社会6

歴史を漫画で学習しよう!鎌倉幕府のその後「元との戦い」シンプルな漫画と説明でサクッと読める!

源頼朝が開いた鎌倉幕府なのに、いつのまにか北条氏が幕府の中心になってしまうし、急に「元」という国が攻めて来るし、「元」との戦いには勝ったのに幕府は滅んでしまう(なくなってしまうこと)。

鎌倉幕府のココがピンとこない!
  • いつのまにか源頼朝がいなくなったけど、どうしたの
  • なんで急に北条氏がエバり始めたの??
  • なんで元は日本を攻めてきたの?
  • どうして日本は元に勝てたの?
  • なんで幕府は滅びてしまったの?
くまごろう
くまごろう
ナゼそうなったのか?を説明しながら、このページでは鎌倉幕府がどうなっていったのかを解説するよ!
yumineko
yumineko
いやいや、まずは鎌倉幕府ってなに?と思った時はこのページから読んでみよう!

源頼朝はどうしちゃったの?

1192年に征夷大将軍になって、鎌倉幕府のトップになった源頼朝だけど、その後どうなったのかな?

くまごろう
くまごろう
なんと、源頼朝は1199年に亡くなってしまうんだよ

頼朝は亡くなってしまっていた!

1199年、相模川の橋が出来上がって、開通式に参加した頼朝は、その帰り道で馬から落ちて死んでしまったと言われているよ。

たろう
たろう
馬から落ちて・・って、武士の頼朝が??
馬に乗って戦ったりもしていたのに?
くまごろう
くまごろう
うん。
そういうハナシになっているけど、実は誰かに恨まれていて暗殺されたんじゃないか?とか、色々な説があるよ。
弟の義経を殺してしまったり、けっこう無茶なことをしていたからね。頼朝に不満を持つ人もチラホラいたらしいよ。

将軍の頼朝が亡くなってしまったので、幕府は次の将軍を決めなくてはならないよね。

頼朝には、「頼家(よりいえ)」と「実朝(さねとも)」という2人の息子がいたよ。

なんと頼朝の子供たちも亡くなってしまう

まずは「おれが次の将軍になる!」と立ち上がったのが「頼家」
頼朝にも、「自分の後継は頼家に・・」と言われていたしね。この頃頼家は18歳。

でもこの頼家、けっこうワガママで、御家人とあんまり上手く行かなかったんだ。

さらに1203年には重い病気にかかってしまって、頼朝の奥さん、つまりお母さんの北条政子(ほうじょうまさこ)に「出家(しゅっけ)」させられてしまったよ。

くまごろう
くまごろう
出家というのは、髪を剃り落として、家を出て仏教に入る事だね。歴史の中では権力争いから身を引かせるために出家させたりすることがあったんだ。

そして出家した頼家は、伊豆へ追いやられて、そのまま暗殺されてしまったよ。

頼家が出家してしまったあとは、弟の実朝が将軍になったよ。

この実朝は、なんとお兄さんである頼家の息子(つまり甥っ子だね)に「お父さんの仇討ち」として暗殺されてしまったんだ。
この頼家の息子もその後、実朝を暗殺した罪で殺されてしまった。

くまごろう
くまごろう
こうして、とうとう頼朝のあとを継ぐ人がいなくなってしまったんだ。

余裕があったら読もう!

「頼家と実朝以外の息子たち」

細かく言うと、頼朝にはもうひとり息子がいたよ。
でも、北条政子との間の子供ではなかったので、やっぱり出家させられてしまっていたよ。

そして頼家にも、実朝を暗殺した息子の他に もうひとり息子がいたんだけど、その子は6歳のときに殺されてしまっているよ。

こういうワケだった!
  • 頼朝は鎌倉幕府をひらいた7年後に亡くなってしまった!
  • こどもたちも殺されてしまったりして、頼朝のあとを継ぐひとがいなくなってしまった!

なんで北条氏が幕府の中心になったの?

だって北条氏は頼朝の家族だったから!

