元号一覧(由来と改元理由)まとめ

飛鳥時代から現代までの元号を一覧にまとめています。改元した理由もくわしく解説。

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元号一覧(由来と改元理由)まとめ

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飛鳥時代

元号期間改元の理由と由来主な出来事
大化たいか
皇極こうぎょく天皇)
645年6月19日〜
650年
中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたりが、天皇を中心とする政治を目指して、力を持ちすぎた豪族の蘇我氏を倒した(乙巳いっしの変)。それにより新政府が誕生し、元号を定めることになった。
初めて定められた元号が「大化」。
書経しょきょう」の「ゆえに我いに我が友邦ゆうほうの君をかゆう(正しい道へ教えて導くこと)す」がもとになったという説があるが、確かではない。
大化改新たいかのかいしん(645年)
改新の詔(646年)
白雉はくち
孝徳こうとく天皇)
650年2月15日〜
654年
白雉とは、白いキジ(鳥の種類)のこと。穴戸(今の山口県)の国司(地方の国のリーダー的な役職の人のこと)が白いキジを献上(プレゼントすること)したときに、「これはとてもめでたい」と「白雉」に改元をした。白雉ではなく、白鳳という説も ある。
白雉のあと、次の朱鳥まで32年間元号がなかった期間がある。理由は不明。
朱鳥しゅちょう
天武てんむ天皇)
686年7月20日〜天武天皇が病気にかかってしまい、元号を改めれば病気が治るのではと考えられた。
しかし約1ヶ月の686年10月1日(朱鳥元年9月9日)に、天武天皇は亡くなってしまう。
朱鳥は中国の「四神ししん」のひとつ。「良いことが起こる前ぶれ」を表す鳥だったからという説がある。
朱鳥は1ヶ月間だけで、このあと大宝が定められるまで14年間元号が無かった。理由は不明。
大宝たいほう
文武もんむ天皇)
701年3月21日〜
704年
対馬つしまから朝廷に金が献上けんじょう(プレゼント)され、「金が採れた!」ということをお祝いするため改元された。
しかし、実際は対馬で採れたのではなく、朝鮮から持ち帰った金を対馬で採れたとごまかしたという説もある。
「たいほう」と読むほかに、「だいほう」と読む場合もある。
大宝律令たいほうりつりょう(701年)
慶雲きょううん
(文武天皇)
704年5月10日〜
708年
慶雲きょううんとは、おめでたいことが起こる前兆ぜんちょうを表す雲のこと。この雲が現れたので、改元した。
慶雲を発見した人は大出世した。
改元に合わせて、神馬(神様が乗る馬のこと)を朝廷に献上(プレゼントすること)した郡は、税金が免除(払わなくていいということ)された。

奈良時代

元号期間改元の理由と由来主な出来事
和銅わどう
元明げんめい天皇)
708年1月11日〜
715年
武蔵むさし(今の東京・埼玉・神奈川)が朝廷に銅を献上けんじょう(プレゼントすること)したので、貨幣かへいを作りたいと考えていた天皇が喜んで改元した。
このとき作られた貨幣が「和同開珎わどうかいちん」。この「和同」は、「呂氏春秋りょししんじゅう」にある一文の「天地和同てんちわどう」が由来という説がある。「和同」とは、人々が納得するという意味がある。
和同開珎わどうかいちん(708年)
平城京へ遷都せんと(710年)
古事記こじき(712年)
風土記ふどき編纂へんさんの命令(713年)
霊亀れいき
元正げんしょう天皇)
715年9月2日〜
717年
朝廷に霊亀献上けんじょう(プレゼントすること)されたので改元した。
霊亀とは、中国の神話に出てくる神の力をもった亀のこと。
実際に献上された亀は長さ21センチで、左目は白、右目は赤のめずらしい亀だったといわれている。
養老ようろう
元正げんしょう天皇)
717年11月17日〜
724年
元正天皇が出かけた途中、養老山地ようろうさんち多度山たどやまに「若返りの泉」を発見したのを喜んで改元した。
改元のときには、罪をおかした人の刑罰を少なくしてあげたり、お年寄りに位やお祝いの品を与えたり、病気の人を助けたり税をなくしてあげるようにした。
日本書紀にほんしょき(720年)
三世一身法さんぜいっしんほう(723年)
神亀じんぎ
聖武しょうむ天皇)
724年2月4日〜
729年
聖武天皇が天皇に即位したため改元。
由来は、改元する前の年に献上けんじょう(プレゼントすること)された亀の両眼が赤く、姿が白かったことから、神亀になった。
神亀とは、中国の占いで「良いことが起こる」ことを表す亀のひとつ。
長屋王ながやおうの変(729年)
天平
(聖武天皇)
729年8月5日〜
749年
貴族の藤原麻呂が、亀を献上(プレゼントすること)したことをキッカケに改元。
亀の背中には「皇の世の中は貴く、百年和に続く」と書かれていた、その文から、天皇の「天」、平和の「平」が元号の由来と言われている。
藤原広嗣ふじわらひろつぐらん(740年)
墾田永年私財法こんでんえいねんしざいのほう(743年)
大仏造立だいぶつこんりゅうみことのり(743年)
天平地震てんぴょうじしん(745年)

天平文化が栄える
天平感宝てんぴょうかんぽう
(聖武天皇)
749年4月14日〜3ヶ月の期間しかなかった元号。
初めての4文字。
大仏を作りたいと考えていた聖武天皇だが、材料である金が足りなくて困っていたところに、陸奥(青森・岩手・宮城・福島・秋田)から黄金が献上(プレゼントすること)されたのを喜んで改元。
「天平」に「感宝」を加えて作った元号。
聖武天皇しょうむてんのう譲位じょうい(749年)
天平勝宝てんぴょうしょうほう
孝謙こうけん天皇)
749年7月2日〜
757年
聖武天皇が譲位(天皇の位を譲ること)して、聖武天皇の娘である阿部内親王あべないしんのうが即位して孝謙天皇になったため改元した。
天平→天平感宝→天平勝宝と、同じ年に2ど改元したのは日本の歴史上このとき以外にはない。「勝宝」の由来は不明。
大仏開眼供養だいぶつかいげんくよう(752年)
鑑真がんじんが来日(753年)
天平宝字てんぴょうほうじ
淳仁じゅんにん天皇)
757年8月18日〜
765年
聖武天皇が亡くなり、1周忌法要しゅうきほうようの最後の日に、かいこが産んだ卵が「天皇の治める世の中は、100年安泰あんたい(安全で、危険がないこと)だろう」と読める形になっていたものが献上(プレゼントすること)されていたのがキッカケで改元された。
改元のときには、罪をおかしたひとの刑罰を少なくしたり、国民の税を減らしたりした。
藤原仲麻呂ふじわらのなかまろの乱(764年)
天平神護てんぴょうじんご称徳しょうとく天皇)765年1月7日〜
767年
孝謙天皇が、淳仁天皇を廃位(天皇ではんくさせること)させて、また称徳天皇として即位したのをキッカケに改元したと言われているが、詳しいことは分からない。
藤原仲麻呂ふじわらのなかまろの乱を無事におさえることが出来たのは「様がってくれたから」という意味を込めて「神護」が使われたと言われている。
神護景雲じんごけいうん
(称徳天皇)
767年8月16日〜
770年
おめでたいことが起こる前兆を表すという雲「景雲」が発見されたのを喜んで改元。
雲は三河(愛知)と伊勢(三重)で発見され、同じ頃に天皇自身も目撃していた。
改元のときには、罪をおかしたひとの刑罰をすくなくしたり、国民のぜいを減らしたりした。
宝亀ほうき
光仁こうにん天皇)
770年10月1日〜
781年
光仁天皇が即位するときに、白い亀が献上(プレゼントすること)されたことから
「宝亀」と改元された。
改元のときには、罪をおかしたひとの刑罰を少なくしたり、朝廷に仕えていた役人に新しい位を与えたり、出家した人にお祝いの品物をあげたり、お年寄りや生活に困っているひとを援助した。
ここからはまた2文字の元号が使われるようになった。
宝亀の乱(780年)
天応てんおう(光仁天皇)781年1月1日〜
782年
伊勢神宮いせじんぐうの宮殿に、美しい雲が現れたことを「良いことが起こりそう」考えて改元した。
1月1日に改元されたのはこの元号のみ。
ほかには、781年4月に桓武天皇が即位するために改元していたという説もある。
元号の由来は「易経えききょう」の一文「に従いて人にず」がもとになっているという説がある。

平安時代

元号期間改元の理由と由来主な出来事
延暦えんりゃく
桓武かんむ天皇)
782年8月19日~
806年
桓武天皇が即位したため改元。
「群書治要」の「民徳政を詠ずれば、即ち期をばし歴(暦)を過ぐ」が由来という説がある。
滋賀県にある延暦寺はこの元号からつけられた名前。
長岡京ながおかきょう遷都せんと
(784年)
平安京へいあんきょうへ遷都
(794年)
坂上田村麻呂さかのうえたむらまろ征夷大将軍せいいたいしょうぐんになる(797年)
続日本紀しょくにほんき(797年)
天台宗てんだいしゅう最澄さいちょう)805年
真言宗しんごんしゅう空海くうかい)806年
大同だいどう
平城へいぜい天皇)
806年5月18日~
810年
平城天皇が即位したため改元。
「書経」の「これ大同という」からという説がある。大同とは、目的のために多くのものがひとつにまとまる」という意味がある。
改元の時には、罪をおかした人の刑罰を軽くしたり、僧に位を与えたり、税を免除するなどされた。
 平城太上天皇の変
薬子くすこの変)(810年)
弘仁こうにん
嵯峨さが天皇)
810年9月19日~
824年
 嵯峨天皇が即位し、さらに豊作(農作物がたくさん獲れること)があったため改元。
810年に薬子の変があったため、嵯峨天皇が即位してすぐの改元はできず、即位の1年半後に行われた。
礼記正義らいきせいぎ」の「弘仁かんこうじんせいの化を行う」からという説がある。
弘仁地震(818年)
天長てんちょう
淳和じゅんな天皇)
824年1月5日~
834年
 淳和天王が即位したためと考えられているが、確かではない。
老子ろうし」の「天長く地久し」からと言われている。
 
承和じょうわ
仁明にんみょう天皇)
834年1月3日~
848年
 仁明天皇が即位したため改元。「芸文類聚げいもんるいじゅう」の「まさ太和たいわを承らんとす」から
という説がある。
承和の変(842年)
最後の遣唐使(838年)
 嘉祥かじょう
(仁明天皇)
 848年6月13日〜851年豊後ぶんご(現在の大分県)で白い亀が見つかり、おめでたいこととして改元。
改元の時には、罪をおかした人の刑罰を軽くし、税を減らすなどされた。
また、はじめて伊勢神宮で改元したことを神様に報告する儀式が行われた。
 長年大宝ちょうねんたいほう発行(848年)
 仁寿にんじゅ
文徳もんとく天皇)
851年4月28日~
854年 
文徳天皇の即位と、美作みまさか備前びぜん(現在の岡山県)、摂津せっつ(現在の大阪・兵庫)から白い亀が献上されたこと、石見(現在の島根県)から甘露かんろ(すばらしい天皇のもとへ、天から降ってくるとわれている露のこと)が献上されたことをおめでたいとして改元。
漢書かんじょ」の「徳を行えばすなわち民仁寿たり」からという説がある。
改元の時には、罪をおかした人の刑罰を軽くし、献上した国の税を減らしたり免除したりした。 
 
