平清盛が武士で初めての太政大臣になって、
武士が政治の中心になる時代がはじまったよね。

平清盛はどんな政治をしたの?
「藤原氏のやり方と変わらなくない?」
「保元の乱」や「平治の乱」で活躍した平氏はすっかり朝廷にとっても
「頼りになるヤツ」になったわけだよね。
そしてとうとう「平清盛」は朝廷の政治のトップでもある
「太政大臣」にまでなってしまった。



こうなると、平清盛の言うことなら、天皇も「OK」と言うしかない雰囲気。
そこで平清盛は、平氏の人間をどんどん政治の「重要な役」にしてもらったよ。



そして自分の娘を次々に天皇のお嫁さんにしていったんだ。
お嫁にいった娘のところに皇子が生まれれば、その皇子が次は天皇になって、
自分は「天皇のおじいさん」としてさらに力を持てるからね。
そして、「荘園」もたくさん持つようになって、どんどんお金持ちになっていったよ。



そのやり方って、なんか覚えが・・
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平清盛は武士で初めて政治の中心にはなったけど、この頃のことは
「武家政権(武士による政治)」としてはカウントしないよ。
だって、藤原氏の摂関政治とあまり変わりがないからね。
※「宋」という中国の国と貿易をしてお金を稼いだことは、平氏オリジナルのやり方だとは言われているよ。



厳島神社について
厳島神社は、広島にある神社だよ。
厳島神社の神様は平家の氏神で、平清盛が海の上に社殿(神様をまつる建物)を建てたんだよ。
「平氏、いい加減にしろ!」
こうやってどんどん権力と土地やお金を手にしていった平氏。
とうとう、「全国の半分近く」の土地を平氏が独り占めする状態に。
出典 小学館 日本大百科全書
政治の偉い役職も平氏ばっかりにさせるし、
「自分たちさえ良ければいい」というふうに他の人は感じたんだね。
「平氏、ちょっとズルくない??」
とだんだん反感を買うようになったんだ。
さらにここで口を滑らした人が登場。
平清盛の義理の弟の
「平時忠」が、
なんて発言してしまったらしいんだ。



「自分たち以外はヒトではない」と言ってしまったんだね。






「平家物語」は、平氏が栄えて、そして落ちぶれてしまうまでのことが書かれているよ。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」は有名だよね。
作者は不明なんだけど、「徒然草」という本には「平家物語を書いたのは信濃前司行長だ」と書いてあるよ。
平家物語には、平時忠が「此れ一門にあらざらむ者は皆人非人なるべし」と言ったと載っているんだ。
法皇&皇子「だまっていられない!」
後白河法皇が「だまっていられない」
あまりに平氏ばかりが栄えてしまうことに
「このままじゃマズい」
と思ったのが
後白河法皇。



法皇のお后さまは、平清盛の奥さんの妹(つまり義理の妹)だったし、平清盛にとっては味方のようなものだったんだ。
でもその後白河法皇が平氏の力を抑えようとして、清盛にだまって平氏の荘園や領地を没収してしまったんだ。
これには平清盛も「ヒドイ!」と怒って、なんと後白河法皇を閉じ込めてしまう。



後白河法皇と清盛の義理の妹との間に生まれた皇子は天皇に即位していたし(高倉天皇)、さらに
高倉天皇と清盛自身の娘を結婚させて、皇子も誕生していたからね。
それだけ清盛の力があったんだね。
でも「法皇を閉じ込めた」ことでさらに清盛の「やりすぎ」に人々は不満を持ったよ。
以仁王が「だまっていられない!」
清盛は高倉天皇と自分の娘の間に生まれた皇子を、なんと数え年3歳(1歳4か月)の時にさっさと「天皇」に即位させてしまったんだ。






早く&確実に天皇にさせてしまいたかったんだね。
後白河法皇には、他にも「以仁王」という皇子がいたよ。
清盛とは血縁関係のない皇子だね。
以仁王は、清盛の血筋の皇子が天皇になってしまったら「もう自分が天皇になれる可能性はない」と絶望したんだ。
「そんなことが許されるものか!」と以仁王は、「打倒清盛」を決意。
そして全国にバラバラになっていた源氏にむけて、「平氏を倒せ!」という命令文を出したんだ。



でも、この命令文が源氏達を動かすんだ。
源氏が立ち上がる
「平治の乱」で平氏に負けてしまった源氏は、全国にチリジリにさせられてしまっていたよね。
そこに以仁王からの「源氏よ!平氏を倒せ!」の命令文が届いたんだ。
そして、とうとうあの有名な
「源頼朝」が立ち上がるんだ。
平氏は「自分たちさえよければいい」政治をしていたからね。
地方の武士は土地も思うように持つことができず、とても苦しい目にあってきていたんだ。
だから以仁王の命令文にたくさんの武士が立ち上がったし、源頼朝に期待して味方をする武士団がたくさん集まったよ。
源頼朝ってどんな人?
源頼朝は、平治の乱で中心になった
「源義朝」の息子。
平治の乱でも、一緒に戦っていたんだ。