頼朝の奥さんは北条氏の「北条政子」だよね。
北条政子のお父さんは「北条時政(ほうじょうときまさ)」。

つまり、北条氏は幕府のトップだった頼朝の家族ということになるよね。
だから幕府の中でも力を持っていたんだ

北条時政は、頼朝が亡くなってしまった後「執権」になったよ。

幕府ではナンバー2の「執権」だね。

さらに、頼朝のこどもたちは殺されてしまったよね。こうして「頼朝の血筋の将軍」が完全にストップしてしまうと、とうとう 幕府は北条氏が中心になって幕府を動かすようになったんだ 

たろう
たろう
えっ
じゃあ、もう将軍はナシで北条氏がトップになったの?
くまごろう
くまごろう
いやいや。
やっぱり幕府に「将軍」は必要だから、九条家(くじょうけ)という身分の高い家から小さい子供をむかえて将軍(第4代将軍。後の藤原頼経(ふじわらのよりつね))にしたんだ。
えっ
全然関係ない子供を将軍に??
くまごろう
くまごろう
この子供の両親はどちらも「頼朝の妹の孫」なんだ。
なので、一応、血縁関係はあったんだよ。

そしてまだ小さい将軍の代わりに、北条政子が幕府を動かしていたよ。

くまごろう
くまごろう
北条政子は頼朝が亡くなったあとに出家して「尼(あま)」になっていたので、「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれていたよ。

朝廷「今がチャンス!」→幕府のピンチ

さて、こうやって幕府の将軍がどんどんと亡くなってしまってバタバタしているのを「チャンス!!」と思う人がいるよね。

朝廷は、幕府が力をつけてしまって困っていたもんね。
くまごろう
くまごろう
そう。
こうして幕府がバタバタしているうちに、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が幕府を倒してしまおうと兵を挙げたんだよ。

承久3年に起こったので、これを「承久の乱(じょうきゅうのらん)」と呼ぶよ。

北条政子が大活躍!!

相手はなんといっても上皇さまだし、将軍がどんどん亡くなってしまってバタバタの幕府側は大パニック。

そんな中、大活躍したのが尼将軍こと北条政子。

上皇相手にすっかりビビってしまっていた御家人達に対して演説をしたと言われているよ。

北条政子はなんて言ったのか??

「みなのもの、よく聞きなさい。
これは私の最後のことばである。
頼朝公(頼朝のこと)は、鎌倉に幕府を開いてから、お前たち(御家人のこと)に恩賞を与え、領地を守ってくれた。
この恩は、すでに山よりも高く、海よりも深い。

この恩に報いようとは思わないのか。
もし朝廷側につきたい者があれば、ただちにこの場で申し出よ!」

くまごろう
くまごろう
この演説を聞いた御家人達は心を一つにして、朝廷に立ち向かう決意をしたんだ。

そして、たくさんの御家人が集まり、上皇は「これは敵わない」と負けを認めたよ。

幕府が朝廷よりも力を持つように

承久の乱で上皇を破った幕府はどんどん力を持つようになるよ。

まず、「また幕府を倒そうなんて企んだりしないように」朝廷を見張るために、「六波羅探題(ろくはらたんだい)」という役所を京都に作ったし、上皇達を地方へ流してしまったよ。

武士の法律を作ろう

そして1224年になると、北条泰時(ほうじょうやすとき)が幕府の政治を動かす「執権(しっけん)」になった。

泰時は、世の中を平和に治めようと「武士の法律」を作ったよ。

そっか、今までは朝廷が作った法律ばかりだったもんね。

この法律を「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」と呼ぶよ。

こうして、幕府の政治は安定していったんだ。
でも、日本のまわりでは「元」という国がうまれて大変なことになっていたんだよ。

こういうワケだった!
  • 頼朝の家族だったから力を持っていた!
  • 承久の乱で北条政子が活躍したから

「元」はなんで日本を攻めてきたの?

「元」ってどんな国!?

13世紀のはじめごろ、中央アジアで「チンギス・ハーン」という人が「蒙古(もうこ・モンゴル)」という国を作ったんだ。

チンギス・ハーンは、どんどんまわりの国を倒していって、モンゴルはユーラシア大陸のほとんどを制覇してしまったよ。

モンゴル帝国が最大の時の領域のイラスト

くまごろう
くまごろう
モンゴルは、なんとその頃の世界の人口の半分以上を制覇してしまったと言われているよ。
人類史上最大の「世界帝国(せかいていこく)」と言われているんだ。

※世界の4分の1を制覇したともいわれているよ。

そのモンゴルが、またいくつかに分かれて国になったんだけど、そのひとつが「元(げん)」という国なんだ。

元は、「日本も制覇してやろう」と考えて、「元に従いなさい」という内容の使いを送ってきたよ。

でもこの頃幕府の執権になっていた北条時宗(ほうじょうときむね)は、これを断った

「従う」のももちろんイヤだけど、断ってしまって大丈夫だったのかな・・・

例えるなら、ジャイアンに「お前のものは俺のもの!おもちゃをよこせ!!」と言われた のび太が、「嫌だ!!」と逆らったようなもんだよね。

そうなると当然、ジャイアンからパンチが飛んでくるよね。

こういうワケだった!
  • 元はとっても強くて、たくさんの国を制覇していた
  • 日本も従わせようと使いを送ってきた
  • でも幕府が断ったので怒って攻めてきた

どうして日本は元に勝てたの?