 斉衡さいこう
(文徳天皇)
854年11月30日~
857年 
854年に、石見(現在の島根県)で醴泉れいせん(甘い味がする泉のこと。平和な時代だけに出ると言われている)が出たことを、おめでたいこととして改元した。
改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くして、醴泉が出た郡では税を免除したり、減らしたりした。また、役人に位を与えた。
周礼しゅらい」の「曲礼きょくらいに君が器をるは斉衡なり」がもとになったと言われている。
※斉衡とは、物の釣り合いをとるという意味。 
 
 天安てんあん
(文徳天皇)
 857年2月21日~
859年
 美作みまさか(現在の岡山県)から白い鹿が朝廷に献上けんじょう(プレゼントされること)されて、常陸ひたちなか(現在の茨城県)から連理れんりの木(2本の木がくっついて1本になったもの)が献上されたので、文徳天皇がおめでたいこととして改元した。
改元した時には、全国の税を免除したり、減らしたりした。また役人に位を与えた。また、お年寄りや僧に穀物こくもつを与えた。
礼記らいき」の「の国やすくしてし」がもとになっていると言われている。
 
 貞観じょうがん
清和せいわ天皇)
 859年4月15日~
877年
 清和天皇が即位したことにより改元。
易経えききょう」の「天地の道はじょうにしてしめすものなり」がもとになっているという説がある。
 貞観地震(869年)
貞観客式(法令)
応天門の変(866年)
清和源氏登場(873年)
 元慶がんぎょう
陽成ようぜい天皇)
 877年4月16日~
885年
 陽成天皇が即位した時に、但馬たじま(現在の兵庫県)から白いキジが献上けんじょう(プレゼント)され、さらに尾張おわり(現在の愛知県)から2本の木がくっついて1本になったもの(連理れんりの木と呼ばれる)が献上され、さらに備後びんご(現在の広島県)からは白い鹿が献上されたのをおめでたいとして改元した。
改元する時には、罪をおかした人の刑罰を軽くし、役人に位を与えたり、献上した国では税が減らされたり免除されるなどした。
易経えききょう」の「おおいに吉とは、上にありておおいによろこびあるなり」がもとになっているという説がある。
 元慶官田の設置(879年)
 仁和にんな
光孝こうこう天皇)
 885年2月21日~
889年
 光孝天皇が即位して、2年目になったときに改元のみことのり(改元しなさいという天皇の命令)が出たため。
礼記らいき」の「歌楽かがくなり」がもとになっているという説がある。
 仁和地震(887年)
 寛平かんべい
宇多うだ天皇)
889年4月27日~
898年 
本当なら宇多天皇が即位したときに改元される のが普通だったが、宇多天皇が太政大臣の藤原基経ふじわらのもとつねとうまくいかず、政治が不安定だったので改元が遅くなったと言われている。
漢書かんじょ」の「大の政行われ、和の気通ず」がもとになっているという説がある。
 寛平の治
桓武平氏登場(889年)
遣唐使廃止(894年)
 昌泰しょうたい
醍醐だいご天皇)
898年4月26日~
901年 
醍醐天皇が即位したため改元した。
詩経しきょう」の「寿なるものあいともにもちいられん。爾をしてさかんにしてならしむ」がもとになっているという説がある、
※大と泰はどちらも「大きい」という意味を持っている。 また、改元された日は4月16日や、8月16日だという説もある。
醍醐天皇が即位したことで、宇多天皇は上皇じょうこうになったが、899年に出家したので法皇ほうおうになったが、これが日本史上初の法皇。
 
 延喜えんぎ
(醍醐天皇)
901年7月15日~
923年 
901年は辛酉の年だったので、(60年に一度くる「辛酉」には革命が起こるという言い伝えがある)革命を避けるために改元した。
中国の伝説とされている「」という王が、天からさずけられた宝玉ほうぎょくに刻まれていた「玄珪げんけいをたまい、文に延喜という」という一文がもとになっているという記録がある。
 延喜・天暦の治
延喜えんぎ荘園整理令しょうえんせいりれい
(902年)
古今和歌集こきんわかしゅう編纂へんさん
(905年)
延喜通宝の発行(907年)
延長えんちょう
(醍醐天皇)
923年4月11日~
931年 
 日照り続きで作物が不作になったり、疫病が流行ったりしたので、改善された。
醍醐天皇が、皇太子が長く生きるように、長寿ちょうじゅを願って「延長」と決めたと言われている。
 清涼殿せいりょうでんに落雷(930年)
 承平じょうへい
朱雀すざく天皇)
931年4月26日~
938年 
「しょうへい」と読むこともある。
資料はないが、朱雀天皇が即位したため改元されたと考えられている。
漢書かんじょの「今累世るいせいけ、豪富吏民ふごうりみんはしすうきょまんにして、貧苦いよいよ困しむ(平和な世の中を受け継いで、お金持ちや役人は豊かだが、貧しい民はまずます困っているという意味)」がもとになっていると言われている。
 平将門たいらのまさかどの乱(935年)
土佐日記とさにっき
 天慶てんぎょう
(朱雀天皇]
 938年5月22日~
947年
 地震や戦争による世の中の乱れが起こったので改元した。
9世紀から10世紀になると武士が登場するようになり、土地をめぐって争いなどが起きるようになっていた。
漢書かんじょ」の「ただ天子てんし中和のきょくて、条貫じょうかんを兼ねすべて、金声きんせいにしてこれを玉振ぎょくしんし、もって順じててんけいを成して、万世のもとる」がもとになっている。

藤原純友ふじわらのすみともの乱(939年)
 天暦てんりゃく
村上むらかみ天皇)
 947年4月22日~
957年
 村上天皇が即位したため改元(即位の翌年の改元)地震が起きたため改元されたという説もある。
村上天皇が「天暦」に決めたと言われている。
論語ろんご」の「ちん寡昧かまいなるをもってつと天暦く」がもとになっている。
 
 天徳てんとく
(村上天皇)
 957年10月27日~
961年
 日照り続きにより、作物の不作が起きたため改元した。
礼記らいき」の「飛竜天ひりゅうてんにありとは、すなわち天徳にくらいするなり」がもとになっている。
 乾元大宝けんげんたいほう発行(958年)
 応和おうわ
(村上天皇)
 961年2月16日~
964年
 平安京の内裏だいり(天皇が住んでいるところのこと)で火事が起きたためと、961年は辛酉しんゆうの年(革命が起きると言われている年のこと。60年に一度ある)だったため、改元した。
晋書しんじょ」の「峨々ががたる仁君じんくんまさ秀生しゅうせいすべし」がもとになっている。
 
 康保こうほう
(村上天皇)
 964年7月10日~
968年
 964年は甲子かっしの年(革命が起こると言われている年)のためと、日照りが続いて作物の不作が起きたため改元した。
書経しょきょう」の「あまねいにしえ先哲せんてつ王に求め聞き、用て民を康保こうほうせよ」がもとになっている。
 
 安和あんわ
冷泉れいぜい天皇)
968年8月13日~
970年 
「あんな」と読む場合もある。
冷泉天皇が即位したため改元。
礼記らいき」の「の故に治世の音、くしてもって楽しめるは、そのせいやわらげばなり」がもとになっていると言われている。
 安和あんなの変(969年)
 天禄てんろく
円融えんゆう天皇)
 970年3月25日~
974年
 円融天皇が即位したため改元。
改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、民の税を免除したり減らしたりした。またお年寄りやあま(出家した女性のこと)に穀物こくもつを与えた。
書経しょきょう」の「四海困窮こんきゅうせば、天禄てんろくは永く終えん」がもとになっていると言われている。※天禄とは、天からの恵みということ。
 
 天延てんえん
(円融天皇)
 974年12月20日~
976年
 地震が起こったため改元した。
改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、民の税を免除したり減らしたりした。またお年寄り
穀物こくもつを与えた。
芸文類聚げいもんるいじゅう」の「皇殪こうえい没すといえども、禄はえいえんなり※」がもとになっていると言われている。
※「たとえ、先代の皇帝が亡くなっても、天からの恵みは永遠」という意味。
 
 貞元じょうげん
(円融天皇)
 976年7月13日~
978年
地震が起きたため改元した。
平安京の内裏だいり(天皇が住んでいるところ)で火事があったため改元したという説もある。
文選もんぜん」の「巫咸ふかんをして夢を占わしむ、すなわちていきつげんぷなり※」がもとになっているという説がある。
※「夢を占わせたら、とてもめでたいことが起こる前触れだった」という意味。
 
 天元てんげん
(円融天皇)
978年11月29日~
983年 
 災害が起こったため、改元した。
改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、お年寄りに穀物を支給した。
改元された日付にはいくつか説がある。
史記しき」の「天元※に推本すいほんし、その意を順承じゅんしょうす」がもとになっていると言われている。
※天元とは、いろいろなものの元になっているもの、という意味。
 
 永観えいかん
(円融天皇)
983年4月15日~
985年 
 日照りが続いて、作物の不作が続いたため改元した。
改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、お年寄りや僧や尼に食べ物を支給した。
書経しょきょう」の「万年それちんが子をて徳に懐かしめん」がもとになっていると言われている。
 
 寛和かんわ
花山かざん天皇)
985年4月27日~
987年 
 「かんな」と読む場合もある。
花山天皇が即位したため改元した。
書経しょきょう」の「にして制あり。従容しゅうようとしてもってせよ」がもとになっていると言われている。
 
 永延えいえん
一条いちじょう天皇)
987年4月5日~
989年 
 一条天皇が即位したため改元した。
漢書かんじょ」の「陛下もととしてこれを始め、もって世祚えいせいそぶ、また優ならずや」がもとになっていると言われている。
 
 永祚えいそ
(一条天皇)
989年8月8日~
990年 
 ハレー彗星が現れたり、地震が起こったので、「災い」を取り払うために改元。
この頃の彗星は「ほうき星」と呼ばれて、大な災害が起こる前触れとして不吉とされていた。
彗星を理由に改元したのはこれが初めて。
「詩経」の「君子は万年、胤を錫う」が由来という説がある。
 
 正暦しょうりゃく
(一条天皇)
990年11月7日~
995年 
台風や、洪水が起こったので改元した。
改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、お年寄りや僧や尼に穀物を支給した。
史記しき」の「すこぶるこよみ、服色を正すのことを言う」がもとになっているとう言われている。 
 
