卑弥呼や邪馬台国そして魏志倭人伝について「小学生でもわかる」 カンタンな言葉でくわしく解説。漢字にはフリガナもあるので、子供だけで読むことができるよ。
卑弥呼ってどんな人?
(教科書の説明)
誕生:不明
没:248年ごろ(説によって240年~248年の間と考えられている)
中国の「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国の女王。
魏へ使いを送り、239年には、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを授かる。

卑弥呼のことは、「魏志倭人伝」という中国の歴史書に載っていた!
教科書の説明は、3世紀ごろ(弥生時代)の日本に、どうやら「卑弥呼」という人がいたらしいということが、「魏志倭人伝」に書かれていたということだね。
「魏志倭人伝」といっても、そういう本があるわけではないんだ。
中国の歴史のことが書かれた「24史(つまり歴史書が24あるということ)」のうちのひとつ「三国志」の中の「倭人(日本人のこと)」について書かれた部分のこと を「魏志倭人伝」と呼んでいるんだ。

その魏志倭人伝に、「卑弥呼」のことや「卑弥呼が邪馬台国という国の女王だった」ということが書かれている んだよ。
魏志倭人伝には卑弥呼について どんなことが書かれていたの?
倭人は帯方郡の東南の大海の中にある。
倭に行くには、朝鮮を海岸沿いに航行すると(一部略)対馬国に着く。
(一部略)船で10日、さらに陸路を1ヶ月行くと邪馬台国に着く。
倭の男は、大人も子供も顔や身体に刺青をしている。
女は髪を束ねてまげを作っている。稲や麻を栽培し、養蚕や織物をする。
以前は男王だったが、何年間も戦いが続いたので、共同で卑弥呼を女王にした。
卑弥呼は呪術が大変うまく、人々を信頼させた。千人の女奴隷を使い、1人の男子のみが飲食をささげ言葉を伝えた。宮殿・楼観を厳重に作り、常に兵が守っている。
景初3(239)年6月、卑弥呼は使者を帯方郡に派遣し、皇帝に謁見し朝貢することを求めた。
その年の12月、皇帝は卑弥呼に「今あなたを親魏倭王に任じ、金印紫綬を授け、銅鏡百枚などを与える」という手紙を送った。
卑弥呼が死ぬと、直径百歩ほどの大きな墓を作った。奴隷百人以上も一緒に埋められた。
その後、男王を立てたが戦いがおきたので、卑弥呼の一族の13歳の少女「壹与※」を王とし、ようやく国は収まった。
※「壱与」や「壹與」という字を使うこともあるよ
書いてあること①邪馬台国の場所について
帯方郡というのは、今の韓国のソウルよりちょっと北あたりのところ。このころは中国の「魏」という国の一部だったんだ。

この帯方郡から韓国沿いに海を渡って、対馬国やいくつかの日本の島を超えて、さらに陸路を進んだり、船に乗ったり・・・とても詳しい行き方が書いてあるよ。
最終的には、帯方郡から邪馬台国までは12000里ほどかかる、と書いてあるよ。
色々説はあるけど、これは大体840㎞くらいと考えられているんだ。
途中に登場する島の名前などは実際どこのことかが大体わかっているんだけど・・

だけど、ここから先の場所や道などは、どこの国の事を言っているのかとか、どっちの方向に進んだのかとか、どうやって行ったのかなどハッキリと分からないので、結局「邪馬台国は日本のどこにあったのか」が分からない ということなんだ。
①「九州にあった」という説、
②「大和地方にあった」という説、さらに
③「四国にあった」という説があるよ。
書いてあること②卑弥呼がどんな人か
倭の国(日本のこと)は、「くに」同士で争って大変だった。そこで、共同で一人の女性を女王にした んだ。それが卑弥呼。
卑弥呼は、占いが上手で、それで人々を信頼させていた 。
1000人の奴隷を使っていたということは、とても偉かったんだね。
でも卑弥呼に近づくことができるのは1人の男の子だけだったとのこと。
卑弥呼の食事のお世話をしたり、卑弥呼が占った結果などを伝える役割をしていたんだね。
卜術というのは、骨を焼いて、その割れ目の入り方で占いをする方法だよ。

