「古墳文化の変化と終末」定期テスト対策練習問題・過去問まとめ
高校日本史で学習する「古墳文化の変化と終末」について、定期テストでよく出る問題や過去問をまとめているよ。
古墳文化がどのように変わっていったか、そしてどうやって終末を迎えたか、重要な語句や背景を理解できているか確認しよう。
「古墳文化の変化と終末」定期テスト対策練習問題
問1
古墳時代の後期に広まった、追葬が可能な石室の形式のことを何というかこたえなさい。
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答え:横穴式石室
問2
古墳が作られる際、故人と一緒に埋葬された鏡や勾玉、武具や農具などを総称して何というかこたえなさい。
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答え:副葬品
問3
小型古墳の爆発的増加にともない、山間や小島にまで小型古墳が密集して多く作られるようになったが、このような形態の古墳群のことを何というかこたえなさい。
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答え:群集墳
問4
群集墳として有名な奈良県の古墳群の名前を答えなさい。
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答え:新沢千塚(古墳群)
問5
群集墳が数多く営まれるようになった理由を、「有力農民層」という言葉を使って簡単に説明しなさい。
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答え:(例)それまで古墳を造営することなど考えられなかった有力農民層までもが、古墳を作るようになったから
問6
古墳後期には、墳丘上に並べられた埴輪も、人物埴輪や動物埴輪などが多くみられるようになった。このような人物や動物を象った具象的な埴輪を何というか答えなさい。
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答え:形象埴輪
問7
九州北部の古墳には、石の埴輪である( )・石馬がたてられた。( )に当てはまる言葉を答えなさい。
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答え:石人
問8
古墳や横穴の墓室に彩色あるいは線刻による壁画をもつものがみられるようになったが、このような古墳を何というか答えなさい。
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答え:装飾古墳
問9
装飾古墳として有名な福岡県宮若市にある古墳の名前を答えなさい。
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答え:竹原古墳
問10
5世紀後半から6世紀になると、近畿中央部では依然として大規模な前方後円墳が営まれたが、吉備地方などでは、大きな古墳はみられなくなった。この理由を、「大王」「豪族」という言葉を使って簡単に説明しなさい。
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答え:(例)吉備地方の有力な豪族も大王へ服従するようになったから。
問11
古墳時代前期から中期までは赤焼の土師器が用いられていたが、5世紀になると、朝鮮半島から硬質・灰色の土器を制作する技術が伝わった。このような土器を何というか答えなさい。
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答え:須恵器
問12
古墳時代の人々が豊作を祈り行った春の祭事を何というか答えなさい。
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答え:祈年の祭
問13
古墳時代の人々が収穫を感謝するために行った秋の祭事を何というか答えなさい。
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答え:新嘗の祭
問14
古墳時代の人々が行った占いの風習として、鹿の骨を焼いて吉凶をみる占いを何というか答えなさい。
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答え:太占の法
問15
古墳時代の人々が裁判を行う際に、真偽を判断するために熱湯に手をいれさせた呪術的な風習を何というか答えなさい。
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答え:盟神探湯
問16
6世紀末から7世紀初めになると、各地の有力な首長が造営していた前方後円墳はほぼ同時期に見られなくなっていった。この理由を、「ヤマト政権」という言葉を使って簡単に説明しなさい。
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答え:(例)ヤマト政権が規制をしたから
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ゆみねこ
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青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。