 長徳ちょうとく
(一条天皇)
995年2月22日~
999年 
疫病が流行したため改元。
改元しても疫病はおさまるどころか全国まで広がってしまったので、「長毒」だと皮肉されることがあった。
中国の学者である楊雄の書いた文章「唐虞とうぐ長徳にして、四海永延壊す」から。
唐虞とは、中国の伝説上の聖天子である陶唐氏と有虞氏をあわせて呼ぶ時の呼び方。
 長徳の変
 長保ちょうほう
(一条天皇)
999年1月13日~
1004年 
 長徳に流行した疫病えきびょうや、日照りが続いて不作(作物が育たないこと)のために改元。「国語」の「ほどこあまねくして民あつからば、すなわちもってく民をつべし」と、「易経えききょう」から引用している(易経のどの部分かは不明)。「全ての人に恵みを与えることができれば、長く人民を治めることができる」という意味。
改元のときには、罪をおかした人の刑罰が軽くされた。
 藤原定子が皇后に、藤原彰子が中宮になる。(初の一帝二后)(1000年)
枕草子(1001年)
 寛弘かんこう
(一条天皇)
1004年7月20日~
1013年 
 地震によって改元。「漢書」の寛弘にして下に尽くせることは、恭倹きょうけんよりいでたり。」から引用。寛弘とは、心や度量が広いこと。恭倹とは、自分はつつましく、人にはうやうやしくすること。
はじめ、「寛仁かんにん」に決定されたが、一条天皇の本名である「懐仁やすひと」と「仁」の字が被ってしまうので変えられた。
 平安京内裏が火事により焼けて無くなる(1005年頃)
紫式部「源氏物語」(1008年)
 長和ちょうわ
三条天皇さんじょうてんのう
 1013年12月25日~1017年 三条天皇の即位にあわせて改元。
礼記らいき」の「君臣正しく、父子親しく、長幼和し、しこうして後に礼立つ」から引用。
意味は「身分や年齢をわきまえることで、初めて礼儀が成り立つ」ということ。
藤原道長が後一条天皇の摂政になる(1016年) 
 寛仁かんにん
後一条天皇ごいちじょうてんのう
1017年4月23日~1021年  後一条天皇の即位にあわせて改元。
会稽記かいけいき」「書経しょきょう」のほか、「漢書」の「寛仁愛人、意豁如かつじょなり」から。意味は「寛仁(心が広いこと)にして人を愛し、心が大きく小さなことにとらわれない」ということ。
 藤原道長が「望月もちづきの歌」を詠む(1018年)
 治安じあん
(後一条天皇)
 1021年2月2日〜
1024年
 干支の中には「辛酉しんゆう」という年があり、辛酉には革命が起こって朝廷が倒されると信じられていた。(詳しい解説は最後の「参考」を読もう)
そのため、辛酉になる年には改元して革命を避けようとされていた。
1021年も辛酉だったので、改元して治安になった。
漢書かんじょ」の「りて治安の策をべ、試みにつまびらかにこれを択ぶ」から選ばれた。
改元の時には、罪を犯した人の罰が
軽くされ、お年寄りには穀物が贈られた
 
 万寿まんじゅ
(後一条天皇)
 1024年7月13日〜1028年治安の時と同じように、こんどは「甲子かっし」の年になるため、革命を避けようと改元された。
詩経しきょう」の「楽しきかな君子、万寿かぎりなからん」から。
改元の時には、罪を犯した人の罰が
軽くされ、お年寄りには食べ物が贈られた。
藤原道長が亡くなる(1027年)
平忠常の乱(1028年6月) 
長元ちょうげん
(後一条天皇) 
 1028年7月25日〜1037年 疫病えきびょうが流行ったり、かんばつ(雨が降らずに、農作物が取れなくなってしまうこと)があったので改元した。
関白をしていた藤原頼通ふじわらのよりみちが改元をすすめたと言われている。
六韜りくとう」の「天の天たる、元の天たるや長し」から。
 長暦ちょうりゃく
後朱雀ごすざく天皇)
 1037年4月21日
〜1040年
 後朱雀天皇が即位したため改元された。
春秋しゅんじゅう」から元号は選ばれたと言われているが、どこの部分からは分かっていない。
 
 長久ちょうきゅう
(後朱雀天皇)
 1040年11月10日〜1044年
 1040年に大地震が起こったこと、平安京にある天皇のおやしきが火事で燃えてしまったため改元された。
老子ろうし」の「天長く地久ちひさし」から。
 長久の荘園整理令しょうえんせいりれい(1040年)
 寛徳かんとく
(後朱雀天皇)
 1044年11月24日
〜1046年
 疫病えきびょうが流行したことと、日照りが続いて農作物の不作が起こったため改元した。
後漢書ごかんじょ」の「海内かいだい歓欣かんきんし、人寛徳かんとくいだく」がもとになっている。
 寛徳の荘園整理令(1045年)
 永承えいしょう
後冷泉ごれいぜい天皇)
 1046年4月14日〜1053年 「えいじょう」という場合もある。
後冷泉天皇が即位したため改元した。
宋書そうじょ」と「書経しょきょう」の「宜しく宗廟そうびょうたてまつり、天祚てんそくべし」がもとになっている。
 前九年の役(1051年)
 天喜てんぎ
(後冷泉天皇)
 1053年1月11日〜1058年 疫病えきびょうが流行したため改元した。
抱朴子ほうぼくし」の「人主道あればすなわち嘉祥かじょうならびいたる、これすなわち天喜なり」がもとになっている。
天喜とは、「おめでたいことが起こる日」という意味。
 天喜の荘園整理令(1055年)
平等院阿弥陀堂(1053年)
 康平こうへい
(後冷泉天皇)
 1058年8月29日〜1065年 平安京の中心にある天皇が即位そくい式などの、大切なイベントを行う建物である「大極殿だいごくでん」が火事になってしまったため改元した。※京都にある法成寺ほうじょうじがやはり火事で
無くなってしまったことが理由という説もある。
「漢書」の「文帝ぶんてい寛恵かんけいにして温克おんこく、世の康平なるにう」がもとになっている。
康平とは、平和という意味。
 更級日記
 治暦じりゃく
(後冷泉天皇)
 1065年8月2日〜1069年
日照りが続いて農作物の不作があり、さらに「三合さんごう」という厄年(悪いことが起きると言われる年のこと)だったため改元した。
尚書正義しょうしょせいぎ」の「君子はこよみるをもって時を明らかにする」が元になっている。
 
 延久えんきゅう
後三条ごさんじょう天皇)
 1069年4月13日〜1074年 後三条天皇が即位したため改元した。
書経しょきょう」のはかりてこれを延久ならしめんと欲す」がもとになっている。
 延久の荘園整理令しょうえんせいりれい(1069年)
 承保じょうほう
白河しらかわ天皇)
 1074年8月23日〜1077年「しょうほう」と読む場合もある。
白河天皇が即位したため改元した。
災害が起きたので改元したという説もある。
書経しょきょう」の「王命ず、われにつとめて なんじの文祖ぶんそ命を受くるの民と、なんじの光烈こうれつなる考武王こうぶおう弘朕こうちんとを承保せんことを」がもとになっている。
 
 承暦じょうりゃく
(白河天皇)
 1077年11月17日〜1081年 天然痘てんねんとうという病気が流行り、日照りが続いて農作物の不作が起こったため改元した。
「維城典訓」の「聖人は懿徳をもって永く ‘ く」がもとになっている。
「暦を承く」とは、「王位を受け継ぐ」という意味。
改元の時には、犯罪を犯した人の刑罰が軽くされた。
 
 永保えいほう
(白河天皇)
 1081年2月10日〜1084年 辛酉しんゆうの年(革命が起こると言われる年)だったので改元した。
書経しょきょう」の「これいわく、万年に至って、これ王の子子孫孫ししそんそんく民をつことを欲す」がもとになっている。
 後三年ごさんねんえき(1083年)
 応徳おうとく
(白河天皇)
 1084年2月7日〜1087年甲子かっしの年(事件などが起こるといわれる年)だったので改元した。
白虎通びゃっこつう」の「陰陽いんよう 和して万物じょあり。休気充塞きゅうきじゅうそくす。ゆえに符瑞ふずいならびいたる。皆じて至る。」が、もとになっている。 
 白河上皇の院政(「1086年)
 寛治かんじ
堀河ほりかわ天皇)
 1087年4月7日〜1095年
 堀河天皇が即位したため改元した。
礼記らいき」の「とうかんをもって民をめ、そのぎゃくを除く」がもとになっている。
 後三年の役が終わる(1087年)
 嘉保かほう
(堀河天皇)
 1095年1月29日〜1097年 天然痘てんねんとうという病気が流行したため改元した。
史記しき」の「よろこびて太平たいへいやすんず」がもとになっている。
改元の時には、罪を犯した人の刑罰を軽くした。
 永長地震(1096年)
 永長えいちょう
(堀河天皇)
1097年1月9日〜  11ヶ月しか使わなかった元号。
大地震が起きたため、改元した。
後漢書ごかんじょ」の「故に夙夜しゃくやもって永長なることを庶幾こいねがう」がもとになっている。
改元の時には、犯罪を犯した人の刑罰を軽くした。
都で田楽でんがくが流行
承徳じょうとく
(堀河天皇) 
 1097年11月21日〜1099年また1097年に地震が起きたため、 改元した。大風や洪水、彗星すいせいが現れたこと(不吉とされていた)が改元の理由だという説もある。
易経えききょう」の「くるにをもってするなり」がもとになっている。
 永長の大田楽
永長地震(1096年)
 康和こうわ
(堀河天皇)
1099年8月28日〜1104年  地震が発生したことと、疫病が流行ったため改元した。
「政論」の「四海康和し、天下楽を同じうす」がもとになっている。
改元の時には、一部の罪を犯した人の刑罰を軽くしたり、人々の税を軽くしたり、お年寄りにお祝いの品を与えたりした。
 
 長治ちょうじ
(堀河天皇)
 1104年2月10日〜1106年 康和こうわ5年(1103年)の2月16日に月食げっしょくが起こったため改元した。
月食が起こったことを、白河法皇しらかわほうおうと法皇の近臣きんしん(法皇のそばで仕える人のこと)とで「天で異変が起こっている」と考えて改元したことが中右記ちゅうゆうきに書かれている。
漢書かんじょ」の「久安きゅうあんせいを建て、長治ぎょうを成し、もって祖廟そびょうけ、もって六親りくしんほうず」がもとになっている。
改元の時には、一部の罪を犯した人々の刑罰を軽くした。
 
 嘉承かじょう
(堀河天皇)
 1106年4月9日〜1108年
「かしょう」と読む場合もある。
長治ちょうじ3年(1106年)に彗星すいせいが出現したため改元した。彗星は、悪いことが起きる前触まえぶれと考えられていた。
漢書かんじょ」の「皇皇こうこうとしておおいに明かなり・・・よみして天の和をく、これその福を楽しむ」がもとになっている。
 
 天仁てんにん
鳥羽とば天皇)
1108年8月3日〜1110年  鳥羽天皇が即位したため改元した。
文選もんぜん」の「をおこし、地は富をおこし、人は法をおこす」がもとになっている。
 
 天永てんえい
(鳥羽天皇)
 1110年7月13日〜1113年 天仁3年(1110年)に彗星すいせいが出現したため改元した。 彗星は、悪いことが起きる前触まえぶれと考えられていた。
また、彗星が改元の理由なので、「天」の字が入っているものが良いと考えられた。
書経しょきょう」の「王小民をひきいてえいめいを受けんことを欲す」がもとになっている。
 
 永久えいきゅう
(鳥羽天皇)
 1113年7月13日〜1118年 麻疹はしかが流行したためと、延暦寺えんりゃくじ興福寺こうふくじで争いが起こったため改元した。
詩経しきょう」の「それ不戦の計を設くるは、守御の固きなり。みな社稷しゃしょくの臣なる永久の策なり」がもとになっている
 
 元永げんえい
(鳥羽天皇)
 1118年4月3日〜1120年病気が流行ったり、災害が起きたため改元した。
確かなことは分かっていないが、「易経えききょう」の「元永ていなれば、とがなし」がもとになっているという説がある。 
 
 保安ほうあん
(鳥羽天皇)
1120年4月10日〜1124年  病気が流行ったり、災害が起きたため改元した。
確かなことは分かっていないが、「漢書かんじょ」の「社稷しゃしょく守し、後嗣こうしあんこす」がもとになっているという説がある。
 
 天治てんじ
崇徳すとく天皇)
 1124年4月3日〜1126年
 崇徳天皇が即位したため改元した。
易緯えきい」「天子は天をぎて物を治む」がもとになっている。
 
 大治だいじ
(崇徳天皇)
 1126年1月22日〜1131年 天然痘てんえんとうが流行ったため改元した。
河図挺佐輔かとていさほ」の「黄帝こうてい徳を修め義を立て、天下大いに治まる」
 
