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「や」で始まる用語
屋島の戦い | 1185年2月に起きた戦い。源義経が平家軍を背後から襲った。「平家物語」で語られている那須与一が「扇の的」を射ったのはこの戦い。 |
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山城 | 「やまじょう」とも読む。 山を利用して作られた城のこと。高いところにあれば敵が攻めてきたりしづらいし、高いところから敵を見張ることもできるのがメリット。飛鳥時代から奈良時代には、畿内(きない:都に近い地域のこと。京都や奈良、大阪など)から九州の北部までにわたって山城が作られた。 中大兄皇子は、白村江の戦いのあとに、唐や新羅が攻めてきた時にそなえて九州北部に山城を作った。 登場するページ→中学歴史「大化改新」 |
山城の国一揆 | |
邪馬台国 | 弥生時代弥生時代、日本にあったとされる連合国(30ヵ国クニが集まって出来ていた国と言われている)。「卑弥呼(ひみこ)」という女王が治めていたと言われている。 その頃まだ文字の無かった日本に記録はなく、中国の古い歴史書「魏志倭人伝」に書かれている。 なので、邪馬台国がどこにあったのか、卑弥呼の正体など、ナゾが多い。邪馬台国の場所は、九州にあったという説と畿内(近畿地方)にあったという説が有力。大和政権大和政権とつながっているのではという説もある。 登場するページ→中学歴史「弥生時代」、「邪馬台国」、資料「魏志倭人伝」、歴史人物図鑑「卑弥呼」 |
大和政権 | 3世紀の古墳時代に、大和地方の有力な豪族が連合して作った政府のこと。大和政権のトップである大王(おおきみ)は後の天皇のこと。 大和政権は周囲の豪族も従えて、九州から関東までを支配していた。 登場するページ→6年歴史「古墳時代」、中学歴史「古墳時代」 |
山名氏 | 室町時代に山陰を中心に11ヵ国を領有(守護として国を支配するイメージ)していた有力守護の一族。 山名家が守護をつとめていた国は出雲・備後・伯耆・美作・備前・因幡・但馬・丹後・丹波・和泉・紀伊。全国が66ヵ国だったのに対して、六分の一にあたる11ヵ国を領有していたので、「六分の一衆」と呼ばれていた。 室町幕府3代将軍の義満は有力守護である山名氏を滅ぼすために「山名一族を仲間割れさせる」作戦を考え、山名一族の山名氏清と山名満幸に主筋(主人にあたる血筋のこと)の山名時熙を、幕府と一緒に討つ(倒す)ようにとけしかけた。 しかしいざ氏清と満幸が兵を挙げると、2人を「主筋に反乱するとはけしからん」と討伐することにした。 これを1391年(明徳2年)に起こった乱なので「明徳の乱」と呼ぶ。 結果、幕府が勝利し、山名一族の領国は3ヵ国だけになった。 登場するページ→歴史人物図鑑「足利義満」 |
弥生時代 | 縄文土器を使っていた縄文時代の人々が大陸から伝わった米作りを始めたころからを弥生時代と呼ぶ。 弥生時代と呼ぶ理由としては、東京都の弥生町で発見された「弥生土器」を使っていたため。 皆平等だった縄文時代に比べて、米作りをまとめる指導者が力や富をたくわえて、貧富の差が生まれた。 |
弥生土器 | 東京都弥生町で発見された土器。米作りがはじまった弥生時代に使われていた土器と考えられている。 |
「ゆ」で始まる用語
結城合戦 | |
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「よ」で始まる用語
養老律令 | |
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横穴式石室 | 古墳時代後期に多く作られた、墳丘の横に入り口のある古墳の作りのこと。横穴から遺体が納められている玄室(遺体が納められる「墓の部屋」のこと)へつながる通路がある。 |
吉野ヶ里遺跡 | 佐賀県神崎郡吉野ヶ里町と神崎市にまたがる「吉野ヶ里丘陵」にある遺跡。弥生時代の環濠集落(周囲に堀をめぐらせた、人々が集まって住んでいた場所のこと)の跡で、50ヘクタールのとても規模が大きい遺跡。 国の特別史跡に指定されている。 登場するページ→小学6年歴史「弥生時代」 |
よつのふね | 四つの船。遣唐使の時に使われていた船(遣唐使船)の別の呼び方。 遣唐使の一行が、4隻の船に乗っていたので、こう呼ばれていた。 |
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