書いてあること③卑弥呼が何をしたか
景初3年※(239年)の6月に、卑弥呼が帯方郡にお使いをやって、魏の皇帝にプレゼントを贈った んだ。
※「景初」というのは、中国の元号。
魏志倭人伝に書かれているので、中国の元号が使われているよ。
このころの中国は大国(まわりの国に比べて、文化や力が優れていること)で、周りの国は中国に「朝貢」をしていたんだ。
「朝貢」というのは、自分の国の特産物を持って皇帝に挨拶に来ること。
皇帝は、それに対してお返しの品をくれたり、「称号」をくれたり、金印をくれたりする。そうすると、
「〇〇国のリーダーとして皇帝にも認められた!」
ということで、リーダーとしての地位のアピールになるわけだね。
それに、「自分のバックには大国の中国がついているんだぞ!」と、他の国やライバルが攻めにくくする目的もあるよ。
実際、このころ邪馬台国のすぐ近くにあった「狗奴国」というのは邪馬台国に反発していたし、中国の「呉」「蜀」(中国の三国時代にあった魏・呉・蜀のうちの2国)も怖い存在だったからね。

卑弥呼も、同じ年の12月に皇帝から「親魏倭王」という称号と、金印と組みひも、そして銅鏡を100枚受け取った と魏志倭人伝に記録が残っているんだよ。
つまり「魏にしたがう倭の国の女王」ということだね。
書いてあること④卑弥呼が亡くなったあとどうなったか
卑弥呼率いる邪馬台国は、近くのクニ「狗奴国」と争っていたんだ。
それを応援しようと、魏からは軍で使う旗などが送られてきたんだけど、それを持ってきたお使いの人々は卑弥呼が死んでしまったことを知るんだ。(すでに死んでしまっていたのかどうか、死因などはナゾ)
卑弥呼が死んでしまった後、また男性が王になったりもしたんだけど、また邪馬台国の中で争いが起きるようになってしまった。
そこで、「やっぱり女王」ということで卑弥呼の一族の壹与という13歳の女の子が女王になった よ。
それからは、また邪馬台国の争いはおさまったとのこと。

卑弥呼に関するいろいろな説を紹介!
こんなふうに謎の多い卑弥呼だけれど、色々なヒントをもとに 色々な説があるんだよ。
ここでは、そのいくつかを紹介するね。
卑弥呼って何歳なの??
魏志倭人伝には、「卑弥呼は年がすでに長大だったけど、旦那さんはいない」と書いてあるよ。
長大というのは「大人になっている」という意味なんだ。
「長大」なんて漢字がつかわれていると
なんて思ってしまうけど、この頃の「長大」とは「30〜40歳くらい」のことをいうと考えられているよ。
さて、魏志倭人伝に「卑弥呼は年がすでに長大(30〜40歳)」とあるけど、これが「どのタイミングのことを書いているのか」はハッキリしないよね。
つまり、「すでに長大」というのが
①卑弥呼が邪馬台国の女王になった時
②卑弥呼が魏に使いを送った時
など、いくつかパターンが考えられるんだ。
もし①の時にすでに長大(30〜40歳)だったのなら、卑弥呼が邪馬台国の女王になったのが189年までの間だとすると、卑弥呼が亡くなった248年ごろには最高99歳くらいになっていた可能性もあるんだ。
②の場合なら、卑弥呼が魏に使いを送ったのは239年だから、そのころ30〜40歳だったと考えると、卑弥呼が亡くなった248年ごろには最高で49歳だったということになるね。
※だけどこの場合、「189年までに卑弥呼が女王になる」というのは計算が合わなくなってしまうね。
卑弥呼のお墓はどこにあるの?
魏志倭人伝には、卑弥呼のお墓の大きさが書かれているね。
「直径100歩」ほど、というのはどの位の大きさかというと、「魏」での1歩は約144㎝なんだ※。
だから、100歩というのは144mということになるよ。
※魏での1歩は「約30cmくらい」という説もあるよ。その場合は100歩は30mくらいになるね。
それが奈良県の桜井市にある「箸墓古墳」。
箸墓古墳は、孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命のお墓なんだ。
舌を噛みそうになるよ
そして「日本書紀」には、倭迹迹日百襲姫命は神様からのお告げを伝えたり、予知する力があったと書かれているよ。
お墓の大きさも同じだし、持っていた力も同じなので、箸墓古墳が卑弥呼のお墓なのではないかと考える説があるんだよ。
このことから、この後に説明する
「卑弥呼は大和朝廷の姫皇子」だったのではないかと考える人もいるよ。
ちなみに、九州地方にある古墳の中には3世紀半ばに作られた直径144m位の大きさの古墳は今のところ見つかっていないんだ。
このことから、邪馬台国は大和地方にあったという説が正しいと考える意見もあるよ。
卑弥呼と邪馬台国の本当の正体とは?
卑弥呼と邪馬台国のことは中国の歴史書しか手がかりがない!
日本に漢字が伝わったのは4世紀から5世紀ころで、それ以前の日本には固有(オリジナルというイメージ)の文字はなかったので、すべて言葉で伝えるやりとりだったんだ。
だから日本にはこの頃のことを記録した歴史書はなくて、中国の歴史書に書いてある日本の様子を手掛かりにするしかないんだよね。
これって、例えるなら「君は日記を書いていないけど、君の隣の家の子が君の様子を記録してくれていて、その記録をもとに100年後の君の子孫が「君がどんな人だったか」を研究する」ようなもの。
しかも、その隣の家の子は外国人で、君とは話す言葉が違う。そして君は、その子には全部言葉で伝えただけ(写真もなければ、メモなんかもない!)。
しかも魏志倭人伝の内容は「また聞き」だった!?
さて、魏志倭人伝には「邪馬台国」に「卑弥呼」という女王がいた、と書いてあるんだけど、これって完璧な情報かな??
説明したように、ただでさえ正確に伝えるのは難しいのに、それに加えて実は魏志倭人伝は「また聞き」で書かれたものなんだ。
魏志倭人伝を書いたのは魏の「陳寿」という人なんだけど、陳寿は「倭に行った人」から「倭がどんな様子だったか」を聞いて、それを魏志倭人伝にまとめたんだよ。
「卑弥呼」や「邪馬台国」は、音に漢字を当てはめただけ
話は戻って、倭の人々が使っていたのは日本語だよね。それを聞いた魏の人は、その「音」をそのまま聞こえた発音で漢字に置き換えることになるよね。
ということは、そもそも日本人が話した言葉の発音を正確に聞き取れていたかどうかも分からないんだ。
卑弥呼という名前になっているけど、本当は「ひめみこ」とか「ひめこ」とか、ちょっと違った可能性だって考えられる。
邪馬台国も、本当は「やまと国」だったかもしれない。
「やまと」と「ひめみこ」・・・
天皇の子供のことは「皇子」というんだけど、女性だから「姫皇子」だったとしたら、これもツジツマが合うんだ。
そういえば、「卑弥呼のお墓かもしれない」と考えられている「箸墓古墳」は、大和朝廷の姫皇子である倭迹迹日百襲姫命のお墓だったよね。
こう考えると、さらにピッタリ当てはまるね。
でも、漢字が全然違うよ??
ちなみに、このころの中国では「中華思想」といって、中国では、「中国が1番すぐれた国だ!」という考え方があったんだ。
だから、「中国以外の他の国のことを表すときには、あまり良くない意味の漢字を使う」 ということが多かったんだよ。
卑弥呼の「卑」は「いやしい」という意味だね。実際、中国では「身分の低い人」とか、「下品な人」を表す時に使う字なんだ。
邪馬台国の「邪」も良いイメージではないよね。
つまり、卑弥呼と邪馬台国に使われている漢字は、中国の人々の考えだけでつけられている可能性が大きい と思うんだ。
もしも「やまと」と「ひめみこ」が本当だったとしたら、大和地方に邪馬台国があった説が有力になるね。
大和朝廷がいつ頃出来たのかの資料はなくて、これも今でもナゾになっているんだけど、実は邪馬台国が大和朝廷のことで、卑弥呼は女性の天皇だったのかもしれないね。
古墳時代の学習ページでは「大和朝廷」がいつ出来たかはナゾになっていたけど、邪馬台国がスタートだったと考えるとしっくりくるね!