 天承てんじょう
(崇徳天皇)
 1131年1月29日〜1132年 日照ひでりが続いて作物がとれないことが続いたり、洪水などが起きたため改元した。
漢書かんじょ」の「天にほうじてしんに承けて、朝にのぞみ臣にうけて、物ごとに節文あり、もって人倫じんりんをあきらかにす」がもとになっている。
 
 長承ちょうしょう
(崇徳天皇)
1132年8月11日〜1135年 「ちょうじょう」と読む場合もある。
伝染病が流行ったため改元した。他にも「火事が起きた」から、「説明ができないような不思議な事が起きた」のが原因という説もある。
史記しき」の「後嗣こうし業にしたがい、長く聖治せいちを承く」がもとになっている。
 
 保延ほうえん
(崇徳天皇)
 1135年4月27日〜1141年伝染病が流行ったり、食べ物がなくてたくさんの人が亡くなったりしたため改元した。洪水が起きたのが原因という説もある。
文選もんぜん」の「実に至尊しそんの御するところ、寿えんじゅちて子孫によろし」がもとになっている。 
 
 永治えいじ
(崇徳天皇)
 1141年7月10日〜1142年 1141年が辛酉しんゆう(革命が起きるといわれている年)だったため、改元した。
改元の時には、罪を犯した人の罰を軽くしたり、税を減らしたり、なくしたりした。
またお年寄りと僧や尼に穀物を与えた。
典論てんろん」の「天下の安きをみて千年にしてらんという」がもとになっている。
 
 康治こうじ
近衛このえ天皇)
 1142年4月28日〜1144年 近衛天皇が即位したため改元した。
宋書そうじょ」の「こうをもって道をおさむ」がもとになっている
 
 天養てんよう
(近衛天皇)
 1144年2月23日〜1145年 1144年が甲子かっし(革命が起きると言われている年)だったので、改元した。
後漢書ごかんじょ」の「いずくんぞに応じ人をやしない」がもとになっている。
 
 久安きゅうあん
(近衛天皇)
 1145年7月22日〜1151年 ハレー彗星すいせいが現れたため、改元した。(このころ、彗星は不吉なものと考えられていた)
漢書かんじょ」の「久安きゅうあんの勢を建て、長治ちょうじはいを成す」がもとになっている
 
 仁平にんびょう
(近衛天皇)
1151年1月26日〜1154年  1151年に起きた洪水のため改元した。
後漢書ごかんじょ」の「ふんすでに節を立て、治仁平にんびょうを貴ぶ」がもとになっている。
 
 久寿きゅうじゅ
(近衛天皇)
 1154年10月28日〜1156年 火事が起きたため改元した。
隋書ずいしょ」の「もとい北辰ほくしんと同じくしてひさしく、寿じゅ南山なんざんと共にして長し」がもとになっている。
 
 保元ほうげん
後白河ごしらかわ天皇)
1156年4月27日〜1159年  後白河天皇が即位したため改元した。
願氏家訓がんしかくん」の「宜しく防慮ぼうりょしもってげんきつつべし」がもとになっている。
 保元ほうげんの乱(1156年)
保元新制ほうげんしんせいが出される(1156年)
 平治へいじ
(二条天皇)
1159年4月20日〜1160年  二条天皇が即位したため改元した。
史記しき」の「天下ここにおいてはなはたいらぎおさまる」がもとになっている。
平治の乱(1159年) 
永暦えいりゃく
(二条天皇)
1160年1月10日〜1161年平治へいじの乱が起こったため改元した。
後漢書ごかんじょ」の「ながく代を太平たいへいなり」がもとになっている。
平治の乱で平氏へいしに敗れた源頼朝みなもとのよりとも伊豆いずへ流される(1160年)
応保おうほう
(二条天皇)
1161年9月4日〜1163年天然痘てんねんとうという病気が流行ったため改元した。
書経しょきょう」の「いんの民を応保おうほうやわらげて安らかにするという意味)するなり」がもとになっている。
長寛ちょうかん
(二条天皇)
1163年3月29日〜1165年天然痘てんねんとうという病気が流行ったため改元した。他にも、災害が起こったからという説もある。
維城典訓いじょうてんくん」の「これをくしこれをひろくせば、その功をほどこすことひろし」がもとになっている。
永万えいまん
(二条天皇)
1165年6月5日〜1166年災害が起こったり、不思議なことが起こったため改元した。
二条天皇が天然痘てんねんとうにかかってしまい、治るようにと改元したという説もある。
漢書かんじょ」の「永永万えいまん年たり(平和な世の中が永く続くという意味)」がもとになっている。
仁安
六条ろくじょう天皇)
1166年8月27日〜1169年「にんなん」と読む場合もある。
六条天皇が即位したため改元した。
毛詩正義もうしせいぎ」の「そのかんにんにして静なるまつりごとを行い、もって天下を定む」がもとになっている。
平清盛が太政大臣になる(1167年)
嘉応かおう
高倉たかくら天皇)
1169年4月8日〜1171年高倉天皇が即位したため改元した。
漢書かんじょ」の「神爵五鳳しんしゃくごほうの間、天下殷富いんぷにしてしばしば嘉応かおうあり」がもとになっている。
 
承安しょうあん
(高倉天皇)
1171年4月21日〜1175年「じょうあん」と読む場合もある。天空てんくうに起こる変動(異常気象いじょうきしょうや、日食にっしょく隕石いんせき彗星すいせいなどの変わったこと)があったことと、高倉天皇の病気が治るようにと改元された。
書経しょきょう」の「王われに命じて来たり、なんじの文徳の祖を承け安んぜしむ」がもとになっている。
 
安元あんげん
(高倉天皇)
1175年7月28日〜1177年天然痘てんねんとうという病気が流行ったため、改元した。
漢書かんじょ」の「民害を除いて元元げんげんやすんず」がもとになっている。
安元あんげん大火たいか(1177年)
治承じしょう
(高倉天皇)
1177年8月4日〜1181年安元の大火により、大極殿だいごくでん(朝廷の正殿せいでん)が燃えてしまったので改元した。
河図かと」の「治文をつつしみ、治天精てんせいを承く」がもとになっている。
 
養和ようわ
(安徳天皇)
1181年7月14日〜1182年安徳天皇が即位したため改元した。
後漢書ごかんじょ」の「幸いにもめいやすんじ、神をそんし和を養うを得たり」がもとになっている。
 
寿永じゅえい
(安徳天皇)
1182年5月27日〜1184年食べ物がなくてたくさんの人が亡くなってしまったり、戦が起こったり、病気が流行ったりしたため改元した。
三合さんごう」という厄年やくどしだったという説もある。
詩経しきょう」の「ひきいて昭考しょうこうまみえ、もってこうしもってきょうす。もって眉寿びじゅをたすけ、永くここに之を保つ」がもとになっている。
 
元暦げんりゃく
(安徳天皇)
後鳥羽ごとば天皇)
1184年4月16にち〜1185年後鳥羽天皇が即位したため改元した。
尚書緯考霊曜しょうしょいこうれいよう」の「天地開闢かいびゃくこよみはじめ名をしるす」がもとになっている。
元暦の大地震(1185年)
壇ノ浦だんのうらの戦い(1185年)

