

正始6年には、倭の難升米に黃幢(黄色い軍の旗)をあげようるようにと、帯方郡に仮(とりあえず)預けておくよう文書が出された。

正始8年には王頎が太守になった。倭の女王の卑弥呼と狗奴国(くなこく)の男の王の卑彌弓呼はもともと仲が悪く、倭は載斯と烏越たちを郡に使いにおくり、お互い(邪馬台国と狗奴国が)に攻擊しあっている状態だということを説明した。

塞曹掾史の張政たちを使いにやって、皇帝からの文書と黃幢(黄色い軍の旗)を難升米に授け、告げて(卑弥呼に伝えるように?)、木の札にも記した。

(しかし)卑弥呼は亡くなってしまい、大きな塚(墓)が作られた。
大きさは直径100歩(1歩は1.3mとされているので、130mほど)ほどで、卑弥呼と一緒に埋められた狥葬者は奴隷が100人ほどだった。

卑弥呼の次には男性が王になったが、国中がその王には従わず、お互いに殺しあうようになってしまい、当時は1000人位が殺されてしまった。

その後には、また卑弥呼の宗女(一族の女性)の壹與(いよ)という13歳の女性が王になり、やっと国中が安定した。
そのため、張政たちは壹與に(卑弥呼に伝えるはずだった内容などを)伝え、木札に書き記した。

壹與は倭の大夫の率善中郎將の掖邪狗たち20人を使いにやり、張政たちが(中国へ)帰るのを送りつつ、臺(魏の都の名前)に行かせて男女の奴隷を30人と、貢白珠(真珠)を5000個、青大句珠(せいだくしゅ:ヒスイの勾玉)2枚、そして異文雜錦(見たことのない模様の布)20匹(この匹は布の単位で、「20反」のこと)を献上した。

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2019年の長女の高校受験時、訳あって塾にはいかず自宅学習することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。 志望校にトップ10位内で合格を果たす。 勉強をみるにあたって感じたのは、教科書の説明には子供には分かりづらい部分が多く、子供にイメージしやすく噛み砕いて説明するのがとても有効だということ。 同じように教科書の内容が分かりづらいと感じている子供たちの ヒントになれば、との思いで「教科書を分かりやすく通訳するサイト」創設。

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