初めての戦いだったよ。
平治の乱で、源氏が負けそうになって、義朝と一緒に雪国を逃げたんだけど、途中ではぐれてしまって平氏につかまってしまったんだ。
※お父さんの義朝も平氏につかまって殺されてしまったよ。
清盛は、
「源氏の子供なんか殺してしまえ!」
と処刑しようとしたんだけど、清盛の義理のお母さんが頼朝をかばってくれて、命は助けられたんだ。
頼朝は、「平氏に逆らった罰」として、伊豆に流されてしまう。
でも、さすがの「源氏の正しい血を引く」頼朝は、人々から一目おかれた(スゴイと思って、遠慮すること)んだ。
頼朝は思ったより自由な生活をしていたらしいよ。
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なぜなら、朝廷が東北地方を支配するために送っていたのが源氏だったよね。
関東の武士にとって、源氏の強さは有名だったんだ。
「平氏に逆らった罰」として伊豆に流された頼朝には、監視役もつけられたよ。
それが
「北条時政」。
でも、北条時政の娘の
「北条政子」と頼朝は結婚するんだ。
もともとは監視役だった北条時政も、「娘の婿」の頼朝には協力するようになっていくよ。
頼朝も打倒平氏を決意!
以仁王の「諸国の源氏よ、平氏を討て」という命令文は、頼朝の心も動かしたんだ。
そして、とうとう「打倒平氏!」と兵をあげたよ。(兵士を集めて、戦う準備をすること)
頼朝のところには、バラバラになっていた源氏の武士団がどんどん集まってきたし、関東で人気だった頼朝には、他の武士団も
「一緒に戦います!」と協力してくれたんだ。
特に、頼朝の弟の
「源義経」も駆けつけてきてくれた。
義経は、とても戦いに強いことで有名なんだ。
頼朝は、打倒平氏の準備をするのに、鎌倉を拠点(活動するために足場となる重要な場所)にしたよ。



でもどうして鎌倉を選んだの?
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というのは、頼朝の5代前の「源頼義」が京都の石清水八幡宮にお参りした時、「霊剣(スゴイ威力のある剣)」をもらう夢をみたんだ。



それから源氏は八幡さまを
「氏神(一族を守ってくれる神様のこと)」としてまつることにしたんだ。
そして八幡さまの御霊(神様のたましいのこと)を分けて、源氏の所有地だった鎌倉にお迎えしたんだ。
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武士にとって、祖先から縁のある土地は、「家」や「血筋」と同じくらい大切なものなんだ。



源平の戦い
こうしていよいよ平氏と源氏が戦うことになったよ。
平治の乱では源氏を負かした平氏だったけど、朝廷で政治を動かす生活ばかりしていたから、すっかり「戦う力」が弱くなってしまっていたんだ。
さらに、そんな苦しい中、1181年に平清盛が重病にかかって亡くなってしまったんだ。
「平家物語」によると、清盛は亡くなる直前、「私の墓には頼朝の首をそなえてくれ!」と言い残したとあるよ。
よっぽど悔しかったんだね。
中心的存在だった平清盛が亡くなってしまって、さらに平氏のパワーはダウン。
とうとう、壇之浦の戦いで平氏は源氏に完全に負けてしまったんだ。






「源氏の手にかかって殺される」くらいなら、と、自分から身投げしたんだね。
安徳天皇が「私をどこに連れていくのか?」と聞くと、時子は「波の下にも都はあります」といって飛び込んだのは有名な話。(これも平家物語に書いてあるよ)



悲しいね。
本格的な「武家政権」の始まり
平氏と戦う中、頼朝は鎌倉を拠点にしたよね。
頼朝は、このとき鎌倉に「政府」を作ったんだ。
つまり、京都にある朝廷とは別の、「武家」による「新しい政府」が生まれたんだよ。
これが日本の歴史で初めての、本格的な
「武家政権」の始まりなんだ。
↓
平氏ばかり偉くなる・土地をたくさん持つ・お金持ちになる
↓
他の武士の反感を買う
↓
やりすぎの平氏をおさえようと、後白河法皇が土地を没収
↓
清盛が後白河法皇を閉じ込め・自分の孫を天皇にする
↓
以仁王が平氏を倒そうとする・源氏に「平氏を倒せ」と命令文
↓
源氏が壇ノ浦の戦いで平氏をほろぼす
1180年 源氏が平氏を倒すために兵を挙げる
1185年 壇ノ浦の戦いで源氏が平氏をほろぼす
6年生はココを押さえればOK!
まとめ
平氏は、藤原氏の摂関政治のような政治をおこなった
・平氏中心の政治は武士の反感を買った
・源頼朝が平氏を倒すために兵を挙げた
・戦いでは、源頼朝の弟である源義経が活躍した
・壇之浦の戦いで源氏が平氏をほろぼした





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