鎌倉時代

元号期間改元の理由と由来主な出来事
文治ぶんじ
後鳥羽ごとば天皇)
1185年8月14日~
1190年
百錬抄ひゃくれんしょう」には火災と地震が起きたため改元したとある。他にも「争いや乱が起きたため」とあるものも。
「文治」のほかに「建久けんきゅう」という案もあったが、後鳥羽天皇が「文治」が良いと考えたため選ばれた。
礼記らいき」の「王は文によって国をめた」という一文が由来。
意味は「文王ぶんおう(古代中国の伝説になっている王のこと)は武力に頼らず、文化や学問によって国を治める」というもの。
守護しゅご地頭じしんが置かれる
(1185年)
建久けんきゅう
(後鳥羽天皇)
1190年4月11日〜1199年1190年が三合さんごうという厄年やくどしだったので改元した。(地震が起きたのが理由という説もある)
三国志さんごくし」の「国を安んじて民を利し、きゅうちょうけいつ」がもとになっている。
源頼朝みなもとのよりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐんになり、鎌倉幕府かまくらばくふが開かれる(1192年)
正治しょうじ
(土御門つちみかど天皇)
1199年4月27日〜1201年 土御門天皇が即位したため改元した。
荘子そうじ」の「天子、諸侯しょこう大夫たいふ庶人しょじん、この四者自らしくするは、の美なり」がもとになっている。
建仁けんにん
(土御門天皇)
1201年2月13日〜1204年1201年は辛酉しんゆう(革命が起こるとされると言われる年)だったので、改元した。
文選もんぜん」の「をつくしけんにつく者は、必ずじんさくて、人をもとめ士を求むる者は必ず伯跡はくせきつ」がもとになっている
元久げんきゅう
(土御門天皇)
1204年2月20日〜1206年1204年は甲子かっし(革命が起こるとされている年)だったので改元した。
毛詩正義もうしせいぎ」の「文王国内に建元けんげんしてより久し」がもとになっている
建永けんえい
(土御門天皇)
1206年4月27日〜1207年麻疹はしかという病気が流行ったため改元した。天然痘てんねんとうという病気だったという説もある。
文選もんぜん」の「こいねがわくは力を上国に合わせ、恵みを下民に流し、世の業をて、金石きんせきの功を流さんことを」がもとになっている。
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承元じょうげん
(土御門天皇)
1207年10月25日〜1211年1207年は「三合さんごう」という厄年やくどしだったので改元した。「天然痘てんねんとう」という病気が流行ったのが原因という説もある。
通典つてん」の「いにしえ祭るに首時しゅじってし、すすむるに仲月ちゅうげつを用い、近代相きんだいそうしょう日祥瑞がんじつしょうずいを奏す」がもとになっている。
建暦けんりゃく
順徳じゅんとく 天皇)
1211年3月9日〜1214年順徳天皇が即位したため改元した。
後漢書ごかんじょ」「宋書そうじょ」の「こよみつるのもとは、必ず先に元を立つ」がもとになっている。
方丈記ほうじょうき(1212年)
建保けんぽう
(順徳天皇)
1214年12月6日〜1219年災害があったため改元した。地震が起きたからという説もある。
書経しょきょう」の「またこれ天丕てんぴてて有殷ゆういんがいす」がもとになっている。
承久じょうきゅう
(順徳天皇)
1219年4月12日〜1222年災害がおこったり、日照りが続いて作物がとれなくなってしまったりしたためと、1219年が「三合」という厄年だったので改元した。
詩緯しい」の「周は后稷こうしょくより起こり、歴世相ぐこと久し」がもとになっている。
承久じょうきゅうの乱(1221年)
貞応ょうおう
後堀河ごほりかわ天皇)
1222年4月13日〜1224年後堀河天皇が即位したため改元した。
易経えききょう」の「中孚ちゅうふにしてもってただしきによろしければ、すなわち天にずるなり」がもとになっている。
元仁げんにん
(後堀河天皇)
1224年11月20日〜1225年日照りが続いて作物がとれなくなってしまったりしたため改元した。
「周易正義」の「はすなわちじんなり」がもとになっている。 –
嘉禄かろく
(後堀河天皇)
1225年4月20日〜1228年天然痘てんねんとう」という病気が流行ったため改元した。
博物志はくぶつし」の「陛下先帝へいかせんてい光耀こうよう摛顕ちけんし、もって皇天の嘉禄かろくほうず」がもとになっている。
安貞あんてい
(後堀河天皇)
1228年12月10日〜1229年天然痘てんねんとう」という病気が流行ったため改元した。
易経えききょう」の「ていんずるのきちとは、地のかぎりなきに応ずるなり」がもとになっている。
寛喜かんき
(後堀河天皇)
1229年3月5日〜1232年「かんぎ」と読む場合もある。
暴風がおきたために改元した。
食べ物がなくて亡くなる人がたくさんいたのが原因という説もある。
北魏書ほくぎしょ」の「じんにして温良をおこし、にして楽をおこす」がもとになっている。.
寛喜の大飢饉(1230年)
貞永じょうえい
(後堀河天皇)
1232年4月2日〜1233年1232年に食べ物がなく、たくさんの人々が亡くなってしまう「大飢饉だいききん」が起きたので改元した。
周易正義しゅうえきせいぎ」の「利は永貞えいていにあり。永は長なり。貞は正なり」がもとになっている。
貞永式目(1232年)
天福てんぷく
四条しじょう天皇)
1233年4月15日〜1234年「てんふく」と読む場合もある。
四条天皇が即位したため改元した。
書経しょきょう」の「まつりごとぜんなればこれをす」がもとになっている。
文暦ぶんりゃく
(四条天皇)
1234年11月5日〜1235年天皇にちかしい人が亡くなることが続いたため改元した。
地震が理由という説もある。
唐書とうじょ」の「てんもんれきすうを掌る」がもとになっている。
御鉢が噴火(文暦の大噴火)(1234年)
嘉禎かてい
(四条天皇)
1235年9月19日〜1238年地震が起きたため改元した。
北斉書ほくせいしょ」の「千祀をつみ、嘉禎かてい彰明しょうめいす」がもとになっている。
嘉禎というのは、「良いことが起きる前触 ‘ まえぶれ」という意味。
暦仁りゃくにん
(四条天皇)
1238年11月23日〜1239年災害が起きたため改元した。
隋書ずいしょ」の「皇明こうめいこよみぎょ海県じんかいけんよりも深し」がもとになっている。
延応えんおう
(四条天皇)
1239年2月7日〜1240年地震が起きたため改元した。
文選もんぜん」の「しゅんがいこれすすむ、ぬかれて嘉挙かきょず」がもとになっている。
仁治にんじ
(四条天皇)
 1240年7月16日〜1243年「にんち」と読む場合もある。
日照りが続いて作物がとれなくなってしまったりしたため改元した。
新唐書しんとうじょ」の「かんにんって天下をおさむ」がもとになっている。
寛元かんげん
(  後嵯峨ごさが天皇)
1243年2月26日〜1247年後嵯峨天皇が即位したため改元した。
宋書そうじょ」の「五教かんにあれば、元元げんげんもって平らかなり」
宝治ほうじ
後深草ごふかくさ天皇)
1248年2月28日〜1249年後深草天皇が即位したため改元した。
春秋繁露しゅんじゅうはんろ」の「身を治むる者は精を積むをもってとなし、国をむる者はけんを積むもって道となす」がもとになっている。
建長けんちょう
(後深草天皇)
1249年3月18日〜1256年平安京にある天皇の住んでいるお屋敷で火事が起きたため改元した。
後漢書ごかんじょ」の「久のさくつ」がもとになっている。
康元こうげん
(後深草天皇)
1256年10月5日〜1257年麻疹はしかという病気が流行ったため改元した。
隋書ずいしょ」の「さかんなるかな首や、われに恵むにかぎり無し」がもとになっている。
正嘉しょうか
(後深草天皇)
1257年3月14日〜1259年火事が起きたため改元した。
漢書かんじょ」の「はじめてかきつしてひろめてもってさかゆ」がもとになっている。
正嘉の大地震(1257年)
正嘉の大飢饉だいききん(1257年)
正元しょうげん
(後深草天皇)
1259年3月26日〜1260年食べ物がなくてたくさんの人々が亡くなったり、病気が流行したため改元した。
詩緯し い」の「一なること正元のごとく、万載ばんさい相伝す」がもとになっている。
正元の大飢饉だいききん(1259年)
文応ぶんおう
亀山かめやま天皇)
1260年4月13日〜1261年亀山天皇が即位したため改元した。
春秋内事じゅんじゅうないじ」の「八節はちせつ建分けんぶんをもって気にず」がもとになっている。
弘長こうちょう
(亀山天皇)
1261年2月20日〜1264年1261年は辛酉しんゆう(革命が起きるといわれている年)のため、改元した。
貞観政要じょうがんせいよう」の「理定りていの規を聞き、もって長代の業をひろむることを思えば、万古ばんこよりかわらず、百慮ひゃくろ帰を同じくす」がもとになっている。
文永ぶんえい
(亀山天皇)
1264年2月28日〜1275年1264年が甲子かっし(革命が起きるといわれている年)だったので改元した。
後漢書ごかんじょ」の「べ文を興し、永く祖宗そしゅう洪業こうぎょうをおもい」がもとになっている。
文永の役(1274年)
建治けんじ
後宇多ごうだ天皇)
1275年4月25日〜1278年後宇多天皇が即位したため改元した。
周礼しゅうらい」の「もって国の学政をむ」がもとになっている 。
弘安こうあん
(後宇多天皇)
1278年2月29日〜1288年病気が流行したため改元した。
太宗実録たいそうじつろく」の「民の道をひろむ」がもとになっている。
弘安の役(1281年)
正応しょうおう
伏見ふしみ天皇)
1288年4月28日〜1293年伏見天皇が即位したため改元した。
詩経しきょう」の「徳に利にず」がもとになっている。
鎌倉大地震(1293年)
永仁えいにん
(伏見天皇)
1293年8月5日〜1299年地震が起きたため改元した。
晋書しんじょ」の「風を載し、長く無外を撫す」がもとになっている。
永仁の徳政令とくせいれい(1297年)
正安しょうあん
後伏見ごふしみ天皇)
 1299年4月25日〜1302年後伏見天皇が即位したため改元した。
孔子家語こうしけご」の「この五行はもって身をしくし国をやすんずるに足る」がもとになっている。
乾元
後二条ごにじょう天皇)
1302年11月21日〜1303年後二条天皇が即位したため改元した。
「易経」の「大いなるかな乾元」がもとになっている。
乾元とは、「天の筋道(人として行うべき正しい道)」のこと。
嘉元かげん
(後二条天皇)
1303年8月5日〜1307年日照ひでりが続いて作物が取れなくなってしまったり、彗星すいせいが現れたりしたので改元した。この頃は、彗星は「不吉なことが起こる前触まえぶれ」と考えられていた。
貞観政要じょうがんせいよう」の「良盛げんりょうさかんなるをよみして万国ただし」がもとになっている。
嘉元の乱(1305年)
徳治とくじ
(後二条天皇)
1307年12月14日〜1308年災害が起きたため改元した。
尚書正義しょうしょせいぎ」の「徳治しゅんとくちのうの士並びて官にあり」がもとになっている。
 
延慶えんきょう
花園はなぞの天皇)
1308年10月9日〜1311年「えんけい」と読む場合もある。
花園天皇が即位したため改元した。
後漢書ごかんじょ」の「終わるに功名をもってし、よろこびを後にべざるなし」がもとになっている。
 
応長おうちょう
(花園天皇)
1311年4月28日〜1312年病気が流行ったため、改元した。
旧唐書くとうじょ」の「ちょうりゃくの規にじ、中月の度にのっとり」がもとになっている。
 
正和しょうわ
(花園天皇)
1312年3月20日〜1317年嵐が起きたり、日食にっしょく月食げっしょくなどが起こるなど、「いつもと変わったこと」が起こったため改元した。
唐紀とうき」の「皇帝朝を受け正和を奏す」がもとになっている。
正和は、曲の名前のこと。
 
 文保ぶんぽう
(花園天皇)
 1317年2月3日〜1319年「ぶんほう」と読む場合もある。
地震が起きたため改元した。
梁書りょうしょ」の「姫周きしゅう文をもととし、久しく七百を保つ」がもとになっている。
 
 元応げんおう
後醍醐ごだいご天皇)
1319年4月28日〜1321年  後醍醐天皇が即位したため改元した。
唐書とうじょ」の「黎元れいげん康済こうさいするの応なり」がもとになっている。
 
元亨げんこう
(後醍醐天皇)
1321年2月23日〜1324年1321年は辛酉しんゆうの年(革命が起こると言われている年)だったため、改元した。
易経えききょう」の「これをもって元いに亨る」がもとになっている。
 
正中しょうちゅう
(後醍醐天皇)
1324年12月9日〜1326年ひど暴風雨ぼうふううが起き、たくさんの人が犠牲ぎせいになったため改元した。
易経えききょう」の「子曰しいわく、竜徳りゅうとくありて正中しょうちゅうなる者なり」がもとになっている。
正中しょうちゅうへん(1324年)
嘉暦かりゃく
(後醍醐天皇)
1326年4月26日〜1329年洪水こうずいでたくさんの人がなくなったり、大きな地震が起きたり、病気が流行ったりしたため改元した。
旧唐書くとうじょ」の「四序の嘉辰かしん、歴代増置ぞうちす」がもとになっている。
 
元徳げんとく
(後醍醐天皇)
1329年8月29日〜1331年伝染病でんせんびょうが流行ったため、改元した。
周易正義しゅうえきせいぎ」の「天の元徳始めて万物を生ずるをいう」がもとになっている。
「元徳」とは、大きなとく(その人の身にそなわった品性ひんせいのこと)という意味。
後醍醐天皇は、1331年に「元徳」から「元弘げんこう」に改元したが、後醍醐天皇の出身である大覚寺統だいかくじとうと対立していた持明院統じみょういんとう光厳こうごん天皇と鎌倉幕府がそれを認めず、持明院統と幕府では元徳の次は1332年の「正慶しょうきょう」が使われることになる。
 
元弘げんこう
(後醍醐天皇)
1331年8月9日〜1334年伝染病でんせんびょうが流行ったため、改元した。
「芸文類聚」の「嘉占元吉かせんげんきつ、無量のゆうひろむ」がもとになっている。
元弘の変(1331年)
鎌倉幕府が滅ぶ(1333年)

室町時代(南朝)

元号期間改元の理由と由来主な出来事
建武けんむ
(後醍醐天皇)
1334年1月29日~
1336年
鎌倉幕府を倒し、「これからは天皇中心の新しい政治を行う」ということを示すために後醍醐天皇が改元した。
(災害や、即位、革命を避けるためなどの理由でない改元はこれが始めてと言われている)
「建武」は、中国の後漢ごかんで使われていた元号。
中国の皇帝「光武帝こうぶてい」が王朝おうちょう(王が治める国家ということ)を復活させたときの元号が「建武」だったので、後醍醐天皇は自分も天皇が治める国家を取り戻したいという意味を込めて建武にしたと言われている。
建武の新政
延元えんげん
(後醍醐天皇)
1336年2月29日〜1340年後醍醐天皇に反するようになった足利尊氏によって後醍醐天皇側の楠木正成を湊川の戦いで破るなど、後醍醐天皇の政治に不安が続いたので改元した。
急な改元だったので、反対意見が出たが、後醍醐天皇が反対を押し切った。
「梁書」の「聖徳の被う所、上は蒼蒼より、下は元元に延ぶ」がもとになっている。
足利尊氏は光明天皇を立て、これにより京都(光明天皇)の北朝と吉野(後醍醐天皇)の南朝が並立した。(南北朝時代)
湊川の戦い(1336年)
南北朝の並立(1336年)
建武式目けんむしきもく(1336年)
室町幕府むろまちばくふの創設(1336年)
足利尊氏が征夷大将軍せいいたいしょうぐんになる(1338年)
興国こうこく
後村上ごむらかみ天皇)
1340年4月28日〜1347年後村上天皇が即位したため改元した。
元号の出典は不明になっている。
正平しょうへい
(後村上天皇)
1347年12月8日〜1370年改元の理由、元号の出典も不明。
(正平一統が理由ではないかという意見もある。正平一統とは、一時的に南朝と北朝の対立をやめて、南朝の元号である「正平」を統一して使うという約束のこと。結局、南朝が京都を攻めるなどしてしまったため約束は無効になった。)
正平一統(1351年)
建徳けんとく
長慶ちょうけい天皇)
1370年〜1372年改元した日付は不明。長慶天皇が即位したため改元した。
元号の出典は不明。
 