元が攻めてきた!

おとなしく従おうとしない日本を制覇しようと、1274年にいよいよ元が日本(今の博多)に攻めてきたよ。

蒙古襲来図のイラスト「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」

文永11年の出来事だったので、「文永の役(ぶんえいのえき)」と呼ばれるよ。

この時の元のリーダーは「フビライ(クビライ)」。

なんと兵士の数は、元軍が4万人(船は900隻)だったのに対して、日本軍は5~6千人だったんだって。

たろう
たろう
約8倍・・・!!
勝てっこないよ!!
くまごろう
くまごろう
しかも、元軍は「てつはう」という火と音で脅かす道具を使ったり、弓に毒を塗ったりしていて、日本軍が今まで経験したことのない戦い方ばかりだったんだ。

兵士の数もケタ違い、戦い方も難しいとくれば、日本軍はどうしようもないよね。
実際に日本軍はかなり苦労したんだ。

でもその時、暴風雨が起きたんだ。
海で待機していた元軍は、その暴風雨で大きなダメージを受けたんだよ。
そして、元軍は諦めて日本から引き上げていったよ。

「神風」って本当におきたの??

今までは、元が攻めてきた日に暴風雨が起きて元が帰っていった、という説が一般的で「神風(かみかぜ)」と呼ばれていたんだ。
このあと説明する2回目に元が攻めてきた時も、暴風雨(神風)で元軍は滅びたと考えられていたよ。
でも、最近の研究では、元軍は何日かいたことが分かってきたんだ。
元軍が攻めてきたのは冬の玄界灘(げんかいなだ)だったので、もともと「大荒れ」する頃だったという説も出てきているよ。

つまり、日本軍の武士が一生懸命戦って耐えているうちに海が荒れて、元軍が諦めて帰っていったということだね。

2回目の戦いは夏だったので、こんどは夏の九州にくる台風が原因で元軍はダメージを受けたと考える説もあるよ。

奇跡的な「神風」のおかげだけで日本が守られた、というよりは、武士が一生懸命戦って耐えているうちに日本の気候の特徴である大荒れや台風が元軍にダメージを与えた、という考え方があるんだね。

元が入ってこないようにバリケードを作ろう

暴風雨のせいで帰ったとはいえ、元は日本を征服することは諦めなかったよ。

元からはまた「従いなさい」と伝えるお使いが送られてきたんだ。
でも北条時宗は、なんとこの使いの人を殺してしまうんだ。

たろう
たろう
えええっ
無茶するね・・・!

もちろん、元は怒って攻めて来るよね。
そこで前回の戦いで色々学んだ幕府は対策をするよ。

たとえば、現在の博多湾の場所に石を高く積み上げて高さ2.5メートルになる壁を20キロに渡って作ったんだ。

海から元軍がやってきても、上陸できないようにしたんだね。
これを「防塁(ぼうるい)」と呼ぶよ。
※石塁(せきるい)とも呼ぶよ。

元がまた攻めてきた!

そしていよいよ弘安4年の1281年に、元軍がまた攻めてきたんだ。

これを「弘安の役(こうあんのえき)」と呼ぶよ。

この時の元軍の兵士はなんと14万人(船は4400隻)。そして日本軍は約4万人。
やっぱり圧倒的に日本軍が不利だね。

でもこの時も暴風雨(台風との説も)が起きて、元軍の船は沈んでしまって大ダメージを受けるんだ。

こうして、2度にわたる元からの攻撃に日本軍は耐え抜いたんだよ。

ケタ違いの兵だった元からの攻撃を耐え抜いたたんて、日本軍はすごいね!
くまごろう
くまごろう
元軍の兵士は、それまでに支配してきた国のひとびとを集めたものだったりしたので、「元のために戦う」という思いが弱かったというのも言われているよ。
くらべて、日本軍は「絶対に日本を守るぞ!!」と一生懸命だったもんね。
他にも、急いで日本に攻め込むために船を簡単に作ってしまったので、暴風雨に耐えられなかった、ということも言われているよ。
こういうワケだった!
  • 元が攻めてきた時に暴風雨が起こった
  • 元軍の船はあまり頑丈じゃなかったので暴風雨に耐えられなかった
  • 一度目の戦いで学んだ幕府軍が、防塁や戦い方を変えて頑張った!