※他にも、「日(ひ)を司る巫女(みこ)」の「ひみこ」だったという考え方もあるよ。
太陽を司る日本で重要な神様に「天照大神」がいて、実は卑弥呼=天照大神だったのでは、という説もあるよ。
まだまだ謎に包まれているんだ。君たちが大人になるころには、本当のことがわかるようになるかもしれないね。
今回のお話も、説のひとつに過ぎないけれど、「おもしろいなぁ」と卑弥呼や邪馬台国のことに興味をもつきっかけになれば嬉しいな。
卑弥呼について年号で確認
147〜189年 倭では たくさんの国々が争っていた
卑弥呼を女王とすることで争いがおさまる
238〜239年 卑弥呼が魏へ使いを送り、「親魏倭王」の称号、
金印、銅鏡を与えられる。
240年 魏の帯方郡から使者が来る。
卑弥呼が魏の皇帝へお礼の書を送る。
243年 卑弥呼が魏に使者を送り、奴隷や錦などを献上する。
魏の皇帝が、送られた使いに「印」と「ひも」を与える。
245年 魏の皇帝から軍旗が贈られる。
247年 邪馬台国・狗奴国との間で戦争が起こる。
卑弥呼が魏の皇帝へ助けを求める。
魏から軍旗と、狗奴国に対して戦いをやめるように
国書が送られる。
248年 卑弥呼が亡くなる。
壹与が女王になる。
壹与が魏へ奴隷や真珠を献上する。
266年 壹与(壱与)が西晋へ使者を送る。
(歴史書で分かっているものでは邪馬台国から最後の使者)
すごいね❗
ありがとうございます!嬉しいです!