文中ぶんちゅう
(長慶天皇)
1372年4月6(〜28日)〜1375年改元の理由は不明。
元号の出典も不明。
 
天授てんじゅ
(長慶天皇)
1375年6月2日ごろ〜1381年ころ山崩れが起きたため改元した。
元号の出典は不明。
 
弘和こうわ
(長慶天皇)
1381年ごろの6月ごろ〜1384年1381年が辛酉しんゆう(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
元号の出典は不明。
 
元中げんちゅう
後亀山ごかめやま天皇)
1384年〜1392年後亀山天皇が即位したため改元した。
室町幕府の3代将軍足利義満あしかがよしみつの働きで、後亀山天皇は北朝と話し合いをした。
三種の神器を北朝の後小松ごこまつ天皇に渡したことで、南朝と北朝は統一された。
元号は北朝の「明徳めいとく」となった。

明徳の和約・南北朝の合一(1392年)

室町時代(北朝)

元号期間改元の理由と由来主な出来事
建武けんむ
(後醍醐天皇)
1334年1月29日~
1338年
鎌倉幕府を倒し、「これからは天皇中心の新しい政治を行う」ということを示すために後醍醐天皇が改元した。
(災害や、即位、革命を避けるためなどの理由でない改元はこれが始めてと言われている)
「建武」は、中国の後漢ごかんで使われていた元号。
中国の皇帝「光武帝こうぶてい」が王朝おうちょう(王が治める国家ということ)を復活させたときの元号が「建武」だったので、後醍醐天皇は自分も天皇が治める国家を取り戻したいという意味を込めて建武にしたと言われている。
1336年に南北朝が並立すると、北朝と南朝それぞれ別の元号を定めるようになった。
南朝は1336年に「建武」から「延元えんげん」に改元したが、北朝は1338年まで「建武」を使い、1338年に「暦応りゃくおう」に改元した。
建武の新政
暦応りゃくおう
光明こうみょう天皇)
1338年8月28日〜1342年光明天皇が即位したため改元した。
(光明天皇が即位したのは1336年)
帝王代記ていおうだいき」の「王者これをもって暦を占い、和に応じて生ず」がもとになっている。
 
康永こうえい
(光明天皇)
1342年4月27日〜1345年京都にある法勝寺ほっしょうじの塔が火事になったことと、病気が流行ったため改元した。
漢書かんじょ」の「海内康平かいだいこうへいにして、永く国家を保つ」がもとになっている。
 
貞和じょうわ
(光明天皇)
1345年10月21日〜1350年彗星すいせい(この頃は不吉をあらわすものと考えられていた)が現れたり、病気が流行ったため改元した。
芸文類聚げいもんるいじゅう」の「乾霊けんれいの休徳を体し、貞和の純精じゅんせいをうく」がもとになっている。
 
観応かんおう
崇光すこう天皇)
1350年2月27日〜1352年「かんのう」と読む場合もある。
崇光天皇が即位したことによって改元した。
荘子そうし」の「虚通きょつうの理をもって、応物の数を観じ、しこうしてなすこと無し」がもとになっている。
弟と対立した足利尊氏が南朝に協力を依頼し、1351年の正平一統により、北朝は南朝の元号である「正平」に一度統一した。また、同時に崇徳天皇は廃位(天皇ではなくなること)になった。
しかしすぐにまた南朝と北朝は対立することになり、1352年に「観応」が復活し、後光厳天皇が即位することになった。
正平一統しょうへいいっとう
文和ぶんわ
後光厳ごこうごん天皇)
1352年9月27日〜1356年「ぶんな」とよむ場合もある。後光厳天皇が即位したため改元した。
三国志さんごくし」の「文内に和らぎ、武外にぶ」がもとになっている。
 
延文えんぶん
(後光厳天皇)
1356年3月28日〜1361年南朝と北朝の間で戦いがたくさん起こったため改元した。
漢書かんじょ」の文学・儒者じゅしゃ数百人をく」がもとになっている。
 
康安こうあん
(後光厳天皇)
1361年3月29日〜1362年病気が流行ったり、あいかわらず南朝と北朝の間での戦いが続いたため改元した。
史記正義しきせいぎ」の「天下の衆事しゅうじ、みな康安を得れば、もって天下太平てんかたいへいいたす」がもとになっている。
 
貞治じょうじ
(後光厳天皇)
1362年9月23日〜1368年あいかわらず南朝と北朝との間で戦いがつづき、さらに地震や津波、火事などが起きたため改元した。
易経えききょう」の「武人のただしきによろしとは、志治まるなり」がもとになっている。
 
応安おうあん
(後光厳天皇)
1368年2月18日〜1375年病気が流行ったり、災害などが起きたため改元した。
毛詩正義もうしせいぎ」の「幸いにまさに安定すべし」がもとになっている。
足利義満が征夷大将軍になる(1368年)
永和えいわ
後円融ごえんゆう天皇)
1375年2月27日〜1379年後円融天皇が即位したため改元した。(即位は4年前)
書経しょきょう」の「詩は志を言い、歌は言を永くし、声は永きにより、りつは声を和す」がもとになっている。
 
康暦こうりゃく
(後円融天皇)
1379年3月22日〜1381年 災害が起きたり、病気が流行ったり、戦がたくさん起こったりしたため改元した。
唐書とうじょ」の「成康せいこう暦業れきぎょうを承く」がもとになっている。
 
永徳えいとく
(後円融天皇)
1381年2月24日〜1384年 1381年は辛酉しんゆう(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
元号の由来は不明。
 
至徳しとく
後小松ごこまつ天皇)
1384年2月27日〜1387年後小松天皇が即位したため改元した。
「孝経」の「先王に至徳要道有り、もって天下を順にす」がもとになっている。 
 
嘉慶かけい
(後小松天皇)
1387年8月23日〜1389年「かきょう」と読む場合もある。
病気が流行ったため改元した。
毛詩正義もうしせいぎ」の「嘉慶かけいまさに有らんとするに、禎祥ていしょうまず来たりてあらわる」がもとになっている。
 
康応こうおう
(後小松天皇)
1389年2月9日〜1390年朝廷の重要な役職の人や、位の高い僧が相次いで亡くなったため改元した。
文選もんぜん」の「国富み民康く、神応じさいわいいたり」がもとになっている。
 
明徳めいとく
(後小松天皇)
1390年3月26日〜1394年災害が起きたり、戦が多く起こったりしたので改元した。
礼記らいき」の「大学の道は、明徳を明らかにするにあり」がもとになっている。 
南北朝の合一(1392年)
応永おうえい
(後小松天皇)
1394年7月5日〜1428年33年続いた元号で、明治以前まででは最も長く使われた元号。(明治は43年、昭和は62年、平成は30年)
後円融ごえんゆう上皇が亡くなってしまったので改元した。
唐会要とうかいよう」の「久しくまさにこれを称し、永く天下をたもつべし」がもとになっている。
足利義満が金閣寺を建てる(1397年)
正長しょうちょう
称光しょうこう天皇)
1428年4月27日〜1429年称光天皇が即位したため改元した。
(実際に称光天皇が即位したのは16年前)
称光天皇の即位が理由としながら、実は「応永」が永く続きすぎたため改元したという考え方もある。
礼記正義らいきせいぎ」の「在位の君子、威儀差忒いぎさとくあらず、もってこの四方の国を正長しょうちょうすべし」がもとになっている。
正長の土一揆つちいっき(1428年)
永享えいきょう
後花園ごはなぞの天皇)
1429年9月5日〜1441年後花園天皇が即位したため改元した。
(室町幕府将軍に足利義教あしかがよしのりが就いたから改元したという考え方もある)
後漢書ごかんじょ」の「よく魏々ぎぎの功を立てて子孫に伝え、永く無窮むきゅうく」がもとになっている。
永享の乱(1438年)
永享関東地震(1433年)
結城合戦ゆうきかっせん(1440年)
嘉吉かきつ
(後花園天皇)
1441年2月17日〜1444年 1441年が辛酉しんゆう(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
易経えききょう」の「にまことあり、きちとは、位正中なればなり」がもとになっている。
嘉吉の乱(1441年)
文安ぶんあん
(後花園天皇)
1444年2月5日〜1449年「ふんあん」と読む場合もある。
1444年が甲子かっし(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
書経しょきょう」の「文を尊び漢の社稷しゃしょくを安んず」がもとになっている。
 
宝徳ほうとく
(後花園天皇)
1449年7月28日〜1452年地震が起きたり、病気が流行ったため改元した。
旧唐書くとうじょ」の「ちん三徳を宝とす、いわく慈・倹・謙」がもとになっている。
 
享徳きょうとく
(後花園天皇)
1452年7月25日〜1455年 三合さんごうという厄年だったためと、麻疹はしかという病気が流行ったため改元した。
「書経」の「世世徳をけ、万邦ばんぽう式となす」がもとになっている。
 
康正こうしょう
(後花園天皇)
1455年7月25日〜1457年 戦がたくさん起こったため改元した。
書経しょきょう」の「平康は正直せいちょく」がもとになっている。
 
長禄ちょうろく
(後花園天皇)
1457年9月28日〜1461年日照りが続いて作物が取れなくなってしまったため改元した。
「韓非子」の「その生を建つるや長く、禄を持するや久し」がもとになっている。 
長禄・寛正の飢饉
(1459年〜)
寛正かんしょう
(後花園天皇)
1461年12月21日〜1466年日照りが続いて作物が取れなくなってしまったり、食べ物がなくてたくさんの人々が亡くなってしまったりしたので改元した。
孔子家語こうしけご」の「外かんにして内正し」がもとになっている。
長禄・寛正の飢饉
(〜1461年)
文正ぶんしょう
後土御門ごつちみかど天皇)
1466年2月28日〜1467年後土御門天皇が即位したため改元した。
「荀子」の「文学を積み、身行を正しくす」がもとになっている。
文正の政変(1467年)
応仁おうにん
(後土御門天皇)
1467年3月5日〜1469年1466年に室町幕府将軍足利義教あしかがよしのりの子である足利義視あしかがよしみを暗殺するという計画(文正の政変)が起こり、兄の足利義政あしかがよしまさの指示で改元された。
維城典訓いじょうてんくん」の「仁の物に感じ、物の仁に応ずるや」がもとになっている。
応仁の乱(1467年〜)
文明ぶんめい
(後土御門天皇)
1469年4月28日〜1487年応仁の乱が起こったため改元した。
易経えききょう」の「文明にしてもってけん中正ちゅうせいにして応ずるは、君子のせいなり」がもとになっている。
山城やましろ国一揆くにいっき(1485年)
長享ちょうきょう
(後土御門天皇)
1487年7月20〜1489年火事が起きたり、病気が流行ったり、戦がたくさん起こったりしたので改元した。
「文選」の「功を全うし、長くその福を享くるを得んことを喜ぶ」がもとになっている。
 