どうして幕府は滅んでしまったの?

あれ?ご褒美は・・?

さて、とても大変な思いをして元軍から日本(幕府)を守り抜いた御家人達。

くまごろう
くまごろう
鎌倉幕府の将軍と御家人の結びつきで大切なのはなんだったか覚えているかな?
「御恩と奉公」だね。

つまり、御家人は今回「奉公」を頑張ったんだよね。
それに対して「御恩」を望むのはもちろんのこと。

そもそも、御家人は戦のために武器を揃えたり、食べ物を用意したり、とてもお金を使うんだ。
その時、「戦に勝てば御恩(土地など)が貰えるから、それでお金払う」という約束をして武器などを用意するんだよ。
つまり、「借金」するんだね。

でも、今回の戦いって、外国から攻めてきた敵から日本を守ったんだから・・

くまごろう
くまごろう
特に新しい土地が手に入るというワケじゃないよね。
ということは、御家人にご褒美として与える土地なんかが、ほとんど無い(結局、日本の中の土地を少しあげることにしたり)ということ。

御家人「解せぬ」

せっかく大変な思いをして戦ったのに、 幕府から十分な御恩がなかった御家人は不満を持った よ。

何より、御恩をあてにして借金していたお金を返せなくなって困ってしまったんだ。

お金を貸した人「解せぬ」

そこで幕府は御家人を守るために「御家人がした借金は、すべて無かったことにしろ」という命令を出してしまったんだ。

これを「徳政令(とくせいれい)」と言うよ。

じゃあ、これで丸くおさまったのかな?
くまごろう
くまごろう
御家人側はいいよね。
でも、太郎くんが「お金を貸した側」だったらどう??

お金を貸した側からしたら、たまったもんじゃないよね。
貸したお金がすべてパーになってしまったんだから。

それからは武士にお金を貸す人がいなくなってしまったんだ。
だって、いつまた「借金帳消し」なんて言われるかわからないからね。

そして結局は、誰からもお金を貸してもらえなくなって、武士はますます困ってしまったというわけ。

これがキッカケで、幕府と御家人との結びつきが弱くなってしまったんだよ。

とうとう鎌倉幕府が滅ぶ

こうやってまたバタバタしてしまった幕府のスキを狙ったのが後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

「今こそ幕府を倒して、もういちど朝廷が力を取り戻すぞ!」と兵を挙げたんだ。

そして、とうとう1333年に幕府は朝廷軍に滅ぼされてしまったんだよ。

こういうワケだった!
  • 元に勝ったものの、土地などを手に入れたワケじゃない
  • 御家人に御恩として与える土地などがない!
  • 御家人が不満をもつ
  • 幕府と御家人の結びつきが弱くなった
年表をチェック!

1203年 北条時政が執権になる
1219年 源氏のかわりに北条氏が幕府の実権を握るようになる
1221年 承久の乱
1232年 北条泰時が御成敗式目を定める
1268年 北条時宗が執権になる
1271年 モンゴルが国名を「元」と定める
1274年 元が日本に攻めてくる①(文永の役)
1276年 博多湾に「防塁」を作る
1281年 元が日本に攻めてくる②(弘安の役)
1333年 鎌倉幕府が滅ぶ 

6年生はココを押さえればOK!
まとめ

鎌倉幕府のその後「元との戦い」まとめ

※赤いキーワードは必ず覚えよう!
・源頼朝の死後、源氏の将軍が途絶えてしまった

北条氏が執権になり幕府の中心になって政治を動かすようになった

承久の乱で、後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵を挙げた

北条政子の演説で御家人がひとつになり、承久の乱をおさえた

・承久の乱のきっかけに、幕府はますます力をつけた

・朝廷を見張るために「六波羅探題」を作った

・北条泰時が武士の法律「御成敗式目」を作った

文永の役で、元が日本に攻めてきた

弘安の役で、元が日本に攻めてきた

・元軍との戦いのあと、御恩を与えられなかった御家人が不満を持った

・後醍醐天皇が幕府を倒すために兵を挙げた

・1333年に幕府が滅びた

yumineko
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yumineko
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2019年の長女の高校受験時、訳あって塾にはいかず自宅学習することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。 志望校にトップ10位内で合格を果たす。 勉強をみるにあたって感じたのは、教科書の説明には子供には分かりづらい部分が多く、子供にイメージしやすく噛み砕いて説明するのがとても有効だということ。 同じように教科書の内容が分かりづらいと感じている子供たちの ヒントになれば、との思いで「教科書を分かりやすく通訳するサイト」創設。

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