延徳えんとく
(後土御門天皇)
1489年8月21日〜1492年病気が流行ったため改元したと伝えられているが、実は室町幕府の足利義尚あしかがよしひさが亡くなってしまったのが理由とも言われている。
「孟子」の「道徳を開延す」がもとになっている。
足利義政が銀閣を建てる(1489年)
明応めいおう
(後土御門天皇)
1492年7月19日〜1501年病気が流行ったため改元した。
易経えききょう」の「その徳は剛健ごうけんにして文明、天に応じて時に行う」がもとになっている。
明応地震(1498年)
文亀ぶんき
後柏原ごかしわばら天皇)
1501年2月29日〜1504年1501年は辛酉しんゆう(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
爾雅じが」の「十朋じっぽうの亀は、一に曰く神亀・・・五に曰く文亀」がもとになっている。
 
永正えいしょう
(後柏原天皇)
1504年2月30日〜1521年1504年は甲子かっし(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
易緯えきい」の「永くその道を正し、みな吉化きっかを受く」がもとになっている。
永正地震(1520年)
大永だいえい
(後柏原天皇)
1521年8月23日〜1528年戦争がたくさん起こったため改元した。
通典つてん」の「その大なればすなわちもって業を永くす」がもとになっている。
 
享禄きょうろく
後奈良ごなら天皇)
1528年8月20日〜1532年戦争が多く起きたため、改元した。
易経えききょう」の「天位におりて天禄てんろくくるなり」がもとになっている。
 
天文てんぶん
(後奈良天皇)
1532年7月29日〜1555年病気が流行ったため改元した。
書経しょきょう」の「舜天文しゅんてんぶんを察し七政をひとしくす」がもとになっている。
鉄砲の伝来(1543年)
キリスト教の伝来(1549年)
川中島かわなかじまの戦い(1553年)
弘治こうじ
(後奈良天皇)
1558年10月23日〜1558年「こうぢ」と読む場合もある。
災害が起きたため改元したと言われている。
北斉書ほくせいしょ」の「ただ宝命ほうめいけ、志して治体ちたいひろむ」がもとになっている。
 
永禄えいろく
正親町おおぎまち天皇)
1558年2月28日〜1570年正親町天皇が即位したため改元した。
群書治要ぐんしょちよう」の「なが福禄ふくろくを全うする者なり」がもとになっている。
桶狭間おけはざまの戦い(1560年)
織田信長おだのぶなが足利義昭あしかがよしあきと京都へ入る(1568年)
元亀げんき
(正親町天皇)
1570年4月23日〜1573年戦争がたくさん起きたため改元した。
足利義昭あしかがよしあき室町幕府むろまちばくふ将軍になったのが理由という説もある。
詩経しきょう」の「元亀象歯げんきぞうし、大いに南金をおくる」がもとになっている。
姉川の戦い(1570年)
織田信長による比叡山焼き討ち(1570年)
室町幕府の滅亡(1573年)

安土桃山時代

元号期間改元の理由と由来主な出来事
天正てんしょう
(正親町天皇)
1573年7月28日〜1593年戦争がたくさん起きたため改元した。
老子ろうし」の「清静は天下の正たり」がもとになっている。
長篠ながしのの戦い(1575年)
本能寺ほんのうじの変(1582年)
天正遣欧使節てんしょうけんおうしせつ(1582年)
天正地震てんしょうじしん(1586年)
刀狩令かたながりれい(1588年)
豊臣秀吉による全国統一(1590年)
文禄ぶんろく
後陽成ごようぜい天皇)
1593年12月8日〜1596年後陽成天皇が即位したため改元した。
「天正」が長く続きすぎたのが改元の理由という説もある。
通典つてん」の「すべて京の文武の官、毎歳禄まいさいろくを給わる」がもとになっている。
文禄のえき

江戸時代

元号期間改元の理由と由来主な出来事
慶長けいちょう
(後陽成天皇)
1596年10月27日〜1615年1596年に地震が起こったため改元した。
毛詩注疏もうしちゅうそ」の「文王ぶんおう功徳深厚なり、ゆえに福慶延長ふくけいえんちょうす」がもとになっている。
慶長地震(1596年)
豊臣秀吉とよとみひでよしが亡くなる(1598年)
関ヶ原せきがはらの戦い(1600年)
徳川家康が征夷大将軍せいいたいしょうぐんになり、江戸幕府を開く(1603年)
大坂冬のじん(1614年)
大阪夏の陣(1615年)
元和げんな
後水尾ごみずのお天皇)
1615年7月13日〜1624年「げんわ」と読む場合もある。
後水尾天皇が即位したため改元した。江戸幕府が豊臣氏を滅ぼしたことで改元するよう朝廷に求めたのが理由という説もある。
もとになった書物などはなく、とうで使われていた「元和げんな」をそのまま使った。
武家諸法度ぶけしょはっと(1615年)
禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっと(1615年)
徳川家康が亡くなる(1616年)
元和大殉教げんなだいじゅんきょう(1622年)
寛永かんえい
(後水尾天皇)
1624年2月30日〜1645年1624年は甲子かっし(革命があると言われている年)だったため改元した。
詩経集注しきょうしっちゅう」の「かんは広なり、永は長なり」がもとになっている。
絵踏えぶみの開始(1629年)
寛永小田原地震かんえいおだわらじしん(1633年)
参勤交代さんきんこうたいの開始(1635年)
寛永通宝かんえいつうほう(1636年)
島原・天草一揆しまばらあまくさいっき(1637年)
鎖国さこくの開始(1641年)
正保しょうほう
後光明ごこうみょう天皇)
1645年12月16日〜1648年後光明天皇が即位したため改元した。
尚書正義しょうしょせいぎ」の「先正保衡ほこうは我が烈祖れっそをたすけ、皇天こうてんにいたる」がもとになっている。
 
慶安けいあん
(後光明天皇)
 1648年2月15日〜1652年 どうして改元したかは分かっていないが、「正保」という言葉の発音が「焼亡しょうぼう(焼けて亡くなる)」と似ているなど良くないイメージがあったからという説もある。
易経えききょう」の「東北にはともうしなうとは、すなわち終りにはよろこび有るなり。ていに案ずるのきちとは、地のかざりなきに応ずるなり」がもとになっている。
 慶安の変(1651年)
承応じょうおう
(後光明天皇)
1652年9月18日〜1655年どうして改元したかは分かっていないが、江戸幕府の徳川家光とくがわいえみつが亡くなったことなどが原因で幕府が朝廷に改元を求めたのではないかという説もある。
晋書しんじょ」の「いん運をぎ、周氏しゅうし期に応ず」がもとになっている。
承応事件(1652年)
明暦めいれき
後西ごさい天皇)
1655年4月13日〜1658年「めいりゃく」と読む場合もある。
後西天皇が即位したため改元した。
漢書かんじょ」の「大法九章、五紀暦法れきほうを明らかにす」がもとになっている。
明暦の大火たいか(1657年)
万治まんじ
(後西天皇)
1658年7月23日〜1661年大規模だいきぼ(スケールが大きいこと)な火災かさい(明暦の大火)が起きたため、改元した。
史記しき」の「衆民しゅうみんすなわち定まり、万国治をなす」がもとになっている。
 
寛文かんぶん
(後西天皇)
1661年4月25日〜1673年1661年に京都にある皇居こうきょが火災で燃えてしまったため改元した。
荀子じゅんし」の「節奏陵せっそうりょうなれば文あり、民をやしなうことかんなれば安し」がもとになっている。
寛文地震(1662年)
シャクシャインの戦い(1669年)
延宝えんぽう
霊元れいげん天皇)
1673年9月21日〜1681年霊元天皇が即位したため改元した。
他にも火災が多くおきたとか、洪水が起きたから改元したという説もある。
隋書ずいしょ」の「宝祚ほうそぶれば、びょうとしてさかいなし」がもとになっている。
延宝房総沖地震えんぽうぼうそうおきじしん(1677年)
天和てんな
(霊元天皇)
1681年9月29日〜1684年「てんわ」と読む場合もある。1681年は辛酉しんゆう(革命が起こると言われている年)だったため改元した。
後漢書ごかんじょ」の「天人は協和し、万国はみなやすんず」がもとになっている。
 
貞享じょうきょう
(霊元天皇)
1684年2月21日〜1688年1684年が甲子かっし(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
易経えききょう」の「永貞えいていなれば吉。王もってみかどまつる、きち。」がもとになっている。
 
元禄げんろく
東山ひがしやま天皇)
1688年9月30日〜1704年東山天皇がを即位したため改元した。
文選もんぜん」の「元勲げんくん建立こんりゅうし、もって顕禄けんろくに応ぜば、福の上なり。」がもとになっている。
元禄地震(1703年)
宝永ほうえい
(東山天皇)
1704年3月13日〜1711年大きな地震(元禄地震)と江戸で大きな火事が起きたのを理由に改元した。
旧唐書くとうじょ」の「宝祚ほうそただ永く、暉光日きこうひびに新たなり」がもとになっている。
宝永金銀(1706年)
宝永地震(1707年)
宝永大噴火(1707年)
正徳しょうとく
中御門なかみかど天皇)
1711年4月25日〜1716年 中御門天皇が即位したため改元した。
「尚書正義」の「正徳の者は自らその徳を正しくす」がもとになっている。
 正徳金銀
享保きょうほう
(中御門天皇)
1716年6月22日〜1736年 江戸幕府の徳川家宣と、徳川家継が亡くなり、幕府が改元を朝廷にもとめたため改元した。
北周書ほくしゅうしょ」の「ごの大命をけ、万国を保有す」がもとになっている。
享保の飢饉ききん(1732年)
享保の改革
元文げんぶん
桜町さくらまち天皇)
1736年4月28日〜1741年 桜町天皇が即位したため改元した。
文選もんぜん」の「武は元基をはじめ、文は大命をす」がもとになっている。
 
寛保かんぽう
(桜町天皇)
1741年2月27日〜1744年1741年は辛酉しんゆう(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
国語こくg」の「かんは本を保つ所以ゆえんなり」がもとになっている。 
寛保の洪水・高潮(1742年)
公事方御定書くじかたおさだめがき(1742年)
延享えんきょう
(桜町天皇)
1744年2月21日〜1748年 1744年は甲子かっし(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
芸文類聚げいもんるいじゅう」の「聖主寿延せいしゅじゅのび、くること元吉げんきつなり」がもとになっている。
 
寛延かんえん
桃園ももぞの天皇)
1748年7月12日 桃園天皇が即位したため改元した。
文選もんぜん」の「寛裕かんゆうの路を開き、もって天下の英俊えいしゅんく」がもとになっている。
 
宝暦ほうれき
(桃園天皇)
1751年10月27日〜1764年「ほうりゃく」と読む場合もある。
地震が起きたり、桜町上皇が亡くなってしまったり悪いことが続いたので改元した。
「貞観政要」の「恭しく宝暦を承け、つつしんで帝図をうけたまわるに及んで」がもとになっている。
 
明和めいわ
後桜町ごさくらまち天皇)
1764年6月2日〜1772年 後桜町天皇が即位したため改元した。
書経しょきょう」の「百姓ひゃくしょう昭明にして、万邦ばんぽうを協和す」がもとになっている。
明和の大火(1772年)
安永あんえい
(後桃園天皇)
1772年11月16日〜1781年 大火事(明和めいわの大火)が起きたため改元した。
文選もんぜん」の「寿安じゅあん永寧えいねい」がもとになっている、
解体新書かいたいしんしょ(1774年)
安永大噴火だいふんか(1779年)
天明てんめい
光格こうかく天皇)
1781年4月2日〜1789年 光格天皇が即位したため改元した。
書経しょきょう」の「この天の明命をかえりみる」がもとになっている。
天明の飢饉ききん
天明の大火(1788年)
寛政かんせい
(光格天皇)
1789年1月25日〜1801年 大火事(天明の大火)が起きたため改元した。
春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん」の「かんもってもうすくい、もうもってかんを済う。せいここをもって和す」がもとになっている。
寛政の改革(1787年〜1793年)
寛政異学いがくの禁(1790年)
寛政地震(1793年)
享和きょうわ
(光格天皇)
1801年2月5日〜1804年 1801年は辛酉しんゆう(革命が起きると言われている年)だったので改元した。
文選もんぜん」の「天にしたがいてその運をけ、人に応じてその義を和す」がもとになっている。
 
文化ぶんか
(光格天皇)
1804年2月11日〜1818年 1804年は甲子(革命が起きると言われている年)だったので改元した。
「易経」の「天文を観てはもって事変を察し、人文を観てはもって天下を化成す」がもとになっている。
文化の大火
文政ぶんせい
仁孝にんこう天皇)
1818年4月22日〜1831年 仁孝天皇が即位したため改元した。
漢書かんじょ」の「豪俊ごうしゅんを選び文学を講じ、政事に稽参けいさんして民の心を進めんことをもとむ」がもとになっている。
日本地図(1821年)
シーボルト事件(1828年)
天保てんぽう
(仁孝天皇)
1831年12月10日〜1845年1831年に地震が起きたため改元した。
書経しょきょう」の「つつしんで天道をとうとび、永く天命を保て」がもとになっている。 
天保の飢饉ききん(1833年)
天保の改革
大塩おおしおの乱(1837年)
蛮社ばんしゃごく(1839年)
弘化こうか
(仁孝天皇)
1845年12月2日〜1848年 江戸幕府のお城である、江戸城の本丸ほんまる(お城の中心となる部分)で火事が起きたため改元した。
書経しょきょう」の「化をひろめ、天地をつつしみたすく」がもとになっている、
善光寺ぜんこうじ地震(1847年)
嘉永かえい
孝明こうめい天皇)
1848年2月28日〜1855年 孝明天皇が即位したため改元した。
宋書そうしょ」の「ここにおおいに多裕たゆうけ、楽永くつきること無きをよみす」がもとになっている。
ペリー来航らいこう(1853年)
日米和親条約にちべいわしんじょうやく(1854年)
安政あんせい
(孝明天皇)
1855年11月27日〜1860年 

天皇の住む屋敷で火事が起きたため改元した。
また、ペリー来航らいこうのように、外国からやってきた船に人々が不安を感じていたたというのも改元の理由。
群書治要ぐんしょちよう」の「庶人しょじん政に安んじ、しかる後に君子位にやすんず」がもとになっている。 

安政の大地震(1855年)
安政の大獄たいごく(1858年)
日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく(1858年)
桜田門外さくらだもんがいの変(1860年)
万延まんえん
(孝明天皇)
1860年3月18日〜1861年江戸城が火事で燃えてしまったので改元した。
後漢書ごかんじょ」の「千億の子孫を豊かにし、万載ばんさいて永くべん」がもとになっている。 
 
文久ぶんきゅう
(孝明天皇)
1861年2月19日〜1864年 1861年が辛酉しんゆう(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
後漢書ごかんじょ」の「文武並び用い、長久の計を成す」がもとになっている。
文久の改革(1862年〜)
生麦事件(1862年)
元治げんじ
(孝明天皇)
1864年2月20日〜1865年 1864年は甲子かっし(革命が起きると言われている年)だったため改元した。
易経えききょう」の「乾元けんげん用九ようきゅうは、天下治るなり」がもとになっている。
池田屋いけだや事件(1864年)
禁門の変(1864年)
慶応けいおう
(孝明天皇)
1865年4月7日〜1868年 1864年に起きた禁門きんもんの変で、京都で激しい戦いが起こり、2万軒もの家が焼けてなくなってしまったりしたため、改元した。
文選もんぜん」の「慶雲応けいうんまさに輝くべし、皇階木こうかいぼくに授けらる」がもとになっている。
薩長同盟さっちょうどうめい(1866年)
大政奉還たいせいほうかん(1867年)
戊辰戦争ぼしんせんそう(1868年)
yuminekoyumineko

明治からは、「一世一元制いっせいいちげんせい」となり、1代の天皇に1つだけの元号を定めることになったよ。

【提案者】
岩倉具視いわくらともみ

【理由】
①改元するには、元号のそのものや、使われる字などについて たくさん議論する必要があり、時間がもったいないということ
②中国の清では、1代の天皇に1つの元号としていることを参考にした
③1代の天皇に1つの元号のほうが、国民にとっても分かりやすく、長く同じ元号を使うので、親しみをもちやすくなる。

明治

1868年9月8日~1912年
天皇:明治天皇(睦仁むつひと

改元の理由

明治天皇が即位したため改元。

由来

「易経」の一文
「聖人南面して天下を聴き、明に嚮いて治む」から。
「理想的な徳をもつ人は南の方を向いて※天下の人々の声をよく聴き、明るい方向に向かって世の中を治める」という意味。
※南を向くというのは、古代中国では天子(日本での天皇のイメージ)は南の方を向いて臣下と対面していたから。

明治政府の中心だった松平春嶽が2~3つの元号の案を出し、その中から天皇が「くじ引き」をして明治に決定した。

主な出来事
1869年版籍奉還
1871年廃藩置県
1874年民選議員設立の建白書
1876年日朝修好条規
1877年西南戦争
1881年国会開設の詔
自由党結成
1882年立憲改進党結成
1885年内閣制度のはじまり
1889年大日本帝国憲法
1890年教育勅語
第1回目の帝国議会が開かれる
1894年領事裁判権撤廃
日清戦争
1895年下関条約
三国干渉
1902年日英同盟
1904年日露戦争
1905年ポーツマス条約
1910年韓国併合
1911年関税自主権の回復

大正

1912年7月30日~1926年
天皇:大正天皇(嘉仁よしひと

改元の理由

1912年に明治天皇が崩御し、皇室典範によって大正天皇が即位したため。

由来

「易経」の一文「いに亨りて以てしきは天の道なり」から。「あらゆる物事が大いにうまくいき、正しく行われることが天の道理である」という意味。こは段落ブロックです。

当時首相をつとめていた西園寺公望が「大正」「天興」「興化」の3つの案を出し、その中から「大正」が選ばれた。

また、明治天皇から「天皇が亡くなると、その天皇の在位中の元号を追号ついごう(亡くなった天皇に対して贈られる称号のこと)として贈る」ようになった。
それまでは、その天皇の特徴にちなんだ言葉や、住んでいた院の名前などが付けられていた。

主な出来事
1914年第一次世界大戦
1917年米騒動
シベリア出兵
1919年国際連盟に常任理事国として加盟
1923年関東大震災
1925年普通選挙法

 昭和

1926年12月25日~1989年
天皇:昭和天皇(裕仁ひろひと

改元の理由

1926年12月25日に大正天皇が崩御したため改元。

由来

書経しょきょう」の一文
百姓ひゃくせい明にして、万邦ばんぽうを協す」から。
「国民が明るく輝き、あらゆる国々が互いに調和する」という意味。。

主な出来事
1931年満州事変
1932年五・一五事件
1933年国際連盟脱退
1936年二・二六事件
1937年日中戦争
1940年日独伊三国同盟
1941年日ソ中立条約
太平洋戦争
1945年広島原爆投下
長崎原爆投下
ポツダム宣言受諾(終戦)
1946年日本国憲法公布
1951年サンフランシスコ平和条約
日米安全保障条約
1956年日ソ共同宣言
国際連合に加盟
1960年日米新安全保障条約
1972年沖縄が日本に復帰
日中国交正常化
1973年石油危機
1978年日中平和友好条約

平成

1989年1月8日〜2019年4月30日
天皇:上皇明仁あきひと

改元の理由

1989年1月7日に昭和天皇が崩御ほうぎょし、皇太子だった明仁親王あきひとしんのうが即位した。
皇位継承こういけいしょうをうけて、元号法げんごうほうに基づき改元。
法律によって改元されたのは日本史上はじめて。

小渕恵三おぶちけいぞう官房長官が新元号を公表した。

由来

「史記」の一文「内平かに外成る」
「書経」の一文「地平かに天成る」
「国の内外(中も外も)、天地とも平和になる」という意味。

東京大学名誉教授の山本達郎氏が提案した。

他にも「正化」「修文」の候補があった。
その中で「平成」が採用されたのは、「明治・大正・昭和」をアルファベットの頭文字で表したときに、「M・T・S」となるので、「正化」と「修文」では「S」がかぶってしまって見分けづらい、という理由もあった。

主な出来事
1989年消費税導入(3パーセント)
1995年阪神・淡路大震災
2002年日朝首脳会談(拉致被害者5名帰国)
2003年自衛隊イラク派遣
2011年東日本大震災

令和

2019年5月1日〜
天皇:今上きんじょう天皇(徳仁なるひと天皇)

改元の理由

2016年8月8日に当時の天皇陛下(明仁天皇)が譲位(天皇の位を譲ること)することを発表され、改元の準備がされた。
あらかじめ新天皇の即位と改元を2019年5月1日に行うと決め、新元号の発表もその1ヶ月前に行うことが発表された。
新元号を先に発表するのは、コンピューターや書類などの変更手続きの時間を確保するため。

菅義偉すがよしひで官房長官が新元号を公表した。

由来

「万葉集」の中の、梅花の歌三十二首 あわせて序より。

【原文】
時に、初春の月にして、気淑く風らぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。こは段落ブロックです。文章をここに入力してください。

【意味】
時に、初春の正月の令き月(おめでたい月のこと)にして、気候は快く、風はおだやかだ。梅は鏡の前の「おしろい」のように白く花開いて、蘭は香り袋のように香っている。

「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められている。

「万葉集」は、天皇や貴族はもちろん、庶民(一般の人のこと)の作品までおさめられた和歌集。初めて日本で書かれた書物から元号が選ばれた。

主な出来事
2019年10月消費税10パーセント
沖縄県首里城火災
2020年4月新型コロナウィルスによる緊急事態宣言
2021年1月新型コロナウィルスによる2度目の緊急事態宣言
yuminekoyumineko

随時更新します

干支えとというのは、「十二支じゅうにしのこと」と思われがちだけど、実は十二支の他に「十干じっかん」という漢字があり、十干と十二支を合わせたものが干支なんだ。

【十干】
こうおつへいていこうしんじん

【十二支】
うしとらたつうまひつじさるとりいぬ

組み合わせは全部で60通り。

その中でも甲+子の「甲子かっし」と、辛+酉の「辛酉しんゆう」の年にはそれぞれ「甲子革令」と辛酉革命」が起こり、朝廷が倒されてしまうと信じられてきていたんだ。

そのため、革命をさけるために甲子と辛酉の年には改元が行われていたよ。

運営者情報

青山学院大学教育学科卒業。TOEIC795点。2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校の特待生クラストップ10位内で合格を果たす。

感想や意見を聞かせてね

  1. さいきょうけなたろう より:

    大化から令和までは、だいたい何個くらいあるんですか?

    • yumineko より:

      さいきょうけなたろう さん
      大化から令和までは、248の元号があります。
      よく調べてみると、それぞれの由来も結構面白いですよね。